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★悪魔 と ☆天使 と #やじ馬


★ 生きることは苦である
生きつづけることは、苦しみ続けることである
この苦しみから逃れるためには、肉体を捨てることである
死をもって、苦しみから解放されるべきである
さあ、はやく、死を選ぶがいい
はやく楽になるがいい

☆ 悪魔よ 愚かなささやきを止めよ
愛されることを知らぬ、愚かさを勧めてはならぬ
神の御愛によって生かされていることを忘れてはならぬ
人の愛によって支えられていることを忘れてはならぬ
自らを捨てることは、それらの愛を捨てることに他ならない
愛を捨てたところに、何も救いは無い

★ 愛がどうしたというのだ
今ある苦しみに、たとえ打ち勝ったとしても、次々に苦しみは襲ってくる
愛はすべての苦しみを無くすことはできない
死を選ぶよりほかに、苦しみを無くす方法はない

☆ 何という愚かさだろう
一つの苦しみも、二つの苦しみも別ではない
限りなく続く苦しみも、神の御愛に包まれている
死という救いの幻を見てはならぬ
愛の中に生きてこそ救いはある

★ では、その愛を見せてみよ
愛のちからを見せてみよ

☆ 神はそなたの後ろに立っている
胸に手を当ててみよ



さあ・・・
この対話を聞いていた、やじ馬は何と言ったか?

#・・
お願いします。

A 回答 (16件中1~10件)

やじ馬、ジョンレノンは言った、


Let it be~♪

頑張るから辛い、期待するから
失望する。
神も悪魔も、甘えに過ぎない。

この回答への補足

自由という愛を信じて 前に向かって生きる

新しい世界が すぐそこにあるという予感を失わず

天使の微笑みに見送られて 人は生きる

Let it be

名曲です。




神はいなくても 神は微笑んでいる

神を知らなくても 神は微笑んでいる 

補足日時:2014/01/24 14:36
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この回答へのお礼

>Let it be~♪
レットイットビー
れっといっと・・

う~ん・・

分かれ道を好きなように行け
だれも止めやしない
それでいいのさ

見送ろうか・・?

お礼日時:2014/01/20 20:57

 神と悪魔の綱引きを見る思いです。


 人間はこの綱の真ん中が住み所と常々思っています。

 悪魔を退ける究極の“あるお坊さんの言葉”を回答としてみたいと思います。
 寄せる私は野次馬ですが・・・、

 子が汚を聖む
  
 宇宙間無量の世界に生きとし活けるものとして、悉く皆如来の子にあらざるものなし。故に経に『三界我有、其中衆生悉皆我子』と示されて居る。我等は本如来の聖子(みこ)たる霊性を具有(もっ)て居る。喩へば純金も本は鉱垢(こうく)の中に在った如く、衆生の心霊は煩悩垢の中に存す。 

 故に之の汚(けが)れを清むるにあらざれば聖子の霊徳は顕はれぬ。然らば如何にして我等は聖(きよ)めらるゝことが出来よう。蓋(そ)は教祖釈尊の教示に随ひて如来の光に触れて初めて心霊は清めらるる。如来の霊光に感ずる時は闇と悩みと罪との汚垢(けがれあか)より清められ、霊に充たされて意(こころ)と共に身も柔和温良となり、如来の圓(まどか)なる如くに圓かなる人となり、心廣く體肝(たいゆた)かに、平和と歓喜とに満たされ、いと霊福の心の生活を為し得られ、又如来の聖意を身と意(こころ)と口との行為の上に顕わるゝやうに為し給ふ。

 経に『其れ衆生ありて斯光(このひかり)に遇ふ者は三垢消滅し身と意と柔軟に歓喜踴躍して善心生ず』と示されたり。 
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

三密と三業の関係、仏と人との接点のように感じられます。
山崎先生の言葉でしょうか・・
密教的思想の客観論に終始して、実修上の要諦には至っていない・・といえば厳しすぎますか・・?(失礼)
>如来の霊光
という内実にこそ密教の眼目があると思うのですが
その直接の表現が、どこにも見当たらないように感じられます。
その点が申し訳ないが、今一つという感じを拭えない
ストレートな言い方をすれば
行体験の重味に欠ける・・
きれいな論だけの世界のように感じられます。
無難な論の世界です。
それはそれでいいのでしょうけれども・・
(悪口をお許しください)

>神と悪魔の綱引きを見る思いです。
 人間はこの綱の真ん中が住み所と常々思っています。

だれでも、そんなところではないでしょうか。
神だけの人もいなければ、悪魔だけの人もいない
神と向き合うこともあれば、悪魔と向き合うこともある
正反対の意志や感情は、誰でも持っていると思います。
否定できない矛盾した意志や感情に悩まされるのが人間なんでしょう。
それは生きている限りはつづくもののようです。
信仰に入ったからといって、無くなるものでもないと思います。
ただ、信じているものがあれば、そのつど答えが出せるのだと思います。
愛を実感し、或いは、愛を信じて、悪魔をなだめすかす事はできます。
多くの人はそうして生きてゆく
それでいいと思います。

お釈迦様もチャーパーラー廟で悪魔に負けた・・
でもそれは、ものすごく人間的であるような気がします。
自然な死を悟ることは、悪魔への敗北ではなかったのだと思います。
生きられるだけ生きて、自然な死にまかせる・・という事ではなかったかと思います。
生きる事への慈しみは最後まであったと思います。

悪魔の問いかけとは・・
生きる理由を見つけなさい
愛を見つけなさい
という、姿を変えた神からの問いかけかもしれません。

お礼日時:2014/01/23 21:48

○神の野次馬から



「自分や家族のための小さな愛に浸っていても天変地異はその小さな愛さえも容赦なく奪ってしまう。天変地異は悪魔が起こしていると思うか?そう思うのならこの可愛い悪魔と天使の会話を天使側の立場で考えるのだろう。しかし、事実は残酷である。小さな愛に浸っている個人や家族、街を破壊しているのは神であり、神の愛ゆえなのだから。神の愛を否定しようが、肯定しようがどちらも間違いであるのなら天変地異により地上から消される存在でしかないのだ。無駄に生きたり、自殺したり、戦争で殺し合うことより良い死に方だからだ。
神の愛を忘れた人々よ、愛の本当の意味さえわすれたのか。愛は与えるものであって奪うものではないのだ。愛のために生き、愛のために死ぬのが本当の愛であり、自己防衛のための愛などないのだ。たとえば、「永遠のゼロ」の主人公達は愛のための自己犠牲であり、神の国に迎えられている。自分の栄華のためにのみ死んだイスラムの自爆テロは地獄というとこるにいる。この差がわからぬか。
簡単なことなのだ。生を喜ぶなかれ、死を望むなかれ、どちらも間違いなのだ。与える愛に生き、与える愛に死ぬのが神の子としての人間の本道なのだから。自己の肉体生命を守るための愛は動物の愛でしかないのだ。動物の繁栄は許されてはいないということなのだ。人間でいたいのなら愛に生きるしかないのだ。しかし、悪魔は自己の肉体生命を守ることが愛と囁くだろう。それが悪魔の愛なのだ。悪魔の愛に染まりし者たちよ、神の愛はそのものたちの魂を救うために大いなる肉体の死を与えるだろう。」
と言ってます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

天使のサポーターとお見受けいたしました。

生死を越えた神の愛・・
あるんでしょうね
きっと・・
そう信じたい。


「永遠のゼロ」

私はまだ見ていません
つらいから見たいとは思いません。
戦争体験者の生の声を聞いているからです。
死に向かって突っ込んでゆく時・・
ほとんどの若者が
「かあちゃ~ん」
だったという
或いは
「ばかやろ~」
だったという

どちらかだけで
「天皇陛下万歳」と言って
突っ込んでいった若者はいない
これが本当なんですよ
人間の最後の姿って、そんなもんです。
だから・・

鎮魂の愛はあっていい
たとえ拙くても、鎮魂とは、それ自体が神の如き心であるような気がします。

自然災害による不慮の死の場合でも同じ事がいえるかと思います。
自然という、あまりにも大きな世界の中にいる事を忘れてはならない・・
不慮の死に合われた方々が教えてくれた教訓とすべきだと思います。

死を越えた大きな愛を信じたいですね。

お礼日時:2014/01/23 18:22

この体、一つ分の愛を、、という歌詞を持った歌があります。


平素な暮らしの中に、平和な人間関係がある、ただそれだけで人は満たされるものだと思います。しかし、平素な暮らしや、平和な人間関係というものは、簡単のようで実は難しい。人は精神的にも肉体的にも病むものだし、いざという時には本能が勝って人間的ならざる行為に走ってしまうこともあります。それに、自然というものは野放しではとても厳しいもので、ただ生きて行くだけで、人には苦労が降りかかります。
我々は祖先達の英知によって生かされているのであり、後世もまた、現世の知恵に頼って暮らして行くものです。そういう意味では足りないものなど気持ちの上では無いのに、エゴには解決できない問題、例えば己や近親者の死などがあるために、人は迷ってしまいます。古来より死は宗教の扱ってきたテーマでありますが、それは現代でも同じです。我々は死ぬという事実が、理解されないでいる。死を超えるとは、自らを超えることであり、エゴの境涯を終焉させることではないかと思います。その時見える景色は、一体どのようなものであるか、私には想像がつきませんが。
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この回答へのお礼

>一つ分の愛

いいです。
凝縮されている。
以下の言葉も自然でありのままだ。

「一つ分」

わが身に受けし、一つの愛

いいじゃないですか
敬虔さが感じられる。

挟雑物のない世界の広がりが感じ取れる
すこし大げさな言い方かもしれないが
信仰とは、心の静かな爆発みたいなものです
「一つ分」と言い切ったところに、それは見て取れると思います。

直接の・・一つ分
なんですね

よかった
大丈夫だ・・。

お礼日時:2014/01/23 17:35

生きてれば、苦しみもあるが、その分いっぱい楽しみも味わえるよな。


快楽も生きているうちじゃなきゃな。
死んだら何にもなくっちゃうよ。
俺は生きていたいね~。

この回答への補足

童話で言いたかったことは、簡単な事です。

言葉が通じなくなった時
人は感性が与えるものによって支えられてゆく・・
という事です。

人の笑顔、子供の無邪気さ、動物の可愛らしさ、自然の美しさ・・等々たくさんあります。

宗教ではない、生きる事への復活を与えてくれるもの

ポケット版があってもいいですね

「疲れたときの絵本」というものなんですが

写真だけでいいと思います

言葉は要らない

一番終わりに「いのちの電話番号」だけは書いておく

自殺対策にいいと思います。


(こういった類のものは宗教上分類されて名称さえあるものですが、そんな事はどうでもいいと思います)

補足日時:2014/01/22 22:14
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この回答へのお礼

出てきましたね~
快楽主義者・・(失礼)

悪魔なんて、どこ吹く風という・・つわもの

まあ・・
はちきれんばかりの若さ
結構でございます・・

つまずいて、前のめりにバッタリ・・
という
事は考えなくていいか


>死んだら何にもなくっちゃうよ。

細い蜘蛛の糸にぶら下がって刹那の快楽を求める・・
誤りとは言い切れない姿
欲という表現もいろいろですから・・

元気なうちが華
前向きで健康な姿・・ということで、
よし、としましょう。

お礼日時:2014/01/21 22:44

外野と呼ばれたので少し近寄って見ます。


人間は、地球の神様が作ったんだけど、予算不足で足りないパーツが7ダースあるらしい。しかしその欠如を補完するために愛が生まれた、そんな歌詞の歌を聴いたことがあります。
何かが不足していると思い悩むことも、完璧と思って優越に浸ることも、平静さとは違いますよね。実際問題、適度な暮らしや平静な心構えでいることは簡単じゃない。しかし、水平線の様に平らかで、磁気コンパスの様にぶれないこころの有様というのがあるんじゃないか?と、思っているだけで、少し余裕が生まれたりはしませんか。生死から適度に距離を取れ、その挙動に翻弄される事も少しは減るんじゃないかと。浮のように波に沈み切ることなく、プカプカと浮かんでいられるような、自分自身でありつつ、動揺しない心の有様を獲得したいものです。

この回答への補足

(童話です)




たくさんいた、やじ馬の一番後ろに小さな子供がいた
一番後ろなので悪魔も天使も見えない
声も聞こえない

そこへ
一匹の子犬が現れて、ワンワンと鳴きはじめた
子供は子犬を追いかけ始めた

お~い! 
ワン ワン!
こっち、こっち! 
ワン ワン!

たくさんいたやじ馬は、いつの間にか子供と子犬の姿を見ていた

今まで話しをしていた悪魔と天使は向き合って
「お役目終わりだ・・」
といって、天使はにっこり笑った
悪魔はポリポリと頭をかいた
そして、どちらもスーッと消えた

一人のお母さんが現れて、大きな声で子供の名を呼んだ
やっと子供がお母さんの手につかまって歩き始めると
たくさんいたやじ馬も段々にいなくなった
子犬も揃って歩きはじめると、きれいな夕焼けの光が差してきた

最後まで残っていたやじ馬の一人が見ていると
親子と子犬が夕陽につつまれて光って見えた

やじ馬は反対の方へ歩きはじめた
夕陽に照らされた影が長く伸びていた
空を見上げると一番星がでていた

やじ馬は歩きながら思った
何か忘れてる・・

やじ馬はまた空を見上げた
星の数がふえてきれいに見えた
星がじっと見ているような気がした

補足日時:2014/01/21 22:23
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>動揺しない心・・

天使とは、心の補完みたいなもの
風をさえぎり、波を鎮める

宗教とはそうしたものだと思いますよ。

それができない人のために宗教はあるわけです。
感情という波風から守ってくれる。

無宗教の立場において、この「動揺しない心」を獲得するのは容易ではないと思います。
でも、できない事ではない・・

要は、余裕をもった自然な人間であれ
という事なんですかね・・

それは正しいとは思いますが
現在の無宗教における実状とは
無道徳の混乱という逼迫した状態を伴っていると思います。
大きな波風が吹き荒れている・・
無宗教でいる事は悪いことではないが
何かが必要な気もしますね・・
補足欄にちょっと書いてみました
よければ気軽にお読みください。

お礼日時:2014/01/21 21:53

>「愛の中に生きてこそ救いはある」



#この一文は、いいかも知れないね。


>「死を選ぶよりほかに、苦しみを無くす方法はない」

#これは、極端だね。


>「愛のちからを見せてみよ」
>「胸に手を当ててみよ」

#孫悟空も、釈迦の掌の上でウンと踏ん張ったに過ぎなかったそうな。
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この回答へのお礼

愛によって生きる事は肯定され、
死を望む心は否定される・・

そうですね。

それでいい、というのが人並みの人間性なのでしょう。

もはや、愛という言葉は宗教的な言葉ではなくなった感じもします。

人間として生きてゆく上においての自然な指針として用いられている・・そんな感じでしょうか。

天使はいなくてもいい
ナチュラルな愛があればいい

宗教にこだわった愛よりも、自由な愛の方がいい

人それぞれ自由な愛に生きて、自然に死を迎える・・のがいい

無宗教の透明感でしょうかね

だれによっても、何ものによっても、自らの心を色付けされない、されたくないという姿勢

でも、どうなのかな?

その姿勢は、ときに心の空白をもたらしてしまう

そういった事があるように思います。

ナチュラルな愛で心の空白を埋めきれるか・・?

超越的な愛なしでも、人は苦しみに耐え、死の誘惑に打ち勝てるのか・・?

疑問はあるように思います。

お礼日時:2014/01/21 18:34

追加



苦しみも喜びも、反応と言う現象
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この回答へのお礼

ん~・・

>反応


私はヒューマンロボットか・・?
この限りなくつづく生体反応は・・現象という言葉に帰結する。
中々これはいい、と思う。
この冷たさが何とも言えない

つまり
人間という生き物は失敗作であった
なぜか失敗作であった
この責任を取るべく、神はひたすらに愛を説くより他になくなった
こうゆう事なのかな・・?

では
失敗作ではあったが
駄作ではなかった、としよう
一度は壊そうとしたが
いやまてよ
この失敗のままでいい
このまま失敗である事の、苦しみと喜びの両方があってよい
自らが乗り越えられる知恵を与えてみよう
人間であるという大いなる実験をしてみよう・・

かくして・・
反応はつづいている。
このデータはトップシークレットである。

お礼日時:2014/01/20 23:01

やあ、


腰の引けたいいわけでも、死なない理由を思いついただけでも君は成長したよ。
これからも無駄な事を続けるといいさ。
そもそも君に苦を与えたのは君自身ではない。
他者の価値観だ。
後ろに立っている神様と言うのもそれだろうさ。
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この回答へのお礼

>死なない理由を思いついただけでも君は成長したよ。

光栄です。
涙がでる。
やっと考えついたんです。
何十年もかかった・・

先生・・

>そもそも君に苦を与えたのは君自身ではない。
他者の価値観だ。

借りものの言葉と、借りものの価値観で洗脳されつづけた結果です。
私はどこへいった・・
深い息をしても出てこない

時に
私を苛み、私に喜びを与える幾つかは
ここにいるという事を知らせてくれる
求めずして得た、小さな居どころは
私の不器用さの証だと知らせてくれる
ただ一人の不器用が、不器用のまま生きている
それでいいのだと頷いて
また、いつもの自分に戻る
傍観者になりつつある私が、それを抜け出す日はいつ来るのだろう
対話の答えの出た日が、きっとそうなのだと思う。

お礼日時:2014/01/20 22:29

No.6です。



もう一回見てみて・・・


「なんつーか、個性ねぇの?こいつら」
「天使と悪魔がいる。つーことは・・・どこだここは!?」
「はいはい、テンプレテンプレお疲れさん!」(手も叩く)
「書き割り・・・?」
なども浮かびますが、もうちょっとツッコんで


個性を感じられない・・・☆も★も同一の物にしか思えない。同一の作者や操者を想定できる。
なら、2択に見せかけた1択。
「この質問に はい か イエス で答えて下さい」
みたいなものねー。
回答すること自体が一種の罠だなこりゃ。
意味を感じられねー。

更に困ったことに、天使がいて悪魔がいて・・・って事は神がいるっていう想定だ。
どっちも神の創作物である以上、神の作為の上にある。
やっぱ意味ねぇー。
演じてるようなもんだよ。

しかし神はなぜこんな事してるんじゃ?
暇なの?暇なの?退屈しのぎかよ・・・
神が全知全能ならすべてが思うままに行くんだから まぁ、暇ではあるだろうけど
ではなぜこんな一見意思を持っているような個体達(人間とか)がいるかを考えると・・・暇な神の遊戯的な?
あー、うん。そこん所ツッコんで考えるとなんとはなしに嫌な気分になるんだけどね。深く考えたくないんだけどね。
ゲームで言えばNPCでも一応物考えたり意思があったりしてるようになってるんで(見せかけかも知れないけど)、関わんないで欲しいなぁ。
まぁ、私も家に害虫が出たら虫の意思を無視して退治したりすっけどね。プシュッ!と殺虫剤スプレーしたりね。
変わらないんだろうなぁとは思うんだけどね。
他所でやってくれよ・・・NPCの立場って結構つらいのね。強制参加だもの。



他には
ギャグで・・・
# ちょ!待って!! 今現在悪魔の真後ろに立ってんのは俺。おかしな指名しないで。


# 神様ではなく、かみさんがさっさと仕事しろって言うからもう行くわ~ じゃーねー。
も一種の答えになるのかも・・・
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この回答へのお礼

>「なんつーか、個性ねぇの?こいつら」

個性か・・?
個性ね・・
どうやらキャラクター不足だったようだ
もっとインパクトのあるやつの方が良かったのかな・・?
はて・・
どうしようかな
舞台設定も無かったし・・
悪魔は地獄の底から出てくる凄味っていうやつがあった方がよかったか・・
天使は・・と
ん~
迷うな・・
平面的な描写じゃ喜んでもらえないか・・
もっと、やじ馬を引きずり込む何かが欲しいか・・

># ちょ!待って!! 

カット!
カット!
あ~
監督がまただ・・。

お礼日時:2014/01/20 22:00

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