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宗教の自由とは、日本政府が国民に認めてるってことであってですね、個人間の結婚のレベルで言うのはオカシイですよ。それではまるで自立心がなさすぎです。例 幼稚園児がその遊びは危ないからだめって先生が言うてたのにーって感じと同じです。遊び(結婚)は個人間での同意事項ですから先生とか政府は関係ないよ!

あと酒に酔って暴れる亭主と創価学会員の亭主とどっちがええか?
 これは暴れるという害と、奥さんの認識内(価値観)で理解できない恐怖(行動)とどっちがましか?これは、もう貴女(奥さん)の育ってきた環境次第ですね。

って考えるのは間違いですか?

A 回答 (9件)

補足ありがとうございました。


>ええですか?絶対的な価値観ってのは存在します。君をそれを捜す旅に出よう。
>絶対の根拠とは、わしの人生を通しての経験則から生まれた信念。
う~ん、よく分からなくなってきたけど、つまり私はmomoさんを探す旅にでるべきだということかな。
と、こういうのはもういいんですけど、momoさんはまたどこか行ってしまったの?
すぐどこかに行ってしまうんだから困ったものです。
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>人の価値観を認め合うのは崇高なこと ってのはね君のような使い方で解釈して


>は駄目なんですよ。君の解釈は「自分の行動を許してくれ~~!」
>(君の行動を許すかわりに、私の行動も許してね)って意味で
>使っているだけですよ!気をつけてね!usapさん!
>本来の意味はね、一つの目標のためにはいろんな手段があるってことで、
>目標の違う手段を認め合うってことじゃないのよ!

↑これは私も同感です。私は君の行動を許す代わりに、私の行動も許してね、という意味で使ってはいません。赤信号をみんなで渡ればこわくない、みたいで同じような悪いことをするために、自分も認めるし相手も認める、そういうつもりはありません。

>しかも、認め合うものってのには、条件があってね
>絶対的な価値がないといけないのよ。

認め合うものってのには~(中略)~絶対的な価値、ですが、私が思うその条件と絶対的な価値は「法律」と「モラル」です。法律だけではモラルの低い人にとっては都合の良い解釈をして悪用されがちなものだと私は思っています。宗教は宗教法人という認められた組織です。それをモラルの低い人は悪用します。宗教が悪いのではなく、モラルの低い人の行動が原因だと私は思うのです。暴れる亭主でも、奥さんの認識内で理解できない恐怖でも、その個人の判断によるものだと私は思います。いくらいい宗教の教え、いくらいい法律、そんなものがあってもモラルの低い人ならダメにしてしまうだろうと思います。それこそ馬の耳に念仏、だと思います。

集団でなく個人で判断したい、そう思うのは個人のモラルを問いたいからです。オウムのようにサリン事件を起こす人ばかりが日本人ではないように、宗教は悪い物だ、宗教家は過激だ、そういう絶対的な価値、というのはないと思っています。しいて言うのなら、必要十分条件です。個人がその行動を起こすことの必要十分条件がなんなのか、私が問いたいのはモラルとその行動の目的です。絶対的な価値は、それこそ宗教的考えだと私は思います。絶対的な価値とは、他を認めないことですよね?

私は宗教はしません。宗教をしている人に宗教をしないとあなたは不幸だと言われるのもいやだし、宗教をしていることは不幸だと言うのもいやだ、そういう意味です。私は宗教家を認めるから、無宗教の私も認めてくれ、そういう意味で言っているのではありません。絶対的な価値が存在するとすれば、それは私が決める物です。私は宗教をする価値を感じません。私がどこかの宗教に絶対的な価値を感じることがもしも万が一この先あるとしても、それは私が決めたことです。誰かにそそのかされたとしてもなんにしても、私が決めたことです。宗教が全面的にいいものだ、そうは思いません。人の心の弱みにつけこんで、やれつぼを買えだとか、へんてこ占い師が印鑑を買えだとか、そういうことをする人も嫌いだし、そんな物を買ったくらいでしあわせになれると思ってる人も嫌いです。絶対的な価値のものに言われるままになる自己がない人はいやだという意味です。

でも、残念ながら、人はそんなに強くはないと思っています。無宗教の私でさえ、妙なおまじないを唱えたくなるような時もあるし、いるのかどうかよくわからない神様に祈りたい気持ちになることもあります。で、もしも祈ったあとにいい結果が出たとします。そしたら「神様に祈ったからかも」なんて思うかもしれません。自分で努力した結果が、神様のおかげだ、なんて思う人は少しかわいそうな気もします。自分で努力した結果だ!と思えるほうがずっとうれしいように私は思います。みんなが支えてくれたからだ!そう思えるほうがずっとしあわせなんじゃないかと思ったりもします。でもです。努力したりつらいことを乗り越えたりする時に、心の支えになったり心の平安を保つことができるものがその人にとって自分自身よりも宗教(神様やシンボル)なのだとしたら、それはそれでいいと思います。神様が見ているから、と自分のモラルを守ることができるのなら、それはそれでいいと思うのです。どこかの宗教では子供にまともに教育を受けさせなかったり、血が汚れるとかなんとか言って輸血を拒んだり、私から見ればわけのわからないことをするなぁと思う人もいます。そういう人はおそらく、宗教をしてもしなくてもそういう人なんじゃないか、と私は思うのです。だって、そういうわけがわからない人って、宗教に限ったことじゃないと思うんですよ。なんだか知らないけど、悪徳ネズミ講かなんかやってたり、悪徳キャッチセールスをしてる人も、過激な宗教家と変わらないんじゃないかと私は思います。「これさえすればしあわせになれる」と思い込んで信じぬくその純粋さや一途さやひたむきさは尊敬します。そういうことが必要な場面、たとえば入試などではありますが、どうも方向が違ってる人がいるんです。極端に自分のことしか考えられない狭い視野を持つ短絡的な人、そういう人達が宗教だけに限ったことではない、私はそう思うのです。集団で見るのではなく、個人を見たい、そう思うのはそういう理由なんです。間違ったことをしていたら、宗教が悪いとかではなく、その個人が悪い、そう思いたいのです。いいことをしていたら、宗教がいいのではなく、個人がいい、そういう評価をしたいと思っています。個人がいいから、そういう個人で作られた集団だからいい、そういうほうが好きです。たとえいいと思われる集団でも、わけのわからない個人の1人くらいはいるものだと思っています。だからいい団体と言われるところの人を見るときも、あくまで個人、私はそう思っています。だからこそ、私は宗教はしません。どんなにしあわせそうにしている宗教家の人が熱心な勧誘をしても、「その団体(宗教)にいるからしあわせになれるのね!」とは思いたくないんです。その人はステキだった、それで十分だと思っているからです。

というわけで、この質問の発生のきっかけになった質問への私の回答は、あのような感じになりました。宗教に狂う彼だったら、彼女は結婚を考えたかしら、と思ったからです。彼女のことも大切にしてくれていると彼女は思ったから、宗教だけがネックになってるのかな、と思ったからです。私個人の価値観の判断で、悪いと思う物を見てみぬふりをするつもりなんてありません。創価学会に対してそこまで否定的になれないのは、私の母方の祖父の親戚は創価学会だからかもしれません。悪い人だとは思えないからです。そして、私の母と母方の祖母は早くに亡くなったので、祖父は毎朝毎晩、母と祖母のために日蓮のお経をあげています。祖父は創価学会にしつこく勧誘されたそうですが、それを断りました。お経と仏壇、それから葬式は親戚におまかせして創価学会葬風でした。別に何でもよかったんです。こちらが強い意志を持っていれば、宗教勧誘を断ることはできます。私の祖父のように母と祖母の供養のためにお経をあげる人もいるかもしれない、そう思うんです。母が亡くなる前に勧誘されていても、私は断ったと思います。私は友人に創価学会の子がいましたが、きっぱりお断りしました。それで友達関係が終わるのなら、それはそれまでの人だと思おうとしましたが、結局は友達関係が変わることはありませんでした。宗教でも無宗教でも何でも宗教や学校や団体のせいにはしたくありません。こういう団体のこういう人はたいていこういうものだ、そのステレオタイプな判断が人生を狂わせるかもしれない、それが私にとっての危機意識です。

しあわせの価値観の違いを認める、ということですが、違うものの全てを受け入れる、というわけではありません。私の持つ価値観やモラルによる個人的な判断をします。ただ、私の正義がどこまで通用するのかはわからないので、相手の主張も聞き、十分に検討するつもりです。私が価値観の違う人に対して取る行動は、おそらく、いやなことはいやだと言うことくらいだと思います。私には社会から排除する目的はありませんから、とりあえず、私は拒絶する、というだけです。
なるべく偏見を持たずに、個人の人間性を見たいというのが私の理想です。

素直な気持ちで読んだつもりです!
率直な私の感想です。
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>いろんな人がいますからね。

また、いろんな人がいるから世の中回っている
> ↑ 
> これは完全に間違いです。悪い価値観とか持った人間は無視するだけではだめで>す。排除する方向で常に行動してこそ人類の発展へと結びつくのです。

この『排除』の意味はなんですか?
→まさかテロリズムの肯定ですか?(私的な無差別殺人とか?)

>「お互いの>価値観を認め合おう」なんてそんなスローガンみたいな戯れ言を信じ
>ないでください。世の中は戦後君が考えてるようには変化しておりませんよ。依然
>として悪は、はびこっております。

ここで言っている悪とは何ですか?

>ええですか?絶対的な価値観ってのは存在します。君をそれを捜す旅に出よう。
>取捨選択は自己責任で!ってのは逃げてるのですよ。男やったら立ち向かえ!

この絶対的な価値観とは、ユダヤ教ファミリーの唯一神(The Creater)や、儒教の八孝等を指すのですか?
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集団による威嚇は私も好きではありません。


でも、属している集団を見て個人を見ることも好きではありません。
宗教に限らず、会社、出身大学、そういうことでの個人に対する判断です。
それは『木を見て森を見ず』の反対で、『森を見て木を見ず』だと思います。
広い視野で見ることも大切ですが、個人がどうであるのか、どういう価値観を持って行動をしているのか、私は結果よりもその経緯や背景のほうに興味があるし、重視したいと思っています。

所属している宗教がどうだ、と言うよりも、個人のその宗教の位置付け、その方が大切だと思います。たとえば、今話題のテロの場合なら、アラブ人全体が悪だとか、イスラム教が悪だとか、宗教は良くないとか、そういう見方はしたくないという意味です。長い年月続いているものには、それなりの理由があるのだろうと思います。巨人ファンに阪神ファンの気持ちは理解できないかもしれませんが、どちらがいいとか悪いとかそういう問題ではないように思います。多少極端かもしれませんが、宗教を信じる信じないもそれと同様なことじゃないかなと思っています。私は福岡なので土地柄ダイエーファンが多いのですが、優勝すると誰かが中洲の川に飛び込みますが、ダイエーファンのみんながそうするわけではありません。博多と言うだけで、毎日ラーメンを食べていると思われたりもしますが(笑)それは違います。中にはそういう人もいるかもしれないけど・・・という具合です。

創価学会には確かに過激な宗教活動家がいますが、全員がそうではありません。私の友人は、家族一同創価学会でしたが、友人としてつきあいには何の支障も感じませんでした。勧誘されたこともありましたが、それを断った後も普通に友達でいました。偏見を持って、その人の行動の全てを創価学会に結びつけるのは危険な行為です。たとえば、ある保険屋の友達を持つとその人の保険会社に加入しなくてはいけないんではないか、というような危機感と似ているような気がします。断りにくい勧誘でも毅然と対応すること、それが大切だと思います。その人の所属している団体その個人が全て一致している、そうは思いません。団体=個人、ではないという考え方です。個人はあくまでも個人、そういう意味で宗教・思想の自由は大切にしたいと思います。

結婚をすること=相手の価値観の全てに同調・共感すること、ではないと思います。二人の価値観や考え方や生活習慣などの違いで、受け入れられることと受け入れられないこと、違いとして認めるのが難しいこと、それがたまたま宗教であった、私はそういう見方です。それを理由に別れる二人もいるだろうし、それはそれとしてお互いにどこかでうまく折り合いをつけながらやっていく二人もいるだろうと思います。

宗教をやっていたら家庭の崩壊を招く、というくらいなら、パチンコや競馬や競艇もどこかの家庭の崩壊を招いているかもしれません。誰かにとっての休息の場所は、誰かにとっては不適切な場所であるかもしれません。限度は大切です。企業が生き残りをかけて行うリストラも、誰かの家庭を壊しているかもしれないし、弱い者を守れないのかもしれません。正義感は大切ですが、行き過ぎて『聖戦(ジハード)』というような形にはして欲しくはないなぁと願います。幸せの価値観はそれぞれで、他人が人の幸せを決めることはできないんじゃないかと思っています。ちなみに私は無宗教です。参考までに。
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この回答へのお礼

>幸せの価値観はそれぞれで、他人が人の幸せを決めることはできないんじゃないかと思っています。
 ↑間違い

 上記のようなことを言うのははやりか?
人の価値観を認め合うのは崇高なこと ってのはね君のような使い方で解釈しては駄目なんですよ。君の解釈は「自分の行動を許してくれ~~!」(君の行動を許すかわりに、私の行動も許してね)って意味で使っているだけですよ!気をつけてね!usapさん!
本来の意味はね、一つの目標のためにはいろんな手段があるってことで、目標の違う手段を認め合うってことじゃないのよ!しかも、認め合うものってのには、条件があってね絶対的な価値がないといけないのよ。
 了解?
 ps
 気を悪くしないでね!そういう間違った考え方をする女性の方は結構多いのよ。でも、そこから脱却しないとね。
わしは君のファンですから、一度会って話したいと思ってくらいですから素直な気持ちになって読んでくださいね。頼むから、貴女の価値観を変える(修正する)余裕があることを切に祈ります。
 

お礼日時:2001/10/24 12:27

叱咤激励ありがとうございます。


ところで、いくつか聞きたいことがあります。momoさんの言う“排除”とはどういう意味でしょう?その絶対的な価値観に合わない人たちを“抹殺”することでしょうか?それと絶対的な価値観(たぶん正義のことだと思いますが)の“絶対”の根拠は何処にあるのでしょうか?まさかmomoさんの経験に起因しているということはないですよね?
よろしゅう~!
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この回答へのお礼

排除とは、無に帰すること(抹殺じゃないよ!)

絶対の根拠とは、わしの人生を通しての経験則から生まれた信念。(・・でないと宗教に頼らざる負えないことになる)

ま!人間にとっては宗教とかが必要なのは理解できますよ。経験値でまけてしまいますからね!でも、一人の人生でも結構な教典つくれまっせ!

 おのれを信じていけ!!

お礼日時:2001/10/24 12:14

 間違いだとも思わないし、おっしゃりたいこともわかると思うんですけど、、、



 宗教に入信してる人って、宗教にもその信心深さにもよるけれど、宗教組織がその人の世界の一部というか、世界を見る時のフィルターというか、生活の礎というか……
 だから、宗教団体から否定されるような結婚ってことになると、入信している側にとっては大問題だろうと思いますよ。
 結婚そのものを信者間でしか認めないところもあるし、結婚相手を入信させなければ組織での自分の立場が思いきり悪くなったりするところもあるでしょうし。
 愛か、自分の見ている世界の崩壊か、、お互いにそういう選択肢に見えることでしょう。

 だから、入信している人と結婚しようかという段階になった人が悩むのも、無理はないとわたしは思います。
 親にしても、自分の子が理性的判断ができないように洗脳されるかもしれないってのは、そこまでなるとは限らないって言われても、そうなる可能性があると思うだけで、許しがたいと思うでしょう。
 どのみち結婚で他人のモノになっちゃうとはいえ。

 自分のオリジナルの世界観、確固たる信念を持てる人って、それほど多くはないですよ。だから世界的にも宗教が滅びないんだと思います。
 それほどの信念を持たずとも生きていける指針を示すことこそが、ほとんどの宗教の「売り」でしょうから。
 いきなり愛の為にその指針を捨てろと言っても難しいでしょうし、逆に愛の為にその指針を受け入れろと言っても難しいでしょう。。
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質問No.154478の質問・回答内容に憤慨しているのでしょうか。



宗教の自由と結婚を結びつけるのはオカシイというのは当然です。
また、ご本人の父親もそのことは十分承知しているはずです。
しかし、いざ自分の娘が学会員と結婚するとなれば
宗教(学会)を理由に反対してしまう
気持ちも分からなくはないと思います。

もし、momo99さんの息子や娘だったらどうでしょうか?

momo99さんはたぶんお若いと思いますので
当人同士の自由という考えでしょうけど
年配の人はなかなか柔軟な考えが出来ないということを
理解する必要もあるかと思います。

しかし、結婚はいくら個人間の同意といっても
周りの人達、特に両親が祝福してくれない結婚が
どれだけ惨めかわかりますか?

ものごとは、相手のこともよく考えて、
また、よく話し合ってお互い理解し合えるのが
いいと思いますがいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

はじめまして
わしが若い?っても36才になります。独身です。

いままで、新興宗教に逃げてる人々を沢山見てきました。ハッキリ言って可哀想です。なにか頼るべき者(もの)を必要としているような弱い人または弱ってる人です。このサイトでも弱い人を強くなるようにアドバイスを続けてきましたが、なかなか理解してもらうのは難しいです。

話し合って? ←いったいナニを話し合うの?たぶんこの先の質問者はどうしても理解できない選択をしている彼とその家族に困惑してる状態です。彼女にとっては、銀行強盗する人間の価値観の方が理解の範囲内でしょう。結婚なんてのはまさしく生活の砦です。砦の中に、トロイの木馬を入れるのはやめましょう。

お礼日時:2001/10/20 22:56

「自分の価値観に合致しない人には近づかないのが良い」


以前このようなこと言ってませんでしたか?
究極的にはこういうことではないのでしょうか。
いろんな人がいますからね。また、いろんな人がいるから世の中回っている
とも言えますが。取捨選択は自己責任で!
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この回答へのお礼

こんばんは
昔社会勉強のため、創価学会等新興宗教団体のゲスト・自己啓発セミナ等マルチ商法の集いのゲスト周りってのをやってたことがあります。勿論、自分の生活圏内には入れません。以上のことは以前に発言しております。
 このように社会派ジャーナリストとしての研究は日頃よ
り怠ることなく続けております。

本文
いろんな人がいますからね。また、いろんな人がいるから世の中回っている
 ↑ 
 これは完全に間違いです。悪い価値観とか持った人間は無視するだけではだめです。排除する方向で常に行動してこそ人類の発展へと結びつくのです。「お互いの価値観を認め合おう」なんてそんなスローガンみたいな戯れ言を信じないでください。世の中は戦後君が考えてるようには変化しておりませんよ。依然として悪は、はびこっております。
 同じく自己責任なんて言葉も、一般国民全員に呼びかけるものではありません。世が自己責任を認めてるのであれば、シートベルトの着用義務・健康保険・年金制度はまったく否定されるべきものとなります。

ええですか?絶対的な価値観ってのは存在します。君をそれを捜す旅に出よう。取捨選択は自己責任で!ってのは逃げてるのですよ。男やったら立ち向かえ!

お礼日時:2001/10/20 22:44

同感です。


結婚に絡む思想や価値観の違いは何も宗教に限ったことではないと思うし、宗教だからといって特別視する必要もないように思います。宗教に敏感になりすぎて肝心なことを見失っているんじゃないかと心配になります。
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この回答へのお礼

こんばんは!
わしは元来集団行動が嫌いですからね。
集団行動で威嚇する新興宗教には心底
胸くそ悪くさせられます。

 邦画で「八甲田山」(高倉健主演)の
映画をみると集団行動のばからしさを感じ
ずにはいられませんでした。是非、観てく
ださいまし。

お礼日時:2001/10/20 22:27

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