プロが教えるわが家の防犯対策術!

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社会の宿題でこの答えを明日朝までに出さないといけませんが、厳しい決まりが多くて、辛い人も多かったはずなのになぜ長続きしたのか、納得できません。意見を聞かせて下さい。

A 回答 (6件)

1圧倒的な軍事力


対外的には秀吉の朝鮮出兵と国内的には幕府軍の精強さに尽きるでしょう。朝鮮に日本へ侵攻する意図と実力が有ったとは思えません。問題はその奥の明の北方の満州族(清)です。彼らはそれ以前にガタがきていた明が日本との戦いで疲弊した後に制圧しています。かつての元寇は同じ遊牧民族であり海戦は不慣れ。しかも大陸への侵攻能力を持つ日本とやりあえば・・・最終的に勝てますがメリットが小さく割りに合いません。一方スペインやポルトガルを雄とするヨーロッパ諸国はキリスト教の普及に乗じての侵略意図はありましたが本国の遥か彼方の日本への遠征軍を派遣する力がありませんでした。
国内では関ヶ原に勝利した徳川家に対する反感はあったようですが、多くの大名は領国を移動させられています。この状態で戦争を起しても足元の農民と敵の徳川家に挟み打ちの形になっていしまい勝負にさえなりません。当時の農民は大名の統治が気に食わなければ平気で他国へ逃げ出して税収を悪化させたり一揆の形で武力行使する油断のならない人々です。

2相互監視制度と諜報活動の発達
この二つは関連しています。まずは前者なんですが、これは地域行政と幕府・諸藩の政治体制に深く入り込んでいます。集落では数世帯で一つの班を作り相互扶助(災害・冠婚葬祭等)と犯罪取締りに役立てています。相互扶助はまだしも犯罪の方は連帯責任なので周囲で監視することで相当に抑えられます。政治体制では目付け(公認のスパイ)を常時放つ事で反乱等を事前に潰す事と幕府が諸藩に密偵を放つことで二重に管理しています。今でも御庭番といえば単なる園芸管理の職ではない事は知れ渡っていますし、薩摩飛脚は特に幕府が薩摩に放ったスパイとして知られています。もっとも方言やその他の理由で薩摩飛脚は成功例が少なかった様ですが・・・

3国内貿易・農業の発達。
これは幕府が主導したと必ずしも言えませんが、北陸や三陸沖などの航路の開拓により国内貿易が盛んになっています。それからこれも意図したわけではありませんが幕府が諸藩の財政を圧迫するために江戸城などの建設や諸国の水利事業などの土木作業によって水害が減り農地が豊かになった事。それから諸藩が干拓事業を盛んに行い財政再建の努力もあります。例えば倒幕勢力となった長州藩は一応は三十数万石の収入だったのが幕末までに実質百万石に達したという説もあります。人間は生活が安定すれば力ではなく秩序や言論で問題解決を図る傾向にあるためこれらの施策は有効だったのでしょう。勿論国内貿易での商品開発も見逃せません。やはり外貨獲得の為とは言え現在の日本各地の名産物(伝統工芸・農産物等)の多くはこの時代に育成された物が多くを占めている事実はその証拠です。

4身分制度
ここでは士農工商での差別は取り扱いません。ここではそのしたの身分であるエタ・についてや身分間の流動性についてです。
まず下の二つは身分制度の負の方向でのガス抜き効果です。人は悲しい生き物で、自分が恵まれなくても自分より下の立場の人間を見つけて優越感に浸ったり差別する事で現在の境遇の不遇を紛らわせる性質があります。次に身分間の流動性です。百姓(本来は英語でピープルの意味ですがここでは農民とします)や町民でも学問や武術に秀でれば武士に取り立てられる事は実例は少なくてもままありました。人は実現するかはさて置き希望さえ持てればその立場でベストを尽くそうとするものです。それこそが現在の不遇な境遇を打開する手段ならば尚更の事。実際に医者や学者に剣術家で著名人は武士出身以外の身分の人は多いのです。他には俗な事ですが遊郭の存在です。ここでは金さえあれば一晩は大名並みの扱いがなされます。元々の大名でも無一文からの出世人でもここでの基準は金次第です。ここでも不満と言う名のガス抜きがなされた様です。

以上の飴と鞭が260年の理由の一つだと個人的に思います。
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この回答へのお礼

非常に詳しく教えてくれてありがとうございました!
分かりやすかったです。

お礼日時:2006/10/04 00:08

明治以降の歴史教育の江戸時代は偏見に満ちたもので、実態からかけ離れたものであったことが証明されてきています



百姓は生かさず殺さず とか五公五民の高税率とか 移動の自由も無いとか が全て偏見と悪意の産物であったことが明らかになっています

それなりの満足感と将来への期待が持て、それが裏切られなかったから 260年も続いた と受け取るのが妥当だと思います

なお、江戸時代は 現在の様な 行政におんぶに抱っこではなく ごく小さな政府と民間の自治で維持されていました
百万の人口を抱える江戸町奉行所の役人の数は約300人でした
これを現在の 人口1000万に対する各区役所、都庁の公務員、警視庁の警察官の数と比べてください

いくら弾圧を加えて体制を維持しようとしても 最大でも数十年しか持たないことは歴史が証明しています
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この回答へのお礼

なるほど、と思いました。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/04 00:09

変な将軍もいましたが、幕府は維持されましたね。


人に依存しないシステムが成立していたのでは? 厳密なシステムは厳しい決まりと感じるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

とても参考になりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2006/10/04 00:10

鎖国政策により、金の海外流出を防いだからでしょう。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD
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この回答へのお礼

わかりやすかったです、ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/04 00:11

百姓は生かさず殺さず


家康が言い残した言葉。武士も同じことですね。
人口と経済が安定していたことエコロジー産業が発達していたこと。
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この回答へのお礼

家康の一言で、特徴が現れていますね。
ありがとうございます

お礼日時:2006/10/04 00:13

最も妥当なところでは、鎖国とキリスト教の禁教化、そして、江戸幕府による諸藩の締め付けでしょう。

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この回答へのお礼

とても早く答えてくれてありがとうございます。
簡潔で納得しました。

お礼日時:2006/10/04 00:14

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