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私は今まで、バリアフリーというものは、
私生活において障害者に危険が及ぶおそれがある障害(障壁)を、出来る範囲で取り除く、ということだと思っていました。例えば階段に手すりをつけるとか、段差をなくすとか電車に乗る時の地面との距離を縮めるとか。


でも他の人から、「バリアフリーというのは、"障害者と健常者を平等に扱おう"という思想のことで、健常者の学校に障害者を入れることなどを目指す、健常者と障害者を同等に扱おう、というもの。」
だと教わりました。
▼wikiにもそういった記述はありました。
一般的にバリアフリーは物理的な解決法を指す言葉として用いられることが多いが、社会生活弱者が容易に社会参加できるように促す概念としての位置付けがある。



皆さんは、バリアフリーについてどう思われますか?

なんでもかんでも平等、というのは少し楽観視していないかなあと疑問に思うのですが。


皆さんの意見をお願い致します。

A 回答 (3件)

先ず言葉としての問題ですが、バリアフリーは一見英語に見えますが、おっしゃるような意味のバリアフリーは「和製英語」であり、拡大解釈されていると見るべきです。

英語圏では accessibility が「広く障害者や高齢者などに対応する設備(やシステム)」という意味で広く使われています。 barrier free という言葉は英語圏では一般的ではありませんし、意味はせいぜい「建物の段差を取り除くこと」です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/バリアフリー

建物、製品、環境が体の不自由な人に優しい必要があるという考え方の英語としては "universal design" という言葉があります。"barrier free design" という言葉を発展させて建築家が考えだした概念です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Universal_design
国連でも議論されています。
http://www.un.org/esa/socdev/enable/designm/
"universal design" はあくまで accessibility を少し拡張した建築の概念です。

日本語のwiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/バリアフリー
の説明は表現がひどく「拡張」的ですが、引用されている国連の議論は上記の英語の記述を見ていただければわかりますが、「拡張」的なものではありません。「健常者の学校に障害者を入れることなどを目指す、健常者と障害者を同等に扱おう」などという考え方を「バリアフリー」と言うとすればひどく「和製英語」的な感じがします。
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この回答へのお礼

回答感謝です。

うーん。
となると、日本のいうバリアフリーとは具体的に何なのでしょうか…。

私は、段差等の話だったら大いに協力すべきだと思っていましたが、健常者と同等の扱いを受ける、というのは楽観視していないか?と疑問でした。
まあ失礼な言い方になってしまいましたが・・・;

お礼日時:2012/05/25 21:12

バリアフリーという概念の捉え方の根底に違いがあるように思われる



もっとも、そもそも”障がい者”という概念でも考え方は簡単な話ではない

一般的には、(1)障害を当人が抱えている人、という認識であるが

見方によっては、(2)社会障害に曝されている人 という被害者的視座もありえるだろう。

小生個人は、”障がい者”については、(2)とする見解を全否定しようとは思えない

>なんでもかんでも平等、というのは少し楽観視していないかなあと疑問に思うのですが。

平等ではなく、均等というのが適切であろう。
そして、求められるものは、機会平等である。
現実社会に実相から、機会平等さえ保障できない現実を、甘受するのは仕方ないことかもしれない。
しかし、それを”仕方ない”と諦観できるほど小生は大人ではないので、その需要が意味ありえる限りは、思慮し続けるし、思慮した上で実相社会に反映されればいいように思う

さて、同時に思慮するべきは、”障害者と健常者を平等に扱おう”の意味である
障がい者と健常者の差異は存在する。その存在する差異以外の部分においてまで、障がい者が差別されている現実はなかろうか?

例えば、学校施設の利用に関しても、”集団登校が出来ないから入学されられない”という局所的な障がい者の問題点だけで差別することの妥当性は問われる余地があろう。
歩けない障がい者がいたとして、同じ水準での体育は出来ないだろうが、机上での勉学に障がいに関係ない差別が存在しえてしまう現実はあろう。

要は、その差異をどう受け入れるか?という問題にある。差異のない部分まで差別・区別することの正当性の問題は問われる余地はあろう、というのが小生の見解である

おそらく質問者・回答者の多くが、全面的平等・均等性を想起しているのだろうが、差異を認めた上での差異のない部分までの差別・区別の正当性まで思慮するに至っていないだろう、と思われる。

ちなみに、小生は健常者であるが、二次元限定のロリコン・ペドフィリアであるから、一種の変態である。
これは一種の障がい者でもありえるわけだが、全てにおいて健常な人間など存在しないと思うのだが、如何だろうか?
小生は、健常者の意味について思慮するに、その怪しさを感じてしまうからこそ、健常者・障がい者の区別の蓋然性にしても判然として納得しえるものではない


以上
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この回答へのお礼

回答感謝です。

一応、障害者というのは、身体障害者や知的障害者のことですね。
そういった方々を普通学校に入れるのは、正直に言えば他の生徒の迷惑になる可能性だってあるし、ひどければ人生を狂わされることだってあると思います。重度なだ尚更。
失礼な言い方になってしまうのは本当に申し訳ないのですが。

身体だって誰かがつきっきりで補助しなくてはならなかったりで。


それを全面的に肯定するのがバリアフリーだと聞きましたので、それだったらバリアフリーというものは納得いかない部分もあるなあ、と疑問に思った次第です。

お礼日時:2012/05/25 21:17

お礼に対して回答しておきたい



>一応、障害者というのは、身体障害者や知的障害者のことですね。
そういった方々を普通学校に入れるのは、正直に言えば他の生徒の迷惑になる可能性だってあるし、ひどければ人生を狂わされることだってあると思います。重度なだ尚更。
失礼な言い方になってしまうのは本当に申し訳ないのですが。


指摘は否定できない。
では、だからといって、分離することが、望ましいことだろうか?
社会には様々な環境がありえ、様々な人間が存在している。
現実社会には、健常者だけではない。何らかの障がいと共存しながら、社会と関わっている人も多々いるのであって、その社会の現実から、逃避するのが望ましいのだろうか?
小生は、障がいを抱えた人間と共存する学校であるべきだと思うが、他人との差異をどのように受容し、受容したものに対してどう振舞うべきか?という問題を思慮するべき空間が学校であるべきだと思う。
現実に日本国の教育指針は、個体差・個人差を許容する教育制度であるし、個人の差異を尊重することが教育だけではなく、政治的にも要請されている。
したがって、健常者と大差なく学校生活を営めるだろう障がい者は排除するのではなく、社会経験の予備措置として共存させる方が、有益であろうと思う。
もちろん、重度の障がいで、学校生活に適さない場合はその限りではないが、学校生活上で著しい障がいを生じえないならば、席を同じくして学ぶのが望ましいと思う
これは、小生個人ではなく、既定路線であって、その既定路線に至る論理課程は多様である

走ることができない障がい者がいる。では、走ることだけをとって学校生活に適さない、と総論的に言い得るだろうか?
走ることができないなら、走ることに関する学習においては分離すればいいだけであろう
この話は、いわゆる「障がい者」だけの話ではない。学校生活では、健常者であっても、学校生活に馴染まない人間も存在する。
では、馴染まないから、という理由で学校はその生徒を簡単に排除するだろうか?
不良学生がいるとしても、その学生と普通の学生が席を同じくして学級編成される現実がある

そもそも、障がい者によって人生が狂わされるだろうか?健常者でも狂わされる可能性はある。
おそらく割合にしても、むしろ健常者の方が他者を不幸にするものだろう

小生個人は、「障がい」とは、当人が持っている個性ではなく、”社会障がいの被害者”と認識している。その適否については、独善的な見解だと確信することなく、継続的に検討するべき問題とは思うが、それが他人を不幸にしえるとは思えない

したがって、小生は、許容できる”障がい者”と社会共存しようと思うし、そうある方が幸福であると思う

障がい者という個性の持ち主との関係を閉ざすことは、益にならない・・とは断言している次第である

以上

この回答への補足

とりあえず、あんまり話が進むと失礼な話になってしまうかもしれませんので、終了したいと思います。

回答感謝です。

意見が聞けただけでも良かったです。

補足日時:2012/05/26 10:29
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この回答へのお礼

たぶん、貴方と私の思い描く像が違うのだと思います。

あなたは軽度の障害者を中心に話をしているようです。
私は特に重度(重度前後)の障害者を思い描いております。車いす、知的障害などなど。

走るだけができない、というなら私の知人にいますから、それは別に構わない程度だと思います。ただ単に好き嫌い(一緒に行動できるか出来ないか)が分かれるだけで。

上記であげた重度の障害者が学校にいた場合、親から圧力はあるし、校長は争いごとを避けたいからなんとかしろと先生に言い、先生もどうしようもないから他の生徒の中からお世話役を勝手に選び、まかせてしまいます。
そうなると、その選ばれた生徒がどういうふうになるか想像はつくかと思います。
健常者より危険性は高くなります。

お礼日時:2012/05/26 10:26

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