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日本で一番最後の白黒制作はなんという番組ですか?

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A 回答 (5件)

再度失礼します。



かつては新聞のTV欄に「カラー」の表記がありましたが
ほとんどの番組がカラー化された1971年秋~72年春頃には
大半の新聞で「カラー」表記は廃止されました。
その後しばらくの間、読売新聞では白黒番組に☆マークがついていましたが
1974年頃には、それも無くなっています。
なので、大手の新聞の縮刷版のTV欄で77年当時の白黒番組を調べることは不可能でしたが
「週刊TVガイド」には、白黒番組にマークがついていました。
よって以下は、基本的には当時発行された「週刊TVガイド」のみに基づいて記述します。

10月1日のスペイン語講座には、白黒マークはついていませんでしたから、
NHK教育テレビで最後に初放送された白黒番組は
1977年9月30(金)午後4時からの「教師の時間」(当日のサブタイトル「自己理解」)となります。
おそらくこれが、旧作映画や海外制作の番組、意図的に白黒制作された作品等を除いて
日本の地上波テレビで最後に初放送された白黒番組になるものと思われます。

そして、同日午後11時30分からの
「大学講座(文学)」(サブタイトル「“文学と社会”のかかわり」)の再放送を最後に
教育テレビのレギュラーの白黒番組は一度姿を消します。

「通信高校講座」の再放送について調べてみたところ
9月末まで白黒で10月3(月)放送分からカラー化された、数学I(第1部)の
10月4(火)、7(金)の朝6時台の再放送には白黒マークはついていませんでした。
ということは、再放送されているのは前日に初放送した分と考えられるので
再放送のパターンを確認するため、4月の番組表を調べてみたところ
77年度の初回の4月4(月)の翌日の5(火)朝6時台には「数学I(第1部)」(再)とありました。
各紙縮刷版、TVガイドとも、再放送分にサブタイトルは書かれていませんでしたが
月曜日分の再放送が金曜日、あるいは翌週火曜日に行われていたのならば
4月5日の朝6時台には別の番組が放送されていたはずですし
年度中に再放送のパターンが変わるというのも考えにくいので
再放送は初放送の翌日に行われていたとみて間違い無いようです。

それなら、NHK年鑑の「通信高校講座の再放送を除き」というのは誤記なのか…?と思って
調べてみたところ、「数学IIA」の1978年1、2月放送分に白黒マークがついていました。
「数学IIA」は月・木曜の放送で、翌日の再放送は無し。
1月分は月曜日のみが白黒で、2月分は月・木とも白黒でした。
番組表に再放送マークはついていなかったのですが、前年度制作分を再放送していたようです。
最終回は、1978年2月23日(木)午後10時30分からの放送分(サブタイトル「乗法・加法の回路」)で
これを最後に、レギュラーの白黒番組が放送されることはなくなりました。
翌週からは、春休み用の番組編成になっていて「数学IIA」は放送されていません。

よって、上記「数学IIA」が、懐古企画的な再放送や旧作映画等を除き
NHKが最後に放送した白黒番組と考えて良いものと考えられます。
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terekakushiさん、mirrinda2さんの回答を参考にさせていただいた上で補足します。



NHKのサイトの「NHKアーカイブ アカイさんノート」で
各年度の4月、10月の業務用レギュラー番組表を見ることができます。
それによると、1977年4月の時点では
「通信高校講座」のうち「数学I(第1部)」(月・木。火・金再放送)「数学IIA」(月・木)、
「大学講座」のうち「教育学」(木。同日夜再放送)「文学」(金。同日夜再放送)、
「教師の時間」のうち「教育ジャーナル」(水)「小学校の学習指導」(木)「学級経営のために」(金)、
「スペイン語講座」(水・土。月・木再放送)
が白黒となっています。

ここからは推測です。

terekakushiさんの回答にある1977年10月3日は月曜日なので、
この日から10月の番組改編が始まったと考えて良いでしょう。

4月の時点で白黒だった番組が、いずれも改編まで白黒で制作されていたとすると
最後に白黒で初放送されたのは10月1(土)のスペイン語講座となりますが
初放送が土曜ならば、再放送は翌週月曜以降となり
「NHK年鑑」に「スペイン語講座の再放送を除き」とも書かれたものと思われますから
10月1日のスペイン語講座はカラー化されていたと考えられます。

となると、最後に白黒で初放送されたのは金曜日のレギュラー番組のいずれか。
「大学講座」の初放送は朝6時30分(再放送は夜11時30分)、「教師の時間」は午後4時ですから
最後まで残った白黒制作番組は
1977年9月30(金)の「教師の時間(学級経営のために)」と推定します。

「NHK年鑑」の記述に「通信高校講座の再放送を除き」とあるということは
数学I(第1部)の再放送は、初放送の翌日ではなかったと考えられるので
月曜日に初放送した分の再放送が金曜、木曜分が翌週火曜、
あるいは月曜分が翌週火曜、木曜分が翌週金曜だったと思われます。

ということで、レギュラーとして最後に放送された白黒番組は
1977年10月4(火)、7(金)のいずれかの朝6時の
「通信高校講座 数学I(第1部)」の再放送と推定します。
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ドラマは昭和46(1971)年の時点でほぼカラー放送に移行されていました。


昭和47(1972)年の時点で白黒放送だったドラマですが、
『帰らざる雲』(東海テレビ、フジテレビ/1971年10月11日~1972年1月7日/13:30~13:45)
『ある愛の波紋』(TBS/1971年11月29日~1972年3月24日/14:00~14:15)の2本が確認できました。

#2さんの仰った『高校教育講座』ですが、調べたところ9月最後の本放送は、
昭和52(1977)年9月30日(金)
21:30『英語AI「不思議な形の岩」』
22:00『英語AII「世界一長い城壁」』
22:30『地学I「日本列島のおいたち」』でした。
23:00以降は再放送なので、これらが最後の白黒放送だったかもしれません。
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最後まで白黒放送をしていたのはNHK教育テレビだと思います。



1978年版の「NHK年鑑」によると、「1977年10月3日、『通信高校講座』の再放送を除き、全番組カラー化」との記述がありましたから、『通信高校講座』が最後の番組かと。ただ、これも「再放送」ですから、直接のお答えになってませんよねえ。

10月は番組改訂期ですから、それまでは複数の番組が白黒制作されていた可能性があります。
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ドラマ等のジャンルは解りませんが、TVアニメでは1971年に放映された「珍豪ムチャ兵衛」という作品が最後に本放送されたモノクロ作品です。


ただし、この作品は、実際には1968年に制作されていたため、制作年でみると1969年に制作・放映された「もーれつア太郎」や「ウメ星デンカ」とも言えますね。
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16mm・8mmの分野では、カラーフィルムとしてリバーサル(ポジフィルム)がコダックより発売されたのが1935年です(これ以前にもレンチキュラー方式等実験的な方式はありますが)。

上記は「撮影した映像を機械的・化学的な手法で正確にカラー映像にする」方法の歴史ですが、1895年のリュミエールによるシネマトグラフ発明直後から、手作業によってフィルムの1コマ1コマを着色、もしくは染色する方法のカラー映画が登場しており、20世紀初頭まではこのような着色映画が作られていました。

カラー映画・カラーテレビの歴史については「総天然色への一世紀 」(石川英輔)と「日本映画技術史」(日本映画テレビ技術協会)が参考になると思います。

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http://users.ejnet.ne.jp/~manuke/zatsu/eiga/kokusan.html

参考URL:http://www1.ushio.co.jp/tech/le/le19/19_02_05.html

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以前にも聞きましたが、当方はカラー化完了後に生まれたこともあって、白黒時代のことを知らない部分が多いです。

そのこで、その時代(おおむね昭和30~40年代)を知る方、白黒テレビ及び初期のカラーテレビについて、何か思い出があれば聞かせてください。

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こんにちは。

62歳のオジサンです。

我が家に初めてモノクロ(白黒)テレビが入ったのは、1959年(昭和34)の春でした。

当時は、私が小学3年生に進級した直後頃に「皇太子殿下・美智子妃殿下」の御成婚パレードをテレビで視聴したかった父親がテレビ購入の決断をしたそうです。

当時、父親の月給は3万3千円ぐらいでしたが、当時としては「高給取り」の部類だったそうで、16インチのモノクロテレビは5万5千円程度だったと記憶してますから、父親としても高価な買い物だったに違いありません。

私は、小学3年生になったばかりの腕白坊主でしたから、テレビで視る番組は「少年ジェット」や「七色仮面」など子供向け番組に夢中でした。

この年の9月に「伊勢湾台風」が発生して関東地方にも猛威を振るい、子供心にテレビアンテナが壊れないかと心配しました。

幸いにも、我が家には被害はなかったですが、テレビニュースでは各地の被害状況が生々しく流れてたのが印象に残ってます。

翌年、小学4年生になった私は「ゲルマ・ラジオ」という簡単なラジオを作ったことが切っ掛けで電子工作に興味を示し、中学生になる頃には真空管9本使った本格的な短波受信機を自作出来るようになってまして、アマチュア無線免許も取得するラジオ少年に育ってました。

近所でも、ラジオ少年の噂が広がりテレビやステレオの簡単な修理が出来る知識を中3の時に持ってたことで、近所のテレビを修理(映像回路の抵抗器交換)して千円のお小遣いを貰ったことが嬉しかったです。

この頃は、暇があれば無線機にかじり付きでしたから、テレビは殆んど視なくなり、現在のテレビを視ない習慣の元になったと思ってます。

カラーテレビは、1969年に東京・蒲田の電子専門学校に通うようになってから興味を持ち始めましたが、学生の身分では高嶺の花で通学路の途中にあった電器店のウィンドウ越しに覗き込む程度でした。

そして、卒業間近の1971年新春に父親が持病を悪化させて急死してしまったことで生命保険が下り、保険金の大半は葬儀費などに消えましたが、30万円近くが残ったことで、21インチのカラーテレビを16万円程度で購入したのが我が家では初のカラーテレビです。

この年4月から、私は社会人になりましたが、専門校卒の初任給は4万2千円程度でしたから、16万円のカラーテレビは20歳の若者の給料では簡単には買えなかった時代です。

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Qなぜカーコンビニ倶楽部は評判があまり良くないのでしょうか?ネットで調べ

なぜカーコンビニ倶楽部は評判があまり良くないのでしょうか?ネットで調べてみるとあまり良い評判がありません。車の傷で修理に出してみようと思うのですが、立ち止まってしまいます。でもそういっても他に近所の板金屋といっても全然知りません。カーコンさんを信じて出してみても大丈夫でしょうか?修理後の見た目色合いなどが気になります。傷はバンパー角部分です。そんなに酷くありません。カーコンビニ倶楽部で修理に出された方どのような感じで帰ってきたかご意見お聞かせ下さいお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは
 私の経験上、「カーコンビニ」で修理痕が残った事は無く、出来上がりは、そこらの「板金 塗装」に劣った事は有りません。

 場所柄かもしれませんが、タクシーの修理が多く、「自分の所では時間が掛る」という事で、「外車専門」に修理している工場に出してもよければ、同じ料金でやっている、窓口はうちだから、料金も同じ」そういったところで「カーコンビニ」に関してはクレームは出した事がありません。

 チェーン店でやっている、「修理は〇〇」「車検の〇〇」は、外資系の保険会社の指定工場であるにもかかわらず、ボンネットラインが平行で無い、塗装でブラスト(粒立ち)が出たなどクレームを付ける事がありました。

 言葉として、「噂」と「流言」の違いに気づかず、(言葉に関しては調べて下さい)、あれこれと惑わされるのは、「愚の骨頂」。

 きちんと定期点検、車検に出す工場が決まっていれば、文句の矛先も決まっているはず。そこがお薦めでしょう。
  
例えですが、フロントフェンダーをへこませても、酸素バーナーで(ボコッ)って出してしまう技術が有るのは、「カーコンビニ」が始まりでしょうから、ボンネットを開けた淵の、フェンダーを止めているボルトをゆるめる事も無く、「無事故車」で下取りにも影響が無く、大枚はたいてあっさりフェンダー交換してしまうような、「治る物も交換してしまう」やり方より、よっぽどましな方法です。

 問題は「板金」に優れた職人と、「塗装」に優れた職人が、同じ工場にいて、更に、担当がその人に当たるか否か。
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 言葉として「カーコンビニ」が良くない:というのは、どう「安上がりに」と「部位」を修理する、つまり、「バンパーに傷」を修理するのに「手軽である」から、回数で数えれば「普通の修理代」を見込める、そういった意味で、「そういう目的では無い」人には、その修理個所に限って「仕上がりがどうのこうの」という事になってしまうので、そういう意味で批判もあるのでしょう。
 
 私の場合、「カーコンビニ」に、さんざんお世話になっていながら、定期点検に出している工場で、「ここ、傷出来ちゃったんだけど」と言っても、返って来る答えは、「よく見なければわからないし、錆びが出る所では無いから」って、次の傷が付くまで待って、「何れ目立ってきちゃったら、暇な時にでも治しましょう。値段は一緒だから」という対応。よっぽど「ぶつけそうな奴」なんでしょうか?

 そういえば、私のお墨付きの修理工場は、「カーコンビニクラブ」の看板を掛けてはいても、事「修理」となると、「カーコンビニ工法」でいくら、「従来工法」でいくら、といった選択肢が出てきますね。
aris-7様の場合、その傷は治さなければならない事態なのか、バンパー自体がへっ込んでいるなら、人身に危険な状態でしょうが、バンパーの傷程度なら、「カーコンビニ工法」で行きますね。

こんばんは
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Q白黒テレビからカラーテレビへの移行期の思い出

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当時の思い出がある方は、ぜひ思い出を聞かせてください。

Aベストアンサー

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近くの親戚の家に行って帰ってきた父が自慢げに「スーツは紫色だったぞ」って言ってましたねぇ…。
妹は悔しいからと画面の下の方に出る「カラー」という文字を画面に紙を貼って隠したりしていました。


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