一筆啓上。
倉田百三世代の身にとって、人生に於ける愛と友情は深遠な問いでした。
「愛」と「友情」はあい矛盾するのか。
私見では「愛」が可変的な、そして途上にあってときとして緊張をもたらす感情であるのに比べ、「友情」は相手を慮る一歩引いた思いであり、「愛」のきりきりした、場合に依っては人を窒息させもする激越な感情をセーブするに、「友情」の感情は程好い鎮静剤的役割をもたらすと考えます。
つまり現代の傾向;友情は愛より劣る、といった捉え方ではなく、愛と友情その両輪のアプローチが、その二人の心地良い絆の維持に寄与するのではないだろうか、と思う次第です。
「愛」は人々が思うほど、万能ではないのではないか。
それを思うと友情の建設的要素というのは、意外に多大ではないだろうか。
あなたはどうお思いになりますか・・?
よろしければ、少しお聞かせください。
当方、ときどき迷い有り、です。
No.1
- 回答日時:
「愛」と「友情」は別のものなどで比較の対照にするのは無理があるような・・・。
まず「愛」「友」「情」がそれぞれ違うと思います。
愛情を持って結婚した男女は、ほとんどの方たちは、愛の部分が小さくなり、より情が深くなっていくのでは?
反意語で考えると、愛の反意語は良く「憎」と言われますが、国語の時間で習ったのは「無関心」だそうです。
じぁ「友」の反意語は何?「敵」じゃなく「他人」?
「情」は・・・
難しい問題には答えられません。(;;)
ご回答ありがとうございます。
缶コーヒーメーカーのCMだったと思いますが、起用された男性若手俳優(?)が、「愛だ、愛!」と叫んでおりました。そして某民放のフレーズ「愛は地球を救う」。
が、とりあえず地球50億の人々を想定した愛ではなく、この場合は男女の中で起きる最も私的で内密な関係下に於ける機微を、主に考えています。
愛、友情、情・・これらは各々が別個で、その自他共なる変化過程によって各々の形状を見せる、というお考えなのでしょうか・・?
近年学校では愛の反意語を「無関心」と教えるのですか? 一理有るとも思いますが、それでも「無関心」の反意語は、「探求心」「知的好奇心」ではないだろうかと個人的には思いますが。その(学校が教える)レベルで申したら、「自殺する」の反意語さえも、「愛」になりますね(剣呑な例ですみません)。
「友」の反意語は、何でしょうね・・ 「自己」でしょうか?
「情」の反意語は、「冷たさ」でしょうか・・
古来言われているように、やはり「愛憎」と有るように、「愛」の裏側には「憎」という極めてネガティブな感情が控えているのかもしれません。その極端さが重いです、私としては。
ですからもっと静かな春の海のように穏やかな心の有り様・・、その維持のために、あまり「愛」を過大評価することもせず、友情を過小評価することもなく・・ その双方からの実践の道を問いたいのです。
No.2
- 回答日時:
当方まだまだ未熟な若輩者です。
なので自分の考えだけを述べるのであって、それが正解だとは全然思っていないことをお察しください。
「男」「女」間の友情というものは存在しないのではと考えます。
男と女の関係を強調して考えるなら、そこに本能的要素が存在し、その阻害効果が大きく幅を効かせてしまうのではないでしょうか。
ただ男と女として関係が同性同士のような存在にすりかわってしまったとき、そこに友情が存在したとしても不思議ではないとも考えます。
そういう意味で友情が愛に劣るというのは違うんではないかと思います。
さてはて難しいですな。
ご回答ありがとうございます。こちらも年は行っても未熟者ですので、年代に関わらずお考えを伺えて有り難いことと思います。
やはり、愛、友情が個別に林立していて、変化を余儀なくされた場合詮方なく愛から友情への変化が有り得る、というご趣旨でしょうか。
「そこに本能的要素が存在し、その阻害効果が大きく幅を効かせてしまうのではないでしょうか。」
これはいわゆるエロスの有無、ということをおっしゃっているのでしょうか。つまり本能を満たす部分が何らかの阻害要因で遮断されると、それにすり替わって「友情」が存在し、それで納得するといったように・・
男女間に友情は存在しない・・。
一理あると存じます。同性ならば少々嫌な面が見えても、社会的に互いが繋がっているならとりあえず表面を取り繕って、何事もないかのように振る舞いもしましょうが、端的な男女一組の場合、そこまでの無理は到底出来ないという風なのでしょうね。
ですから、別れか続くかの二つに一つであると。
一ご意見として、謹聴させていただきます。
また何か思われましたら、お聞かせください。
ありがとうございました。
No.3ベストアンサー
- 回答日時:
質問者様のおっしゃる「愛」と私の思っている「愛」とは少々使われる場面が違うかもしれませんが、私は「愛」とは相手をあるがままに認めることだとおもっています。
この(究極の)愛はなかなか難しく、ついつい自分の都合と世界観からそれに沿ったものを相手に要求したくなるのですが、感情に任せてしまうといい結果は得られたためしが無いように思われます。
もし、相手に強く求め、要求する「愛」ならば、これは「愛」というより、自分の心の中で作り上げた自己の世界を実現するために相手に強要することなのではないでしょうか。
ですから、もし相手がきいてくれれば愛してくれていることになり、きいてくれなければ、「心変わりした」又は「裏切られた」ことになるのではないでしょうか。
これは相手の心変わりというより、相手に対する当初からの誤解、又は、自己の世界観の誤った投影といえるかもしれません。
「愛」とは自分よりずっと劣った、遅れた者にも苛立つことなく、過去の未熟だった頃の自分を重ね合わせ、理解し、将来成長出来るであろうことを予測し、その存在を否定することなく認め、見守り、相手が必要とした時にアドバイスすることだと思います。
と書いてしまうと、愛の情熱も欲求も無くつまらなそうに聞こえますが、いえいえそんなことはありません。
こういう愛こそは情熱がないと続かないと思います。
使命感もなければならないでしょう。
その使命感に対する熱い情熱です。
ということは、「愛」とは熱い情熱でしょうか。
では「友情」とは・・・
志、又は何かに対する感情、情熱を同じくするもの同士が心を通わせ、感情を豊かに膨らませ、楽しむ行為ではないでしょうか。
このとき、両者は対等でお互い与えあっているとおもいます。
「愛」において一方的に与えてばかりにみえても、じつは与えることにより、「与える」という心の豊かさをもらっている(心のなかに築いている)とおもいます。
又、与えられるばかりの人が居たとしても、その人は与えてくれる人に対し、「人に与えることによって得られる心の豊かさ」を与えているともいえるとおもいます。
結局、「愛」も「友情」も与え合う関係なのではないでしょうか。
もし、質問者様の意図するところから外れているときはどうぞお許し下さい。
tokytimeさん、こんばんは。
私の愚問にお目を止め、このようにお答えくださり、ありがとうございます。ときどき他の質問者さんへのご回答に触れ、心が洗われる思いを頂戴しておりましたので、今回私の拙い問いに直接お答えをいただけ本当に有り難く、胸がいっぱいです・・。
そうなのですね・・
相手をあるがまま受け止める、これが「如是」ですね。
明治の近代化に伴い、日本には西洋から多くの科学がやってまいり、そして今も「ベストパートナーは?」というアドバイス本が盛んではありますが(例えば『嘘つき男と泣き虫女』などのように)、私はそれらのハウツー本を批判はいたしませんが、やはりあまりに科学で割り切られたのみの文言を読みますと、心が遠のくのを覚えるのです。
友情も愛も「自己」という主体があればこそであり、それへの試しであり、揺り動かしであるのだろうと思うところです。
「もし、相手に強く求め、要求する「愛」ならば、これは「愛」というより、自分の心の中で作り上げた自己の世界を実現するために相手に強要することなのではないでしょうか。ですから、もし相手がきいてくれれば愛してくれていることになり、きいてくれなければ、「心変わりした」又は「裏切られた」ことになるのではないでしょうか。」
そうなのです・・ この「変節」を傍で口にする人がとても近くにいたり、自分までもその言葉にいささか煽られてしまうとき、正しい愛の困難さに悄然とします(お付き合いをしていた男性に再々デートを断られている、知人である或る若い女性が、その男性のことを”何様のつもり?!”と。私としては、その女性の「愛」が分からなくなったのです)・・tokytimeさんのおっしゃっていることは、正しくこのことと合致いたします。
「愛とは熱い情熱。そして友情とはそれを共感し合う二人が共に楽しむこと」
おっしゃる通りだと、私も思います。
与えることの喜び、
尽くすことの喜び。使命感。そこからの心の充溢。
私は喜びをいただいているのですね。
その喜びを思えば、友情だとか愛だとかの区分けさえ、徒労のように見えてまいります。
未だ迷える羊の身ですが、今夜はtokytimeさんから奇跡のようにたまわったお言葉を反芻し、眠りに就きたく思います。
どうもありがとうございました。
No.4
- 回答日時:
一筆啓上。
(真似ました♪)私見は、男女の愛は、凸と凹でございます。精神よりも肉体が勝って、欠落の補完関係です。
男らしい男+女らしい女=性の完成。「性」は心を生かすと書きますが、肉体(体液)の交換(浸透)によって触発される、満ちる憧れのように思います。
現代においては価値観が多様化し、そうとばかりは言い切れないのですけれど。その辺は詳しくないです。
友は仲間ですから「異体同心」。向き合ったり重なったりはあまりしないけれど、同じ方向を向いて並んで進むという絆があります。
男女の区別なく補完の絆なら「愛」
仲間の絆なら「友」と思います。
愛も同化し出すと友になるようですね。
「情」の響きには哀愁を感じるのです。アンティークとか。実体積よりも、時間軸上の体積がある感じです。愛が芽生えたばかりとか、仲間が出来ただけで直ぐ「情」を付加出来ない気がします。
愛は動詞ですから(←未確認発表)つまり「育む」という目的をさせる能力ですから、そういう意味で使うなら誰の人生に於いて使っても、種を越えても、学問や地球に対して使っても大丈夫に思います。
因みに私が思う愛の対義語は「依存」です。
miko-desiさん、こんにちは。
ご回答、ありがとうございます。
おっしゃるように、男女の性差の象徴が凹凸ですね。
凹も凹で不完全であり、凸も凸でまた不完全であると。
凹と凸の合体で初めて人は完全であり、「和合」に至ると。これがアジアの思想ですね。
「愛は向き合うこと、そして友情は共に同じ方向を見る」というお言葉、新鮮でした。
そして、「私が思う愛の対義語は『依存』です」
宿題を頂戴した思いです。
その意味で、本当の自立とは何か・・ですね。
どうもありがとうございました。
No.5
- 回答日時:
心惹かれる問いなので、私見ではございますが一筆。
まず、「愛」についての私見ですが、「自分自身を宇宙を構成する一要素である」と認識する事のように思います。つまり、普段私達はさも自我と言うものを確実に存在するものとして考えがちですが、それは、宇宙という存在の思考の一部でしかないと私は考えます。ただ、この愛と、男女の愛は性質が違うのでちょっと書きたくなりました。
男女の愛を考察する場合、「不変の愛」「可変の愛」に分ける事ができると思います。現日本にあっては、血族に対する愛情は「不変の愛」、他人に対する愛情は「可変の愛」だと感じます。不変の愛を誓わせるものは同族としてのプライドなのかもしれません。つまり、異族との間にはある種の利益がある場合にのみ「愛」が発生すると思うのです。利益とは、金銭であったり、sexであったり、心の平安であったりと言う事ですが、それが無くなれば「愛」も無くなると言う事です。仮に夫婦であっても子どもや孫への「愛」は不変でも、伴侶への「愛」は不変ではない・・最近はやりの熟年離婚などは良い例ですよね。その事を考える時に、「友情」とは「愛」が内包する一形態では無いと言う事が言えると思います。
「友情」は自分の意思によって如何様にも変化をさせる事ができます。「愛」と「友情」の決定的な違いは、「愛」には自分を犠牲にできるが、「友情」には自分を犠牲にできないという点ではないでしょうか。熟年離婚した夫婦がお互いに「愛」でも「友情」という絆で結びつけないのは、そこにプライドがあるからだと思いますが、そういう点でも、「友情」とは極めてドライな信頼関係だとも言えると思います。つまり、「友情」とは理屈の上に成り立つものだと・・・・。
「愛」と「友情」は矛盾するどころか、全く別の感情の様に思います。「友情」はある種打算的で計画的な行動によってのみ発生しうる。「愛」は意思に関係なく発生する。その二つは一見似ているようで、その性格は全く異なっている。では、「友情に建設的要素は無いのか?」と問われば、私は、「建設的要素の無い友情はありえない、しかし、愛情と友情の共存もありえない。」と答えます。両者とも、人生を潤してくれるものにかわりはないですし、無くてはならないものですから。
結局「男女の愛って何?」という話ですが、私が思うに、もともと自分の意思と関係ない所で発生するものなので、定義付けなど無理な話なのですが、私は「コイツの為なら死ねる、誰にも取られたくない、死んでも傍にいる。」と本気で思える事なんだと思います。そこに、友情としてのアプローチは入る隙間などないと思いますし、隙間があるとすれば、それは「友人」なんだと思います。もちろん、一方的な感情の場合は友人的アプローチで段階を踏まないと大変なことになっちゃいますけどね。
長文になっちゃいました・・・済みませんm(__)m
この回答への補足
すみません、追記です。
私も若い頃は、自我やエスといったものに関心がありました。
でも40歳を過ぎた頃からでしょうか、極論言えば、自分を限りなく無に出来うる境地が、もっとも自分を幸福にするところなのではないだろうか、と思えるようになりました。こんな考えは間違いでしょうか。
渇愛・・ 仏陀が戒めたものでした。
求めるのではなく、求められる者に・・
与えなさい、と。
お考えの一部をご披露くださり、ありがとうございました。
恐らくmktoolllさんは、とても愛情への傾注度の深い方なのだろうと拝察いたしました。「そこに、友情としてのアプローチは入る隙間などないと思いますし、隙間があるとすれば、それは「友人」なんだと思います。」というご一文で、とりわけそのように感じました。
さて、「血族」「同族」意識。
直系の血筋には感じる愛、されど伴侶への愛は消え得ると。しかしその「血」の存続すら、異分子が入ってくることなしには有り得ないはずなのですが・・
でもその感覚は分からなくはありません。特に母系家族の場合、そういう価値観で女性たちが動くさまを、私も多少存じています(私は全くの異質さから一方的に別の異質な血族に投入されたので、とうとう浮いた存在のままでした・・その点で言えば、放り出されて当然な者でした・・一種の淘汰?)。
血に関するとき人は意思制御不可能になり、血の埒外になると(友情)人はそれを制御し得る、ということでしょうか。定年後のご主人のことを「濡れ落ち葉」という冷ややかな呼称で言う奥さま方の心中には、何が残されているのでしょう・・ それもある意味で、血の存続のお役目を果たし、もうご用済みになった者への鎮魂でしょうか・・ う~ん、せつないものです。
ありがとうございました。
No.6
- 回答日時:
愛の対義語(反意語)が「依存」と言ったくせに、依存も「愛」の一種です(笑)。
でも依存や中毒は健やかなイメージが湧きません。執着から呼び出しては不平不満を言い・離れれば不安を抱え込んで病のようです。
依存との対話や確認作業を繰り返す内に昇華し愛着になれたら自由にさせてあげようと望めるようです。愛は健やか元気で、育んだと想うだけで嬉しくなれそうです。
愛されることのなんぞ嬉しき
愛することのなんぞ嬉しき /武者小路実篤
無視や無関心には自由があるし、無関心な人の全人格が悪意ばかりではないのだし、本当の悪人だったら関心されると怖いし大変です。
私は仲良くなれない人がいても、その人は他の人に優しくしていたりするのだから、それがわかれば一発で解決です。
誰が誰の代わりに幸せになっても公平ではないか。もし誰かの代わりに不幸になっても不安になる必要があるのか?なければ堂々と生きるよろし。という不自然な考え方です(笑)が、そう納得すると随分楽になりました。
「博愛主義」などとは申しませんよ(誰も言ってないし?)。奇しくも主張が重なるようですが(そうでもない?)単に失恋に凝りて自分で自分を慰める方法を編み出したのです!やはり年(40)の功…か。
再びのご回答、ありがとうございます。
愛と喜びの関係、ですね。
嬉しさ、嬉しいという思い。
幸福感。
私もmiko-desiさん同様、こんな辺りの愛の素朴な根拠に意識的に(!)素直になろう、と気がついてまいりました。
それと、愛や友情の不合致についてですが、それは致し方のないことで、それでも別の人との邂逅で幸福を得られるのならそれで何より、ということです。
万人への愛や友情に、一人の人間が答えることは出来ませんね。しかしあまりに集中的過ぎると、それが相手への負荷になるという点が、愛の難しいところですね。
依存の解釈は、なかなか困難に思えます。
ただ女性にsex依存や中毒傾向があることに関しては、その性(さが)に理由があるのかもしれません。血の道。
ですので自らにほんの少し冷水を与える意味で、友情的要素が要り様かもしれない、と勝手に思います。
No.7
- 回答日時:
「愛」も「友情」も幻想だと思います。
そんなもんはどこにもなくって、あると信じているだけ。あるいは、あると思えば生じる、魔法です。
そもそも、「愛」は「友情」より劣るという現代の一般傾向をどこから導き出したのか、そこに疑問の余地がある。誰もそんなことを思っていない、あなたの勝手な思い込みの可能性があります。そもそも、「愛」と「友情」を同列に語る必要性すらないというか、まったく異質のものと捉えている人も多いのではないでしょうか。そもそも「愛」に「友情」が入ってくる場合の方が少なく、むしろ氷炭の関係で、両輪などのように上手く機能するとは思えません。「愛」すれば「友情」を感じなくなり、「友情」を感じる時のおいて「愛」とはほど遠くなる。「友愛」なら別ですが、「愛」は「友情」とやはり矛盾するものでしょう。クラインの壺のように、どちらかが現れた時にはもう一方は消失してしまうように思われます。
「愛」は万能ではありませんが、「友情」も万能ではありません。ただの慰み物です。夢のように儚いものですが、人間は求めてしまいます。
ご回答いただき、ありがとうございます。
「そもそも、『愛』は『友情』」より劣るという現代の一般傾向をどこから導き出したのか、そこに疑問の余地がある。誰もそんなことを思っていない、あなたの勝手な思い込みの可能性があります。」
これについて補足させていただけましたら;これは私の思い込みではなく、周りの若い女性たちとの会話からの結果です。私自身人の話を聞く場合、先入観を取っ払って虚心に聞く術を若い頃よりは身につけたつもりです(まだまだ、とは思いますが)。
そして基本的に、愛と友情、そのどちらが人として、より高尚か・・などとランク付けする考えも、毛頭ありません。
Kneisslさんのお考えでは、愛と友情の共存は不可能ということなのですね。
分かりました。
社会的に降って来る多くの共同体維持のための幻想はいざ知らず、己が心象の中に起きた愛や友情の感情までをも幻想と言うことは、私には出来かねます(両者で共有していたつもりの甘さを、幻だったと言うことは出来ても・・)。 何故か・・ 何故なのでしょう・・
自分の魂に触れる機微だから、でしょうか・・
儚さゆえに、人は何をどうすることが出来るのだろうか、ということなのですが。
愛ゆえに儚いのであれば、愛をコントロールも出来ましょう、友情ゆえに儚いのであれば、愛の集中度を高めましょう、ということが可能なのかもしれない、と思う次第ですが。
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