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要するに、中村元は間違っている、いうことでよろしいのでしょうか?
それならそれでいいです。

振り返ってみると、時間の無駄でした。
書き込むたびにわけのわからない人々から攻撃されるのもうんざりです。

私には私の人生があります。
一円にもならない宗教の研究など人生を浪費するだけで無駄でした。

病院へ行ったら?とか、カウンセラーの世話になったほうがいい、とアドバイスされていますから、
宗教よりも、そちらの世話になろうかと思います。

A 回答 (17件中1~10件)

こんにちは


>>振り返ってみると、時間の無駄でした。
一円にもならない宗教の研究など人生を浪費するだけで無駄でした。


私も自分なりにいろいろな宗教について20年以上調べたりしました
結局本当のことは分かりませんでしたし、悟りも開けませんでした

ダライ・ラマは自分は悟りを開いていないと言っています
また数年修行しただけで悟りを開いたという人を見ると、思わず吹き出しそうになると言っています

色々な仏教ーそれはもう釈迦の考え教えとは似ても似つかない物もあるかもしれませんし、中国人が作った偽経もあるそうで、何を本当に釈迦が言ったのか分かりませんね

多分死ぬまで考え続け、調べたり学んだりしても悟りは開けない気がします

私の場合人生において悟りを開くと人は幸福になるか?
宗教は人を幸せにするか?

この2つを知る目的が今回の人生にあったので(何故そう思うかについては詳しくは書けませんが)、そんなに無駄にはなってないのですが、確かにお金にもなんないので、今まで何をしてたんだろう?

こんなことなら経済の事をもっと知って、金儲けのことでも考えていたほうが良かったかなと思ったりもしました

もうそろそろ宗教について学ぶことは必要ではなくなって来たので、人生が違うことをやるようになってきてるのかもしれませんね
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

生活に余裕があれば、趣味として宗教の研究をしてもいいのですが、
そういう余裕もなくなってきたのにもかかわらず、実際の生活よりも
宗教の研究に傾倒してしまう自分がいるので困ってしまいます。
かといってアカデミックの世界にいるわけでもありませんし、
そんな能力もありませんでした。これ以上は調べようがないです。

>人生が違うことをやるようになってきているのかもしれませんね

なるほど、そうかもしれません。転換期なのでしょう。

お礼日時:2014/10/19 16:08

あなたがやめたいなら、やめるべきです。

なぜなら、そこに答えなどないからです。

一度、このサイトを読むことをお勧めします。
http://space.geocities.jp/gjdtk960/human/002.html

信じるか信じないかはあなた次第ですが、最後まで読めば、何か得るものがあると思います。
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Ano.2です、こんにちは。




>「中村元がタイトルをつけたのかどうか知りませんが、
スッタニパータを『ブッダのことば』にしたから。」

・・・(私の)高校時代、自分の研究を「奪られて」、
(仕方なく?)教職になった、というのが、居たんですね。。。
そんな、こんな?
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ハジメさんは学者なんだよ。


それが君の心を豊かにしてくれるだろう。
宗教家が君の心を満たすかは全く別だ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

中村元以降の現在の仏教の研究はどうなっているんでしょうね。

お礼日時:2014/10/22 08:57

哲学カテで、宗教の研究について書き込むのが時間のムダなだけだと思います。

仏教でもキリスト教でも根本は人を救うものだと思います。宗教は人を救うんですよ、と私の学んでいる先生はおっしゃりました。
仏教哲学やキリスト教哲学では人は救えないと言えるように、哲学にはなんの力もありません。
質問者様には宗教の研究を通して、自分にとって真実だと思われる真の大いなる存在に対して、祈り、生活することが求められているような気がします。それが人生に帰ることなのかも。
書き込むならば別サイトの宗教カテが実際的でいいように思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確かにokwaveの哲学カテゴリーに書き込むのは
ムダのような気がしてます。
別サイトの宗教カテゴリーですか。

哲学よりも宗教で、
祈ったり、生活したり。なるほど。

お礼日時:2014/10/21 00:29

これが最後ですよ。


知者は自分が馬鹿だと知っている。
賢いかに馬鹿だと知るのです。
馬鹿だと知るから賢くなるのではない。
そして馬鹿はそのとおりだとうなずいて馬鹿だと知る知恵を得ない。
馬鹿は教えられたら賢くなると思う。私は事あればこう言う。
人は器用ではない。
馬鹿はどうしても分からない。
馬鹿はうがったことを見る。「なら、わたしはだめだと」。馬鹿に語りかける言葉はない。
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求めたら徹しなさい。

この馬鹿者が。
仏陀さんが言っているではないか。「私はいい加減であった」と。
そしてすべてを知った。馬鹿はすべてを知らない。
むろん、達しえていないがために躊躇するというものがある。
達しえていない程度に及ばないのにぼんくららになぁなぁにいる。
そして私は賢いと思う。200万年も昔からそういう自分慰めはいた。
まぁ、馬鹿は無理をしてはいけない。
危険はある。

求めたら徹しなさい。この馬鹿者が。
結果が悪かったら泣き言を言ってはいけない。
あぁ、お釜か。
あぁ、こう言ったら悪い時代のか。好きにするがいい。
あなた方の馬鹿さ加減。行い有って結果がある。
馬鹿はどうしても分からない。
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この回答へのお礼

いきなり馬鹿とか言ってくる意味不明さに困惑しています。

お礼日時:2014/10/19 19:12

中村元は馬鹿ではないということです。

私は認めます。
かといって優れはいない。馬鹿を信奉していないということは優れているということです。
この理は馬鹿には分からない。理由も説明しません。
優れてはいないが馬鹿ではない。馬鹿ではないということがどれほど有り難いことが分からない。
有り難いと言う意味が分からないものが非常に多くいる。

宗教は教えなのです。こう言いましょう。
麻薬中毒者に「それはいけません。なぜならかくがくしかじか」。
アルコール中毒者に「それはいけません。なぜならかくがくしかじか」。
ギャンブル中毒者に「それはいけません。なぜならかくがくしかじか」。
DV偏質者に「それはいけません。なぜならかくがくしかじか」。
みな、聞きません。
宗教は教えであって強制ではない。先人はそのように振舞った。
早く分かりなさい。
仏陀さんはいいことを言いました。「自灯明」。
ギリシャでは「自己を知れ」。
早く分かりなさい。
自己の過ちを知って自己を頼りにしなさい。なまくらで生きてはいけない。
ぼーと生きているからそうなるのです。
そんなことはないとあなた方は言う。「はい、そうですか」。
ぼーと生きているからそうなるのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

強制ではないので。

お礼日時:2014/10/19 16:51

宗教に付いて調べると言う意味は、論理的に或は分別を持って人生の答えを見付けようとする試みと思います。



論理的に『要するに、中村元は間違っている、いうことでよろしいのでしょうか?』と考える事だと思います。

ところが宗教の意味は、有と無の二極対立、或は二元的見方からの脱却を目指しています。ところが経典で書かれている内容は『分別としての結果である、”言葉”で媒介しています。』

此処に二重の矛盾が在ります。この意味は今の精神医学が心理学が発達して、その心理学に根ざしている事によって、完治という意味や治療と言う意味や治ると言う意味や、治すという意味や、治らないという意味さえも把握出来ないで、寛快という訳も分らない、良くなるのか悪くなるのかさえも医師には関係ないような、無責任な結果を招いているのではないのか?と感じています。

仏教でもキリスト教でもユダヤ教でも、表現方法の違いがあったとしても、その違いは民族性や、環境的な違いによるものであって、その根本を貫いているその意味や真実には、同じ法則性が存在しています。

この存在している者を『自ら掴む事』がお釈迦の願いであり、キリストの願いでも在ると思います。


この願いから出たものが仏典に成ったり聖典になったり教典になっていると思いますが、なかなかに分り難いところと思います。

貴方の場合でも此処のところを『体認或は体得』出来た時には、人生全般の謎が解明されたり、心に対する扱い方の画期的な変化があって、『心は元々病む事などが無かった』ということが分ると思います。此処をもって完治するという意味があります。

此処のところを貴方が知りたいのだと言う、強い意志が見えていますので書いています。

こう云った悩みや疑問は、元々人間には備わっている悩みです。その事を聖書では記しています。その逆な言葉が天国ですが、この事も聖書は書いています。

天国に一番近い存在は幼子である、としている点です。この意味は『心に矛盾が無いという意味です。』心理学的な表現をするなら『心が一つしかない』と言う意味です。

違う表現をするなら『見ている自分しか心の中には存在していない』と言う意味です。従って裸であっても恥ずかしいと言う感情でさえも湧き上がらないで居るという意味になります。

疑問を感じると言う意味でも、不思議と言う感覚が乏しいと言う事を示しています。自分は何者か?や人生とは何ぞや?と言った思考法方が未だ確立していないと言う意味です。

是は脳の機能の問題で説明するなら、簡単に説明する事が出来ます。ウイキペデアからのコピーです。



『”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究
ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』


脳が未発達の為に、左右に存在している”心”が未だ一つの者として機能している事が『幼子が天国に一番近い存在』となっています。

ところが脳の機能分化が完成に近くなる頃、身体も心も大人になって来る頃、すなわち思春期と言われる頃から、心が騒がしくなって来るようです。他人と自分を比較する様になって、優越感や劣等感が芽生えて来るようになります。

自分の裸を人に見せる事が恥ずかしくなってきて、聖書が言っているように身体を隠すようになってきます。この現象を『知恵が付いて神を疑うようになった』と表現しています。

何の事は無い、知恵が付いて神を疑うと言う意味は『右脳の人格と左脳の人格』が別行動を取るようになったという意味です。

右脳の人格が仏性や神という意味ですが、脳卒中になって、右脳の自分と左脳の自分を体験している脳科学者の動画がありますので載せてみますので、良く観察をして下さい。


もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。

URL:

この中で語られている内容が、宗教体験と思います。自身の命を働かせている人格、宇宙と一体になって働いている意識が、右脳に存在している意識です。言葉にするなら神です、仏です。


こう云った『内在する自分自身の識られざる神』を疑う時、天国から追放されたと表現します。

失楽園の意味は簡単に分けるなら、三つに分けることが出来ます。この三つに分ける事事態がナンセンスですが、一応人間としての生命体を説明する上で都合が良い事から、説明する都合上で分けて説明しますが、一人の人間として語る上では必ずしも三つに分けて説明する事が返って理解する上では不都合になる事も在る事を断って置きます。

この意味はこれ等の三つが必ずしも単独で作用する事が少ないかも知れないからです。二つ同時に、或は三つとも同時に作用する場合もあると思うからです。


右脳の人格の機能は一言で書くなら『命を働かせている意識』です。今現在を必死に成って認識をして、今現在に全ての照準を合わせて働いていり機能です。


言い換えるなら『生命維持機能』と言っても良いかも知れません。

この生命維持機能を便宜上分けて説明をするならば、一つは『身体に対しての生命維持機能』一つは湧き上がる考えや感情を湧き上がらせている『心に対しての生命維持機能』一つは行動に関しての『行動に対する生命維持機能』と表現出来ると思います。



『身体に対しての生命維持機能』は、赤ん坊が生まれた瞬間から行っている事柄全てです。”何も学ぶ事無く”心臓でもホルモンの分泌でも呼吸器でも発汗作用でも知り抜いて働かせている機能全てを司っていると言う意味です。この人格と戦う時自律神経失調症や過敏性腸症候群や、医学的検査では見つける事が出来ない疾患、難治性の心身症と呼ばれているものになっています。



『心に対しての生命維持機能』を疑うと言う意味は、沸き上がる考えや感情に対して、自分が同意出来なくなる、と言う意味になりますので、『沸き上がる感情』を受け入れる事が出来なくなりる、と言う意味になりますので、所謂感情障害と言ったものになると思います。湧き上がる考えを疑うと言う意味は、湧き上がった事柄が自分の考えではないと主張すると言う意味になる事から、統合失調症という事で、自分をまとめる事と自分を認める事が困難になるという意味に成ります。


『行動に対する生命維持機能』を疑うと言う場合では、自分の行動が自分の思う様にならなくなったり、自分の行動自体を疑う事から、強迫行為や強迫観念に成る事を意味します。詰まり神経症の諸症状を引き起こすと言う意味になります。



こう云った三つに分けられた症状は、全く違う現象になって顕れていますがその根っこは一緒です。自分の心と矛盾を起しています。自分のもう一つの心を疑っている事を意味しているからです。


従って治し方は一緒と言う意味になります。治った姿を書いておきますので参考にして下さい、終わりに治し方も書いて置きます。

今書いた症状が完治した姿です。

『沸き上がる雑念の相手をしなくなった時です。』症状と思っている内容は全て誰でもが感じている事柄に過ぎません。只自分が厭だと思って『心から追い出しを計るように試みているだけです。』

そのため(嫌って追い出そうとして、相手をしている事)に『意識に上がって来て困っているだけです。』相手をしない(治そうとしない)だけで、意識には上がって来なくなります。


従って治った(完治)した場合でも、心の中を細かく探すなら、心の中に存在していますが、追い出しを図る事がなくなる事から『意識上には上がってくる事が無くなっています。』

症状が在ったままで居ながら、症状として感じなくなってしまう事が、症状が消滅した姿です。

それは『沸き上がる雑念に、一々右往左往しなくなった』姿です。

今迄は『沸き上がる雑念に一々右往左往して』仕事もしないで、治す事に専念していた事を意味します。治す事を辞めた時から、もう既に治った事を実感出来ます。

治す必要さえも無かった事を、治そうとしていた事で治り難かった事が分ります。是が完治した姿です。

例え話で説明するなら、『心の健康は何処を探しても何処にもありません』在るとするなら、心の健康を探し始めた事が心の健康を損なっているだけです。

生きている生身の身体と心ですので、痛い時は痛いです、痛い時に痛くないようにするものが『精神薬の役割となっています。』

最後に治し方です。症状の事を幾ら嫌っても良いですが『口にしないで暮らす事』が大事です。症状はまやかしでしか在りません。症状が在ったとしても、普通の暮らしを守る事が大事です。

そうして『沸き上がる感情や考え』に一喜一憂しない暮らしを守る事が大事です。嬉しい事が在っても喜び過ぎない態度が大事と言う意味です。

悲しい事や辛い事があったとしても、落ち込み過ぎないでいる事が大事と言う意味です。

沸き上がる雑念に左右されない人間性が育った暁には、一億円の宝くじが当たったとしても、喜び過ぎて判断が狂う事がなくなります。

逆に言うなら、如何に困難な状況に陥って、『周りの人達がパニック状態に落いったとしても』今、現在自分がなにをやるべきかを冷静に考え、打つべき手が頭の中に浮かんでいます。人生を達観出来る事が鍵です。
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「お礼」拝見しました。

対象者は、OKWaveの参加者ではなかつたのですね。

>>曹洞宗の学者と田舎の新聞記者

できれば詳しい情報がほしいと思ひます。

>>哲学カテゴリーに参加すればいいのにとすら思います。

もしほんとうなら、これは、まつたくそのとほりです。影でこそこそするから、余計にこじれます。

今のOKWaveのシステムにしても、クリックボタンや、通報なども、匿名でおこなはれてをり、疑念を増幅させてゐます。たかがQ&Aの投稿内容で、隠すことなど何もないと思ひます。

>>okwaveの人たちは中村元に批判的な人が多いのかもしれません。

ひとそれぞれ見解がありますから。私は少なくとも翻訳に関してはありがたく読んでゐますし、原始佛典研究の第一人者として尊敬してゐます。ネットのさまざまなサイトを読んでゐても、中村元の文章の引用を見かけることが多くあります。

私としては、kazamidori365さんの佛教関連の投稿姿勢に好感を抱いてゐます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

詳しい情報を書くと問題になりそうなので、
私の被害妄想ということで、はぐらかしておきます。

お礼日時:2014/10/18 23:11

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