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宮澤賢治の『よだかの星』について
ヨダカは自身の姿が醜いがために虐められ、鷹に殺されそうなる
悲しみに暮れるが、そんな自分も甲虫を啄んで生きている事に気づいてしまい、この世界の因果から離れようとする

というのが大まかな流れですけど
「鷹がヨダカを殺すこと」と「ヨダカが虫を食べること」がどうしても繋がりません

鷹がよだかを殺そうとするのは、単に醜いから
快楽的な殺生であるのに対して
よだかが虫を食べるのは生きるためであって、仕方ないことだと思うのですがどうなのでしょうか?

つまるところヨダカは生きるための殺生を割り切れなかったから星になったということですよね?なんだか強引すぎませんか?

A 回答 (7件)

それらは序盤の話であって本当に言いたい部分では無いのだと思います。

その部分に拘るのではなく「どうすると(私たち)ヨダカは星になれるのか?」と言う例え話として物語全体を捉えたほうが良いと思います。

以下は長いので興味があればお読みください。

宮沢賢治の時代も差別が多かったんでしょうね。理不尽に「怒りを覚えたり」「絶望する」というのは数えきれないほどあったんでしょう。私は学生時代に計6回ほど苛めにあいました。どんなに立派な人の集まりであっても何故かそういうムーブが起きるんですよ。

この話の流れを追ってドキッとするのは「(差別を受けた)経験者」の心の動きをリアルに描いていることです。

「憎しみや怒りを乗り越えようとして答えを探す。その
 度に心は二転三転とする。どれも罠であり本当の答え
 ではないのだ」

理不尽を感じた人の殆どは「他の人の心には優しさが無い」と憤るものです。その上で「自分は決して同じことをするまい」と誓うものです。しかしこれが最初の間違いです。ここに酔ってしまう人は他者を「差別主義者」と決めつけて苛烈に振舞う様になります。

「他人の心が醜いと言って憤り、罰を与えようとする。
 その時点で自分も他人の正義によって迫害されたのだ
 と気が付かないと行けない。自分の場合だけ正当化さ
 れるとした時点で立派な差別主義者なのだ」

良くあるネット他人を叩く心理ですね。ここに囚われてしまうと成長が止まってしまい大人に成れません。しかしそういう人が多いと賢治は述べているんでしょう。私も小学生の時に同じ選択をしそうになりました。グッとこらえました。しかし何十年経っても怒りは消えません。良くないと知りつつも自分が可哀そうで仕方ないと思う。この葛藤は苦しみです。

そして次にこの苦しみから逃れようとして「権威を頼る」様になります。偉い人に質問をしたり、偉い人に救いを求めたり、修行をして開眼したと言いたくなるんです。これが次の間違いです。

「自分の怒りを正当化するために権威ある人に判断させ
 ようとする。この時は強い人は弱きものを守るべきだ
 ろうと狡い事を考える。自分の命を盾にして強者を脅
 迫するのだ」

ネットでも「自分を慰めないなら死んでやる」と語り掛けてくる人がいますよね。ヨダカもその様に行動したんです。しかしお日様には「責任範囲外」としてかわされます。夜の星々は「相手にしません」。まさに現実と同じですよね。ヨダカの思惑は他の権威者にはバレており(太陽や星々のように立派な方々が経験している内容であるため)思惑通りには進みません。

ここでヨダカは(恐らく恥ずかしさと怒りと自分への憐れみから)力尽きてしまいそうになります。面白いのは「絶望して地に落ちて死ぬ」という死に方でも死ねるはずです。そうであるのにヨダカは「死ぬために全力で飛び立つ」わけです。つまり宮沢賢治は絶望し自分を哀れんで死ぬことと「苦しさから逃れる方法は無いかと探し続けて死ぬ」ことは別の話だとしているんでしょう。

太陽や星々すら頼れないと分かって「やっと自分独りで自分と闘う気持ちになった」わけです。そうやって一生懸命に苦しみと闘っていると「星になっていた」と(ラスト)なるわけです。

この星というのが「他人が羨むような凄味を持った人。自分と何か違うと感じさせる人。オリジナリティを持っている人」の事です。つまり太陽や星々は「他人を頼って苦しみから逃れようとしなかった人々」だという事です。凡庸な人から見れば「天に輝いて仲良くやっている」ように見えます。しかし実際はそうではない。それぞれの星はヨタカの様に一生懸命、一人孤独に輝いているのです。

「俺は誰かを頼ってとかもう辞めた。自分の出来る事をしている
 だけなんだよ。そしたらヨダカ・・・お前は俺の事をお星さま
 と呼ぶ。そうか。お前から見ると俺は星なのか・・・いつのま
 にか他の人からそう見えるようになったのか」

と言うのが星々が思う感想でしょう。

他力本願を辞める。一人孤独に苦しみ続ける。その辛さに負けず生き続ける。たったそれだけをしているだけで(それが出来ない人からすれば)輝いて見えるという事です。ヨダカも先達の星々がやったように「自分を哀れんで死ぬ」という答えを捨てて孤独と戦う事を選んだわけです。そしてその姿を見ている人には眩しくみえる(他の人たちは自分に自信がないんです。他人の目を気にしたり、差別したり、差別をする悪者を懲らしめる方法で自分を立派だと信じようとお茶を濁している)わけです。

「誰にも気づかれないまま。孤独のまま戦い続ける。誰にも褒め
 られないのに頑張り続ける。それが出来る人はそうそういない」

最終的な答えは「他者に甘えない」というシンプルなものなのでしょう。

差別を受けて耐えるのも自分がしなければ成らないのであり、差別をしない様に心がけるのも自分の慢心との戦いです。そういう自分も「殺生をしないと生きていけない罪深い生き物」であるわけです。「自分の罪」と向き合って負い目を感じ続けるのも自分の義務なのです。正当化して逃れようとすれば「負い目」から逃げたことになります。

「自分の狡さを見つめ続けて苦しむくらいはしないといけない」

そうやって自分の心の負い目を受け続ける。苦しいからと言って他人に慰めさせたり、正当化したり、他人に認めさせたりしても無駄だと悟る事です。

「恥ずかしい。苦しい。と感じている以上、理屈でねじ伏せて
 も意味がない。余計な事をせずにじっとして苦痛を感じるほ
 うが痛みも早く消える」

昨今のネットでは「自分の負い目」を自分の心で処理できず、誰かに何とかしてもらおうと頑張っている人が多いですよね。シンプルに「苦しい」として暴れない方が良いと思うのですが。

「少しでも苦しいと他人に傷をなめて貰おうとイキル人が沢山
 いる。そんな中で自分で自分の傷を癒す人は稀である。そう
 いう人を見て強い、怖い、自分より優れていると人々は感じ
 てしまうのだ。これがスターの正体である」

自分の心の葛藤を自分で処理する。その方法は星毎に違うでしょう。しかし「自分で何とかする」と覚悟を決めた人は「覚悟が決まってない人」から見ると星の様に眩しいという分けです。そしてヨダカは他の人に眩しいと思われるようになり「よだかという星」になった分けです。

SNSで語り合う内容の殆どは「自分の負い目」「自分の怒り」「理不尽へに対する妥協」など自分で処理できない内容を他人をあてにして解決しようとしているように見えます。しかし「よだかの星」にあるように「自分と同次元」の人の心には余裕がありませんから「差別する側」に回ったり「批判する事で自分を浄化しよう」と目論むでしょう。

自分より高い次元の人を頼ろうとすれば「それは自分で処理しないと解決に成らないんだよ」と諭されます。それを恨んで自分を殺めようとする人もいます。しかし、そこで諦めて「自分で処理をしよう」と覚悟を決めた時、その人は星(周囲の覚悟が決まってない人からすれば)になるのだという事です。

私が思うに宮沢賢治の「よだかの星」だろうと、太宰治の「走れメロス」だろうと同じ人間が勝手に書いた話を読んで右往左往とするのはどうかしていると思います。自分の尊厳が傷つくだけでしょう。そういう人達が何を語ろうとも「自分で処理するしかない」のですから適当に流すべきです。

その上で「どうしてそういう人達の言葉は無視できないのか?」と考えてください。この「無視したくても気になってしまう」人々が星なのです。そして自分が星に成っていない事を嘆くべきなんです。その答えとして「どんなに理不尽に感じても自分で処理をすると覚悟する」だけで良いという分けです。「それが出来ない人」が何を言っても「宮沢賢治の言葉ほど他人は興味を持ってくれない」となります。

そして?

私たちは相手が差別主義者であろうと、差別される人だろうと、善人だろうと悪人だろうと「俺はこの人を友達に出来るだろうか?」とギラギラすべきなのです。「選り好みをして贅沢を言ってるうちに年取っちゃいました」と言う間抜けな事態を避ける事が大事なんです。

「貴方は凄い。あんな悪人でも親切にする。大きな人だ」

「いや・・・俺程度が贅沢言ってたら友達出来ないだろ。
 あんたは余裕があるらしいね。羨ましい」

「・・・そういうわけでは・・・もしかして私は分不相
 応に選びすぎてるという状態なのですか?」

「どうかなあ。
 俺はこんなに頑張ってるが満足できたことが無い。
 それくらい我武者羅に誰彼構わず好きだと言い続けるく
 らいが相場じゃないかな」

「まじか・・・」

殆どの人が星じゃないのですから「星じゃない人特有のダメさ加減」は覚悟しないと行けません。また自分が星で無いのに他人に要求するのは傲慢であると思います。まあ要求しても実際問題無駄でしょう。

そして更に続きがあります。

「自分が星になったとしても。星になってない人に我慢で
 きないと友達は増えない。ハードル高いよねえ」

星になるのは折り返し地点でしょう。星になった後は星になってない人に我慢しないといけないんです。比率で言うとそちらの方が多いわけですからね。そこに耐久するための忍耐を積み上げる必要も出てきます。人生寿命がいくらあっても足りません。

なので「よだかの星」は人生の序盤。

つまり子供に向けての話であり童話です。これは優しさとか差別の話ではなく心の強さを語る話なのです。

「ヨダカは君の様に逃げなかったよ?」

以上、ご参考になれば。
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できの良い弟に劣等感をもって自己肯定できない自分の中で、自分がきらないな罪悪感・罪意識のない加害者と自分が一致してしまったことで自

分を許せなくなったというはなしでしょ?普通にすんなり入ってきますけどね
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なんだか強引すぎますね。



私はここで、弱肉強食という言葉に加えて《弱醜強美》という言葉を提案します。

『よだかの星』は《弱醜強美》の世界を描いた物語ですね。

ヨダカは人間界に於ける弱醜強美の世界の犠牲者であって、弱肉強食の世界で苦しんだわけではありません。

なのに、、、
自身も殺生をしている事に気付いて、星になろうとするという設定だから、ここに違和感が生じるのです。

ただ、ヨダカは生きる事に苦しめられたから、弱肉強食というこの世・苦の世界に気付いたんだ、と受け止める事が出来ます。

宮沢賢治は、この世は苦の世界である、という事を云いたかったのではないでしょうか。
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生物は他の生物を食べなければ生きてゆけない、という哲学の回答としては曖昧に思えますね。


結局、答えを求めて生きてゆくこと、なのかと思います。また、文学を読むということは熟練が必要だとも思います。

釈尊の言葉で、「殺す心を殺せばいいのだ」というのがあります。これが答えだと私は思います。
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自然界の食物連鎖と死んだ後は星になるというお話を、宮澤賢治さんが、自分なりの解釈で童話にしたのだと思います。



ヨダカは自分が醜い為に鷹に殺されると考えていたけれども、実際は、食物連鎖だった。
そして、悲しみのあまり食べるのを止めて死んだので、その自然界の食物連鎖に逆らう行為によって、自然界の仕組みを超越して、星になる事ができた。ということでしょう。
お坊さんの絶食で仏になる行為と同じような気がします。

宮澤賢治は、生き物は意志によって自然界の仕組みを超越する事ができるということを、伝えたかったのだと思います。
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よだかが虫を食べるのは生きるためであって、


仕方ないことだと思うのですがどうなのでしょうか?
 ↑
仕方が無いと言ってもねえ。
それは加害者の都合に過ぎません。

被害者からすれば、
加害者の動機がどうあれ、
被害を受けることは同じです。



つまるところヨダカは生きるための殺生を
割り切れなかったから星になったということですよね?
なんだか強引すぎませんか?
 ↑
そういう清い心の持ち主だったから
星になったんでしょう。
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宮沢賢治の話の良さがわからない


あまりに浮世離れしていて理想ばかり語る
本人の生き方そのもの
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