形容動詞という品詞が学校文法(橋本文法)で設定されているため、広辞苑を除き各辞書もこれに従っている。このため、本欄での品詞に関する質問の回答者も辞書の解説の引用、並べ替えをもって回答しようとする人々がこの誤った品詞観に依拠し回答するため、混乱、混迷することになる。
日本語教育文法もまた、形容動詞観をもとに、「ナ形容詞」と呼び換え教育に当たっているため、こちらも同根である。一番の問題は、学校文法にあり、この誤った品詞観に悩まされ、卒業後もこれに呪縛されていることである。これは、一般人のみならず、言語、国語、文法研究者もこの誤りを引きずり思考している。
この根源は、形式主義/機能主義的な現在の言語論、文法論と骨がらみとなり、橋本文法の機能的な品詞定義と癒着しているため、ここだけ正すということが困難であることも大きく関係している。
しかし、これを放置することは、益々文法論の混迷を招くだけであり、本欄での回答の混乱、混迷に繋がっていく。
最近の事例に基づきこの混迷を指摘し、文法関連の回答者の意見を問うものである。
格好の事例が、≪「無意識{で/に}やる」「真面目{で/に}取り組む」≫である。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11208724.html
ここでは、<大前提として「真面目に取り組む」の「真面目に」が、形容動詞であっても、名詞であっても、大きな違いはない。ただ、この場合は形容動詞と考えるのが一般的ではないか、と思います。名詞と考える理由があるのでしょうか。>と質問されている。
これに対し、No.15の回答では、
>>真面目に」の品詞は
「真面目」だけでも使われますよ、このときの品詞は?、使い方が正しいかと言われれば確かに疑問もあります。形容動詞の活用語尾と断定の助動詞「だ」の活用の形が同じですね、なぜ同じなのかと考えてみる必要もありそうです。
>>形容動詞は非論理的な考え方で間違っている
これには、確かに同意しかねますね、これを言ってしまうと、個人的には動詞も否定する必要もありそうです
「姿・形」と「立ち居・振る舞い」、確か形容詞と形容動詞の違いを表す言葉だったと記憶しています。
形容詞はカメラで撮った静止画像で確認できます、実際は、硬い、やわらかい、・・視覚以外の五感で感じるものは画像では認識できませんが、五感が感じさえすれば認識できます/
と、形容動詞否定説に対し、論理的な根拠もなく、感覚的な回答、疑問と初歩的な品詞分類に対する謬見が披歴されている。
さらに、
>>ただ、言葉そのものは、動きに不可欠な時間そのものは表現できません、動詞でも同じです、動詞も形容動詞も動きについては概念を伝えるだけです。概念とは何だ?
と、言語表現の基本概念に対する無理解が示されている。
残念ながら、この程度の認識で文法の回答がなされ、議論されているのが現状である。
この疑問に正しく回答することが先ず第一で、その上で議論を進めないと最初の質問自体の回答には進めないのは明らかである。
①まず、「確かに同意しかねますね」という、形容動詞否定論とは何かを明確にしよう。
形容動詞説は、「綺麗だ」「平和だ」「健康だ」を一語とし、「だ」を活用語尾とするものである。しかし、活用語尾とは、次に続く語による語の形の変化であり、この変化により語の意義が変化するものではない。この点は、屈折語の屈折とは根本的に異なるところで、「be」が「is」や「was」に変化すれば、人称、時制の意義の変化を表すものである。
しかし、膠着語である日本語は「行く」が「行か」や「行き」に変化したところで「行く」に意義が加わり、意義が変化するものではない。単なる形の変化である。
「綺麗だ」と「綺麗に」は明らかに「綺麗」とは意義が異なる。「綺麗だ」は「綺麗」という属性表現の語に、判断辞「だ」が付加されたもので、判断の意義が加わっており、これを一語とするのは、日本語の単語の定義に反するものである。さらに、「綺麗が売りだ。」「健康が取り柄だ」の場合は、「綺麗」「健康」は実体認識を表しており、名詞である。つまり、「綺麗」「健康」が一語であり、形容詞と同じ属性認識を表す場合と実体認識としての名詞の場合があり、一語で、多義であることを無意識に認識し使い別けているのである。
②このように見てくれば、「個人的には動詞も否定する必要もありそう」でないことは明らかである。
「姿・形」と「立ち居・振る舞い」は連用形名詞の複合であり、形容詞、形容動詞とは無関係である。
③形容詞はカメラで撮った静止画像で確認できます
静止画像でなくとも、動画でも絵でも色は表現でき、この感性的な属性を概念化したのが語である。形容詞とは時間的に変化しない属性の表現であり、動詞とは時間的に変化する属性の概念化である。
あやふやな記憶を基に、曖昧な回答は混乱を招くだけでしかない。そして、この本来の質問者は辞書を盲信し、この引用、並べ替えが回答だと誤認し、それに気付いていない。
なぜなら、〔【「形容動詞は非論理的な考え方で間違っている。ナ形容詞が正しい」なんて、まともな日本語教師は言わないと思うよ。〕などとピンボケなコメントをしているのでも明白である。「まともな日本語教師」は形容動詞などという誤った品詞観を正さなければならないのである。
述べたいことは多多あるが、まずはこの点のご意見を伺えればと思います。■
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
お答えくださってありがとうございます。
しかし、それですべておっしゃることが理解出来たわけではありません。残された疑問の一つは、「だ」と「なり」という判断辞は、それぞれ現代語・古語を代表するものですが、近代以後一つにまとめていいという判断があり、だろ・だっ/で/(に)・だ・な・なら・〇 となりました。問題は「に」があるのかどうかですが、過去の活用表に、「に」が無かったわけではありません。時枝氏が 我田引水的に「に」を無理矢理取り込んだわけでもありません。広辞苑(新村出氏)がそれに習ったわけでもありません。
なら・なり/に・なり・なる・なれ・なれ(平安)
なら・なり/に・なり・なる・なれ・〇 (鎌倉)
なら・なり/に・なり/な・なる/な・なれ・〇(室町)
なら・なり/で/に/・な・な・なれ・〇(江戸前期)
だろ・だっ/で・だ・な・なら・〇 (江戸後期)
だろ・だっ/で・だ・な・なら・〇 (近代) 日本文法大辞典による
こういう流れがあり、残念ながら「コーパス」などで証明出来ないのが残念な所です。
もう一つ、お聞きしたいことは、「真面目さ」という形ー「さ」という接尾語をつけて名詞化する形はご存じのはずですが、形容詞の例はあげるまでも無いでしょう。問題は「真面目」が名詞であるなら、さらに「さ」をつけて名詞化するのは不自然です。
通常の名詞、「学校」「身体」「道路」「梅雨」に「さ」をつけることはできません。「綺麗」「健康」「元氣」「丈夫」「静か」「鮮明」「的確」「真剣」には「さ」をつけられます。
これらが、形容動詞の語幹と言われる語群です。このことについてお考えをお聞きしたいのですが、いかがでしょう。
丁寧なコメントをありがとうございます。
格助詞「に」は「て/に/お/は」と呼ばれるように膠着語である日本の基本的な語で、起源は縄文時代以前に遡るものと考えられます。
最も古い事例は、祝詞の中でも最古に属する「大祓祝詞太祝詞」と呼ばれる「六月の晦の大祓<十二月はこれに准(なら)へ>」です。
この祝詞は、古田武彦が<祝詞誕生ー「大祓」の史料批判>(『まぼろしの祝詞誕生』(新泉社:1988))で考察しているように、”弥生前半期に生み出された言葉、それが現今まで伝わっている。”ものです。
ここに、「天皇が朝廷【に】仕へまつる、」「今年の六月の晦の大祓【に】、祓へたまひ清めたまふ事を、」等、多数使用されています。
そして、「なり」は「に・あり」が熟合したもので、この「なり」の活用に「に」を入れるのは本末転倒で、時枝が指定の助動詞に「に」を入れた誤りを、三浦つとむ『日本語の文法』で、次のように錯覚と指摘しています。平安以後の活用表に「に」を挙げているのは同様の錯覚があったのではないかと考えております。
三浦による、「に」「と」を助動詞の連用形とする誤りについての批判の部分から「に」に関する部分を抜き出しておきます。
時枝はつぎの例をあげて、「そこには明らかに陳述性が認められる」という。
月明らか【に】、風涼し。
元気【に】、愉快【に】、働いている。
まず、「明らか」「元気」「整然」などの語は、属性表現ではあるが活用を持たないから、そのままでは文の終止に使えないわけであり、それゆえ<助詞>プラス<助動詞>と重ねた「に」「あり」→「なり」や「とあり」→「たり」を加え、「明らか【なり】」「元気【なり】」「整然【たり】」と表現して来たことは周知のとおりである。この場合も、「に」「と」は依然<助詞>であって、その下に重ねられる<助動詞>が零記号化しているもの、たとえば「月明らか【に】(し≪て≫)、風涼し。」「元気【に】(し≪て≫)、愉快【に】(し≪て≫)、働いている。」のような省略があって、<形式動詞>から転成した<助動詞>「し」が表現されずにあるもの、と受けとるのが妥当である。「に」「と」自体が判断を示すのではなくて、その下に零記号の判断辞が存在するのである。/
接尾語「さ」については、次のように考えております。→以下補足覧へ。
No.33
- 回答日時:
#31です。
#32からの続きです。
8.
hako⇒助動詞連用形という考え方があっても別に不思議ではないでしょう。
アス⇒#3 のOKAT サンの質問の回答に記していますので参照下さい。
:
※「なり」は「に・あり」が熟合したもので、この「なり」の活用に「に」を入れるのは本末転倒※
という三浦見解を引用していますが、ここに誤解があるような気がしますね。
「なり」は、「に」+「あり」から派生したのであるから、「なり」の連用形として「に」を再度採用するのは本末転倒である、という理屈なのでしょう。
しかし、派生したのは、あくまで【格助詞「に」+「あり」】からである一方、「なり」の活用に採用しているのは、格助詞としての「に」ではない。
あくまで「なり」の連用形としての「に」なのですから、何の矛盾も生じていないでしょう。
9.
>問題提起を理解してからにして下さい。
形容動詞とは何かが理解できない人に何を言っても無駄ということです。
:
問題提起を理解した上で、#5でも下記のように述べています。
※(ア)
助動詞「なり」には、
◆格助詞「に」に文語動詞「あり」の付いた「にあり」の転。(明鏡)
という注釈がある。
このことから、
・「元気なり」⇒元気(名詞)+格助詞「に」+「あり」⇒元気(名詞)+助動詞「なり」
という構造。
この場合、「元気」を単なる名詞とは区別して「形容性名詞」と捉える考え方があってもまったく不思議ではなく、そこから形容動詞という発想が生まれたのでしょう。※
ただ、アスナロウさんは、「提起」ではなく「一方的な主張」というスタンスなので、素直に回答者の見解を聞けないのだと思います。
『形容動詞とは何かが理解できない』とおっしゃいますが、見解は#5をはじめとしてすでに述べていますよね。
この見解の内容に沿って、具体的に、これこれの箇所が、これこれの根拠で矛盾している、のように解説しないと誰も納得させることはできません。
仮にアスナロウさんの見解が正しいのだとしても、相手からの疑問に的確な答えを示さないまま逆切れしているようでは、不毛な論議になってしまいます。
丁寧な応答を度々有難うございます。
当然、当方の提起を御理解の上、質問、反論がいただけるものと考えておりましたが、、そうでもない様です。
大分、応答が長くなりましたので、別項をたて再度質問させていただきますので、内容を良く御理解の上、質問、批判、反論いただきますよう宜しくお願い致します。■
No.32
- 回答日時:
#31です。
1.
>質問内容を明晰にしなければ、イエスノーもないでしょう。
:
???
下記の質問内容(※)が明晰ではない、とおっしゃるのですか?
※最終確認ですが、
・格助詞「に」は着点を表わす。
という辞書語釈は、
「東京に行く」という文に置いて、「に」は「東京」という着点を表わす格助詞である。
という意味ではない。
なぜなら、着点を表わしているのは「東京」であって「に」ではないのだから。
と(アスナロウさんは)おっしゃるのですね?※
この質問内容が理解できるのなら、おっしゃるのか、おっしゃらないのか、明確にお答えいただきたいです。
>文の意味としては正しいが格助詞「に」の語義に答えていないということです。
:
「に」の語義=着点を表わす。
だと再三申し上げていますが?
2.
「時間」
・空間と共に、種種の現象が生起する舞台(広辞苑)
>時間を空間である舞台の比喩と云っています。
:
ということは、
『「舞台=場所」は了解です。でも時間、時刻ではありません。』
というのは、
『「舞台=場所」は了解です。でも「舞台=時間、時刻」ではなく、「比喩としての舞台=時間、時刻」である』
という意味なのですね?
そうしますと、
『<「舞台=場所」≠時間、時刻>は、小学生でも理解できるはずですが?』
とおっしゃったのは、
<「舞台=場所」≠時間、時刻>ではなく、<「舞台=場所」=比喩としての時間、時刻>であることは、小学生でも理解できるはずですが?
という意味なのですね?
ことの発端は、
『g.素晴らしい舞台で、時間の経つのを忘れた。この舞台と時間は同じでしょうか。』
というアスナロウさんのご質問です。
違うという意味で、このようにお尋ねになった。
そこでお聞きしたいのですが、
この質問内容において、
「時間=比喩としての舞台」と捉えずに「時間=舞台」と捉えることによって、どういった誤謬が生じると言いたかったのですか?
3.
アス⇒
じかん【時間】
(一)「時トキ(一)」の字音語的表現。〔空間と共に、種種の現象が生起する舞台であるが、空間と異なり 時間は 一つの方向にわれわれの所を過ぎ去って行くように 意識される〕【新明解】
で、【空間と異なり】と書いてありますよね。
hako⇒【空間と異なり】の係る先はどの箇所なのか、理解していますか?
アス⇒どこに係ろうと、は時間【空間と異なり】ということです。
:
どこに係っているかわからない、ということですね。
答えを言うと、「意識される」という述部に係っています。
どのように意識されるかというと「一つの方向にわれわれの所を過ぎ去って行くように(意識される)」と言っている。
何についてそう言っているのかというと、「時間(は)」についてだよ、と言っている。
つまり、時間が空間と異なるのは、「一つの方向にわれわれの所を過ぎ去って行くように意識される」という点においてであり、「空間=舞台」だが「時間=舞台」ではないという意味で【空間と異なり】と書いているわけではないということです。
ご理解いただけたでしょうか。
4.
>話者は「本」や「会議」に着目しています。』
表現対象であり、着目せずに認識、表現はできませんが?
:
『話者は「本」や「会議」に着目しています。』
というのは、
(「に」の意義を論じるのであれば)
[ 「に」の係る先 ] に着目する必要がありますよね?
という私の発言に対する反論としておっしゃった箇所ですよね?
つまり、あなたは、
[ 「に」の係る先 ] に着目する必要はない、とおっしゃったわけです。
「~に行く」
「~にもらう」
という構文に着目することで「に」の意義が明らかになる。
ということをお認めになるなら、『話者は「本」や「会議」に着目しています。』という発言は取り消さないと論理破綻が生じますよ。
『hakobulu サンがどこに着目しようと自由ですが、話者は「本」や「会議」に着目しています。』というご発言においても、『どこに着目しようと自由』ではないことをお認めになったことになりますから、取り消す必要があります。
見苦しい詭弁を弄するのはいい加減にしてください。
訂正・修正は恥とでも思っておられますか?
だれもあなたを神だと思っているわけではありませんので、そうした心配は無用です。
気づいた時点で素直に訂正・修正を行なうのが論理の徒として誠意ある態度です。
「綸言汗の如し」という諺は、あくまで君子の場合に適用されるものであり、真理の徒としては、「過ちては改むるに憚ること勿れ」を心がけるべきでしょう。
真理より大事になさっている何かがおありなら話は別ですけどね。
5.
hako⇒ところで、「会議は5時に始まります」と言う時点で、『5時という時刻』は、これから来る未来の時刻であることは理解できますか?
アス⇒「5時に始ります。」の場合は未来で、「5時に終わりました。」の場合は過去です。
:
『「5時に始ります。」の場合は未来』が分かるなら、会議の始まる「5時」という時刻が発言する時点からみて(これから来るべき)着点になるのは当然だ、ということもおわかりになったでしょう。
『「5時に終わりました。」の場合は過去』というのもそのとおりです。
会議の終わった「5時」という時刻は、発言する時点からみて過去に遡る必要があるわけですから、着点になるのは当然なのです。
6.
>活用語尾だといって批判している???それはそれでまた問題じゃないでしょうか。
⇒活用語尾とは何かが理解できない人に何を言っても無駄ということです。
:
本当に文の意味を理解するのが苦手なようですね。
ぜんぜん的外れのことばかりおっしゃってることに気づいておられますか?
助動詞「なり」
助動詞「だ」
という記述を無視したわけではないのに、活用語尾だといって批判している???
それはそれでまた問題じゃないでしょうか。
と申し上げたのですが?
問題じゃないとおっしゃるのですか?
7.
>「元気に過ごす。」の「元気」は名詞ではないと指摘していますが、その点はどうでしょうか。
>「元気に過ごす。」の「元気」は名詞ではないと指摘していますが、この点も理解出来ない人に何を説明すれば良いのでしょうか?
形容動詞とは何か、何が誤っているのかが理解できない人に何を言っても無駄ということです。
:
#5に明確に記しています。
どちらでも良いということ。
どちらでも良い、という考え方ではなぜダメなのか?
という点についてアスナロウさんは明解な答えをまったく出しておられません。
繰り返しますが、#5の内容に沿って解説(反論)していただくのが近道ですよ。
お礼欄確保のために、回答欄を替えますが、この回答に対する返信は、このお礼欄から始めてください。
No.31
- 回答日時:
#29、#30です。
1~5(#29記載)に関しては一切コメントが無いようですが、どうされましたか?
1.
>「で」「に」という語が何のために用いられるか、ということ決まっています。
⇒それは、「形容動詞がどうしたとかは関係ありません。」ではなく関係がありますよね。
:
何について「関係ありません」と言ったのかが理解できないようですね。
2.
>「綺麗だ」と「綺麗に」は明らかに「綺麗」とは意義が異なる。「綺麗だ」は「綺麗」という【属性表現の語】に、判断辞「だ」が付加されたもので、
:
そういう考え方があっても良いでしょうね。
別に否定はしていませんよ。
しかし、一番最初の#5にも記しましたが、下記(※)のような考え方もできるのではないか、と申し上げています。
否定する場合には、単に「間違っている!!!」だけでは駄々っ子と変わりません。
「なぜ間違っているのか?」ということを、その記述箇所を示しながら論理的に反論しないと意味がないのです。
ですから、「#5の回答内容に沿って説明してください」と再三申し上げている。
できませんか?
※(イ)
助動詞「だ」については、
➊([活用]だろ/だっ・で・に/だ/な/なら/○)
「にてある」から「である」、「であ」、「だ」と転じて室町時代に成った語で、関西の「じゃ」に対して関東で盛んとなった。断定を表す。(広辞苑)
となっており、
「にて」に関しては、
㊀《格助詞》文語。{格助詞「に」に、本来は接続助詞である「て」がついたものか。体言につく}
(場所や時あるいは)事態を示す。…にあって。
◆此歳この身分にて叶ふべきにあらず、〔樋口一葉・たけくらべ〕(学国)
という記述がある。
・「元気だ」⇒元気(名詞)+格助詞「に」+接続助詞「て」+「ある」⇒元気(名詞)+格助詞「で」+「ある」⇒元気(名詞)+助動詞「だ」
という構造。
「元気で」という連用形に格助詞「で」が絡んでいるのは明らかでしょう。
この場合の「で」は、
❹ 動作を行うときの様態を表す。
「急ぎ足で歩く」
「笑顔で答える」(明鏡)
という用法。
いずれにせよ、「で」の場合も「に」と同様で、格助詞・助動詞連用形・形容動詞連用形どれにも当て嵌めても良い。※
3.
>無視ではなく、でたらめな論理展開にはつきあっていられないということです。この箇所はなんら、論理的に必要ではありません。
:
助動詞「なり」
助動詞「だ」
という記述を無視したわけではないのに、活用語尾だといって批判している???
それはそれでまた問題じゃないでしょうか。(笑)
4.
>>形容動詞という品詞が誤りでないとしても、何の問題もないでしょう
⇒何度言えばわかりますかね?
大問題だと提起しているのに、その内容を理解することなく、さらに否定の根拠も示さずに何をいわれているのでしょうか。
:
そこまでおっしゃるなら、
何が大問題なのか、という点について、
・元気にすごす
・元気ですごす
この両文の違いで説明してください。
という要望に、一向にお答えにならないのはなぜですか?
5.
>【「・元気にすごす。」の「に」は格助詞で、助動詞ではありません。ましてや、<形容動詞>「に」などという区分、表記はどこにもありません。あれば、示して下さい。】と指摘しているのに、<助動詞>でも<形容動詞>でもない、無いものの場合をどう説明すれば良いのですか?
:
一方的に決めつけていますが、「に」の出自は助動詞「なり」ですよね?
助動詞連用形という考え方があっても別に不思議ではないでしょう。
アスナロウさんがそう思わないのであれば、助動詞と解釈するとかくかくしかじかの誤謬につながるよね?
だから助動詞じゃないんだ。
といったように論理的な説明が必要になるのです。
形容動詞の場合も同じです。
そうした論理的説明をしないまま、単に間違いだ間違いだとわめきたてるだけでは駄々っ子と変わりません。
度々恐れい入ります。
>>1~5(#29記載)に関しては一切コメントが無いようですが、どうされましたか?
何か同じ繰り返しで、理解力の問題とおもいますが、今一度コメントさせていただきます。
#29
1.
>>・格助詞「に」は着点を表わす。
:
なぜなら、着点を表わしているのは「東京」であって「に」ではないのだから。
何度言えばわかりますかね?
質問内容を明晰にしなければ、イエスノーもないでしょう。
文の意味としては正しいが格助詞「に」の語義に答えていないということです。
No.20の回答の補足に記した通りです。
そして、助詞、助動詞については、再三再四指摘しているように、付属語などという形式的な定義ではなくそれが何を表わすものであるのかを理解しない限り平行線をたどるしかありません。
助詞、助動詞とは何か判っていますか?
2.
>>何が何の比喩だとおっしゃっているのですか?
時間を空間である舞台の比喩と云っています。
>>どこに係ろうと、は時間【空間と異なり】ということです。
3.
>>話者は「本」や「会議」に着目しています。』
表現対象であり、着目せずに認識、表現はできませんが?
4.
>>『5時という時刻』は、これから来る未来の時刻であることは理解できます
「5時に始ります。」の場合は未来で、「5時に終わりました。」の場合は過去です。
5.
>>それはどちらでも良いのですよ。
助動詞とは何であるかも理解せず、助動詞の意義の妥当性が理解できると考えるのが馬鹿げています。その結果が、今回の平行線の原因ですと何度も指摘していますが。
#30
2.
>>本来無かった品詞
語は以前からありますが、品詞名が付けられたのは明治以降です。
>>下記(※)のような考え方もできる
格助詞・助動詞連用形・形容動詞連用形どれにも当て嵌めても良い。
上記のように命名は明治で、品詞を区分しているのに、品詞の意義を理解せずに、「どれでもいい」というのはナンセンスのたぐいです。
「元気に過ごす。」の「元気」は名詞ではないと指摘していますが、その点はどうでしょうか。
3.
>>活用語尾だといって批判している???それはそれでまた問題じゃないでしょうか。(笑)
活用語尾とは何かが理解できない人に何を言っても無駄ということです。
#28のお礼欄へ
No.30
- 回答日時:
#27です。
#29からの続きです。
6.
>じゃあ、何の話しをしているのですか。
:
「で」「に」という語が何のために用いられるか、ということ決まっています。
7.
>形容動詞説は誤りであるというのが当方の主張で、それを承認されるのであれば何も言うことはありません。
:
#5でも、形容動詞は平安時代に、名詞+助動詞からできた語である、とウィキからの引用を載せているように、本来無かった品詞なのですから、その意味で「承認」という立場ではありません。
しかし、この名詞を形容詞性名詞と捉える感覚は理解できるわけで、完全否定するまでもなかろうに、ということですよ。
日本語の会話をするに際して、重大な誤謬が発生するわけではないでしょう。
8.
>hako⇒まず、「元気」という漢語の場合、その変化形に関して、
(ア) にあり⇒助動詞「なり」(元気なり)
(イ) にてある⇒である⇒であ⇒助動詞「だ」(元気だ)
という2つのパターンを想定して良いと思われます。
⇒この記述、理解がデタラメであることに気付かないところが問題です。
「元気」の変化と記していますが、元気は活用を持たないので、変化はしません。「元気なり」が【その変化形】というのは、「なり」を活用語尾と見做すということです。
:
ま、一理はありますね。(笑)
しかし、その直後に書いている、
(ア) にあり⇒助動詞「なり」
(イ) にてある⇒である⇒であ⇒助動詞「だ」
という箇所は、きれいに無視なさった、ということなのですね?
性格悪いですよ。(笑)
せめて、どちらなのか、はっきり書けよ!ぐらいは言わないと。
お互い様でしょう。
9.
>であれば、形容動詞という品詞は誤りであるということで、何の問題もありません。
:
ですから、形容動詞という品詞が誤りでないとしても、何の問題もないでしょうと申し上げている。
10.
hako⇒・元気にすごす。
この文において、「に」が助動詞連用形である場合と、形容動詞連用形である場合では、どんな根拠によって、どんな違いが生じるのか?
アス⇒「・元気にすごす。」の「に」は格助詞で、助動詞ではありません。ましてや、<形容動詞>「に」などという区分、表記はどこにもありません。あれば、示して下さい。
:
ですから、
a.格助詞でなく助動詞である場合、
b.格助詞ではなく形容動詞である場合、
【どんな根拠によって、どんな違いが生じるのか?】
とお尋ねしています。
質問の意味はわかりますよね?
何か言いたいことがおありなら、まず、この質問に明確に答えてからにしてください。
たびたび丁寧な応答をありがとうございます。
私見を述べさせていただきます。
6.
>じゃあ、何の話しをしているのですか。
:
「で」「に」という語が何のために用いられるか、ということ決まっています。
それは、「形容動詞がどうしたとかは関係ありません。」ではなく関係がありますよね。
7.
>>この【名詞】を形容詞性【名詞】と捉える感覚は理解できる
(【】は当方が強調の為付加しました。)
何度言えばわかりますかね?
最初の問題提起に、
「綺麗だ」と「綺麗に」は明らかに「綺麗」とは意義が異なる。「綺麗だ」は「綺麗」という【属性表現の語】に、判断辞「だ」が付加されたもので、
と記したように、【属性表現の語】つまり、形容詞と同じ意義で、名詞ではないと提起しているのに、何を寝ぼけたことを言われているのでしょうか。何せ、自分の思い込みではなく、問題提起の内容をきちんと理解してからにして下さい。時枝が体言とし、広辞苑がこれに従っているのも誤りと指摘していますが。
なお、名詞とは実体認識を表わす語だということも何度も指摘していますが。
重大な誤謬が発生してます。
いいかげんにして下さい。
8.
>>(ア) にあり⇒助動詞「なり」
:
という箇所は、きれいに無視なさった、ということなのですね?
性格悪いですよ。(笑)
せめて、どちらなのか、はっきり書けよ!ぐらいは言わないと。
お互い様でしょう。
無視ではなく、でたらめな論理展開にはつきあっていられないということです。この箇所はなんら、論理的に必要ではありません。
9.
>>形容動詞という品詞が誤りでないとしても、何の問題もないでしょう
何度言えばわかりますかね?
大問題だと提起しているのに、その内容を理解することなく、さらに否定の根拠も示さずに何をいわれているのでしょうか。
10.
>>ですから、
a.格助詞でなく助動詞である場合、
b.格助詞ではなく形容動詞である場合、
【どんな根拠によって、どんな違いが生じるのか?】
わからん人ですな!
【「・元気にすごす。」の「に」は格助詞で、助動詞ではありません。ましてや、<形容動詞>「に」などという区分、表記はどこにもありません。あれば、示して下さい。】と指摘しているのに、<助動詞>でも<形容動詞>でもない、無いものの場合をどう説明すれば良いのですか?■
No.29
- 回答日時:
#27です。
なぜ#27へのお礼を#26お礼欄から書き始めるのですか?
#27のお礼欄で足りなくなったら#26を使えば良いでしょう?
1.
>最初から誤りと指摘していますが上記の通り理解できていないというだけです。
:
他人を批判する際には、その根拠となるものを明記しなければなりませんよ?
覚えておかれるとよいでしょう。
私は答えやすいように質問しています。
下記に再掲しますので、質問の意味がわからなければ、その旨おっしゃってください。
最終確認ですが、
・格助詞「に」は着点を表わす。
という辞書語釈は、
「東京に行く」という文に置いて、「に」は「東京」という着点を表わす格助詞である。
という意味ではない。
なぜなら、着点を表わしているのは「東京」であって「に」ではないのだから。
とおっしゃるのですね?
何か言いたければ、イエスノーを言ってからにしてください。
2.
経緯を示しますので、よくご覧の上、よくお考えになってから返信してください。
アス⇒「共に」ということは、異なる要素について述べるのであり、同一であれば「共に」とは言いません。
この程度の理解ができませんか?
hako⇒「時間」
・空間と共に、種種の現象が生起する舞台(広辞苑)
この語釈は、
・時間は、(空間と共に、)種種の現象が生起する舞台である。
という意味ではないのですか?
つまり、
・時間は舞台である。
という意味ではない、とおっしゃるのですか?
アス⇒この文自体は正しい表現ですが、時間=空間ではなく、比喩表現だということです。
hako⇒『正しい』なら、
・時間は、(空間と共に、)種種の現象が生起する舞台。
なのですね?
では、
『「舞台=場所」は了解です。でも時間、時刻ではありません。』という発言は取り消しますか?
アス⇒<「舞台=場所」≠時間、時刻>は、小学生でも理解できるはずですが?
hako⇒では、『この文自体は正しい表現』の『この文』とは、どの文を指しているのですか?
『・時間は、(空間と共に、)種種の現象が生起する舞台である。』
ですか?それとも、
『時間は舞台である。』
ですか?それとも別の文ですか?
アス⇒『・時間は、(空間と共に、)種種の現象が生起する舞台である。』で、比喩としては正しいということです。
:
『・時間は、(空間と共に、)種種の現象が生起する舞台である。』という文自体は正しい表現ですが、時間=空間ではなく、比喩表現だということです。
とおっしゃったということなのですね。
明らかにあなたの論理は破綻していますが念のため伺いましょう。
何が何の比喩だとおっしゃっているのですか?
>きちんと引用すると、
じかん【時間】
(一)「時トキ(一)」の字音語的表現。〔空間と共に、種種の現象が生起する舞台であるが、空間と異なり 時間は 一つの方向にわれわれの所を過ぎ去って行くように 意識される〕【新明解】
で、【空間と異なり】と書いてありますよね。
:
【空間と異なり】の係る先はどの箇所なのか、理解していますか?
3.
hako⇒「本」や「会議」に着目してしまうと誤謬につながる。
アス⇒hakobulu サンがどこに着目しようと自由ですが、話者は「本」や「会議」に着目しています。
hako⇒繰り返しになりますが、「に」について論議していることをお忘れのようです。
[ 「に」の係る先 ] に着目する必要がありますよね?
アス⇒「に」の前の要素に注目しているのではないですか?「東京」「先生」
hako⇒
「~に行く」
「~にもらう」
という構文に着目することで「に」の意義が明らかになるのでは?
「~」部は何でも良いかと。
アス⇒変節ですね。以前は、しきりに、「東京」「先生」「生徒」を論じられていましたが。
hako⇒
「~に行く」
「~にもらう」
という構文に着目することで「に」の意義が明らかになる。
という点には反論なさらない、つまり、お認めになる、ということなんですね?
アス⇒以前にも指摘していますが、抽象の過程を理解しましょう。明らかになる過程と、結果は区別しなければなりません。時枝も陥っている欠陥ですが、
hako⇒おそらく質問の意味が通じなかったのでしょう。
再度お伺いします。
「~に行く」
「~にもらう」
という構文に着目することで「に」の意義が明らかになる。
ということを、お認めになりますか?
それとも認めませんか?
アス⇒当然です。意味から意義を抽出、抽象しなければならないと答えていますが。この、抽象ということが理解できていないと前回も指摘しているのですが。
:
「~に行く」
「~にもらう」
という構文に着目することで「に」の意義が明らかになる。
ということはお認めになるのですね。
最初から、そう言ってくださいよ。
であるなら、
『hakobulu サンがどこに着目しようと自由ですが、話者は「本」や「会議」に着目しています。』というご発言は取り消すのですね?
因みに、
『当然です』は、
『お認めになりますか?
それとも認めませんか?』
という質問の答えになっていない、ということにお気づきになっておられないようですね。
当然認めるという意味なのか、当然認めないという意味なのかわかりませんよね。
まあ、今回はわたしが忖度しましたが。
4.
>「時刻が進んでいき、5時という着点に至った時に始まる」という意図で
⇒ここが、誤解です。「5時という時刻、時点【に】会議は【始る】」のです。
文に書かれていない、勝手なストーリーを語っても無意味です。
:
「5時という時刻、時点【に】会議は【始る】」のです。
おっしゃるとおりですね。
ところで、「会議は5時に始まります」と言う時点で、『5時という時刻』は、これから来る未来の時刻であることは理解できますか?
5.
>「で」の本質的意義が「拠り所」だからだと、
⇒この最初に記した通り、「で」は主体的表現で、「拠り所」などという客体を表わす語ではありません。
:
主体的表現、つまり助動詞の連用形だということですね。
ただですね、それはどちらでも良いのですよ。
ここがわかっておられないために迷走なさっておられる。
要するに大事なことは、
・「で」の本質的意義とは「拠り所を表わす」。
ということです。
つまり、
・ペンで書く。
は、
・ペンという道具を拠り所として書く。
という意味であることが理解できれば良いのです。
次の回答欄へ。
この回答へのお礼は、この回答のお礼欄から書き始めてください。
#30 のコメントに若干補足させていただきます。
>>ま、一理はありますね。(笑)
一理の問題ではなく、二理も百理も千里も大(おお)在(あ)りのコンコンチキです。(怒)
議論の出発点が理解されていないということです。■
No.28
- 回答日時:
ララァはバブみだ。
#31のお礼欄から
4.
>何が大問題なのか
問題提起を理解してからにして下さい。
「元気に過ごす。」の「元気」は名詞ではないと指摘していますが、この点も理解出来ない人に何を説明すれば良いのでしょうか?
形容動詞とは何か、何が誤っているのかが理解できない人に何を言っても無駄ということです。
5.
>>助動詞連用形という考え方があっても別に不思議ではないでしょう。
#3 のOKAT サンの質問の回答に記していますので参照下さい。
問題提起を理解してからにして下さい。
形容動詞とは何かが理解できない人に何を言っても無駄ということです。
問題提起に答えるなり、批判するなりして下さい。思い込みに対して答えても空回りするばかりです。■
No.27
- 回答日時:
#25です。
(なぜか#23お礼欄に書かれていますが、質疑応答を対応させづらいので、最初のお礼は#25に書いていただきたかったです。今後、そのようにしていただけると助かります。字数制限にかかった場合に前の欄をご活用ください)
1.
hako⇒ここでの「褒美(もらう物)」は、自分(生徒)に向かっているはずです。
ですよね?
しかし、説明文では、
『「先生」は「出どころ」ではあるが、「もらう」という側から見れば、その<向かう先>である。』
と書かれている。
つまり、「(もらう)物」と「(もらう)動作」では、「向かう先」が異なるのだ、ということは理解したのではないんですか?
アス⇒そんなことは最初から言っている通りです。
「に」が着点を表わすと言うため混乱しているだけです。
何度言えばわかりますかね?
:
最初からわかっていた?
その割に、以下のような応答があるのは不思議ですね。
hako⇒「もらった」という動作の始点は「私(生徒)」なのです。
アス⇒受け取ったのが生徒なので、始点は「先生」です。「私(生徒)」からどこへ行ったのですか。(#19)
『「(もらう)物」と「(もらう)動作」では、「向かう先」が異なるのだ』ということを『最初からわかっていた』なら、このようなことを言うはずがないですよね?
#19で、私は『「もらった」という動作』について述べているのに、あなたは、『受け取ったのが生徒』だと強弁している。つまり『「もらった」物』にしか目がいってなかったことになる。
それはわたしの勘違いだった、とか、その点は受け止め方を変えたいと思うとか、前向きで素直なことを言えないもんですかね。
わたしに嘘や詭弁は通用しないと以前も申し上げたはずですが、改めてご留意ください。
『「に」が着点を表わすと言うため混乱しているだけです。』などと胡麻化さないようにしましょう。
これはこれで別の問題です。
最終確認ですが、
・格助詞「に」は着点を表わす。
という辞書語釈は、
「東京に行く」という文に置いて、「に」は「東京」という着点を表わす格助詞である。
という意味ではない。
なぜなら、着点を表わしているのは「東京」であって「に」ではないのだから。
とおっしゃるのですね?
私の理解に間違いがありましたらご指摘ください。
2.
経緯を示しますので、よくご覧の上、よくお考えになってから返信してください。
アス⇒「共に」ということは、異なる要素について述べるのであり、同一であれば「共に」とは言いません。
この程度の理解ができませんか?
hako⇒「時間」
・空間と共に、種種の現象が生起する舞台(広辞苑)
この語釈は、
・時間は、(空間と共に、)種種の現象が生起する舞台である。
という意味ではないのですか?
つまり、
・時間は舞台である。
という意味ではない、とおっしゃるのですか?
アス⇒この文自体は正しい表現ですが、時間=空間ではなく、比喩表現だということです。
hako⇒『正しい』なら、
・時間は、(空間と共に、)種種の現象が生起する舞台。
なのですね?
では、
『「舞台=場所」は了解です。でも時間、時刻ではありません。』という発言は取り消しますか?
アス⇒<「舞台=場所」≠時間、時刻>は、小学生でも理解できるはずですが?
:
では、『この文自体は正しい表現』の『この文』とは、どの文を指しているのですか?
『・時間は、(空間と共に、)種種の現象が生起する舞台である。』
ですか?それとも、
『時間は舞台である。』
ですか?それとも別の文ですか?
3.
hako⇒
「~に行く」
「~にもらう」
という構文に着目することで「に」の意義が明らかになる。
という点には反論なさらない、つまり、お認めになる、ということなんですね?
アス⇒以前にも指摘していますが、抽象の過程を理解しましょう。明らかになる過程と、結果は区別しなければなりません。時枝も陥っている欠陥ですが、
:
おそらく質問の意味が通じなかったのでしょう。
再度お伺いします。
「~に行く」
「~にもらう」
という構文に着目することで「に」の意義が明らかになる。
ということを、お認めになりますか?
それとも認めませんか?
4.
>(会議は5時に始まります)
「5時という着点に至った時に始まる」
⇒始るのが着点?
日本語大丈夫ですかというレベルです。
:
まだ、会議は始まっていない。
「時刻が進んでいき、5時という着点に至った時に始まる」
という解説の一部「5時という着点に至った時に始まる」という箇所だけを切り出しておられますね。
「会議は5時に始まります」という発言は、「まだ、会議が始まっていない」時点で為されます。
これは理解できますか?
その時点から進んでいく時刻を想定しつつ、話者は発言するのですよ。
つまり、
「時刻が進んでいき、5時という着点に至った時に始まる」という意図で、
「会議は5時に始まります」
と言うわけです。
ご理解いただけたでしょうか?
5.
>なのに、同じ「で」が使用されるのは何故かということですが。
:
「で」の本質的意義が「拠り所」だからだと、何度も申し上げたはずですが???
6.
>可笑しいのは、形容動詞の定義と単語とは何かという基本的な理解ができずにとやかく言っていることです。
:
ここでおかしいと言っているのは、形容動詞がどうしたとかは関係ありません。
論理展開の問題ですよ。
あなたは、『俺は、形容動詞の定義と単語とは何かという基本的な理解』ができているのだから、仮に論理展開が破綻していても大目に見ろよ、と言っているようなものです。
嘆かわしい限りですな。
再度確認してください。
ご自分で読み返してみて、おかしいとは思わないのですか?↓
>活用語尾だとは一言も言ってないのに、しかも助動詞「なり」だと言っているのに、それに対する返信が、いきなり、
『「なり」は判断の助動詞として一語であり、活用語尾ではないと最初から指摘していますが。』です。
ご自身でもおかしいと思いますよね?
しかも、「活用語尾とは言ってませんが?」と言わなければ、活用語尾じゃなくて単語だと気づかなかった、ともおっしゃるわけですが、これもおかしいですよね?
最初からわかりそうなもんじゃありませんか。
7.
>「元気な」の「な」は、助動詞「なり」の連体形ではない、とおっしゃるのですか?
⇒「な」は、助動詞「なり」の連体形で、「元気な」という形容動詞の活用語尾ではないということです。
この基本的相違が理解できていません。
活用語尾とは何かを正しく理解しましょう。
:
そんなことは最初からわかっていますよ。(笑)
ことの始まりは下記の箇所でしょう。
hako⇒まず、「元気」という漢語の場合、その変化形に関して、
(ア) にあり⇒助動詞「なり」(元気なり)
(イ) にてある⇒である⇒であ⇒助動詞「だ」(元気だ)
という2つのパターンを想定して良いと思われます。
アス⇒その変化とは何を言われているのでしょうか。「なり」は判断の助動詞として一語であり、活用語尾ではないと最初から指摘していますが。
私は、
・助動詞「なり」
・助動詞「だ」
と書いていて、活用語尾とは一言も書いていない。
しかし、アスナロウさんは、
・(元気なり)
・(元気だ)
という記述を見て、形容動詞語尾だと思ってしまった。
私としては(元気なり)(元気だ)は、助動詞「なり」や助動詞「だ」であると言ったつもりだったのですが、読解力不足というか表現力不足というか。
いずれにせよ、
・「元気な」の「な」は、助動詞「なり」の連体形
であるのは当然のことです。
8.
>どんな誤謬が生じるのか?
⇒それを問題提起していますが、それを理解せず、自己の思い込みを語られても単なる趣味の問題、言葉遊びに帰してしまいますよ。
:
・元気にすごす。
この文において、「に」が助動詞連用形である場合と、形容動詞連用形である場合では、どんな根拠によって、どんな違いが生じるのか?
この点に関して論理的な解説は、まだなさってませんよね?
#26のお礼欄より
6.
>>形容動詞がどうしたとかは関係ありません。
じゃあ、何の話しをしているのですか。
>>活用語尾じゃなくて単語だと気づかなかった、ともおっしゃるわけです
当然です。単語であれば、形容動詞説を否定しているのですが、そのことに全く気付いていません。
形容動詞説は誤りであるというのが当方の主張で、それを承認されるのであれば何も言うことはありません。
7.
>>hako⇒まず、「元気」という漢語の場合、その変化形に関して、
(ア) にあり⇒助動詞「なり」(元気なり)
(イ) にてある⇒である⇒であ⇒助動詞「だ」(元気だ)
という2つのパターンを想定して良いと思われます。
この記述、理解がデタラメであることに気付かないところが問題です。
「元気」の変化と記していますが、元気は活用を持たないので、変化はしません。「元気なり」が【その変化形】というのは、「なり」を活用語尾と見做すということです。
>>読解力不足というか表現力不足というか。
形容動詞とは何をいうのかという根本の論理が理解できていません。
>>・「元気な」の「な」は、助動詞「なり」の連体形であるのは当然のことです。
であれば、形容動詞という品詞は誤りであるということで、何の問題もありません。
8.
>>この文において、「に」が助動詞連用形である場合と、形容動詞連用形である場合
「・元気にすごす。」の「に」は格助詞で、助動詞ではありません。ましてや、<形容動詞>「に」などという区分、表記はどこにもありません。あれば、示して下さい。
この辺の品詞区分と活用とは何かを、まず正しく理解しないと話しになりません。■
No.26
- 回答日時:
#22です。
d.東京へ着くまで【に】なんとかして下さい。
>「に」=着点としての状況(場面)を表わしている。
⇒では、起点、始点は何、どこ?でしょうか?
:
現時点の状況。
e.明日まで【に】提出して下さい。
>「提出する」という動作の、着点
⇒では、起点、始点は何、どこ?でしょうか?
:
現時点。
この場合は、
「に」=着点としての時間を表わしている。
ですね。
タイプミスということで、お詫びして訂正いたします。←素直ですなア!!(笑)
f.東京は日本のどこ【に】ありますか。
>・東京の存在場所を探っていくなら、着点として日本のどこに到達しますか?
⇒では、起点、始点は何、どこ?でしょうか?
:
探り始めた時点。
g.素晴らしい舞台で、時間の経つのを忘れた。
> [ 空間と共に、過ぎ去っていく
⇒「時間と共に」の誤りでは?
:
[ 空間と共に、過ぎ去っていくように意識される種種の現象が生起する舞台 ] というのは、「時間」の広辞苑語釈を代入している箇所ですので。
h.彼はとても元気だった。
>助動詞「だ」については、
⇒断定、つまり肯定判断を表わします。
:
断定を表す。
という広辞苑語釈を明記していますが、これとはまた別物だということですか?
>「にて」に関しては、
⇒「に」の意義を問題にしているのであり、「て」は確認の助動詞です。
:
「だ」は、「にてある」から「である」、「であ」、「だ」と転じて室町時代に成った語。
という点に関して述べている箇所ですよ。
前後をちゃんとお読みにならないので、ここに限らず、文脈を正しく理解できない事態が多発してしまうのです。
>元気は名詞ではなく、人である彼の属性表現の語です。「形容性名詞」という造語は誤りです。
二語とするのは正しいのですが、それはつまり(一語と捉える)形容動詞という品詞の否定です。
:
「活用しない形容詞」という新概念は認めるが、「形容性名詞」という造語は認めない。
その根拠は?
私は、特に形容動詞のみを擁護する立場ではありませんが、『形容動詞という品詞の否定』しなければならない根拠が、今のところ乏しいようですね。
>品詞区分の否定です。区分する意味がなくなります。
:
否定する明確な根拠をお示しになった上ででないと、説得力はまったく無いかと。
そもそも、「活用しない形容詞」なんて品詞があるのですか?
i.すっかり元気になった。
>着点としての「元気という状態」に至った。
⇒まあ、下手な比喩表現というレベルです
:
こんな素晴らしい解説を袖になさるとは、何ともったいない!!!(笑)
#27 です。(字数がオーバーするので御容赦下さい)」
>>わたしに嘘や詭弁は通用しないと以前も申し上げたはずですが、改めてご留意ください。
当方に言わせれば、詭弁を弄されているのは貴方に過ぎません。
なぜならば、再三再四指摘している通り、助詞、助動詞、つまり主体的表現の語が何を表わしているのかを理解することなく、それに相違する議論を展開されても問題になりません。この点を正しく理解し、それが誤りであることを明確にされれば議論は異なりますが。
>>「東京に行く」という文に置いて、「に」は「東京」という着点を表わす格助詞である。
という意味ではない。
なぜなら、着点を表わしているのは「東京」であって「に」ではないのだから。
再三再四指摘している通り、文での意味ではなく格助詞「に」「で」の意義を問題にしていますが、前項の理解がないため無駄な議論を蒸し返しているだけです。
>>私の理解に間違いがありましたらご指摘ください。
最初から誤りと指摘していますが上記の通り理解できていないというだけです。
2.
>>『この文』とは、どの文を指しているのですか?
『・時間は、(空間と共に、)種種の現象が生起する舞台である。』で、比喩としては正しいということです。
きちんと引用すると、
じかん【時間】
(一)「時トキ(一)」の字音語的表現。〔空間と共に、種種の現象が生起する舞台であるが、空間と異なり 時間は 一つの方向にわれわれの所を過ぎ去って行くように 意識される〕
【新明解】
で、【空間と異なり】と書いてありますよね。
3.
>>「~に行く」
「~にもらう」
:
ということを、お認めになりますか?
当然です。意味から意義を抽出、抽象しなければならないと答えていますが。この、抽象ということが理解できていないと前回も指摘しているのですが。
4.
>>「時刻が進んでいき、5時という着点に至った時に始まる」という意図で
ここが、誤解です。「5時という時刻、時点【に】会議は【始る】」のです。
文に書かれていない、勝手なストーリーを語っても無意味です。
5.
>>「で」の本質的意義が「拠り所」だからだと、
この最初に記した通り、「で」は主体的表現で、「拠り所」などという客体を表わす語ではありません。
#27のお礼欄へ
No.25
- 回答日時:
#20です。
1.
>「もらう」という側から見れば、その<向かう先>である。
⇒当然というだけです。
「に」が着点だといいたいために方向を云々されていますが、最初から言っているように「に」自身に方向の意義はありません。
:
何度言えばわかりますかね?
小学生でも理解できるはずですが?
『「に」自身に方向の意義』がある、と誰がどこで言ったのですか???
いずれにせよ、
※ 「先生からご褒美をいただく(もらう)」という場合、 「もらう」という行為について見れば「先生」は「出どころ」ではあるが、「もらう」という側から見れば、その<向かう先>である。※
という記述は『当然』と理解できるのですね。
ここでの「褒美(もらう物)」は、自分(生徒)に向かっているはずです。
ですよね?
しかし、説明文では、
『「先生」は「出どころ」ではあるが、「もらう」という側から見れば、その<向かう先>である。』
と書かれている。
つまり、「(もらう)物」と「(もらう)動作」では、「向かう先」が異なるのだ、ということは理解したのではないんですか?
それを理解せずして『当然』という言葉は出てきようがありませんよね?
2.
>・時間は、(空間と共に、)種種の現象が生起する舞台である。
という意味ではないのですか?
⇒この文自体は正しい表現ですが、時間=空間ではなく、比喩表現だということです。
:
比喩でもなんでも構いませんよ。
そもそも、誰が「時間=空間」なんてこと言ったのですか?
いずれにせよ、
『正しい』なら、
・時間は、(空間と共に、)種種の現象が生起する舞台。
なのですね?
では、
『「舞台=場所」は了解です。でも時間、時刻ではありません。』という発言は取り消しますか?
3.
>変節ですね。以前は、しきりに、「東京」「先生」「生徒」を論じられていましたが。
:
「~に行く」
「~にもらう」
という構文に着目することで「に」の意義が明らかになる。
という点には反論なさらない、つまり、お認めになる、ということなんですね?
4.
>(「5時に会議が終わります。」)
「会議が始まって時刻が進んでいき、5時という着点に至った時に終わります」という意味になる。
と言い換えても構いませんよ。
これなら理解できますか?
⇒では、「5時に会議が始ります。」の場合は、「終わります」ではなく、「始る」なので、始点ですよね。
:
いえ、違います。
まだ、会議は始まっていない。
「時刻が進んでいき、5時という着点に至った時に始まる」わけです。
5.
>「で=手段、方法」と言っていますよね。<「学生]=[学校の生徒を表わす。]>、つまり「学生=学校の生徒」です。
:
日本語に対する基本的な理解ができていないようです。
<「学生]=[学校の生徒を表わす。]>
は間違っています。あくまで、
「学生=学校の生徒」です。
・あなたは「〇〇高校の生徒を表わす方」ですか?
ではなく、
・あなたは「〇〇高校の生徒」ですか?
と言います。
6.
(「家で仕事をする」という文においては、)
>「で」は、「(「する」という動作の)拠り所=空間的場所=家」を表わす。
⇒わからんお人ですなあ。(笑)
この文ではそうですが、「べんで書く。」の「で」が、「(「書く」という動作の)拠り所=空間的場所=家」を表わしますか。ペンで書くのは、文字、そして紙やノート【に】書きます。
:
おかしなことをおっしゃいますねえ。(笑)
現在の気温は何度ぐらいありますか?(笑)
『この文(「家で仕事をする」)では、そう(=「する」という動作の)拠り所=空間的場所=家」ですが、』
と認めておきながら、
『「べんで書く。」の「で」が、「(「書く」という動作の)拠り所=空間的場所=家」を表わしますか。』
とおっしゃる。
文が違うのですから、表わすものが違って当然では???
『この文における「で」は、』という字が見えないのでしょうか?
「で」の本質的意義は「拠り所」である、と申し上げたことは、まだ覚えておられますよね?
7.
hako⇒まず、「元気」という漢語の場合、その変化形に関して、
(ア) にあり⇒助動詞「なり」(元気なり)
(イ) にてある⇒である⇒であ⇒助動詞「だ」(元気だ)
という2つのパターンを想定して良いと思われます。
アス⇒その変化とは何を言われているのでしょうか。「なり」は判断の助動詞として一語であり、活用語尾ではないと最初から指摘していますが。
hako⇒活用語尾とは言ってませんが?
アス⇒では単語ですよね。
hako⇒単語じゃないと、どの箇所を見て思われたのですか?
アス⇒「活用語尾とは言ってませんが?」です。語尾でなければ、単語ですよね?
:
これが経緯です。
ご感想は?(笑)
活用語尾だとは一言も言ってないのに、しかも助動詞「なり」だと言っているのに、それに対する返信が、いきなり、
『「なり」は判断の助動詞として一語であり、活用語尾ではないと最初から指摘していますが。』です。
ご自身でもおかしいと思いますよね?
しかも、「活用語尾とは言ってませんが?」と言わなければ、活用語尾じゃなくて単語だと気づかなかった、ともおっしゃるわけですが、これもおかしいですよね?
最初からわかりそうなもんじゃありませんか。
まあ、勘違いということにしておきましょう。
私の書き方も悪かったのかもしれませんからね。
8.
>もう少し判り易く説明すると、<形容動詞>という品詞は、「元気だ」を一語とし、「元気」をその語幹とし、「だ」を単語ではなく活用語尾とするものです。
:
当然のことでしょうね。
9.
hako⇒「(元気)な」は「(元気)なり」の連体形じゃないのですか?
アス⇒ちがいます。それは、「なり」が活用語尾だということです。。
hako⇒「元気な」の「な」は、どんな『一語』なのですか?
助動詞「なり」の連体形ではない、とおっしゃるのですか?
アス⇒「な」は判断の助動詞「なり」という単語の連体形「なる」か「な」に転成したものです。
以前から説明していると思いますが。
:
聞いたことに明確に答えていただけませんかね?
以下に繰り返します。
「元気な」の「な」は、助動詞「なり」の連体形ではない、とおっしゃるのですか?
つまり、当初『ちがいます。それは、「なり」が活用語尾だということです。。』とおっしゃったのは、どういう意味ですか?
ということ。
10.
>なので、「元気な」は「元気」という単語+「な」という単語の二語であり、形容動詞という一単語ではないということです。
:
そういう考え方があることはわかっているので、そう言ってるじゃありませんか。
「元気」の形容詞性を強調したい派が、「元気だ」という形容動詞を作ったわけでしょ?
『「元気」という単語+「な」』を形容動詞ダ活用の連体形として取り入れることによって、どんな誤謬が生じるのか?
という点について論じていただかないと、単なる趣味の問題に帰してしまいますよ。
しょうもないことに拘らず、こうした点について語っていただきたいものです。
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先の質問のNo.13でも回答の通り、接尾語の「さ」で、「長さ」「軽さ」「良さ」「騒がしさ」「やりきれなさ」「男らしさ」「かたじけなさ」また「頑固さ」「大胆さ」「惨忍さ」「不思議さ」などと使用します。
これは、属性の存在自体を独立の対象として扱うことが必要になり、しかも属性それ自体として把握して【質的】に扱う場合と、実体化・凝結化して把握して【量的】に扱う場合と二つが要求されていて区別して表現しなければなりません。
前の場合の<接尾語>が「み」、後の場合の<接尾語>が「さ」です。
「暖かみ」「暖かさ」「高み」「高さ30m」「重み」「重さ60Kg」「明るみ」「明るさ10ルックス」「可愛さあまって憎さが百倍」などと使用します。
このように、属性表現の語である静詞に「み」「さ」が付加され、【質的】に扱う場合と、実体化・凝結化して把握して【量的】に扱う場合と二つの用法が生まれています。■
なお、静詞はNo.1のコメントで述べたように属性表現の語で、名詞ではありません。「真面目」も属性であり、それを実体化して量的に捉え表現する時に「真面目さ」と表現します。
これを直接実体的に捉えた表現が、「真面目が取り柄」などの名詞としての用法です。
対象を実体として捉え表現するのが名詞で、その属性を捉え表現するのが動詞、形容詞で、動詞は時間的に変化し発展する属性の概念化、形容詞は属性を静止し固定し変化しないものとして捉え概念化しています。
学校文法の形式主義/機能主義的な品詞定義では、この辺も不明確で、時枝の品詞理解にも機能主義的な面があり、形容動詞語幹を名詞と決め付ける誤りを犯しています。■
NO.6 への補足です。
また、格助詞「で」は何を表し、判断辞「だ」の連用形「で」は何を表し、格助詞と同形の「で」が何故異なる意義を持つのかを明らかにすべきです。
この点が、現在の辞書では曖昧で、混乱しているのは、先に指摘した通り「ので」の語釈を見てみれば明らかなことです。
こういった点を指して『基本的な理解の誤りが根底にある』と指摘しているものです。■
6.
>>つまり「東京=着点」ということなのであって、~格助詞「に」が必要になる、というのがこの文の構造。
何度も言いますが、文の構造や意味を問題にしているのではなく、格助詞「に」の意義を論じています。格助詞「に」がなくとも、「東京 行く」で、意味が伝わらないわけではありません。「行く」であれば「東京」が着点であることは判ります。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/questio …
で、「お見舞いに行きました
上の文で助詞(に)の意味が知りたいです
わかりやすく説明してくれると助かります」
という質問が出るように、「お見舞い=着点」では回答になりません。
7.
>>様々な解釈に通底する意味があるのは当然と言えば当然でしょう。
当然で、これが格助詞「で」「に」の意義です。
#14へ
>>「手段・条件」こそが思い付きではない正しい解釈である、ということを【論理的に】説明していただきましょう。できますか?
これまでの説明で明らかと思いますが、若干疲れ気味なので別途とさせていただきます。
>>お礼欄が短いと思うので回答欄をわけておきますね。
御高配痛み入ります。
>>判断辞「だ」とは、助動詞「だ」を指すと思われます。
おっしゃる通りです。したがって、「綺麗だ」の「だ」は助動詞ということになります。
>>「元気で」という連用形に格助詞「で」が絡んでいるのは明らかでしょう。※
「元気で」という連用形ではなく、静詞「元気」という一語+格助詞「で」という一語の計2語の句であり、これを一語とすることは誤りだということです。絡むとは何を言われているのでしょうか。
当方の提起を良く読んで下さい。
また、活用とは何かを正しく理解して下さい。
#15のお礼のことばへ
上の補足の続きです。
膠着語である日本語は、屈折語と異なり、単純で裸体的な意義を持つ語を粘着し文を組み立てるもので、屈折語のように活用により意義が変化したり、加わったりするのではありません。
しかし、「綺麗だ」は活用語尾とされる「だ」「で」「な」がそれぞれ意義を持ち、活用語尾ではなく一語です。従って、「綺麗だ」は二語であり、形容動詞という一語とするのは根本的な誤りということです。■
上記の補足です。
1.
もう少し判り易くするために「に」に関し次の質問をしておきます。
東京【に】行く。
大阪から東京【に】行きます。
大阪から東京まで行きます。
東京へ着くまで【に】なんとかして下さい。
明日まで【に】提出して下さい。
東京は日本のどこ【に】ありますか。
これらの「に」の意義と、「から」「まで」の相違と関連を述べて下さい。
2.
素晴らしい舞台で、時間の経つのを忘れた。
この舞台と時間は同じでしょうか。
3.
彼はとても元気だった。
すっかり元気になった。
「だ」「に」の意義を述べて下さい。■
少し、補足させていただくと形容動詞については、まずその定義が何であるのかをきちんと理解して下さい。
そして、助詞、助動詞については、再三再四指摘しているように、付属語などという形式的な定義ではなくそれが何を表わすものであるのかを理解しない限り平行線をたどるしかありません。
この点については、「付属語、自立語という誤り」のNo.1のコメントに主体的表現、客体的表現の定義を引用しておきましたので参照下さい。この内容が実感として理解できないと前に進めません。これが、ソシュールパラダイムを克服する第一歩なので、論理的に了解できるまで読み込まなければなりません。■