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医療従事者の方たちに質問します。

昨夜、老衰で亡くなるというのは、ほとんど例がなく、癌か肺炎で亡くなると聞きました。
では、その癌や肺炎で亡くなる方たちの最期は、どのような最期か、「幸福な例」だけ挙げてください。

A 回答 (1件)

現在医療従事者ではありませんが、かつて医療従事者であり、その分野を多少知るものです。


また、身近なものの最期を、癌+老衰死で迎えることができたものです。
その経験を書かせていただきたく思いました。個人的なことです。お見苦しい点があれば、ご容赦下さい。

病気で最期を迎える時に、幸せな例というのは、厳密にはないかもしれません。
それは、何をもってするかによると思います。
高度な医療技術を求めれば求めるほど、医療者は何かをしなければならないので、患者さんは苦痛でしょう。
また、最期を迎える位ですから、いろんなことがあります。
そこで幸せを考えるならば、安定的に苦痛を麻痺させるような状態なのかもしれません。
理論通りには、技術道理にはいかないこともあるでしょう。
しかし、人の命って、脆いようで極めて精巧にできており、強いものです。
その分、それを理想通りにクリアーした場合には、その苦痛は、ある種、計り知れないものかもしれません。

ただ、人間は、検査データだけで、それを判断するわけにはいきません。
また、表情や反応だけで、それ(幸せ)を判断するわけにはいきません。

医療従事者にとっての幸せと、患者自身、或いは、患者家族にとっての幸せは、それぞれ異なるものかもしれません。
一致すればうれしいことですね。

また、その場に、立ち会える家族や誰かが居るか居ないかだけでも、それを決めきれないと思います。
あなたがどんな立場の方かは存じませんが、治療経過がどうであれ、それぞれの状態が異なる以上、いろんな段階があると思います。

①余命いくばくもなくなった本人が意識があるときに、常に感謝の意を表するとき=幸せと考えられます。この場合の最期とは、終末医療の段階を言います。しかもこの場合には、患者と医療者が良い関係にある時の例と言えるでしょう。仮令、患者自身の性格として、またけじめとして、苦痛ながらも、そう言いたい人が居たとしても、その場合に、良い医療者だったら、至らないのに、こちらこそありがとうございますって、自然な笑顔と返事をしてくれることがありますね。

②残念にも、亡くなった方がおられ、『その場やその後に、ありがとうございましたという御礼の言葉を述べ伝えられたら、それはご満足いただけたのかしら=幸せ』ととらえて良いかと思います。その場合の最期とは、亡くなる直前~亡くなった直後を言います。これは、遺されたものと医療者とが良い関係にある例です。これも①のような社会的な儀礼であったとしても、お互いに敬意を表する姿は、本当にその場にいて気持ちがすっきりとするものです。

③また、その場では思うようにいかず、悲しみが深い場合でも、時間をかけ、遺されたものが、徐々に、その後に、遺されたものが良い方向に向かえば、幸せと考えて良いと思います。その場合の最期とは、亡くなった後から、遺されたものが癒される迄という期間を指します。これは、主として遺されたものと亡くなったものとの関係が良い関係に修復された例だと思います。

このように、一言で最期といっても、いろんな段階があると考えます。
理論的には、誰ぞれがどうしたというのもあるとは思いますが、ある限られた時とは限らないと思いますし、「幸せな状態=良い関係」にできるかどうかは、ひとのこころの働かせ方だと思います。
しかも素直な自然な想いがそこにあることが、大前提だと思います。作り事や隠し事や言い訳ではなくて。

一点の曇りもない完璧なことって、なかなか難しいです。
でも、多くの間違いをした=至らなかったと言われた私は、それは医療ミスではなく、医療従事者が精いっぱい対応して下さったと思えたし、大きな緩和ケアーを受けられたから、自然に何回も、心の底から、亡くなられた方にありがとうございましたと申し上げることができました。そういう思いが、良いものを知らないうちに生み出してくれました。そんな「気の力」でした。

冷静になったとき、数値は、もう参考でしかないのです。考えられない状態(脈拍が10以下になっても、掛け声に答えて、呼吸をしてくれることもあるんです。耳は聞こえている場合もあります。体の機能の全部が一般に全部止まるのではないのです)になっても、そこに、「確かに生きる命がある」ことを実感できれば、それは、幸せだと言えるのだと思います。
幸いにもありました。実感がありました。だから書きました。
癌+自然死(老衰死)これは、病気と闘い、病気に勝てた勲章の証。そう思いました。

でも、こればかりは比較することはできません。

眠るように穏やかな大往生もあれば、いろいろな生き方があります。

大事なのは、どこかで、良かったと思えることかと思います。それを無理せず、事実を踏まえ、自然に納まるところに収める。それしかないと思います。

但し、人にはいろんな苦労があると思います。一筋縄ではいかないような、言いようがないような思いや苦痛や許しがたいものがある場合も多々見られます。
でもそれは、不幸な例ではなく、それだけご苦労が多かった、苦悩に対してものすごく頑張った結果なんだと思います。
その場合、やはり、波風があるでしょうけれども、それが自然であり、その苦悩が、時間をかけて徐々に癒されて初めて幸せになるのかもしれません。
だから、不幸な例ではなく、時間をかけて幸せになる例なのかもしれないのです。

生意気なことや見当違いなことを申し上げたかもしれません。ご不快でしたら、お許しくださいね。
またどうして、そのようなことにご関心を持たれるのかは存じませんが、お気になられる方が身近におられたとしたら、どうぞ、お大事になさってくださいませ。
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この回答へのお礼

だいぶ参考になりました。
母がどうやら肝臓癌で、塩酸モルヒネを使い始めた段階です。
おそらくは、余命何か月か、という段階です。
東大医学部を昭和37年ご卒業の院長先生の開かれてる病院に、母がかかっています。
C型肝炎です。
これまでC型肝炎の薬と、抗うつ剤を使ってだましだましやってきましたが、リペトンから塩酸モルヒネに移行したようです。
かゆみ、気分昂揚が出ています。
肝臓からくる、脳炎にもなり、抗うつ剤が使えなくなりました。
まだ、携帯電話を使えるくらい、ボケてはいないので、ある意味幸せだと思います。

そうですね。
幸せを感じるのは、それぞれの人間関係のなかにある、のでしょうね。
幸いにも、母にはずっと謝罪できていなかったので、それができて良かったです。
母と子の人間関係においては、幸せでしょう。
院長先生もお顔を拝見いたしました。(チラリと)
スラムダンクってバスケットボールのマンガの、安斎先生に似てました。
「諦めたら、そこで試合終了だよ。」というセリフで有名な。
ああ、なんか安心しました。
母と子の人間関係においてだけは、幸せでいようと僕は思います。

お礼日時:2015/11/05 22:57

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