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我々人間は、欲という煩悩に突き動かされて日々生活・活動をしております。特に、金に対する執着というか、欲望は凄まじく、それの為に人に迷惑になってでも、邁進する場合があります。

金があっても幸せとは言い切れないと思います。しかし、現代の人は、腹底の心で金、金と思い、結局はお金目当てで活動しているわけですが、そんな汚い心を持ってまでして、なぜ欲まみれの生き方を選んでしまうのでしょうか?お金が貯まっていいことがある、と見込んでいるのでしょうか?そのいいこととは何でしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

 一応ご返答差し上げます。

あまり突っ込んでお話すると論争になってしまいますので、簡潔に…(gooの規約違反になるかもしれませんし)

 マネーゲーム狂乱社会ということですが、おそらくこれはいまのグローバル市場、とりわけ多国籍企業や、株などの投機的行為を想起されているのでしょう。

 そのネーミングどおり、たしかにそういった見方は間違いではないでしょう。ただモノの売り買いそのものが悪いというわけではありません。今の残る市場(いちば)という制度は、古くから残された経済的な取引の場です。

 野菜や工芸品などを売り買いし、交換する。おそらくこういったものの現代的形態は商店街ということになるのでしょう。つまり、経済社会という側面は、人間の豊かさの基盤になっているのです。私の考えとしては、欲望が問題なのではなく、欲望のコントロールとバランスだということになります。

 少し欲望という言葉で肯定と否定の両面から理論的にとらえてみましょう。

 欲望を否定的にとらえた人は、たとえばトマス・ホッブズです。彼は、人間を欲望にまみれた利己的な人間として認識しました。よって、そのままにしておくと人間は争いあい、戦争状態に陥ると考えたのです。彼が導き出した処方箋は、国家による個人と社会の調整でした。国家が制度的に確立されることで、人間の欲望が抑制され、秩序がもたらされると考えたのです。

 逆に、経済学の祖アダム・スミスは、ホッブズの考えを転倒させました。彼は、ホッブズと同じく、人間を利己的な人間としてとらえました。しかし、スミスは人間が「共感」能力を持つことを指摘しています。つまり、たとえばAさんが病に苦しむことで、Bさんは自分が病になったわけでもないのに、それに共感することで苦しみを共有しようとします。
 この人間観から彼が導き出した結論は、人間の利己は実は公益になるということでした。たとえば、商店街をとってみましょう。商店街で店を営む人々は、あくまで自分の利益や生活のために商売をしているはずです。ところが、結果としてそこでモノを買うことによって、人々は益を受けることになるのです。
 彼は、市場が生み出す秩序に注目し、国家がそれを阻害するとして、国家の介入を最低限のものにするように主張したのでした。

 ただ、いずれの見解も、仏教的思考と異なることがあります。それは、欲望そのものを否定しようとはしないということです。人間の利己を否定しようとはしていません。ただ、それをコントロールする手法をとらえようとしているのです。

 煩悩という枠組みは、残念ながら、直接的な制御にはつながりませんし、それを抹消することもできません。あるヘゲモニーに対しては、別のカウンターヘゲモニーを作るしかないのです。ですから、今のグローバルな新自由主義的市場は、暴走していることはたしかですが、それは欲望だけの問題として解決しえません。

 人は、お金を得ることではなく、お金から獲得されうる社会的な資産や地位を求めています。ですから、お金という物質が欲しいのではありません。その意味で、お金とは象徴的意味を持ちます。つまり、お金は別に落ち葉でも貨幣的機能をもちうるということです。過去の物々交換の時代はそうでしたが…

 お金をもって、服を買う。家を買う。洗濯機を買う。旅行へ行く。こうした何かの願望の達成が、お金の機能です。

 少しまとめます。現代社会はもはや過去の原始的社会へと回帰しえません。なぜなら、市場的秩序は人々の生活の心臓をなしているからです。つまり、グローバルな市場の崩壊が示すものは、人類の崩壊に等しいともいえなくありません。
 とりわけ都市部の人々は、土地をもたず、作物を育てる意識も能力もありません。それ以前に土地は道路で敷き詰められ、ビルが建ち並んでいます。もし、突如としてモノが変えず、賃金の得られない社会になったとすれば、人間の多くは再び自らの生存欲に従って、争いをするでしょう。
 それは今の状況以上にひどいものになるでしょう。スミスはこうした状況を市場(しじょう)が抑制しうると考えたのでした。

 まとめましょう。私の立場は、一見あなたのおっしゃる言葉で述べますと、マネーゲーム狂乱社会を肯定するところにはありません。その市場社会がもたらした肯定的側面と、否定的側面の両サイドから見つめようとする位置に立っています。
 おもしろいことをいいますと、人間の普遍的価値、たとえば人権は、実は国家によって守られている側面があります。つまり、国家はみながいうように人権の侵害者でもあるのですが、同時に歴史的には保護者でもあったのです。
 煩悩という言葉だけでは、なかなか今の社会はつかみとることはできません。しかし、そういった見解に立つことは間違いではありません。私自身も良いとはとても思えません。しかし、現代の市場社会(経済社会)の肯定的側面をはっきりさせつつ、その否定的側面について考えること、それが答えなのだと考えています。

 
 


 




 

この回答への補足

>私の考えとしては、欲望が問題なのではなく、欲望のコントロールとバランスだということになります。

私も、この考えには賛成です。欲望を真摯に認めつつ、この欲望に振り回されない生活が肝要と思います。

>彼は、市場が生み出す秩序に注目し、国家がそれを阻害するとして、国家の介入を最低限のものにするように主張したのでした。
>スミスはこうした状況を市場が抑制しうると考えたのでした。

市場至上主義的な考えを回答者さんからは感じます。今の、暴走した新自由主義的市場も、結局は、自浄能力のある市場に任せるのが妥当であろう、という事だと思います。市場がそれだけ洗浄能力が高いのであれば、期待したいとこですが、・・・。

煩悩は、死ぬまで残存するので、無くすことはできません。その煩悩(欲望)をどうコントロールしていくか、によって、お金、お金、という意識を持つ人間集団の社会を少しでも変革できるのではないか、と思ってしまうわけです。

http://ameblo.jp/trueye/

補足日時:2006/02/06 20:27
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
詳細は上に。。

お礼日時:2006/02/06 20:13

「>なぜ、欲まみれの生き方を我々はしてしまうのか?」




人間にとって最大の欲とは何でしょうか。
恐らく「生きたい」ということではないでしょうか。
無論「人間的に」という注釈がつきますが、幸か不幸か人間はまず「生身の動物」でもあります。
生身の動物が生き長らえるために最低限必要なものは何でしょうか。
恐らく「外気の変化から身を守る衣(動物であれば毛皮)や住居」、そして「栄養源である食物」だと思います。
極端な話、これらのいわゆる「衣食住」がある程度満たされていれば、天命がくるまでは一応生き延びることはできます。
現在の人間社会において「衣食住」は基本的にはお金が無ければ手にはいりません。
つまり、人がお金に執着するのは「生物として生命を維持することができなくなることを怖れるため」ということが【第一の理由】と言えると思います。


しかし、「衣」は小林幸子や美川健一のような格好で紅白に出る必要が無ければ左程のお金も必要とはしないはずです。
「食」は農地・畑地を大事にすることによって、また現在の日本の莫大な食物廃棄量が顕著に示しているような無駄を排することによって、糖尿病になるためにせっせと大金を払うのが趣味でなければ、これも左程のお金を必要とするとは思われません。
唯一「住」だけは確かに高額な資金を必要とするかもしれません。
しかし、これも普通に働いて「普通の暮らし」をしていれば、手に入れるのが非常に難しいというほどのものでもないように思います。


にも拘わらず、なぜ人は「過剰と思えるほど」求めてしまうのか。
これは、基本的には「万一の事態」に対する想像力が怖れを生み出すからだと思います。
これが【第二の理由】でしょう。

ただ、この【過剰さ】の理由にはもうひとつあると思います。
本来は「怖れからくる防御」がお金を必要とする理由でしたが、それはとりも直さず安心を確保するということです。
ある程度の安心が確保できると心にゆとりが生まれるでしょう。
「怖れ」は無くなったものの、今度はその「ゆとり」を大きくしたい欲望が芽生えるのではないでしょうか。
つまり「この程度のゆとりではまだ安心できないのではないか」という、「新たな怖れ」が醸成されるのではないかということです。
その過程で「持たざる者」との格差も広がっていくので、相対的な安心感も同時に得られるというオマケつきです。
これらが【第三の理由】です。


以上のように、お金は生命維持の為に必要なものであり、且つ「怖れを抱いた人間」にとっては際限なく求めざるを得ないようなものである、ということが基本的には言えると思います。
ところで、【第三の理由】のところで少し触れましたが、「相対的安心感」というのが最も曲者のように私には思われます。
結局、他者と比較することでしか自分が幸せであるかどうかも判断できないような人間が、必要以上に金に執着するということではないでしょうか。
これが「怖れ」には限界があるべきであって、求め続けていればきりがないということを気がつかせる機会を奪っているような気がします。
お金で解決できる良いことはたくさんあるという事も否定するつもりはありません。
しかし、それ以上に「お金を稼ぐために何をするのか」ということに留意できなければ、根本的な解決を得るには至らないでしょう。

「平和のために」人を殺したり、「弱者のために」寄付されたお金が別の犠牲者を作り出すことによって得られたものであったり、という【矛盾の連鎖】が永遠に続くのではないかということです。


具体的な方法はわかりませんが、人から生活上の「怖れ」が取り除かれ、相対的ではない絶対的な自己が確立された時、あるいはそれを目指し始めた時、「>欲まみれ」な精神は不要になり、また目指すところとは相反するものとして忌避され、姿を消していくのではないでしょうか。
尤も、その時点で人間が今のような形態を保っているかどうかも不明なほど遠い先の話ではないかという気がしないでもありません。
とはいえ、時々そういう生き方をしている方は見かけますよね。
そういう意味では、「自信を持って生きる」と同時に「自己に懐疑的に生きる」という面もある意味必要なのか、などと思うこともあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>人から生活上の「怖れ」が取り除かれ、相対的ではない絶対的な自己が確立された時

人は、生きたいという本能があり、死への恐怖を抱え、生きているのだと思います。なので、怖れは除去されず、常に戦々恐々と生きていくものと思えます。
臨終の時に、欲まみれ根性で得た財産等は一切持っていけません。そういう事が分かった時初めて、欲まみれ人生に意味がない、と思えるのかも知れません。

お礼日時:2006/02/06 21:05

> お金が貯まっていいことがある、と見込んでいるのでしょうか?


> そのいいこととは何でしょうか?

 お金を貯めて何かをしよう、という人もいるのですが、「ありとあらゆる学問が否定している」らしいお金自体が目的となる心理は、ヒトには実によく見られる傾向です。その事実からすると、「ありとあらゆる学問」とやらは、ずいぶん浅薄なようですね。

 お金というものは、ある程度集めると、それ自体を自己目的化してしまう性質があります。実はこれは、お金というものの特性ではなくて、スコアというものの特性です。
 ゲームでも、ハイスコア競争が行なわれるのをよく見るでしょう。コンピュータゲームに限りません。またスポーツ記録でもそうですし、他にも例えば少年ジャンプにおける強さ指数がすぐにインフレを起こすというパターンをご存知かもしれません。

 そういうスコアを追求する性質をヒトが持っているのですから、スコアとしてお金を捉えて邁進することがよくあって当然のことです。
 スポーツ選手が記録に向かって努力することと、マネーゲームのハイスコアを目指すことと、本質的には違わないのですよね。

 問題があるとしたら、シーズン中の安打数というスコアがいかに高かろうと交換価値に直結しないのに対し、お金というスコアは市場に流せば交換価値が生じるので、「使いでがいい」という性質があるため、他者に干渉できてしまう性質があることですね。干渉には良い干渉もあるでしょうが、当然悪い干渉もあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
スコアという概念で、人がハイスコアを得る為だけに、金稼ぎをするなら、人間とは客観的に見て、愚かだなぁ、と思ってしまいますね。
ある意味、ゲームのスコアを良くしようとするのと同様に、お金を求めるのですから、不毛の活動とも言えますね。

お礼日時:2006/02/06 20:52

再度の#4です。


仏教的思考という立場で追加説明させてください。

この世の全ては陰と陽、二極対立、二律背反によって成り立っていますよね。
たとえば、光は影があるから成立するんです。
だって、この世が真っ白な世界だったら、いくら光を放ったって光にならないんです。
影があって、初めて、そのコントラストで光として認識されるんです。

仏と欲望の関係も、これと同じなんです。
欲望があるから仏陀となれるんです。
美しい蓮の華は泥の中からしか咲けないんです。

ですから、仏教は欲望を否定しているとも言えないんです。
確かに肯定はしてませんけど、かと言って短絡的に否定しているのでもないんです。
だって、否定しても仕切れるものでなないし、欲望なくして悟りも在りえないんです。

だから4にも書きましたように「心を鍛えなさい」ということなんです。
欲望が人間の持つ「獣性」だとしたら、それを耐えることで対極にある「理性」が育つんです。
獣性が泥だとしたら、獣性の中からしか理性が育つことはないんです。
逆にいうと、理性を育てようと想ったら、獣性が必要なんです。

だから、仏教では人間界に生まれることは、とても良いこととされているんです。
仏教でも、いろいろな次元の生命の存在を肯定していますが、特に人間界に生まれることは素晴らしいとされているんです。

欲望を肯定してないんだから否定だろ、と相対論で言われれば、そのとおりなんですが、私は必要悪という解釈で良いと想うんです。

筋肉トレーニングをするときの鉄アレイのようなものです。
鉄アレイに反発して、拒絶するように持ち上げるからマッチョになれるんです。
これは、一見すると鉄アレイを否定しているように見えますが、そうではないんです。

欲望も自分の心を鍛え、育てるためには必要なんです。

でも、質問者様のいうとおり、大半の人が鉄アレイに負けているのが現状だと想います。
中には、逆に欲望という鉄アレイに反発しないで、肯定的に受け入れるのが素晴らしいという人もいます。

まあ出家になれば、厳しい戒律によって禁欲が徹底されますが、我々一般人はバランスを大切にすることで欲望を活用できるのかと想いますが、このことに気づかない人は欲望の奴隷になりがちだと想います。
しかし、そういう人たちもまた必要悪であると・・想うんです。



で、「欲望」といっても、それは別に在るのでは無く、我々の心の中にあるものです。
お金が欲望なのではなく、我々の心の中に欲望があるんです。
美人が欲望なのではないんです。
我々の心の中に欲望があるだけなんです。

だから大切なのは、克己修身、自分の心を鍛えなさいということだと想います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
欲望にふりまわされず、欲に汲みしない生活をするのがいいのですね。

>美しい蓮の華は泥の中からしか咲けないんです。

この蓮は、白蓮華ですね。

お礼日時:2006/02/06 20:46

>お金が貯まっていいことがある、と見込んでいるのでしょうか?そのいいこととは何でしょうか?



例えば世界では年間1,000万人以上の子供が病気で死んでいます。薬、人件費、病院維持費など、お金があれば大部分、解決する問題です。

先日アメリカで心臓移植を受けた子供の場合、
1億7千万円の費用がかかりました。


盲導犬の育成・訓練には1頭で約200万円を必要とします。

お金で解決できる問題はたくさんあります。

お金が貯まっていいことはたくさんあります。

人を救うためにお金を稼いでいる人もたくさんいます。

参考URL:http://www.future-planning.net/x/modules/news/ar …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
確かに、お金で解決できる問題は多々あると思います。

ただ、お金の亡者になり、己が社会の迷惑者にならないように注意しないと、お金に使われる人間になってしまい、逆に幸せから遠のく危険性があります。

お礼日時:2006/02/06 20:02

 だいぶんお考えに偏りがあるようです。



 仏教的思考?もたしかに間違いではないのですが…やはり私個人は浅薄だと思います。

 そもそも本当に人間は金のために活動をしているのでしょうか?ありとあらゆる学問は、ほとんどこれを否定しています。

 専門的には、社会的欲求ということもありますね。つまり、人間はお金それ自体を求めているということよりも、そこから得ることのできる社会的地位や資産などを求めているということです。お金とイコールではなく、お金はあくまで媒介手段に過ぎません。

 ですから労働にしても、お金そのものを求めているという人はいません。労働のなかで得られる何かを生き甲斐とする人もいれば、そこで獲得した賃金をもって得られる何かを必要とする人もいます。

 お金、お金というのは、今の現代社会がお金によってモノが取得できたり、活動をできるように編成されているからです。

 わかりやすくいえば、この世でお金の価値がゼロになったとすると、みなお金をもつことをしないだろうということです。

 逆の発想をすると、欲のない世界なんてつまらないということです。いや世界が成立しませんね。動物は停止して、みな植物のようになります。まあ、生きられないでしょうが…生きる意欲さえないのですから。

 あなたがそういうふうに考えることすらないでしょう。考える意欲がないのですから(笑)

 ちなみに、温暖化説はあたかも確定的な事実のように思われがちですが、学問的にはまだまだ怪しいところがあります。テレビが騒ぎ立てているだけで、温暖化反対説も根強くありますよ。

 事実はたえず疑ってかかるほうがいいと思います。とくに紋切り型の思考には何か裏がありますよ。

この回答への補足

>そもそも本当に人間は金のために活動をしているのでしょうか?ありとあらゆる学問は、ほとんどこれを否定しています。

ありとあらゆる学問というものを教えて欲しいです。もし、大半の学問で、そのように教えているのならば、今の社会で起きているマネーゲーム狂乱社会にまではならないのでは、と思います。

>専門的には、社会的欲求ということもありますね。つまり、人間はお金それ自体を求めているということよりも、そこから得ることのできる社会的地位や資産などを求めているということです。お金とイコールではなく、お金はあくまで媒介手段に過ぎません。

煩悩の代表選手には、食欲、財産欲、色欲、名誉欲、睡眠欲があります。お金は財産欲です。財産欲も名誉欲も、結局は人間が持つ煩悩に他なりません。欲にまみれた、あるいは、欲に支配された人間活動の結果が、財産、名誉だと捉えられます。

>労働のなかで得られる何かを生き甲斐とする人もいれば、そこで獲得した賃金をもって得られる何かを必要とする人もいます。

何か、とは何でしょうか?

>逆の発想をすると、欲のない世界なんてつまらないということです。

欲のない世界はつまらない、との事ですが、欲のある世界に生きていて、空しさを感じることはないのでしょうか?楽しい時間の後に来る侘びしさ、寂しさ、空しさ、・・・。


>あなたがそういうふうに考えることすらないでしょう。考える意欲がないのですから(笑)

意欲・意志は、頭の中にある知・情・意の中の、意に相当するものと思います。煩悩とは恐らく違うものなので、意欲自体は、煩悩が仮りに無くなったとしても消失しないのではないかと思います。

今の社会において、欲まみれでも構わない的な風潮が蔓延していますが、これは、欲まみれの人達による、ある種のマインドコントロールと言ってもいいと思います。考えに偏りがあるとのご指摘ですが、今の風潮を疑っていないあたりは、もう一つの面、つまり裏の面を見過ごしているのではないでしょうか?

補足日時:2006/02/03 22:18
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
仏教的思考か否かですが、まさしく仏教的思考に立っての問いかけです。
詳細は、補足にて記させて頂きます。

お礼日時:2006/02/03 21:57

煩悩の研究ですから仏教書が最良の教科書です。


欲とは悪意の一種です。
この悪意に、健康な意識でも誤解できる間違った理由がついた、精神的なコンプレックスがいわゆる欲です。
欲に身を任せてしまうのは、妄想をしていることと同じで、悪意にとってそれしか心の中の出口が無いためです。
欲望はそれが間違いであり、人間性とはかけ離れていると言う確かな証拠(認識)を自分自身が持たない限り縁を切ることは出来ません。

それから悪意が欲望の本質である以上、真実の人間(仏)である自分自身とは同一性を持っておらず、現実を正しく認識できていません。
したがって欲望に身を任せることイコール間違いを犯すことです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
悪意とは、「他人を憎み、害を加えようとする気持ち」と出てました。

欲望の本質が悪意であり、その悪意を持っている以上、正しい人間生活を送ることは不可能、という事ですね。煩悩は、決して消すことはできないと言われます。ですから、その煩悩といかにつきあい、いかに支配されないようにするか、がポイントだと認識しています。

お礼日時:2006/02/03 17:14

人には五欲(“物欲”“財欲”“食欲”“性欲”“名誉欲)があるそうです.


本能ですから,仕方ないそうです.
それをどう抑えるかで人はずっと苦しんで来ています.
これを達したのが一部のお坊さんなのでしょうね.

お金に対する執着心は難しいですね.お金持ちにならなければその苦しみは分からないそうです.
殆どの人がそれを知らないから欲するのでしょうね.
お金を持って苦るしんでみたいです.
やはり経験してないから経験してみたいのではないでしょうか・・・.
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
五欲は、ネット検索したら、「財欲・色欲・飲食(おんじき)欲・名欲・睡眠欲の五つ」と出てました。
お金への執着心は、際限ないものと感じます。今年、1000万円の収入があれば、来年は2000万円を目標にしたりして、欲がどんどん高くなるだけだと思います。お金を持てなくても金が欲しい、お金を持っても金が欲しい、というのが、財欲なのではないでしょうか。

お礼日時:2006/02/03 17:04

人間も自然の産物ですから「枯れ葉」と同じで、とても不安定なんです。



たとえば、意中の人に告白されれば → 嬉しいです。
風が吹けば → 飛ばされる枯れ葉と同じなんです。

悪口を言われたら → 不愉快になります。
これも風が吹けば → 飛ばされる枯れ葉と同じなんです。

誰かが高級品を持っていると → 自分も欲しくなります。
これも風が吹けば → 飛ばされる枯れ葉と同じなんです。

我々の心の領域も、実際の自然と同じでとても不安定に出来ているんです。
だから、少しでも安定したいんです。
安らぎたいんです。

でも、その安定の方法も、上記のように外部の何かによって獲得しようとするんです。
地位、名誉、金、女、酒、ギャンブル、株、不動産、高級車、武器、生存競争・・・・これらを獲得することによって安定(安心)を得ようとするんです。

でも獲得すれば獲得するだけ「欲望」という筋肉も発達してしまうんです。
逆に獲得できなくて欲求不満状態になっても、「欲望」という筋肉は発達してしまうんです。
繰り返し、繰り返し、めぐらされる想いは、ドンドン強化されていくからです。
腕立て伏せをすればするほど、筋肉が増強されていくのと同じです。
だから、欲望が止まることなく増殖していくんです。

不安定だから安定したい・・・これがあらゆる欲望の起源だと想います。



・・・で、余談ですが仏教は外部に対する執着を絶って、自分のその心を鍛えなさいという教えなんです。
なぜならば、この世の全ては諸行無常に移ろっていますから、移ろうものに執着しても本当の安定は得られないからです。
本当の安定が欲しかったら、外部に対する執着を絶って、自分の心を鍛えれば良いんです。
そうすると生存のために必要最低限の欲望で満足できる小欲知足の智慧が現われてくるんです。
何も持っていなくても「心」が自律的に安定しさえすれば、あらゆる欲求が満たされたかのような幸福な状態になるんです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
欲望を満たす為に、地位、名誉等を獲得しても諸行無常がために安定することはないという事ですね。
小欲知足の考え方はまさにそうですし、それが世界の人々に認識されれば、もっと住み良い世の中になるのではないかと思います。

お礼日時:2006/02/03 16:53

欲があったからこそ人類は進歩してきたのではないでしょうか。


欲を満たすために努力をし、新しい技術等が生まれてくるのだと思います。
欲がなくなってしまったら誰も働かなくなってしまいますよね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
欲のおかげで進歩してきたのは事実だと思います。
しかし、現在、北極や南極の氷が溶けだし、ヴェネチアでは、水深が上がり、水浸しの状態にあります。欲の為に、人類は自分の首を絞め、崩壊へのカウントダウンをしているのが実状だと思います。

お礼日時:2006/02/03 16:38

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