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 1.いかに神仏という観念が日本人一般に自然ふつうのものであっても 国事が宗教にかかわってはならない。

 2. その宗教は そもそも《あのアシハラのミヅホの国は わがアマテラスの治める国だ》という《神勅》が宣言されたことをふくむ。

 3. アイヌは その神勅を承けて《くにゆづり》をしたわけではない。

 4. それに もしその帝国主義を内容とする神勅が みとめられるなら そういった覇権主義は どこでも・いつでも有効になってしまう。つまり わが民族のあがめる天子は あそこに見える島々は われわれの統治する領土なりとみことのりした。よって われらがモノである。攻め込め。となり その思想は 有効であると認めなければならなくなる。

 5. 国の統治や防衛に宗教色が入り込んではならない。

 6. 国事の際に逝った人びとを いかに戦犯であったことがあったりあるいは敵であったりしたとしても よき国際関係のためには その人たちをみな とうとぶべきである。その行為は もしあやまちがあればそれとして批判すると同時に その人間としての存在については どこまでもとうとぶべきである。出来損ないという例外をつくるわけにはいかない。

 7. 戦争に到ったことについては けんか両成敗である。どちらも 人殺しをして結着をつけるまでに成ったことに 責任を負い どちらの戦死者をも互いにその存在としてとうとぶべきである。排除することは出来ないし してはならない。これが あたらしい姿勢である。

 8. 国事犠牲者をとうとぶのは 靖国神社という宗教の場であってはならない。




 添削・ご批判を また賛成票をも どうぞ。

A 回答 (13件中11~13件)

>それとかかわった場合にのみ 靖国問題が自分自身に関係して来るとは思えないのですが どうでしょう?



 関わりのないものを尊敬せよと言うのは難しいことですよ。さながら子供がエジソンの伝記を読んで、敬意を抱く程度のものです。私にはそれはできないなあ。

 あなたは人間に対する敬意とおっしゃるが、それなら、死した人類全部を祭る施設でも構想したらいいんです。特に戦争に関係なく。理屈からいえば、それが筋でしょう。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 関わりのないものを尊敬せよと言うのは難しいことですよ。さながら子供がエジソンの伝記を読んで、敬意を抱く程度のものです。
 ☆ 国事あるいはつまり われわれの共同自治ですよ。エジソンの伝記を読んでいなくても 電球をどうするかのような問題だと思うのですが。

 市民は じっさいには 選挙等をつうじて公民である。とは言わなければならない。




 ★ あなたは人間に対する敬意とおっしゃるが、それなら、死した人類全部を祭る施設でも構想したらいいんです。特に戦争に関係なく。理屈からいえば、それが筋でしょう。
 ☆ いや いまは国事です。国の秩序と安全にかかわった行動をめぐってです。

 ムラ(市町村)の自由な連携としてのインタムライズムになれば――文字どおりの地域主権の共同自治体制になれば―― 国事犠牲者の扱い方も変わって来るかも分かりません。と思うんですがねぇ。

お礼日時:2014/02/16 22:32

 私はあなたの身内に軍属がいるのかをまず知りたいなあ。

私自身はいないので、尊ぶ気にならないや。「臭いものに蓋」でいいと思ってますよ。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 わたしの身内に軍属はいません。

 それとかかわった場合にのみ 靖国問題が自分自身に関係して来るとは思えないのですが どうでしょう?


 ★ 「臭いものに蓋」でいいと思ってますよ。
 ☆ 問題がある・問題となっている。という状態のままにしておくのがよい。――こういうご見解でしょうか?

 とくに現状以上の問題にはもうならないであろう――こういう意味でしょうか。ならないのであれば それはそうであるかも分かりません。

 ううーん。どうなんですかねぇ。

お礼日時:2014/02/16 22:13

「靖国神社で国事犠牲者を尊ぶ」ということ自体が宗教であって、政府がそれに関与してはならないと考えます。

憲法でうたわてている政教分離の原則に反します。どうしても国事犠牲者を尊ぶ必要があるなら、広島のように、別途、神社・仏閣とは関係ない施設を造って、そこに犠牲者を尊ぶメニュメントをつくるといいと思います。
A級戦犯を国事犠牲者としてはならないと考える。日本は敗戦国である。敗戦の責任はだれかがとらなくてはならない。確かにA級戦犯が悪いわけではない。彼らは敗戦時に指導者であったというに過ぎない。しかし、彼らを尊ぶことは近隣職の反発を招く。ドイツがヒットラーを尊べないのと同じように。けんか両成敗ではない。負けた方が悪い。勝てば官軍、負ければ賊軍。
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この回答へのお礼

 kかんれいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ どうしても国事犠牲者を尊ぶ必要があるなら、広島のように、別途、神社・仏閣とは関係ない施設を造って、そこに犠牲者を尊ぶメニュメントをつくるといいと思います。
 ☆ そういう意味です。

 表題では たとえば《靖国》というふうにカッコつきにしようかと思ったのですが 字数制限で出来ませんでした。
 趣旨説明欄での説明では 伝わらなかったでしょうか。たとえば (8)などです。



 ★ A級戦犯を国事犠牲者としてはならないと考える。
 ☆ これにつきましては 言わば二重の捉え方をしているという意味になります。

 すなわち その戦犯と見なされた行為――平和に対する罪でしょうか――については きちんと批判をしつづける。と同時に その人間という存在については どうしても排除するわけには行かない。排除したぶん 将来にも同じような犯罪行為がなされ続けるのではないかとおそれられるからです。


 ★ 日本は敗戦国である。敗戦の責任はだれかがとらなくてはならない。確かにA級戦犯が悪いわけではない。彼らは敗戦時に指導者であったというに過ぎない。
 ☆ いえ。責任は 権限に応じて負うものと考えられます。天皇にもあると考えます。(と言うより ご自身がマッカーサーには その旨を伝えたとかそうではないとか。日本国民に対してそれを言わないのは おかしい。また そのことを指摘してはいけないといったクウキは おかしい)。

 ★ しかし、彼らを尊ぶことは近隣職の反発を招く。
 ☆ ここでも 二重の見方です。いわゆる罪を憎んで人を憎まずといったことわざにもとづくようなことですが その行為は どこまでも認識し批判しつづける。と同時に その人間というわれらと同じ存在については これをとうとぶ。排除しない。

 この考え方を 近隣諸国にも伝えて行くことになります。説得して行くことになります。


 ★ ドイツがヒットラーを尊べないのと同じように。
 ☆ たぶん これは 大きな議論になると考えます。

 煮詰めた課題としては こうです。ヒトラーは 人間として出来損ないか? いや 生まれてきたその存在としては ほかの人びとと同じ人間である。か? です。

 存在を排除し得ないとすれば 同じ人間として とうとぶべきです。排除したままでは とうとぶことを怠っていることになります。

 ★ けんか両成敗ではない。負けた方が悪い。勝てば官軍、負ければ賊軍。
 ☆ どちらの考え方もあるのではないでしょうか。

 ですが 勝者の言い分や論理がただしいとは限らないのではないでしょうか? 戦争を避けられなくなった事態というのは どちらの側にも責任がある。のではないでしょうか。
 

お礼日時:2014/02/16 10:34

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