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29日は昭和の日ですね。
前回たくさんの方に回答いただきました「ALWAYS あなたの昭和」を再募集します。
参加資格は昭和を語れる方です。食べ物、事件、娯楽、遊び、仕事など昭和にまつわる思い出をお願いします。
※29日までオープンしていますのでよろしゅうおたのもうしあげます。

A 回答 (14件中1~10件)

生まれが東京五輪の年、新幹線開通の年ですから、いろいろ経験しました。

覚えてる事のごく一部を。

*にっかつの^m^映画を高校の頃よく見ました(ぉい)、雑誌・写真集も集めました。いまだに持ってます^m^

*プラッシーをよく飲みました
(ミリンダは飲んだことないんです(-_-;))

*NHKの”夏の紅白”「思い出のメロディー」の出場メンバーが今と全く違ってた(藤山一郎、淡谷のり子、霧島昇、灰田勝彦、渡辺はま子、市丸…みんな元気だった。戦前派は声の出所が違います)

*鯨の大和煮缶詰をよく食べました。鯨カツ、鯨ベーコンも(ベーコンの切れ端なんて、安い食べ物の代表だったんですよ)。
鯨は見るもんじゃなくて食べるもんだーい(・へ・)

*テレビの「世界の料理ショー」。あれでこの世にペッパーミルという道具があるのを知りました。

*月曜午後7時、キックボクシング中継。富山勝治、亀谷長保、ロッキー藤丸、斉藤天心、ジミー・ジョンソン、稲毛忠治…。

*言うまでもなくプロレス。僕は全日本、国際のファンでアンチ猪木。んで、マスカラス=今でもネ申。

*ローラーゲーム 東京ボンバーズ!!
*スター誕生
*テスト前、深夜の一夜漬け勉強の友、ヤングリクエスト(関西人です)
*プロポーズ大作戦(山Pのドラマじゃないですよ)フィーリングカップル5対5!!

…ぅあ、止まらないや\(^o^)/
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この回答へのお礼

誰かと思えば・・・昭和生まれのますおさん(プロポーズ大作戦風に)

ローラーゲーム。かぶりつきでしたね。悪役セコンド(?)がいいですね。キックボクシングと言えば「キックの鬼・沢村」。プロレスなんて今より100倍面白かったです。
鯨と言えば大洋ホエールズ。あの球団歌、海賊風の。好きでした。
クラウンライターライオンズを知っていればあなたも昭和人間間違いない!!
プラッシーが何故お米屋さんに売っているのかが謎でした。
テスト勉強の友、ヤンタン、ヤンリク。

止まらない場合は再度おこしください。29日まで開店しております。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/27 20:19

こんばんは。


こちらへはたびたびお越しいただきまして有難うございます。(笑)
「ALWAYS あなたの昭和」・・・前回も懐かしいものが盛りだくさんでしたね。
いろんな懐かしいものが出てきてますね。今回も興味深く拝見しております。

前回・今回を通じて、まだ挙げられていないもので私にとっての「昭和」・・・
1969年9月にホンダが発売した「CB750four」、
それから1973年2月にカワサキが発表したZ750RS(Z2)、
そして、それらを取り巻く社会情勢・・・でしょうか・・・

ホンダのCBが出た頃は、私はまだ小学校の低学年でしたが、今でもその衝撃は忘れません。(笑)
ちょうど、自宅の近所に“それ”を乗り回していたオニイサンがいまして、
無理言って、後ろに乗せてもらったことが有ります。
たいしたスピードが出ているわけでもなく、たいして車体を傾けているわけでもないのに、
必死になってしがみついていました。(苦笑)

時速200Km/hの声はCBが連れてきた、とも言われていたそうですが、そのオニイサンいわく、
160Km/hから全開でゆっくり30を数えても、200Km/hには達しなかったそうです。
それでも、当時の若者たちには、「あと5km直線道路が続いていたならば達したに違いない」
と確信させるのに充分だったのかもしれません。
ノーヘル・低品質のタイヤで、ゆっくり数を口ずさみ恐怖に耐え続けた時代です。
その当時の時速200km/hは、今の時代で言えば時速350Km/h以上にもなろうか、
という非現実的な意味合いのものだったそうです。
より安易に現実的にしてくれたのが、国産DOHC4気筒の出現です。
それは、CBの1/3をくちずさむだけで一気に190km/hまで達し、恐怖を維持する必要が無くなった、
とも聞きました。

さて、時が流れて私が晴れて16歳になり、自動二輪の免許を取ろうとした時代は、
“(高校生が)バイクを「乗らない」「買わない」「(免許を)取らない」”
の “三ない運動”真っ盛り、まさに“二輪車暗黒の時代”です。
やっとのことで“限定解除”をし、かつての憧れ<カワサキ・ゼッツー>を手にしてしばらくして、
日本のバイク史上において、ことデザインという点に関して、最も革新的な一台となった
<スズキのカタナ>が発表され・・・

時代遅れの<カワサキ・ゼッツー>は、とても性能を求めるものでは有りませんでした。
ほかにも何台か乗り継ぎました。国内用は750cc、最高速度180Km/hが上限、
それ以上の性能を求めるなら“逆輸入車”しかない時代でしたね。
(大きな声では言えませんが、時速200Km/hを大きく越えてのバトルをしたことも有ります。(^^ゞ )

昭和の60年代になってからしばらくして、事故を起こし、それ以来オートバイは降りています。
いま、思い返せば、“あのとき自分の昭和は終わった”と言えるかも知れませんね。(苦笑)
ながながと申し訳有りませんでした。lin(_ _)imo
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この回答へのお礼

昨今のモータリゼーションと言うものの側面(残念ながら私はバイクは原ちゃんしか乗れません。憧れの存在ですが無知です)を知りました。そんなバイクに無知な私でも「カタナ」の存在感は大きかったですよ。
あのライト、あの排気管(無知で済みません)。ゼッツーは漫画の本でしか見ていないのでどれがそれなのか分かりませんが、漫画の影響でしょうね。ノーヘルかっ飛ばしが流行ったり(良い子の皆さんまねしないでね)、三無い運動が起こったり、バイクCMがテレビから姿を消しました。私は叔父のスーパーカブの後部座席(荷台)が精一杯です(笑)
暴走族と一緒にされていたりしてさぞやバイクが純粋に好きな人にとって受難の時代だったことでしょう。

それにしても第3回をやるかどうかまでは分かりませんが、1回目(大盛況でした)の訪問者様が再びこのコーナー(?)を訪ねて来てくださったことは、大変嬉しく思っています。
今回やると決めるまでに迷っていましたが多くの「昭和ファン」に触れることができ、やはりやってよかったと思いました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/28 21:41

こんばんは、ヒラーノさん。



「私の昭和」は駄菓子屋です。

小学校入学と同時に引っ越しをした私は近所に友達もいなくて
寂しい小学生のスタートでした。
前のお家に帰って○○ちゃんと遊びたいと言っては親を困らせていました。
母も働き始めていたし、兄はすぐに友達を作って家にはいつも私一人でした。
(学童保育はドッチボールばかりやるのが嫌で(今も嫌い)拒否していました)

そんな寂しくて大人しい少女だった私がいつも行くのが近所の駄菓子屋
おあばちゃんはいつも子供達をすご~く怖くしかり飛ばす強烈なキャラの方でした。
でもなぜか私にだけはすごく優しくて、いつもおまけを沢山もらっていました。
ある時は、遠足のおやつを300円分買うとそれ以外に500円分ぐらいのおやつを袋に入れてくれて「お家で食べなね」と言ってくれました。
高校を卒業して関東にきたときも、母にたくさんお菓子を渡し、「これ好きだから送ってやって」と言われたそうです。

だいぶ前にお店もおばあちゃんも亡くなりましたが
私の昭和には欠かせない存在の駄菓子屋のおばあちゃんでした。

寂しそうな私を可哀そうだと思っていたのかな?

ちょっとしんみり・・・(個人的な昭和の思い出で失礼しました)
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この回答へのお礼

当時の大人たちのおおらかでエネルギッシュで子供に対する凛とした姿勢が心地よくて・・・今の私も含め今の大人は当時の大人たちには到底敵わない気がします。私も親の仕事の都合で4回ほど引越しました。幸いいじめなどまだあまりない時代、夕方日が暮れるまで遊び回っていました。
駄菓子屋さんも広場もノスタルジーに溢れています。
chuu12さん、良い体験なされました。昭和を体験できたこと、このヒラーノも良かったと思っています。思い出大切にしてくださいまし。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/28 20:38

昭和5?年生まれ


幼稚園のときに「夕焼けニャンニャン」を見ておけば良かった、と
非常に後悔しております。
普通に可愛らしくアニメの再放送見てました。

なお、「セーラー服を脱がさないで」を真似したところ、
担任の先生が微妙な顔をしたことが忘れられません。
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この回答へのお礼

せ~ら~服を♪ぬ~が~さ~ないで!あれが流れるたびにエライ時代になったものだと感慨ふかげなヒラーノであります。セーラー服と機関銃というのもありましたね。快感・・・
30年代生まれの私の、青春時代幕引きでもありました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/28 20:29

>食べ物、事件、娯楽、遊び、仕事など昭和にまつわる思い出を



純喫茶※1 で合ハイ※2 の帰りにみんなで食べた ナポリタン※3
喫茶店のはしご、珈琲1ぱいで2時間ねばるのは普通のこと。それも
複数なら話もわかるが、男一人。
漫画は「男おいどん」※4 いわば、当時の若者のボーダーラインを描いて
おり、あれよりマシだということでおおいに励まされた。
パチンコは当時手打ちだった。ハンドルは握るものではなく弾くもの。
当時の漫画は「釘師サブやん」 バッキーンというハンドルの音で弾が
釘をへしまげる「ありえない描写」に感動したものだ。

事件といえば、金キロウ事件、寸又峡の奥地で立てこもった犯人が
ゼミの教授にそっくりだったのはあとから気が付いた。

作家は、柴田翔 東大のドイツ文学の先生だったが、同じ芥川賞の
庄司薫というのも10年後にでてきてその正反対の方向性に涙した。

昭和の食べ物は、ポンせんべい。ニッキ水。ロケットビスケット
カバ屋のフーセンガム

娯楽は 子供の頃は紙芝居、学生時代はジャズ喫茶、就職してからは
LPレコードと本屋。別冊宝島はすごい思い出深い雑誌。今でも健在。
とにかく、ネットがないぶんだけ死ぬほど本を読んだ記憶がある。
女の子にフラれては本を読みふけった青春時代。本でなくて
バスケットボールにしていたらあと10センチ背が伸びたかも。

昭和の仕事・・・地上げ屋と新興主教ですね。いまはまっとうな
不動産というかUR自体が地上げ屋だし、新興宗教はマルチ商法みたいな
ネットワークビジネスに姿をかえている。

昭和の仕事 ロバのパン屋 「うさぎのダンス」という幻の名曲を流して
いた。流すといえば、流し。酒場にあらわれてカラオケがわりにギターを弾く人。
いまならさしずめ、街頭でパフォーマンスして自作CD売っていたりしますね。

※1 不純な喫茶は、おもにアルコールを出す喫茶店で、もっと不純な喫茶には
   有名な「同伴喫茶」というのがあった。要は簡易ラブホというか自前のキャバの
   ようなもの。中の暗さはジャズ喫茶と大差ないのだが
   渋谷の百軒店には両方あってまぎらわしかった。
※2 合同ハイキング とにかく昭和の若者は湘南や鎌倉や大山や三峰などに
    ハイキングにいったものだ。女子大と合同で20人くらいの団体が電車乗って
    山に登ったり季節外れの江ノ島や三浦半島で奇声を発する姿はさぞかし
    不気味なものだったろう。今でも多摩川の川原でバーベキューという形で
    その名残があるが、必ず毎年酔っ払って川に入り臭くなって嫌われて翌日
    サルモネラ菌で下痢する学生があとをたたない。ぜひ山か海にしてもらいたい
    ものだ。
※3 ナポリタンはいまでもパスタメニューにあるが、昭和のナポリタンは、まず
    ケチャップのなかにウィンナーソーセージとたまねぎをぶちこんでのびたきつね
    どんべぇみたいなものと一緒にサラダオイルでいためたシロモノ。
    イメージは赤い焼きうどん。 
※4 松本零士の自伝的漫画。下流社会を予言するニートの元祖漫画。
  とはいえ、そこには死語ともいうべき「青雲のお線香」もとい
  「青雲の志」があった。
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この回答へのお礼

説明しよう!と言うナレーションが似合いそうな解説ありがとうございました。
バブル到来と地上げ屋(死語)はワンセットです。男おいどん(さるまたダケがパンツに生える)、男臭さの集大成?のようです。今よりも男らしさが強調されていた時代でしたね。
ジャズやLPを売りにする喫茶店もよく大学の周囲にありました。2時間どころかいつまでも語ったこと。店主も文句一つ言わない雰囲気がありました。
私が一番食いついたお話は「ロバのパン屋」です。あの懐かしい音楽とともに現れるパン屋を追いかけていた少年時代でした。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/28 20:22

すみません。

一つ追加。
喫茶店でのジュークボックス。
最近は、ああいう雰囲気の喫茶店ってないですね。
流行のカフェ(スタバ等)なんかと比べるとずっと落ち着ける雰囲気で好きだったんだけどな。
時々、誰かがジュークボックスにお金を入れて。懐かしいな。
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この回答へのお礼

ジュークボックス。いいですね。素晴らしくノスタルジックなオブジェでもあります。誰彼なくコインを投入。レコードが選び出され自動でセットされるものもありました。昭和はレコードの時代でもありましたね。ソノラマシートはよく雑誌などのおまけになっていましたし。私、あの赤いソノシートが好きでした。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/28 20:13

昭和40年代生まれです。


・「たらいで行水」あの頃は、夏になると家の前でたらいに入って遊んでましたね。
通りがかる人に「あら涼しそうね~」なんていわれながら。
そして「たらい」といえばドリフ。
あんなのが落ちてきたら死ぬほど痛いんじゃないかと思うんですけどね。
・駄菓子屋-10円持っていくと、結構買えた記憶があります。
今の100円と同じ感覚かな。50円もらうとすごくうれしかったです。
チューブ入りチョコとか好きでした。今でも食べたい!
・半ドン-土曜日は父がお昼で帰ってきました。土曜日は午前中だけ仕事って人が多かったような。
・まんが日本昔話-子供と一緒に大人も見れるアニメが昔はいっぱいありましたね。「いなかっぺ大将」とか、おもしろかった。
でも「キューティーハニー」は子供心に「なんか微妙」って思っていました。
・私は観光温泉地の生まれですが、浴衣にカランコロンと下駄の音をさせた観光客がいっぱいいました。
街には、夏場など観光客の多いシーズンになると提灯がいっぱいあったのを覚えています。
時々、射的場?で遊ばせてもらった記憶があるような・・・。

まだまだありそうですが、このへんで。
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この回答へのお礼

長屋とタライとドリフは切っても切れない縁があります。
そうそう、今と違って半ドンって小学校も会社もありましたね。
リバイバルも多くなってきているのは、昭和のアニメが面白かった証拠ですかね。あのマッハゴーまでもが・・・
夏祭りや灯篭流しを経験しています。昔は小さな川でもコンクリート護岸でなかったので、身近でした。消え行く自然。昭和のノスタルジーを語るうえで欠かせませんね。
ありがとうございました。明日まで開いていますので思い出したらまたお越し下さい。

お礼日時:2008/04/28 20:09

丁度昭和の真ん中生まれです。



「魔法使いサリー」をリアルタイムで見ていた世代です。

グリコのプリッツやポッキーの復刻パッケージなどが現在発売されてますが、「あ、懐かしい・・・小学生の頃食べたのと同じ・・・」と買ってまいりました。

「ナツメロ」ってことで20代の頃にはやったのが紹介されるとちょっと複雑。

ピンクレディと同い年なので「よく中学生の頃まねをした・・・」というママ友などに苦笑いで返している状態です。

テレビが白黒からカラーに変わった時代をよく知っているのですが、写真も白黒からカラーに変わったのも知っていますよ。
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この回答へのお礼

このリアルタイムかリバイバルかの内容、どうも納得いかないのが昭和世代でしょうね。あそこが違う、声が違う、主題歌が・・・

我が家にカラーテレビが来た日は良く覚えています。まさに昭和真ん中です。ジャングル大帝レオが総天然色を売りにしていた時代でした。
ありがとうございました。(ユーフォー!)

お礼日時:2008/04/28 20:03

こんばんは☆


昭和40年代うまれです。
「ナメ猫」とか流行っていましたね。かわいそうでしたけれど。
「チュッパチャップス」が売り出されて、
本当に30分かかって食べてしまえるのか、時間を計ってました。

中学校の時「一世風靡セピア」という人たちを
学校の男子の皆さんが真似していました。
どういうわけか、ど根性でやっていました。
ある日、「次の日曜に、お城の下の広場に踊りに行く」という話があり、
「女子は見に来るな」ということでした。
「オンナが応援に来るなんてチャラチャラしていて情けないから」という理由だったと思います。
当時も笑ってしまいましたが、
今思い出してもあまりにおバカっぽくて笑えます。
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この回答へのお礼

昔のおじょうさんからの回答ありがとうございます。
ナメ猫流行ました。免許証とかありましたね。まさに1発屋です。

一世風靡セピア。なんと懐かしい響き。私はたけのこ族を推挙いたします。
根性根性ど根性~、泣いて笑って喧嘩して~憎いよこの、ガーガーちゃん!どっこい生きてるパソのなか~♪
お粗末くん。

お礼日時:2008/04/28 07:21

やはりファミコンを始めとしたゲームの思い出が多いです。

ゲームは青春でした。ゲームセンターも不良の溜まり場と言われていた時代で、PTAが入るなと言っていたのを思い出します。
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この回答へのお礼

学校サボってゲーセン浸り。私は不良学生でしたね。溜まっていました。今は脂肪ぐらいしか貯まっていません。バイト代までつぎ込んで・・・青春やなぁ。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/28 07:16

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