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私は以前Twitterで「撮影会イベントでキャラと一緒に記念撮影していた大人が家族連れに怒鳴られていた」とツイートしたところ…キャラと一緒に記念撮影した大人を非難する声や大人がキャラと一緒に記念撮影したらトラブルになるから控えるべき。と注意喚起する声が拡散されました。

発言に責任を持つとしても何か言う時は慎重になった方が良いでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 大人がキャラと一緒に撮影する事はルール上問題なかったのと、私の発言によって余計な軋轢を生んでしまったのは事実ですので…私の言動は間違っていたと認識しています。

      補足日時:2023/04/22 11:18

A 回答 (1件)

発言に慎重に成るというのは良い事だと思いますよ。

どちらかと言うと私たち大人は「そういうゲーム」をしていると捉えるべきです。

以下は長いので興味があればお読みください。

大人の社会ではルールが明確になっているスポーツ等と違って、暗黙のルールがあるのに誰も教えてくれないですよね。さらに言うならば「そういうゲーム」があることすら教えてくれません。

「つまりそういうゲームなんです」

大人になって大差がつくのは「学校から解放された」と捉える子供と「そんな旨い話があるもんか」と用心する子供に分れるからです。私の場合は社会人になって半年くらいで「正体不明のゲームがある」と気づきました。ルールの本質が分かるまで20年以上掛かったんですけどね。

外国人が日本に興味を持ち「ルールが多すぎるのは何故?」と疑問を投げかける事が多いですよね(多いみたいですよ)

これを見て思うのは、

「いやいやいやいや。君らの国のトップも同じことしてるよ。
 君らは恐らく『自分は自由だ』と思っている。
 勿論、ゲームがある事を君らのトップは教えないからね。
 うちの国は子供のうちに親が塾に通わせるような国なんだ。
 だから、子供のうちに大人のゲームを教えようとする。
 それを見て君らは不安になって、自分が自分の国で自分の
 境遇に満足していないヒントがこの国で教えて貰えそうだ
 と思ってるんだよ。気になってるんだ」

ゲームがある以上、基本的な定石や戦法があるはずです。その上でどれを選ぶかは自由という分けです。そうであるのにゲームがある事を教えずに自由だと言うのは非常に狡賢い。それも一つの戦術ですけどね。

外国と日本の文化が違うのだという解釈もありますが、外国では庶民にゲームがある事とゲームの勝ち方を教えて無いのだと捉える方が正解に思えます。つまり日本以上に階層間での教育格差が厳しい。労働に必要な実学は普及させる(富を得たいので仕方なく教えても良いと妥協する)が、ゲームに勝つ方法は教えていない(上位階層を脅かすため)という事です。日本はそのあたりが緩いため庶民も幾何か(理由が分からずに)実践しているのだと思います。これを見て「自分の国のトップの人達と振る舞いが似ている」と感じて「何かある」と直感しているんでしょう。

「日本人だってわからないで実践しているんだから。
 日本に来ても誰かが教えられるわけじゃない。
 結局、もやもやして不満が積もるだろうね」

古代の中国で為政者(つまりまだ英雄が登場する時代だった)が持つ要素を分解した研究成果があります。これを「徳」と言います。西洋ではカリスマと言う概念が近いです。また現代でも成功者が持つ魅力は遺伝や才能の様な肉体的な特質にあるのではなく、行動パターンにあると解明されています。なので実は自由な行動と言うのはリスクが高く、他人が「王をあがめる様に」服従したくなる行動パターンと言うのが確立しているんです。

これを教えるアジア版帝王学を道徳と言います。孔子が設立者として有名です。似たような時期に似たような理論を確立した人達として仏陀やキリストなどが挙げられるでしょう。

「破滅する道も確立している。
 これを選択する自由もあるとされている。
 なので『こんな事を望んでなかった』等と言う権利は
 誰にもないのだ」

と言うのが当たり前なんですが、古代に検証されてNGとされたメタを現代でも採用してハマりこむ人が後を絶たないという事です。

駆引きを体系化したゲーム理論と言うのがあります。これは人が人に勝つための方法論として、各プレイヤーの戦略を合理的に説明してくれます。しかし、私たちが今この瞬間何をすれば良いのか教えてくれるものではありません。感情や衝動を抑えて自分をコントロールする方法については対象外となります。つまり実践的では無いんです。

「まずは自分が負ける理由を合理的に捉える事。
 酷いときは運が君を救う事も無いというわけだ。
 そういうヤバい構図を避けた後に、読み切れな
 い展開について運に賭けるべきだ。
 当たりの入ってないクジ引きを引いているのに、
 神に祈る滑稽な自分は嫌だろう?」

しかし、同じことに気が付く人が古代にいても可笑しくありません。何せ、紀元前に数学があったんですから。そう考えて見ればいま私たちが悩む殆どの解決法が「道徳」として提示されていたんです。

「他の人が道徳を実践している以上、
 自分も対抗しなければ(相対的に)大変な事になる。
 日本はメタが回り過ぎててキツイ状態というわけだ。
 日本は結果的にガチ勢ばかりになってるって事だね」

外国人はメタ(対戦ゲームなどの戦術や戦略みたいなもの)のことを「日本には暗黙のルールがある」と誤解している分けです。または文化の違いとして解釈しようとしているんでしょう。実際は彼らの国の上位の階層が庶民に教えていないメタを私たち日本人は庶民にも公開しているというだけです。なので外国の庶民の方と議論をしたり、その考え方を真似するとゲームとしては後退するんですよ。自己流に限界があるのは当たり前です(そのため日本の武道が海外で受けている)。

私たちは自分の為に(または親から強制されて習慣化した為に)メタを実践しているだけです。これがあるので若いうちに甘えた考えを持っていても(外国の青年より幼く見えても)何とかなるんです。逆に言えば日本の環境で道徳を無視してしまうと、成長機会を本格的に失ってしまい、幼いまま老化するという酷い話になります。

「諸刃の剣」

さきほど日本ではメタが(道徳として)公開されていると言いました。しかし、これも戦前までは名家と呼ばれる家の中で一子相伝で伝えられていたようです。また仏教の研究者である禅の宗派でも一子相伝(暗号で伝える。これを禅問答と言う)で伝えています。という事でほぼ世界中で秘匿されるのが常識だったんです。海外の一般の人が知らないのは当然なんです。

「基本メタを無視したら箸にも棒にもかからない。
 まずはそのあたりはサッと流してその先で闘わ
 ないとね・・・」

ではそのメタと言うのは何の役に立つ事なのか? またはどういう問題を解決するメタなのか? を説明します。

「同じ実力である二人の人物がいて、どちらかを
 採用しなければ行けないと思った時。
 誰もが何となく選ぶという人が決まっている。
 この目に見えない共通の性質を解明し、それを
 利用するメタが道徳である」

つまり、実力外の判定要素があり、それがかなり人の選択に強く影響しているという”酷い”話なんです。この部分で対抗していませんと、全ての努力は水の泡と言う事です。

勉強さえ出来ればとか、金さえあればとか、地位さえあればとか、イケメンだったらとか、そういう発想では同格との競争で確実に負けるという事です。また、スキルアップやお金を貯めて行くような(努力の)過程では、必ず自分と同じ程度の人と比較されます。億万長者は億万長者同士で比較されます。ニートの方もニート方同士で比較されるんです。

そういう意味では道徳を無視している人は(誰もが無視していれば良いのですが)どんな状況であっても選ばれず助からないとなります。転落したあと転落した後でも選ばれず更に転落します。この道徳を充足して置かないと生きているだけで敗北が続き、長い苦しみの末に力尽きる運命となるんです。

では古代に確立した答えを説明します。

儒教の道徳では五常(仁義礼智信)と言うのが有名です。これはゲームで言う所のステータス・パラメータですね。またはスキル・カテゴリでしょうか。人は5つのパラメータさえ気にしていれば大筋で大丈夫という事です。逆に言うとそれ以外を思考したり実践すると必ず負けるという分けです。

仁:状況を正しく理解する要素。ゲームチェンジャーとなる力。
義:全体に及ぶ力の方向を見極める要素。有利な側に所属する力。
礼:自分の立ち位置を客観視する要素。安定を実現する力。
智:損得を見極める要素。選択や発想を導く力。
信:機会損失を防ぐ要素。戦力を増強する力。

例えば仁は思いやりと言われています。実際は相手の心情を理解する状況把握の力です。自分が何を言えば助けになるのか、何を言ったら状況を悪くするのか、自分の事の様に分る力です。義は正義と言う言葉で良く使われますが、実際は大勢の人が未来に遭遇する事態を先取りし、有利な側に所属しようとする力になります。礼とは「他者の助力」を排除した状態で自分が成し得る範囲を理解する力です。その上で(当たり前すぎて)気が付かなった助力や支援が失われたときのリスクに気が付き、その安定化を第一に考える発想に結び付きます。信は自分や他者の不安定さを許容し、小さな異常によって全体が停止しない様にショックを吸収する力です。大きな異常との差を判別する力でもあります。これを信用できる、信用できないと表現します。

質問者さんは自分の行動に対して間違っていたかどうか二元論で話していますよね。そうではなく「仁」ではどうであったか? 「義」としてはどうであったか? 「礼」をもっていたか? 「智」を働かせて行動の前に損得を予想していたか? 「信」として小さな異常を吸収できていたか? 大きな異常と取り違えていなかったか?

と分解して検証すべきなんです。また他者の行動を評価しコメント(助言)する場合も上の5つの要素に分けて別々に考える様にすると、良い(思考の)習慣が身に付くと思います。

結果、余計(五常に該当していない行動)な事をしたという結論ですね。

以上、ご参考になれば。
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