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時々思うのです。「人はどうして生きる」のでしょうか?
生あるものはいつか死にます。それなのにどうして苦労をして生きるのでしょうか?みなさんのご意見をお聞かせ下さい。

A 回答 (24件中1~10件)

簡単にまずひとこと。


死ぬのが恐いからでは。
今生きているのは事実で、それが変わってしまうことを恐れているのでは。

また何かあったら登場します。
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この回答へのお礼

ご意見を寄せていただきありがとうございました。
この問題は100人いれば100と通りの答えがあるのでしょうね。

お礼日時:2001/09/25 23:34

nctssさんどーも。

私も同じ疑問を抱いています。今もそのことで悩んでいます。ありきたりな台詞ですが「死ぬために生きる」と言う言葉があります。難しいですし矛盾しているように思えますが、私はまさにこれだと思っています。
私は自分が気持ちよく悔いの残らぬように「誰かのためまたは自分のため」に生きています。そして生きている中で何かをなしえたとき始めて「生きている実感」と言うものが味わえるのだと思います。大げさかもしれませんが、人は生あるものを糧にして生きています。その間に多くのものを犠牲にしています。
私は栄養学を専攻しているので、自分が今生きていることは多くの命を頂いている分悔いの残らぬよう感謝して充実した生き方をしようと考えています。
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この回答へのお礼

ご意見を寄せていただきありがとうございました。
nctssは生体工学を専攻しています。半分生物で半分機械のものです。
研究が進めば不死もかのかも知れません。
少し脱線しましたが、私がこの道を選んだのも生きる意味を探すためか
もしれませんね。

お礼日時:2001/09/25 23:39

 nctssさん、はじめまして。

スコンチョといいます。(^_^)

 他の方にも類似のご質問でお答えしたのですが、人が生きる理由ですよね。
私は「人は幸せになるために生きている」のだと思います。幸せの定義と
なると、また物議をかもすでしょうけど、とりあえず「幸せ」という満足を
充足させるために生き、世の為・人の為になる幸せを求めて生きているので
はないかと思います。

 蛇足ですが、幸せになる権利を放棄するという人は、自殺されても仕方な
いと思います。
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この回答へのお礼

ご意見を寄せていただきありがとうございました。
とてもよい参考になりました。

お礼日時:2001/09/25 23:43

私も時々,思います.



私は,生まれたとき息をしていなかったそうです.何とか息をして心臓もが動き出したのですが未熟児で,小さい頃は,3日に2日は病気をして病院通いでした.小学校に行きだしてから,しこたま海でおぼれたのですが運良く人に助けられました.また,大学生の頃は,機械で指をとばし・・・,いつになったらこんな災難が終わるのだろうと,家族の者は気が気でなかったようです.

しかし,不思議とどれも致命傷にはならず,今,生きています.最近,「ひょっとしたら自分は何かやらなければならないことがあるんんだろうか・・・.それで,生かされているのではないだろうか.」と,思うようになりました.

就職して,結婚して,普通に,生活して,いやなこともあり,おもしろくないこともあり,悶々としていましたが,急に,自分は何かをしなければ.と思うようになり,毎日,意欲的に時間を過ごしています.

それは,自分に何ができるだろうと考えたとき,自分で自分を見つけようと思ったときから毎日が意欲的なものになりました.

うまく言えませんが,今の私の心境を述べました.
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この回答へのお礼

ご意見を寄せていただきありがとうございました。
大変なご苦労をされたのですね。
nctssも負けないでよい人生を送りたいと思います。

お礼日時:2001/09/25 23:46

 わたしの場合の回答ですが。


 まずは「生まれたから」ですか。
 生きるチャンスをまずもらった、それをどこまで自分にとって(!)有効に使えるか。可能性と限界への挑戦。それがわたしが「生き続ける」理由です。
 生きていれば義務や責任など世のしがらみもできますが、基本的なところはあまり大差ないですね。
 できる限り後悔の少ない人生が理想です。
 急いでも放っておいても、いつかは「死」がやってくるのですから。

 宗教的な方だと、また違った答えがあるのでしょうけれど。
 
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この回答へのお礼

ご意見を寄せていただきありがとうございました。
そうですね。せっかく多くの生物の中から人として生まれたのだから
人生を生ある限り楽しまないと損ですよね。

お礼日時:2001/09/25 23:49

 初めましてnctccさん。


自分にとって久々、約1ヶ月ぶりの回答になります。
なんて、もったいつけるほどのことは書けないですが``r(^^;)

わたしもたまに考えます、わたしの方は「人」ではなく
「いきものってどうして~」って感じです。
いきものって生きてるからいきものですよね
何でいきてるんでしょね
しにものってありますかね 
誰かも言ってましたね「みんなしにもの」
しんでるものっていつか生きますかね
しにつづけることって苦労かしら

大体このようなことをぼろぼろと思って、終いに飽きて
興味のあるほかのことにアタマが行ってしまうのが常ですが、

さて、わたしは「どうせ死ぬなら何もする甲斐がない」とは思わない方です。
うつ的な気分のときは別にして、
「それはそれとして」「まあ、それはおいといて」
生きてる身分のうちにできることはやってみましょうかという感じで
日々やっています。
 わたしの中では「いつか死ぬ」ということと「今やっていることも消えうせる」
ということが結びつきません。そして、それはどんなに人の死を目にしても、
わたしには「いつか自分が死ぬ」という実感が欠けているということだと
思っています。
 一方血を吐くような思いをして自らの生に取り組み続ける人もいます。
相手は病魔だったり、貧困だったり、戦争だったり、少し前までは、
わたしの親の世代までは、もっとそれと背中合わせの実感で生きていたはずです。
でも同じ状況の中で、生きるのが辛いから投げ出そうとする人もいれば、
辛いけどでも生きようとする人もいます。

たぶん、辛さを越えて、何か得られるものがある、と思うからじゃないのかなあ。

例えば、自分は死んでもこどもたちが続いていけばいのちは続くと考えたり、
同じように幸せな社会を作ろうと思ったり、自分の作ったものは残ると考えて
それを一所懸命残そうとしたり・・・そんな感じだと思います。

それが本当にそうなのかはおいといて(あっ繰り返してしまった)
少なくとも「人」はそう考えるのではないでしょうか?

さて、ではほかのいきものは・・・?
ってここはわたしの質問の場ではありませんですね、失礼しました~
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この回答へのお礼

ご意見を寄せていただきありがとうございました。
「どうせ死ぬなら何もする甲斐がない」とは思いたくありませんね、
そんな人生悲しいすぎるから…。

お礼日時:2001/09/26 03:12

うーん、一言で言うと楽しい事があるから


難しく言うと進化論的にすべての生命は自らが生きるようにプログラミングされているから。楽しいと思う心は人を生かすためのプログラムといえる。
つまり、人に限らず生命は死ぬことよりも生きるほうがメリットがあると錯覚(あえて錯覚という)するようにプログラムされている。単純に言うと「死は恐ろしい」「生きる事は楽しい」という感情が働くため。

逆に私には死ぬ事のほうが不可思議である。
進化論的な立場から言うなら、物の成り立ち、生命の成り立ちからして、すべての物質はその形態を保持しようとする方向に進む。つまり、生きようとする。その生きるようにプログラムされている存在が老化によって死のうとする。まったく逆といえる作用が存在する事が不思議である。

一方、『死』それ自体が種としてのその生命を生き長らえさせるためのプログラムであるという考え方も有る。言いかえると『個体の死』は実は『種としての生』を意味している。
良い例がガン細胞だ。ガン細胞は細胞が無限に増殖する病気である。増えるべきでない細胞が増えるのだ。細胞は『死』をもって他の細胞を生かし、ひいては母体である人を生かすようにプログラムされている。

人という集団、地球の生命形態全体の中の人という集団・人個人にも当てはまるのではないだろうか?
人は個人の死によって他の人を生かす。
人という集団は戦争により自らに死を与える事により他の生命形態を生かす。
と、このようにも考えられる。

以上です。

ちなみに私は「死にたい」と思う心に対抗する心は「楽しい事が有る」「自害するくらいなら一発デカイ事をする」と言う心か。
結局、死という本能に起因する感情に対抗するには本能的な欲求に従う以外無いのではないだろうか?
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この回答へのお礼

ご意見を寄せていただきありがとうございました。
改めて本当にスゴイテーマだな~と思いました。

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今までご意見を寄せていただきた皆さんに

お礼のなかで皆さんのご意見を聞いて思ったことを率直に
一言書かせていただいおります。
万が一おきにさわる所がございましたらお知らせください。
又かさねてお礼させていただきますここは当分閉めないで多くのみなさんの意見を
聞こうと思ってます。

お礼日時:2001/09/26 03:21

「人は」というか「生物は」と、言い換えて「何故生きるか」を考えた時、「何故死ぬか」も当然のことながら問題になってきます。

鴨長明は、『方丈記』の冒頭で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。…」と書き、ギリシアの哲学者ヘラクレイトスは「同じ川には二度入れない」と言っていますが、流れない河の水は淀み腐り悪臭を放つようになります。生物に「死」が無かったら、生物は「進化」という現象を示さなかっただろうし、人は「文明」を創らなかっただろうし、第一、「私」は生きていなかっただろうと思うんです。ましてここでパソコンのキーを叩くなんてことはありえなかったと。

ニーチェか誰かがどこかで言っていたような気がするんですが、「何故、どうして」という言葉にできるような意味なんて無い、そんな意味は自分で作れ、と。「どうして生きるか」や「何故、死ぬか」という問いやその答えは、かつて「生まれた」という事実や、今「生きている」という事実、また未来に「死ぬ」であろう事実が、まず始めに理由無しに在って、それから人間の理性がそこに追いつこうとして発した問いなのだと思います。それは「宇宙は何故あるのですか?」という問いと大差なく、「本当の」答えの存在し得ない問いなのだと思います。

結局、何故生きているのかということの答えは、死にたくないから生きている、死ねないから生きている、それほどのことでしかないような気がします。家族の顔とか友達の顔とか思い浮かべたら、死ねないという気がしますよね。あるいは自分は、こんなことがしたいとか、そういう夢や希望を持っていても死ねないような気がします。死ねたら死んでます、多分。
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この回答へのお礼

お礼が遅れてすいませんでした。
回答ありがとうございました。
本当にその通りですよね。

お礼日時:2001/10/05 05:19

生きている事の意味での答えですが、


自分の子供を作り育てることです。
原始的な種の保存の為です。

といいながら、

別な方から始めた宗教が有ります。
なぜ人々は苦しんでいるのに生きようとするのかではなく、
苦しみの源泉は何処に有るのかあらわし、苦しみの根源をとりはぶこうしたのが釈迦です。

仏教の基本は生老病死の現実は何かから始まりました。
従って釈尊は生老病死の源泉は何処に有るかと解明かしたので、仏陀になったのです。
(仏様=仏陀でありません)
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この回答へのお礼

お礼が遅れてすいませんでした。
回答ありがとうございました。
大変参考になりました。

お礼日時:2001/10/05 05:20

気がつくと「世界」が、あったからです。

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この回答へのお礼

お礼が遅れてすいませんでした。
回答ありがとうございました。
なるほど。

お礼日時:2001/10/05 05:21

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