ショボ短歌会

 
「今我々が見ている世界は、仮説であって実態ではない。
今我々が生きていることさえ、仮説であって実態ではない。
今我々が見ている世界は、実態ではなく無である。
いや無ではなく空であるかもしれん。」
 
無を願う心とはおよそこのよーなものである。
しかしそんな彼らとて腹が減れば飯を食わん訳にはいかんのである。
そこで今食っておる飯は無なのか有なのかと考えたりはしないのである。
その時に限っては無を願う心は止まっているである。
彼ら自身それが現実でないことは十分知っているのである。
だから彼らは願っているのであり、そのよーに願う以外他に術を知らないのである。
あらゆるものが無であってほしいと願うのである。
洋の東西を問わずおよそ漬かると必ずこのよーに考えることが分かっているのである。
人の道を逆に向かって歩いているのである。
無を願う心のさきに何が有る。
 

 

A 回答 (5件)

 そこなのですよ、人の道さん。



 漬かろうとする輩は、自分の頭で考えず、全てを無だと考えようとします。
 細部に目を向けず、関わりを分析せず、対策を考えず、ただ諸行無常という思考停止に陥ってしまうのです。
 そういう考え方の背景には、何をやってもうまくいかず、努力は報われないどころか裏目に出てしまう、理不尽な社会情勢があるのでしょう。

 しかし人間は過酷な環境や不利な状況にも耐え忍ぶ性質を持っているはずです。
 これまでも私達は過酷な歴史を生き抜いてきました。
 ところが拝金主義や自己中心的な考え方、一族や家族を大切にしない個人主義が蔓延った結果、多くの人は自ら考えることをやめ、弱者であること、被害者であることを選択し、当事者であることを回避しようとするのです。

 私達は、当事者です。

 無を願うばかりでは、当事者としてするべきことや、自らにできることまで、全てのことから目をそむけ、思考停止に陥り、民衆を煽動する悪しき宣伝に踊らされ、結果として社会を悪くしてしまうでしょう。

 この世は空でもなければ無でもない。
 無や空は自らの心の中に概念だけあればよい。
 皆、当事者であることを忘れてはならない。
 当事者として出来ることを考え、実行せよ。

 そのように思います。
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無になりたいと願うのではなくて、無を理解したいと願うのが大勢いるだろう。


それらはいい商売になる。
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この回答へのお礼

 
>それらはいい商売になる。
 
つまり無を求めるとは実は金を求めておるゆーておるんやな。
無を説くものは坊主に決まっておるし。
間違いないな。 
 


 

お礼日時:2013/09/16 17:45

まずは「空」と「無」を識別するところからだな。

  道のりは長いぞ。
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この回答へのお礼

 
これを見てみー、既に悟っておる。


  
  有瑠慶本願

南無偉大也理有瑠慶
有瑠慶此即唯一絶対
有瑠慶此即全知全能
有瑠慶此即無辺無際
有瑠慶此即恒常不変
有瑠慶此即不生不滅
有瑠慶非信非拝非願
有瑠慶可能感可能解
無一切神唯除有瑠慶
嗚呼偉大也理有瑠慶
 

お礼日時:2013/09/11 17:21

♪「知らなかったよー、空がこんなに青いとは」

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この回答へのお礼

 
青いな、空は、ランララーン♪
 

お礼日時:2013/09/11 17:23

無にもいろいろある。


例えば実験で、光子(量子)を飛ばし、2本のスキマ、を同時に通過できる。ところが、そのスキマ1で通過を観測装置で観測したら、スキマ2では「通過してない」=「無」が観測できる。逆に、スキマ2で通過を観測したなら、スキマ1では「通過してない」と観測できる。しかし、両方のスキマで観測しなければ、量子の粒は「同時に両方を通過した」という事が最後に粒がぶつかる場所で観測できる。

つまり、あなた次第で、実験結果が変わる。これを「相対的な現象」という。よって、量子の粒から成る「あなた」も、相対的に、生きていられるだけで、また、ここで質問する事が「不完全さ」を証明し、それがゆえ、宇宙が「今」から過去と未来に向けて対発生しているだけ。

つまり、あなたは私の脳が生み出した幻影であり、実は、居ないのだ。とも言える。わかるか?
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