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 僕も、ここでいろんな方に回答したりしながら自分を見つめてきました。このことは、このままでもいいのだろうかと思うようになったんです。

 精神病にかかると、周囲の人間、家族、友人、医師、保健婦さん、など自分にかかわる人たちが、いかに頼りにならないか気づくと思うんです。家族は医師や関係機関の人々の話は聞きますが、自分で調べるようなことはしない。医師は自分の学んだ理論に縛られてしまっているし、その範囲を超えて理解しようとはしないし、患者の苦しみを考えて接しようという努力があまりない。友人は、そこまで踏み込もうという人はほとんどいない。保健婦さんも仕事のラインからは踏み込んでこない。
 
 これらは僕の場合だけなのかもしれないけれど。僕には人徳がないというのもあるので。
 でも、結局、頼りにできる、あてにできる人がいなくて、一人戦ってきたという感じが強いのです。
 そういう一線を越えた状況で頼りにできる人がいなかったというのが、僕の中に限定的な信頼で人と接するというのができあがっています。
 そのせいか、僕は、例えば、彼女いない暦=人生でした、精神状態が悪かったときはそれが本当につらかったんですが、落ち着いてきて前述のような考えになると、進んで彼女を作ろうという気にはなりません。家族も、唯一の友人も限定的な信頼の上で付き合っています。もちろん、医師や保健婦さんたちとも。

 こういう考え方って不健康というか、おかしいのでしょうか?このままでもいいようにも思うんですが(別につらい事はないのですから)、このままではいけないような気もするんです。
 どう思うか聞かせてください。

A 回答 (24件中21~24件)

質問者さまのおっしゃる通りです。


精神的な病気で苦しんでいるときに、本当に人はあてにならないものだと痛感します。
でもこれは、病人の方がないものねだりをしているだけであると、私は思います。
まず医師や保健婦は病気に関しては素人です。
病気に苦しんでそれを完治した経験もない彼らに、病気の治し方を聞くのは、犬に道を尋ねるようなものです。
家族は、無償の愛を注ぐ才能については、この人に勝る者はいません。
が、彼らも病気に関しては素人であると同時に、あなた自身を理解するという点については、これもまた最高の資質をもっているわけではないのです。
親子といえども別の人間です。
親子は理解というより愛情でつながっているものでしょう。
友人もそうです。人が人を理解するというのは、できる場合とできない場合があって、理解して欲しい、助けて欲しいと叫んでみたところで望むとおりの理解や救助を投げかけてくれるわけではないのです。

つまり病人の方が一方的に相手に依存心を持つことから、依存したのに答えてもらえないという、「不信感」を自ら作り出しているのです。

>限定的な信頼の上で付き合っています。こういう考え方って不健康というか、おかしいのでしょうか?

おかしいかおかしくないかと聞かれれば、おかしいと思います。
精神的な病気が完治して、家族や友達と「対等」につきあい、相手も同等の人間として認めることができれば、100%理解しあえなくてもいいと思えるようになります。
いつも自分の求めるものを相手が返してくれるという一方的な依存は持たなくなります。
人間関係はgive&takeですから、自分だけが相手に与えてもらおうという意識があると、相手に対する信頼ももてなくなります。

この回答への補足

 気になったので書いておきます。引用させていただきます。

>つまり病人の方が一方的に相手に依存心を持つことから、依存したのに答えてもらえないという、「不信感」を自ら作り出しているのです。

とのことですが、僕は依存で相手に望みを持つということを言っているのではないんです。そこをもうちょっと踏み込んでほしい、というところまでも踏み込んでこない人々に限界を感じたのです。

>いつも自分の求めるものを相手が返してくれるという一方的な依存は持たなくなります。
人間関係はgive&takeですから、自分だけが相手に与えてもらおうという意識があると、相手に対する信頼ももてなくなります。

 ”いつも求めているものを相手が返してくれる”ということを求めているのではではないんです。だから、”自分だけが相手に与えてもらおうという意識”でもないわけですね。相手も要求していて、僕も要求している、僕はかなり頑張って応えているのに、相手はそんなに頑張らずに返してこないという現実を目の前に出されてくるわけです。give&takeでいえばtakeが勝っている状態ですね。
 中にはそうでもない人もいるのかもしれないけれど、精神病の人は周囲の要求に本当に苦しい中、頑張って応えているんです。そうしていると、周囲はそれほど頑張らずにいる状況が見えてきてしまいます。意識の差というものですね。
 
 どうでしょう、伝わったでしょうか?

補足日時:2006/08/07 00:57
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質問者様は、「誰も頼りにならない」とおっしゃっていますが、


質問者様ご自身は、友人頼られたらその期待に応える自信はありますか?
「あてにできる」ことが、信頼関係の一番大事なところなのでしょうか?
私は自分がピンチのときは、その人が尽力してくれればそれで十分だと思うんです。

人間誰しも「本人」ではないので、その辛さや苦しみを心配することは
できても本当に理解する(同じ気持ちになる)ことはできないのです。
苦しんでいる友人や恋人にどれだけ気持ちを寄り添わせられるか、だけなのです。
そして、たとえ苦しみから本当に解放されなかったとしても、
自分のことでもないのに、相手が時間を割いて気持ちに寄り添ってくれるだけで
自分の存在意義があるように感じられ、ありがたいと思っています。

やっぱり自分はひとりがいい。ひとりでいるほうが気が楽、
という考えは決して不健全ではありません。
私もひとりで突っ張って生きてきた強い女だったにも関わらず、
人生の伴侶を得て、いつの間にかすごく泣き虫で弱い人間になりました。
でも、彼の存在は私にとっては「強い自分」を捨ててもいいと
思える大切な存在です。
自分のことはあまり頑張らなくなったけど、もし彼がピンチになったら
そのときは絶対に私が彼を助ける、という気持ちが生まれています。
彼と一緒に”彼が救われる道”を必死に探すと思います。
今のところ彼には「あてにされてない」かもしれませんけどね。

この回答への補足

 早速の回答ありがとうございます。
引用させていただきます。

>質問者様は、「誰も頼りにならない」とおっしゃっていますが、
質問者様ご自身は、友人頼られたらその期待に応える自信はありますか?
「あてにできる」ことが、信頼関係の一番大事なところなのでしょうか?
私は自分がピンチのときは、その人が尽力してくれればそれで十分だと思うんです。

 ピンチのとき、その人が尽力してくれることを望むのは”当てにできる”と相手に思うことと同じではないですか?それと、”誰も頼りにならない”と言った部分は、僕の言ったのとちょっとニュアンスが違うのかもしれません。そこは僕の説明不足です。すいません。

>自分のことでもないのに、相手が時間を割いて気持ちに寄り添ってくれるだけで
自分の存在意義があるように感じられ、ありがたいと思っています。

 そうしてくれるとありがたいですよ。でも、僕の場合はそうしてくれる人はほんのわずかだったわけです。僕の人徳の無さとも言えるのですが、それで、友人はあまり当てにできないものなんだなと思いました。また、相手によって期待するものは変わってきますよね。職種とか、親だとかで、そういう部分で、まだできることはいっぱいあるのにと思うことはいくつもあったものですから。

>やっぱり自分はひとりがいい。ひとりでいるほうが気が楽、
という考えは決して不健全ではありません。
私もひとりで突っ張って生きてきた強い女だったにも関わらず、
人生の伴侶を得て、いつの間にかすごく泣き虫で弱い人間になりました。
でも、彼の存在は私にとっては「強い自分」を捨ててもいいと
思える大切な存在です。
自分のことはあまり頑張らなくなったけど、もし彼がピンチになったら
そのときは絶対に私が彼を助ける、という気持ちが生まれています。
彼と一緒に”彼が救われる道”を必死に探すと思います。

 ここも、僕がしっかりと伝えることができてないなと感じました。一人がいいとは言ってないつもりでした。限定的な信頼ということです。
 すばらしい伴侶と出会えたこと、良かったですね。本心から、よかったなぁと思っています。
 そういう生き方もしてはみたいとは思うんですが、そこまで心許せる女性が現われるかは僕にはわかりません。なんせ、人生=彼女いない暦なのですから。
 でも、それで、なんで”ひとりでいい、ひとりでいるほうが気が楽、という考えは決して不健全ではない”というのにつながるのが良くわかりませんでした。そう考える時期があってもいいということでしょうか?

補足日時:2006/08/07 01:15
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人間関係と言うのはここに書かれているのが普通だと思いますよ。


それぞれの立場・持ち場をきちんとやる。

それを冷たいと感じるかうっとうしいと感じるか受け取る方次第です。

例えばうつ病の例ですが
励ますと「俺は頑張りが足りないのだ」と思い
「頑張らなくていいよ」と言えば「俺は必要無い人間なんだ」
と思ってしまう。
どちらにしても自分で自分をいじめてしまうのです。

病気である場合、周りの気配りはもちろん必要ですが上の例のようにおのずから限界があります。

この回答への補足

 すいません、”ここに”とか”上の例”とは、どこのことを言っているのでしょうか?それによって受け取り方も変わってくるので、今の時点では、よくわからないです。
 回答はありがたいのですが、申し訳ないけれど、どう受け取っていいのかちょっと決めかねます。
 よければ、もう少し詳しく書いてもらえると助かります。

補足日時:2006/08/07 01:10
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貴方のような考え方の人は他にもいますし、少なくないと思います。


つまり、不健全でもおかしくもないと思います。

また、病にかかったかそうでないかということも、あまり関係ないと思われます。

想像するにまだお若いようですので、人生はまだ長いです。

長い人生の中で、人は変わっていきます。
それはゆっくりと流れるようにかも知れないし、あるきっかけで、今までとは全く違ったもの
になるかも知れない。
それは誰にもわからないのです。

どうかご自分を苦しめるようなことはせず、あるがままに生きていってください。
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この回答へのお礼

引用させてもらいます。

>また、病にかかったかそうでないかということも、あまり関係ないと思われます。

 要は、非常に困難な状況に陥ったときに、頼れる相手がどれほどいるか、という話なので、病気でなくてもというのはありますが、”あまり関係ない”ではないんですね。だから、はずせないポイントだったわけです。 

>長い人生の中で、人は変わっていきます。
それはゆっくりと流れるようにかも知れないし、あるきっかけで、今までとは全く違ったもの
になるかも知れない。
それは誰にもわからないのです。

 そうですね、変わっていくと思うんです。そこで、今はこれが僕のポイントだなと思ったわけです。だから、それをどう捉えるのかというところで、いろんな意見を聞いてみたかったですが、僕の質問の書き方が悪かったこともありますが、ちょっと的の外れた回答が来てしまっているという状況ですね。

 苦しめているわけではないので、そこは大丈夫です。”あるがまま”という解釈は難しいです。気になる点をそのまま放っておくということではないですから、何らかの意見を聞いてみたかったんですね。
 他の質問を見ていると、自分の質問の仕方が悪くて失敗してしまっているという感じがします。

 回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/08 00:18

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