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中原中也の、汚れつちまつた悲しみに・・・、という有名な詩の意味を、どなたか教えてください。この詩は、いったい何を表現しているのでしょうか?伝えたいことはなんなのでしょう。ひたすら悲しい、ということは伝わってくるのですが、あまりよく分からないのです。

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A 回答 (5件)

 


詩にしても和歌にしても、俳諧にしても、これはこういうできごとの折りに造られたものだ、という説明を聞いて、意味が分かるとかは本当はおかしいのです。

作品を読んで、聞いて、何かの心の感銘を受けて、その後、その作品が作られたときの状況や経緯をしって、なるほど、よく分かるということで、作品としての感銘・感興は、説明と独立していなければならないのです。

造られた状況が分からないと、感銘がないとか感興がないというのは、作品になっていないのです。

中原中也の詩は、その点、少し問題があるのです。読んでも、よく意味が分からないとか,何を言っているのか感興がないという人がかなりいるのです。その他方、中也の独特な作風というものに惹かれる人がかなりいるのも事実なのです。

幾つかの作品を読んでみて、中也は、その言葉にどういう思いを込めたのだろうか、と考えていると、ある程度,何かが分かってきます。無論、分からない、感じられないということもあります。

この作品は、著作権が切れているはずで、引用してもよいはずです。全文は、下の参考URLにありますが、一行置きに繰り返される、「汚れちまった悲しみに」と「汚れちまった悲しみは」をはずしてみます。次のようになります:

>汚れつちまつた悲しみに

>今日も小雪のふりかかる
>今日も風さへ吹きすぎる

>たとへば狐の皮裘(かはごろも)
>小雪のかかつてちぢこまる

>なにのぞむことなくねがふなく
>倦怠(けだい)のうちに死を夢む

>いたいたいしくも怖気づき
>なすところなく日は暮れる……

「汚れちまった悲しみに」という表現が、自嘲的で投げやりな表現だという感じは確かにあるのです。「悲しみ」が「汚れる」とは、何と気障な、とも感じるのですが、他方、これは非常に自嘲的な言葉に響きます。それでは、「汚れちまった悲しみ」を除くと、詩はどうなるかというと、上のようになります。

二連目の「たとへば狐の皮裘(かはごろも)」というのは、何を言っているかよく分からないのです。感覚的に分かるか分からないかの問題のようになります。

しかし他の行は、通俗的な言葉のようで、しかし、

>今日も小雪のふりかかる
>今日も風さへ吹きすぎる

ここには、何か痛々しい感情の苦痛と絶望のようなものが、造形されています。この表現自体、まだ自嘲的な感じがしますが、中也の他の作品を見ると、やはり、こういう自嘲的な感じの言いまわしが出てくるのですが、しかし、他方、その部分だけを見ると、高度に冷静に緻密に彫琢された、詩的形象が含まれています。

中也の詩は、どこかユーモラスで自嘲的な言いまわしと、綺麗な詩的形象と、そして悲哀というか、切ないような悲しみの三つの要素から大体できているのです。

この作品にも、この三つが含まれていて、この場合、詩的形象が一番希薄というか、形象はあるのですが、それが自嘲的な表現に隠れてしまっています。

どこかユーモラスで自嘲的な言いまわしは、中也が自分自身を反省的に眺めている結果,出てくるのだとも感じられるのです。この詩の場合、自虐的とも言えるレベルまで来ているのですが、しかし、上に抜き出したラインを見ると、詩の形象彫琢は行っていることが分かるのです。

中也の詩は、自意識過剰で、自己の感情に溺れているようにも思えるのですが、良く読むと、冷静にそのような自己を眺めている視線があるのです。「自嘲」とは、そういう状態だとも言えるのですが、中也の場合、ただ自嘲に溺れこんでいないというのが、彼の作品を「詩」と評価する人たちの見方でしょう。

自嘲し、悲哀の感情に溺れているように見えるなかに、冷静に詩の言葉を彫琢している中也という詩人がいるということになるのです。すると、これは、単なる自嘲や自虐ではなく、もっと複雑な屈折した意識のありようの表現であるとなります。

どこかユーモラスな自嘲的な屈折した、いわば青年期の自己の客観視のような視点と距離の取り方、それに先に述べた,詩としての形象彫琢と、悲哀という組み合わせで、「中原中也世界」というものが出来あがっているのです。

自嘲的な視点に心動かされる人と、詩的彫琢に心動かされる人と、悲しみのある言葉に心動かされる人がいるということになるのですが、これらは、どれも、中也の詩の世界を前提にしているのです。

この「汚れちまった悲しみに」は有名な作品ですが、これは詩ではなく、青年が日記に書くような感傷的で自意識過剰な言葉の羅列だと感じられる人には、これはそういうものに見えるのです。

立原道造という青年詩人がいて、若く亡くなりますが、彼の感傷的リリシズムの詩は、エピゴーネンが一杯あるが、しかし、立原はエピゴーネンとは一線を画しているという評価を昔,読んだことがありますが、「一線はなかった」というのが答えだったと思います。

中也の場合も同じで、こういうスタイルのエピゴーネンはたくさんいるのです。そこで一線があるのかというと、あるのですが、ないとも言えます。しかし、中也の詩は模倣できないのです。こういう自嘲的で悲哀のある詩の真似はできますが、「中也の詩」にはならないのです。

この詩は、投げやりになり自嘲的になって、「人生はこんなものさ」と言いつつ、感傷的に悲しみや絶望をうたっているように思えますが、どこか、「冷静さ」が入っているのが特徴なのです。自分を反省して自嘲する自分自身を、また冷静に眺めている自分がいるというような構造です。

何重にも、こういう自己観察、自己省察の視点があるのではないかというのが中也の詩で、立原の詩は、ここまで自己省察した視点がある意味ないとも言えます。

立原の詩は、詩的空間からある距離を置いて、詩を形象している作者がいるのですが、中也の詩は、もっと自己観察・自己省察が錯綜しており、もっときっちりした詩的イメージを彫琢できながら、敢えてそれをしない中也という存在が感じられるのだとも言えます。

実はわたしもこの詩はよく分からないのです。しかし、中也の他の詩のなかに、その哀切さと美しさに心動かされる作品があるのであり、そこからすると、この詩にも、大きな感銘を受ける人がいるだろうと想像できるのです。

この詩がよく分からない場合は、中也の他の作品を読んでみて、どれか心に感銘を受けるものがあれば、もう一度引き返して、この詩に戻ってくると、違って見えてくる可能性があります。

最初に述べたように、この詩がどういうできごとの背景で造られたのか、関係がないのです。

No.1 の方の回答が簡潔で見事に中也の詩の構造を言い当てているのですが、そういう意識は、実は大勢の人が持っていて、しかし、彼らは中也ではないのです。しかし、中也の詩に心動かされる人たちなのです。

「近代人的意識」と言えば、小林秀雄につながって行くのが分かるでしょう。
 
>汚れちまった悲しみに
http://macalfa.tripod.co.jp/YomuFiles/yogore.html
 

参考URL:http://macalfa.tripod.co.jp/YomuFiles/yogore.html
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この回答へのお礼

大変素晴らしい回答、感謝します。何度も何度も読ませていただきました。
この詩は、とても、静かです。しーん、と静まりかえった深淵の世界があります。私はこの詩全体を包んでいる、その「静けさ」に、なんとも言えない寂しさ。孤独、自分を救ってくれる人は誰もいない、そんな中也の姿を感じます。本当に美しい詩だと思います。音楽で言えば、ピアニッシモから始まって、途中にクレッシェンドもディクレッシェンドもなく、最後まで悲しいピアニッシモで終わるような雰囲気です。それ故に心を打たれます。

お礼日時:2002/08/23 14:05

あえてその場ではないと承知しつつ、4の方に反論です。



私は、むしろ、うまい解釈ですら、文学には必要ないと思ってます。
ただ簡潔に、文学の(しかも感銘を受けたものだけ)背景をしりたいと
これは、もちろん、文学の解説者の見方、解釈、理解ではないと思ってますが、私には、それだけしか、必要ありません。

>この詩がどういうできごとの背景で造られたのか、関係がないのです。

逆で私には、それしか、興味ありません。下手な評価者の文学の解釈、
それは頭にも、心にも残らないのです。
関係がないとは思わないのです。(私だけかもしれませんが、私には、関係があり、逆に心に残らない文学の解釈は不要だと思ってます。かえって、
作品の感銘をそぐとすら思えますが。
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この回答へのお礼

いつだったか美学者の今道友信さんが次のようなことを言っていました。
「大宰府の遺跡に立てば、われわれは何も思索することなく、その山野の自然の美しさに心を惹かれ、いつまでも立ち去らぬ思いに時を過ごすかもしれない。しかしもし、大野山の上には、8世紀のころ、山城が築かれており、大宰府の私どもの立っている台石は、昔ここに築かれた都府楼の礎石であるということを誰かに説明してもらい、それらの事実を回顧しながら、この景色をまた改めて眺めるときに、風景は時間の立体性を得て、そこにある一木一草は自然の悠久な生命をあらわし、次第に、ただの山野の風景とは趣を異にした詩情を体験してくる。」と。
つまり、詳しい知識がなくても、ものさびた礎石を見れば、ここに古人が生活を営んだという事実は分かるけれども、でも、正確な歴史的知識が与えられてくると、いつしか風景は歴史の舞台として重みを添えてくる、ということです。 
 
私は詩も同じだと思います。詩も詩という音楽である以上、何の知識なしにその詩と接しても、大きな感動は得られます。しかし、そこにさらに、歴史、時代背景、中也の生涯、などの、感覚的にではなく、理性的に考える省察が加わった場合に、その詩から受ける感動も変わり、理解も深まるのです。一つの作品を、感覚的にだけ捉えても、それ以上のことは得られません。美には、感覚的な美もあるけれども、知性がなければ発見されない深いものもあるのです。

絵画の場合も同じで、知識があってその絵を見るのと、何も知識がなくてその絵を見るのとでは理解の深さがちがいます。

ただ、知識が一番重要なものかというと、それは違うと思います。知識は確かに重要だけれども、一つの芸術としての作品がそこにあって、その上に歴史事情なり時代背景があるのですから、その作品に対してそこに何を感じるのか、その感じる体験こそが最も重要なことだと思います。

皆様、いろいろなご意見ありがとうございました。

お礼日時:2002/08/23 14:59

一瞬、ダウンタウンブギウギバンドか何かの言葉かと思いました(^^;


でも、そういうロックの人達が好みそうな言葉だと思います。
私もよく意味は分かりませんが、何だか退廃的で耳に残る言葉ですね。
ちなみに爆笑問題の太田さんが若い頃、中原中也のこの言葉に感化されて、
当時かなり攻撃的な詩を書いていたそうです。

下のサイトによると、当時同棲していた長谷川泰子さんの事を詠ったというのが
一般的なんだそうです。
http://www2.wbs.ne.jp/~siki/nakahara2.htm

参考URL:http://www2.wbs.ne.jp/~siki/nakahara2.htm
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この回答へのお礼

興味深いサイトありがとうございました。中原中也と小林秀雄が知人だったとは知りませんでした。この詩の内容も少しづつわかってきました。中原中也についても、もう少し、自分で調べてみようと思います。

お礼日時:2002/08/21 12:48

彼(中也)のたえこという恋人が、彼の親友(小林秀雄でしたっけ?)にとられてしまった事はしってますか?のちに2人は結婚してます。


信じていた大切な人を同時に失ってしまった。

それがあるような気がします。どこかに本あるはずで解説もあるはずなのですが(小林さんの中也についても、読んだ記憶も)

私見ですが(私のはかなり歪んでいるのが常ですが)純粋な悲しみの中に
もっと深い感情も渦巻いていたのではないでしょうか?

いかにたえこ、しずかに一緒におりましょうと歌ったたえこさんが自分の親友の下に走ってしまったら・・そう思ってよんでみてください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。そういえば私も、家のどこかに中学の時の資料集に解説があったような気がします。悲しい、悲しい、この詩をもっと深く理解できるようになるために、もっといろいろ調べてみようと思います。

お礼日時:2002/08/21 12:51

中也という詩人は、原風景というか思い込みというかわかりませんが、かって自分(中也)は【純粋】そのものであったという思いがあったようです。


そこからいつのまにか汚れってしまった(世俗にという意味だけでなく)という意識があるようです。
それを歌っているのではないでしょうか。
そして汚れてきたことになにもできない無為と虚無の現在をうたっているのではないでしょうか。

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この回答へのお礼

純粋だった心が汚れてしまった・・。
なかなかおもしろい感じ方ですね。とても参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2002/08/21 12:53

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Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q「すいません」と「すみません」どちらが正しい?

 タイトルにあるとおり、素朴な疑問になりますが、「すいません」と「すみません」ではどちらが日本語として正しいのでしょうか。分かる方ぜひ教えてください。

Aベストアンサー

もともとは「すみません」ですが、「すいません」と発音しやすく変えたものもたくさん使います。
話す時はどちらでもいいですよ。

ただ、私個人の語感で言うと、公式的な場では「すみません」の方がいいような気もします。「すいません」はちょっとくだけた感じかな。でも、これはあくまで私個人の語感。人によって、あるいは地方によっても感じ方は違うだろうと思います。

書くときはもちろん「すみません」にしましょう。

発音しやすく変化した発音の他の例としては
手術(しゅじゅつ→しじつ)
洗濯機(せんたくき→せんたっき)
などがあります。これも、話す時にはどちらでもいいです。「しじつ」「せんたっき」と書いてはいけませんが。

Q太宰治と志賀直哉の確執について

最近太宰治の「如是我聞」を読んだのですが、その中で太宰が志賀のことを名指しでけちょんけちょんにけなしていました。
ウィキペディアで調べたところ、太宰が最初に「津軽」の中で志賀を批判し、それに立腹した志賀が太宰をけなす発言をし、だんだんエスカレートして遂に「如是我聞」が発表されたということらしいのですが、この対立の経緯について詳しく知りたいのです。
参考になる書籍やHPがあったら教えてください。また、上に書いたこと以外のことをご存じであれば教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

こんにちは

太宰は「津軽」で、蟹田町に行った時に旧友達が太宰を囲んで宴を開いてくれた
時のことを書いています。その中で、当時、大作家として名を馳せていた"五十
年配の作家"(志賀直哉と名指しはしてないが「神様」と呼ばれている、と書い
たことで明白)について聞かれ、人の悪口を言って自分を誇るのは甚だいやしい
ことだが、と前置きしながらも、世間も文壇も、その大作家を畏敬に近い感情で
評価していることに、一種、腹立たしい感情を持っていたのか、彼の作風を厳し
く批判しています。きっと志賀直哉自身にというより、彼に象徴される世間の偏
った高尚趣味(と太宰は思っている)若い作家達の彼へのとりまき、へつらい、
に嫌悪感を抱いていたのかもしれません。(やっかみも少しはあったかもしれま
せん)(^^) それを読んだ志賀直哉が、座談会の席上で仕返し(?)に
太宰の作風をけなすなどしてバトルが始まったようです。

でも、私は、ことの発端は、有名な、太宰と井伏鱒二との確執のような気がします
。井伏は太宰が故郷青森から上京した時から頼っている文壇の先輩であり、私生
活でもいろいろと面倒をみてもらっていた作家です。太宰は候補になっていた第
一回芥川賞を逸したり、その後もあの手この手で受賞の依頼をするなどしても
(川端康成におねだりの手紙を書いたりしていますね)思うように行かず、また
女性問題等でもトラブルがあるなど、徐々に生活に行き詰まりを感じ、
薬物中毒に陥ったりしていきます。
井伏も当時は貧乏作家で、さほど将来を嘱望されるような作家ではありませんでした。

そんな中、井伏が「ジョン萬次郎漂流記」で直木賞を取りますが、
その作品に盗用が見られるとし(後に大傑作とされる「黒い雨」にも盗用
論争)それに嫌悪した太宰が、井伏批判、そしてその背後にある文壇、世間、そ
の象徴である"老大家"の志賀直哉批判、と日頃の不満が発展し、たまりにたまったうっぷんを
はき出すように、意を決して「如是我聞」を発
表するに至ったのではないでしょうか。
遺書には「井伏さんは悪人です」とありますね。

「如是我聞」で太宰は「その者たち(老大家)の自信の強さにあきれている。
……その確信は……家庭である、家庭のエゴイズムである」などと言ってますが、
私は、津軽の名家に生まれながら真の家庭的愛情に恵まれなかった太宰の本音が
そこに伺えるかなぁという気がしています。

「如是我聞」は、死ぬ数ヶ月前、心中した山崎富栄の部屋で、
新潮社の編集者、野平健一が口述筆記し、死後に発刊されていますね。

参考文献といえるかどうか判りませんが、「ピカレスク」(猪瀬直樹・小学館)
にはとても興味深いものがあります。

私見ですが書いてみました。

こんにちは

太宰は「津軽」で、蟹田町に行った時に旧友達が太宰を囲んで宴を開いてくれた
時のことを書いています。その中で、当時、大作家として名を馳せていた"五十
年配の作家"(志賀直哉と名指しはしてないが「神様」と呼ばれている、と書い
たことで明白)について聞かれ、人の悪口を言って自分を誇るのは甚だいやしい
ことだが、と前置きしながらも、世間も文壇も、その大作家を畏敬に近い感情で
評価していることに、一種、腹立たしい感情を持っていたのか、彼の作風を厳し
く批判しています。き...続きを読む

Q「以降」ってその日も含めますか

10以上だったら10も含める。10未満だったら10は含めない。では10以降は10を含めるのでしょうか?含めないのでしょうか?例えば10日以降にお越しくださいという文があるとします。これは10日も含めるのか、もしくは11日目からのどちらをさしているんでしょうか?自分は10日も含めると思い、今までずっとそのような意味で使ってきましたが実際はどうなんでしょうか?辞書を引いてものってないので疑問に思ってしまいました。

Aベストアンサー

「以」がつけば、以上でも以降でもその時も含みます。

しかし!間違えている人もいるので、きちんと確認したほうがいいです。これって小学校の時に習い以後の教育で多々使われているんすが、小学校以後の勉強をちゃんとしていない人がそのまま勘違いしている場合があります。あ、今の「以後」も当然小学校の時のことも含まれています。

私もにた様な経験があります。美容師さんに「木曜以降でしたらいつでも」といわれたので、じゃあ木曜に。といったら「だから、木曜以降って!聞いてました?木曜は駄目なんですよぉ(怒)。と言われたことがあります。しつこく言いますが、念のため、確認したほうがいいですよ。

「以上以下」と「以外」の説明について他の方が質問していたので、ご覧ください。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?qid=643134

Q汚れちまった悲しみに

中原中也の有名な詩に、「汚れちまった悲しみに…」というのがありますが、あれはヨゴレと読むのでしょうか、それともケガレでしょうか。どちらかだとはっきり証明するものがありますか。

Aベストアンサー

「汚れつちまつた」という表記だったかも...?
個人的には「よごれ」派です。
「けがれ」というようなやや固い、比較的文語的な
表現よりも、「よごれ」という口語的な表現の方が
吐露としての(?)この一句の調子にあうと思いますし、
「汚れ」の後に促音が入るなら、「よごれっちまった」
の方がより自然な気がします。
また、たとえば「汚れ役」というときのような
「よごれ」という語がもつ惨めさ(?)が
「狐の皮裘」とか
「小雪の降りかかる」などのイメージにあうんじゃないかな
と思います。
いかかでしょう。

Q「充分」と「十分」の使い分け教えてください

題名のとおりですが、どう使い分けるのか知りたいです。

たとえば、「私はじゅうぶん満足した」のときは、十分でいいんですよね???

どちらをどう使い分けるのか教えてください。

Aベストアンサー

そもそも【十分】と【充分】は別のことばです。

国語辞典では「十分」も「充分」も同じこと、を踏まえてのご質問と見うけます。
私は、事務的文書では「十分」に一本化していますが、私的文章では、両者を使い分けています。情緒的な差という人もいますが、語の本来の意味は異なります。
☆「十分」「充分」の意味が混同される原因は(推測です)、
 ・漢字本来の発音の違いが日本語では区別し難いため、便法で漢字音を決めた。
 ・旧かな遣いの時期は区別がし易かったが、新かな遣いになり混同を助長。
 ・漢字の学習の底が浅く安易になった、即ち本来の意味に注意を払わない。
☆この二つの文字の違いは何か?
【十】:1・2・・・・・・と来て数が満ちる。
  原意:古代に枝や縄の結節で数字を示した方法の延長が現在の字形。
     九が数の窮まった値として縁起よく、重視されてきた。
     更に9+1は十分大きい ⇒ 数が足りている状態。 
  ☆数詞、段階を踏むデジタルな思想です。
【充】:満ちる、満たす、余すところなく、担当する、埋める。
  原意:長い、高い から 成長した大人、肥満、肥大、振る舞う、 
     などを意味するようになり、現在に至っています ⇒ 充ちる(満ちる)。
  ☆基本は動詞、切れ目なく満ちる、満たす、果たす、アナログ的思想です。
【分】:実は、発音も意味も一意でないのです。
  【十分】の発音はshi2fen1   【分】fen1の意味は 部分、分割したもの など。
  【十分】の発音はchong1fen4 【分】fen4の意味は 成分、本分、職責 など。 

さて、お尋ねのこと「私はじゅうぶん満足した」はどう書くか。
 ・単純に量的に満たされたならば【十分】。
 ・心または腹が充足感を以って(徐々に内部から)満たされた場合は【充分】。
    としたいところです。
  
【充】については以下の用法で感覚をつかんで下さい。
 充電・充填・充足・充実・充溢・充血・充ちる(潮が、悪意に、月が、刑期がetc)
ついでに、
  「十分ご説明をいただいて、充分満足いたしました」のごとき用法も。

いまや、【十分】【充分】を使い分けるか否かは個人の好みです、読む人の感性に合わなければそれまでのこと、自己満足の域を出ません。いずれにせよ、公式文書や事務的文書では、好悪を捨てて、国語辞典を標準とするに越したことはありません。

そもそも【十分】と【充分】は別のことばです。

国語辞典では「十分」も「充分」も同じこと、を踏まえてのご質問と見うけます。
私は、事務的文書では「十分」に一本化していますが、私的文章では、両者を使い分けています。情緒的な差という人もいますが、語の本来の意味は異なります。
☆「十分」「充分」の意味が混同される原因は(推測です)、
 ・漢字本来の発音の違いが日本語では区別し難いため、便法で漢字音を決めた。
 ・旧かな遣いの時期は区別がし易かったが、新かな遣いになり混同を助長。
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Q人間の3大欲とはなに?

この質問は このジャンルでふさわしいのかどうかちょっと迷ったのですが・・・。

人間の 3大欲といわれるものがありましたよね。
あれは 食欲と 後はなんでしたでしょう?

また その「人間の3大欲」という言葉は
誰が 言い出したのでしょうか?

Aベストアンサー

人間の三大欲望は
食欲 睡眠欲 性欲 です。
食欲は,物を食べ,エネルギーにする事。
睡眠欲は,睡眠をとり,脳を休ませること。
性欲は,トイレで用をたしたり,エッチをしたり,する事
この3つはある程度は我慢が出来ますが,人間が生きていくためには必ず必要なことです。欲望というより,必要不可欠なことです。
でも、このことを言った人はわかりません。昔からの言い伝えではないでしょうか?

似たような語で,「衣・食・住」これは、生活の上のことです。

Q「あくまで」「あくまでも」の意味

「あくまで(飽くまで)」「あくまでも」という副詞の意味ですが、辞書をひくと「物事を最後までやりとおすさま・徹底的に」とあります。例文も「あくまでもがんばる、あくまでも主張を貫く」などとあります。

しかし、よく話の中で「あくまでも個人的な考えですが・・・」「あくまでも噂です」「あくまで一例です」「あくまでの話しです」などという風に使われます。このような文章中では「徹底的に」という意味ではないと思うのですが、どうなのでしょうか。

Aベストアンサー

あくまでも、という意味の「徹底的に」という所から転じて、「完全に」とか「中途半端ではなく(どこまでも)」という様な意味合いも持っています。


「あくまでも個人的な」
完全に個人的な

「あくまでも噂です」
=「あくまでも噂[に過ぎません]」
完全に噂に過ぎません

「あくまで一例です」
=あくまで一例[に過ぎません]」
完全に一例にすぎません

「あくまでの話です」
・・・すみません、この用法は聞いた事がありません。

Q太宰治が自殺した原因を教えてください

太宰治は戦争未亡人だった愛人と心中を遂げたそうです。
名声のあった人気作家が、どうして自殺なんかしたのでしょうか?
自殺するつもりなら一人でもできます。
愛人と心中するにはよほどの理由があると思います。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

太宰には自殺癖がありました。最後の山崎富栄との自殺は5度目の自殺です。2度目の自殺(心中)では自分だけ助かっています。

太宰治は芥川龍之介に多大な影響を受けており、その自殺願望は彼が芥川龍之介を好きだったからだとも言われています。芥川賞を取りたいと生涯願っていましたが「すでに新人に非ず」と最終候補から外され非常にショックだったようです。

>名声のあった人気作家が、どうして自殺なんかしたのでしょうか?
>自殺するつもりなら一人でもできます。
>愛人と心中するにはよほどの理由があると思います。


本人じゃないのであくまで推測の域を出ないのですが、彼は一人じゃ死ねなかったのではないでしょうか?

またわざと自殺する振りをして周りを困らせようとしていたという説もあります。(困らせるのが目的なので本当に死ぬ気はない。自殺癖ではなく自殺未遂癖)
↓このHPでは彼が「境界型人格障害」だったという説を挙げています。
http://www.so-net.ne.jp/vivre/kokoro/borderppl.html

たまたま相手の女性が本気で死ぬ気だったので、釣られて逝ってしまったという説もあります。いずれにせよ真相は藪の中です。

参考URL:http://www.geocities.jp/showahistory/history2/23d.html

太宰には自殺癖がありました。最後の山崎富栄との自殺は5度目の自殺です。2度目の自殺(心中)では自分だけ助かっています。

太宰治は芥川龍之介に多大な影響を受けており、その自殺願望は彼が芥川龍之介を好きだったからだとも言われています。芥川賞を取りたいと生涯願っていましたが「すでに新人に非ず」と最終候補から外され非常にショックだったようです。

>名声のあった人気作家が、どうして自殺なんかしたのでしょうか?
>自殺するつもりなら一人でもできます。
>愛人と心中するにはよほどの...続きを読む


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