プロが教えるわが家の防犯対策術!

またまた、質問させていただきます。来週にプレゼンを控え用意をしている所なんです。私のトピックはコミュニケーションでフーコーのdiscourseにフォーカスを当てていくつもりです。そこでまず、コミュニケーションについてG. Kressが言うにはコミュニケーションは単なる情報の交換ではなくそれじたいmeaning(日本語のうまい語が見つからないので英語のままにします--- 意味)だと言うのです。そこでです、フーコーのdisourseとmeaningの関係について考察したいと思っているのです。まずフーコーの言うdisourseの定義についてS, Hallがこのように述べています。(英語ですみません)

discourse とは歴史的瞬間における特定のトピックについての知識を表す特定の方法、または話すための言葉を規定する命題の集まりと述べてた後

... Discourse is about the production of knowledge through language. But... since all social practices entail meaning, and meanings shap and influence what we do --- our conduct --- all practices have a discursive aspect. (Hall, 1992 p.291).

discourse は言葉を通した知識の生産(物)。....社会の全ての慣行/習慣はmeaning(意味を)含意し(持ち)、また私たちの行動はmeaningsによって影響を受け形どられる。それは全ての慣行/習慣がdiscourseのs側面を持っているからにほかならない。

discourseとmeaningの関係について、discourseとは言葉を生成する知識の集まりであり、その知識で定義された言葉の意味によって私たち従う慣習/慣行は成り立っている.... という解釈で合っているでしょうか?またdiscourseとmeaningについてわかる事があればお教え下さい。それとdiscursive formationについて教えていただけませんか? 長い文章で申し訳ありません。

A 回答 (7件)

そうです、シニフィアンっていうのは signifier、シニフィエっていうのは signified です。

英語の方が「意味するもの」「意味されるもの」という係り具合が鮮明かもしれない。日本語だと「能記」「所記」ですもんねぇ…。
少し角度を変えましょう。

確かにこれを言い出したのはソシュールなんですが、 signifier と signified というのは記号論でもあるけれど、現代思想全般で頻出します。『言葉と物』でもすごく重要な概念です。

ごく簡単なおさらいをしておくと、ソシュールは記号をふたつに分割した。
単語、フレーズ、イメージ、音、姿としてのシニフィアン(signifier)と、その意味シニフィエ(signified)。このふたつが合わさって「記号」になっているわけです。

さらに、記号には二種類ある。
オーストラリアの道路標識にカンガルーの絵が描いてあるのがありますよね。
これは「カンガルーの飛び出しに注意」ということだ。
ここではカンガルーの絵がシニフィアン、「カンガルーの飛び出し注意」がシニフィエ。この標識は見ただけでわかる。つまり、ここでのシニフィアンとシニフィエは必然的に結びついています。

一方、言語というのは記号のなかでも特殊なものとソシュールは指摘します。
「犬」というシニフィエが一緒でも、「イヌ」「dog」「chien」「Hund」などのようにシニフィアンはまるでちがう。「あの生き物」を「イヌ」と呼ぶのは、単に約束事に過ぎないのです。だから、言語にあってはシニフィアンとシニフィエの関係は恣意的である。

さらに「意味」とは何か。
意味というのは世界を指し示すものでも、ある思考、思い描かれたものを指し示すものでもない。事物や概念が言語の外側にあらかじめ存在していて、それに言葉が名前をつけているわけではないのです。「上」という意味は、どこかにある絶対的に揺らぎのない「上」という真理を指すのではなく、下ではない、右でも左でもない、という差異にもとづいている。

ソシュールの指摘が重要なのは、シニフィアンとシニフィエというのは確定的な結びつきではないし、さらにその向こうに、たったひとつの真の意味があるわけではない、ということです。
だから、ソシュールによって現代思想が始まった、ともいえる。

さて、『言葉と物』での「記号」は、表象と同義です。表象は記号ばかりではないけれど、記号は表象の一種です。

ルネッサンス期において記号は物といまだ結びついていた。
ところが古典主義時代において、〈表〉が登場します。これは物の世界とまったく結びつきを持たない、完全に自律的な表象空間です。

昨日はこの〈表〉についてもっと詳しく書こうと思ってたんですが、あまり必要ではないようなので、サクッといきましょう。

ポイントは
・すべての物の意味が、現実の事物との関係のうちにではなく、「記号の完全な表のうちに与えられる」ということ(言葉を換えれば、意味が現実と一切の関わりをもたず、それ自体として成立すること)

そうしてもう一点。
・人間の位置
人間は〈表〉を作成します。世界の中に秩序を見出すことができるのは、人間が表象し、語るからです。ところが〈表〉のなかには人間はいない。

『言葉と物』の第一章で、フーコーはベラスケスの「侍女たち」を分析しますね。そこで王の姿は見えない。だからこの絵を「古典主義時代における表象関係の表象」とするのです。

やがてこの〈表〉は崩れ始めます。表象も自律性を失います。
それはなぜか。近代に入って新しく〈人間〉という概念が登場したからです。この〈人間〉は「語る主体」「労働する主体」「生きる主体」として現れる。ベラスケスの見えない王の位置に実際の人間が入ってくるのです。

まあそこらへんはまた読んでもらうとして、古典主義時代のディスクールというのは〈表〉をつくることにあった。だからこの時代のディスクールというのは、「無色の網目を形成する」ということです。

> 表象なんですけど、これは幾つかの表(リスト)であり、上記の通り”他の物(質)との関係の系統/体系”を成立させる役割があるのだと思います。

だから、これは古典主義時代の〈表〉ということになる。
表象そのものに

> ”他の物(質)との関係の系統/体系”を成立させる役割

があるわけではありません。
この時代の表象とは「物を名ざし、裁断し、組みあわせ、結びつけてはほどく、言語の力」だった。このときの言語とは、透明なものです。こういうディスクールは、古典主義時代の終焉とともに消えてしまう。

そういうものとして理解しておいてください。

さて、"Representation: Cultural Representations and Signifying Practices" は読んでみようかなあ、とも思うのですが、ペーパーバックで43ドルは高いなあ。
とりあえずはホールの概説書の翻訳が出てるみたいなので、そこから読んでみます。

確かにオーストラリアの歴史には、両義性がありますよね。
イギリスに対しては植民地であった反面、先住民や非イギリス系植民者に対しては、支配と統治の対象として見なしていたわけでしょ。
そういう歴史を持ったオーストラリアがポスト・コロニアリズムをどう考えていくかというのは、切実な問題であるように思います。
日本にはオーストラリアの学問的成果みたいなものはあまり入ってこないんですが、頑張ってゆくゆくは日豪の架け橋となっていってください。

この回答への補足

どうも。質問させていただきます。まず、signifierは僕らは、単なる文字として捉えるように教わりました。そしてsignifiedは先生からthe image conception、つまり犬とか猫という言葉、または音から表される(表象)イメージだと。しかしsignはghostbusterさんの言うようにarbitrary(この単語の日本語ってなんて発音するんですか?難しいですね)な関係であって自然な結びつきではないという事でした。記号学的に文字を見た時、単語を単なる文字として、そしてそこから引き起こされる意味をまず考えると思います。また記号、単語達は文法によって決められたcontextの中で意味を生成する。僕はまずこのsign(記号って言いづらいのでsignにします)の意味は他のsignたちの持つ意味との関係で交互に支えあい、またdiscourseがをそれを取り持っていると考えています。そして一度contextの中に単語を、文法に従い順番に入れた時、意味を固定することができると。ただDerridaなどが言っているように、意味を固定する事は実際にはできない、私たちは違う意味を文脈から読み取ることができると。ここで質問なんですが、contextがいわゆる、表象なのでしょうか?幾つかの単語で一つの意味を生成する。つまり文章を構成するタブロー(sign)sから一つの表象を生み出すという事なのでしょうか?以前、ここで質問した事がありましたが、”意味自体が表象なのでは”というのはこの発想から来ています。discourseによってsigns---shignified(意味)はお互いに関係を支え、また文法によって統制されたcontextの中から特定の意味を抽出し、それを表象として我々は捉える...という考えは間違っていますかね?またこのsignifiedの持つ”意味”についても、それがdiscourseだと断言するにはちょっと自信がありません。ちょっとここでBarthes のquoteを入れます。

the search carried out a horizontal set of narrative relations may well be as thorough as possible but must still, to be effective, also operate ‘vertically’: meaning is not ‘at the end of the narrative, it runs across it’ (Bathes, 1977, pp. 87).

基本的に文章は左から右へ読まれて行きます(英語の話ですけど)。しかし私たちは意味を常に縦方向に探しながら文章を読み取って行く。これは全てのsignsが歴史の中で意味をsignified に蓄積しているためだと、Barthseは述べています。このため文章が表象するものが、一定ではない、つまり表象自体の関係によって意味は成立しない--- ”表象そのものに ”他の物(質)との関係の系統/体系”を成立させる役割があるわけではありません。”という事なのでしょうか?つまり上記してるように、signisが表象を作り上げている、ってことなんでしょうかね?フーコーはベラスケスの「侍女たち」についても質問したい事はありますが、これは次回にします。

補足日時:2007/05/08 19:55
    • good
    • 0
この回答へのお礼

返答遅れて申し訳ありませんでした。最近どうも、assignmentが立て込んでいて、自分の好きに勉強を進めて行く事ができません。今日までに、三つの論文を書き上げ、二つのプレゼンを終え、先週、テストをなんとかこなしたところですが、明日またもやプレゼンを控え、それに時間を取られている状況です。これが大学生活と言ってしまえば、それまでですし、自分の選んだ専攻科目達なので文句は言えませんが、愚痴の一つも言いたくなります。

ところで日豪の架け橋はもっと優秀な人間にまかせたいですね(笑)、僕は自分のしたい勉強にかまけていたいと思っています。ありがとうございました。明日、質問を入れたいと思います。

お礼日時:2007/05/07 22:07

> ベラスケスの絵が表象するものはそれ自身で一つの世界を表している事だと思っています。



そうです。そういうことです。あの絵は「自律した表象の世界」の「表象」として、フーコーはとりあげているんです。
そうしてまたあの絵における王の位置が、古典主義時代の人間の表象でもあるんです。
つまり、タブローのなかに「動物界脊椎動物亜門哺乳綱サル目」として位置づけられてはいるのだけれど、自然のなかに秩序の切れ目を入れてタブローを作りそれを見ているまなざしは、タブローの外側(俯瞰する位置)にあって、なかには位置づけられない。

そうして、近代に入って、「王」は可視的な存在として、王のいるはずの空白の場所にあらわれてくる。それはもうベラスケスの絵ではなくなりますけれど。

> 画家、観客、被写体はタブローではないですよね?

ええと、これに関しては、わたしなんかが回答するより、ものごっつい回答が先に出ていますので、それをご覧になってください。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=77139

わたしのように危うい回答ではなく、こういう人がもっといてくださったら、勉強になるんですけどねえ。
なんでこんなふうにコンパクトにピシッと書けないかなあ。どうもスカスカでいけません。

だから、画家、観客、被写体はこの絵という「タブロー」のなかでそれぞれに位置を与えられているということです。


> つまり客観から主観に変わったという事でしょうか?

英語でいうとどっちもsubjectなんですけど、この場合は日本語で言ったら「主体」といったほうが収まりがいいかなあと思います。
フーコーは『言葉と物』のなかで、「人間」は近代に入って登場した概念だって言ってますよね。
言葉を換えれば、それが「主体」という概念でもあるんです。
それまでは主観といっていた。この主観には、客観という概念が前提とされています。
そうしてまた、「表象」という概念は、「主観」が「もの」の存在を表象というかたちで対象ととらえる、「客観」の位置に置く、という「主観-客観」の対立が織りこまれている。
それに対して主体とは、主語であり、動作主であり、身体である。
意味の中心に「主体」があるわけです。

> discursive konwledge によって属が決定され人物達が表象されるということですよね? 

それはそのとおりだと思います。
ひとつの作品において、描写というのは(人物描写だけでなく、家や車や持ち物や犬までも含めて)そのひとがいかなる「属」に属するかを指示しているわけです。
おもにこうした描写は、その人物の人種や所属階級を指すわけですが、たとえばdiscursive konwledge を共有しない日本人が翻訳で読んだとしても、それだけではピンとこないところがある。「ニック・キャラウェイ」という名前が表象するもの、アメリカにおけるアイルランド系移民であるということ、裕福な中流階級ではあっても、たとえばアメリカにおける「上流」を形成しているオランダ系、あるいはイギリス系の末裔ではないことが示唆されている(あ、これは『グレート・ギャツビー』の話です)。そうして、このことが『ギャツビー』の物語の基底をなすものでもある。
つまり文学作品というのは、表象にあふれているわけです。
そのいくつもの表象が、ときには矛盾し、相対立しながら作品を作っている。
よく「この作品のテーマは…」みたいな言い方をすることもあるんですが、これは「この作品が表象しているのは…」ということの別の言い方ですよね。

ちょっと回答が散漫なんですが、何らかの参考になれば。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=77139
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。Foucault の質問は今回で打ち切ります。長い間ありがとうございました。それと今回も大変参考になりました。またFoucaultは引き続き勉強していきたいと思っています。ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/19 02:43

いやいや遅くなってごめんなさい。

気がつくのが遅れた上に、このところちょっと忙しくてまともに時間がとれなかったんです。とびとびで書いてたら三日くらいかかってしまった。ほとんど日記だ(笑)。


>記号学的に文字を見た時、単語を単なる文字として、そしてそこから引き起こされる意味をまず考えると思います。また記号、単語達は文法によって決められたcontextの中で意味を生成する。僕はまずこのsign(記号って言いづらいのでsignにします)の意味は他のsignたちの持つ意味との関係で交互に支えあい、またdiscourseがをそれを取り持っていると考えています。

そうですね。単語が意味を持つのは、ほかの語との関係性でしかありません。

たとえば[cattle],[ox],[bull],[cow],[heifer],[calf] という単語は、どれも日本語では「牛」です。ざっと思いついたのはこれぐらいだけど、もっとあるかもしれない。
[ox]という単語が意味を持つのは、ほかの[bull]や[calf]や[cow]や[heifer]という関係性のなかでだけです。ほかの言葉がなければ、つまり、日本語のように「牛」一語ですませるのであれば、[ox]という言葉は成立しない。
[ox]という単語の意味を決定づけているのは、[ox]という単語ではなく、ほかの単語との関係と、その背景にあるコンテクストの作用です。
と同時にこの単語はひとつの文化を現してもいる。
ある文化では「牛」一語で十分だし、別の文化は「牛」一般ではなく、精緻な分類を必要とする。

> これは全てのsignsが歴史の中で意味をsignified に蓄積しているため

っていうのは、こういう説明だとちょっと荒っぽすぎるかな。

ともかくある種の記号、「カンガルー飛び出し注意」みたいなものは、標識と意味が一対一で対応しているのだけれど、シニフィアンが喚起するシニフィエは、ただひとつの真の意味みたいなものを持っているわけではない。むしろ一種のシステムみたいに考えた方がいい。

> 記号、単語達は文法によって決められたcontextの中で意味を生成する。

にしても、主語は「主体」です。記号や単語が意味を生成するわけではない。
主体が意味を想起し、コンテクストのなかで確定していくわけです。

"We dance round in a ring and suppose,
But the Secret sits in the middle and knows."

これはロバート・フロストの有名な二行詩「秘密はすわる」ですが、このなかに出てくる単語でわからないものはひとつもない。文法にも則っている。
それでも、コンテクストを見ても「何を言っているかわからない」と思う人は多い。
ああ、そうだな、と思った人も「そうだな」の中身は人に応じて、あるいは同じ人でもそのときどきに応じて、受けとる意味は異なる。

もちろん、詩的言語というのは、押韻などでシニフィアンを重視する、あるいはわざとシニフィエを特定しにくい言語を使う、といった側面もあるんですが、コンテクストに置かれた単語が生成する意味というのは、たとえばドアの前に書かれた赤いスカートをはいた人型のマークが「意味を生成」するのとはずいぶんちがうわけです。それは言語という記号の特殊性としてあります。
そういえば「カンガルー」という語はアボリジニの言葉で"I don't know."だった、というのは日本では有名なエピソードなんですが、ほんとなのかしら。
ここでも単語はコンテクストに置かれても、それだけで意味をなすわけではない、というのはよくわかります。

> ここで質問なんですが、contextがいわゆる、表象なのでしょうか?幾つかの単語で一つの意味を生成する。つまり文章を構成するタブロー(sign)sから一つの表象を生み出すという事なのでしょうか?

んーと、微妙に「表象」の意味がずれてるかな、と思います。
わかりにくい概念ですが。

まずね、タブローというのはあくまでも古典主義時代のエピステーメーである、というふうに理解してください。近代に入って「人間」という概念の登場によってうち破られるものです。映画でも主役をまちがえたらストーリーを追いかけ損なう。まぁ悪役は限られてるからデニス・ホッパーが出てきたら自動的にだれが犯人だかわかっちゃいますが。ウィリアム・デフォーもそうなってきつつあるのが悲しい、スキなんですよね、あとスコット・グレンとか、って何の話だ、そうそう、タブローはやがて追われる「古典主義時代」の主役です。アナキン・スカイウォーカー、ってったらダメだろうか。

さて、行き先を確認したあとで、もういちどタブローに戻りましょう。
まず、表象の空間を構築するのは記号、すなわち言語だった。世界は記号によって二次元の〈表〉として、表象されたわけです。

一覧表を想定してみてください。
たとえば「動物」の一覧表。
ルネッサンス期というのは、ドラゴみたいな想像上の生き物が「動物」のなかに入ってましたから、こんな表を作ることはできなかった。だってドラゴンなんてだれも「見た」ことがなかったから。その「脊柱」がどんなふうになっているか、体表がどんなだか、なんてだれにもわからなかった。
ところが古典主義時代に入って、博物学が登場します。これは徹底的に見て、観察して、分類して、秩序にはめこむ学問です。顕微鏡の登場も大きかった。
フーコーは植物学者リンネのこんな言葉を引用しています。

「特徴が属を決定すると思ってはならない。属が特徴を決定するのだ。特徴が属から生じるので、属が特徴から生じるのではない」(『言葉と物』第五章p.169-p.170)

まず「自然界の生き物」を「動物」と「植物」に分ける。さらにその「動物」を「脊椎動物」と「無脊椎動物」に分け、さらにそこから綱→目→属→種と分類される。

ポイントはここです。
そもそも動物にしても植物にしても、自然界の生き物にあらかじめ「切れ目」が入っているわけではないのです。それに、恣意的に「切れ目」を入れていく。この切れ目、江戸時代の日本では「本草学」といって「土、草、虫、魚、獣」という分類のしかたをしていたのですが、これがダメでリンネの作った分類のほうが優れてる、なんてこたあ全然ないわけです。だから、「恣意的」(しいてき、って読んでください。最初見たとき、わたしも「「恣意的な判断」っていうぐらいだから、勝手に、ぐらいの意味かなあ」と漠然と思った記憶があります。だれが勝手に結びつけたんだろう、みたいに思った(笑)。だけど、「恣意性」という日本語はソシュールを知るまで聞いたことがありませんでした。ところでわたしは arbitrary が発音されるのを聞いたことがありません。前半は arbor と同じ、後半は図書館と同じ発音でいいのかしら)。

そうして「切れ目」で切りとられた「格子のひとつ」が「表象」です。
「格子の一つ」がほかのものから切り離されて、ただひとつ転がっているだけではなんの役にも立たない。「動物界脊椎動物亜門哺乳綱サル目」という「表象」が意味を持つのは、全体の格子との関連において、同一性と差異性による分類のひとつとしてのみです。
ただ、大きな枠の中では、格子のひとつ、「動物界脊椎動物亜門哺乳綱サル目」は、世界における意味を獲得することができます。

ここでの言語の働きは何か。

「博物学とは、まさに可視的なものに名をあたえる作業なのだ」(p.155)

ある対象に「名前」という言語表象を与えると同時に、その表象をタブローの中に位置づけるのが博物学だった。

「古典主義時代における「言説(ディスクール)」の基本的任務は、《物に名を付与し、この名において物の存在を名ざす》ことである」(第四章「語ること」p.146)

だから当時にあっては単語というのはなによりも名詞であり、すなわちそれはなにものかの表象であり、名前だったんです。
言葉は物の名前だと思っている人、いまでも多いですね。それは二世紀に渡る古典主義時代のディスクールがいまなお、影響力を持っているということなんでしょう。

さて、これが18世紀末にどんなふうに転換していくか、フーコーは細かく見ていくんですが(ここらへんは丁寧に読んでいくとなかなかおもしろい)、ポイントはここです(と思います)。

「言語はもはや、他の表象を截断し組み立てなおす力をもつ、表象のひとつの体系ではない。それは、もっとも恒常的なその語根において、行為や状態や意志を指示し、人のなすこと、あるいは蒙ることを最初から言おうと望むのであって、最終的には指によってそのように物を指すことがあるとしても、それは、物がそのような行為の結果である、対象であり、手段である限りにおいてなのである。だから名詞は表象の複雑な表を截断するのではなく、行為の過程を截断し正視させ凝固させるのにすぎない。言語は知覚される物の側ではなく、活動する主体の側に「根をもつ」わけだ」(第八章「労働・生命・言語」p.310)

さっきも言ったみたいにタブローの中心は〈名〉でした。当時の言語表現の中心は〈名〉であり、〈名〉は表象だった。
それが18世紀後半によって、サンスクリット語、ギリシア語、ラテン語を比較してみると、単語(語根)自体は大きな変質が見られるのですが「語尾の屈折」には明瞭な法則性が存在する。それだけでは意味とも表象とも関係ない語尾の屈折が、「もっとも恒常的なその語根」をもっている。つまり、言語を分析するときにも、表象に還元できない要素、生きている人によって話され、そのたびごとに消えていく「音」の要素が重要になってくる。言語が固有の歴史を持っていることも。

フーコーはグリム(あのグリム童話を編纂した人の本職は言語学者だったんです)のこんな言葉を引用しています。

「言語は人間的なものである。それは、その起源と進歩をわれわれの全き自由に負うている。言語はわれわれの歴史であり、われわれの遺産なのだ」(第八章「労働・生命・言語」p.311)

なんか、この力強さというのは、「おお、近代」って感じですが(笑)。

さて、ご質問に戻りましょう。
まず、「表象」には、まず「なにものか」が存在して、それを言葉が表象している、という考え方が根本にあります。

だけど、この「言葉」自体がすごく厄介なものなわけね。
フーコーの『言葉と物』全体が、この「言葉」が実はすごく厄介なもので、わたしたちは「物」を見てると思ってるけど、実は「言葉」を見てるんだよ、ってことを言ってもいる。

だから、「表象」という言葉を使うときも、慎重にならなきゃいけない、無造作に使っちゃいけない、っていうところがあります。人によって定義づけもちがうし。ハイデガーは批判してますし。
だから、本の中に出てきたら、批判的な文脈かどうなのか、その人がどういうふうに定義しているかを見ておかなきゃなりません。そうだな、主役のちゃんといる映画に、突然出てきたボブ・ホスキンスみたいな感じかもしれない。重要な役にはちがいないんだろうけれど、いいやつなのか、わるいやつなのか、判断を保留しながら進行を見守る、みたいな。モーガン・フリーマンだったら立派な人にちがいないし、ケヴィン・スペイシーだったら犯人にちがいないんですが(笑)。

だから、スチュアート・ホールがあえてここで「表象」という用語を持ち出してきたのは、きっと独特の定義付けを与えているはずです。

> contextがいわゆる、表象なのでしょうか?

もちろん、コンテクストが「表象」として働く場合もあります。
ボルヘスの「シナのある百科事典」の引用が、あるエピステーメーのもとでは、別のエピステーメーにおいて理解不能な分類も意味を持つ、ということを「表象」しているように。

> 文章が表象するものが、一定ではない、つまり表象自体の関係によって意味は成立しない--- ”表象そのものに ”他の物(質)との関係の系統/体系”を成立させる役割があるわけではありません。”という事なのでしょうか?

そういうことです。ボルヘスもきっと『言葉と物』での自分の文章の使われ方を見て、びっくりしたことでしょう。

>つまり上記してるように、signisが表象を作り上げている、ってことなんでしょうかね?

そうですね。フーコーが引用することで、「ボルヘスの引用」は新たな意味を獲得した。

うーん、こんなところでどうでしょう。
もう行かなくちゃなりませんし、あんまりたらたら書いてるのもなんだ。いいかげん送信することにします。
おかしいところがいっぱいあるような気がするんですが、いまのわたしはこのぐらいの理解、ということで。

今度は毎日見に来ますから(笑)、大丈夫、いつでも補足要求なさってください。

どうでもいいんですけど、AC/DCってそちらではいまでもみんな聴いてます?
高校の頃、好きだったなぁ。わたしにとってオーストラリアというと、ピーター・ケアリーとAC/DCだなあ。

この回答への補足

質問させていただきます。
まず”表象も自律性を失います。それはなぜか。近代に入って新しく〈人間〉という概念が登場したからです。この〈人間〉は「語る主体」「労働する主体」「生きる主体」として現れる。ベラスケスの見えない王の位置に実際の人間が入ってくるのです。”ですが、ベラスケスの絵が表象するものはそれ自身で一つの世界を表している事だと思っています。それは画家、観客、そして被写体がこの絵の中に入り込んでいるためで、そしてこれら画家、観客、被写体がsignsとして機能しこの世界を表象していると認識しております。ここで第一の質問なんですが画家、観客、被写体はタブローではないですよね?もしこれがタブローならsignsとタブローは同一ってことになりますが... おそらく同一なんだと思いますが。

またベラスケスのラス・メニーナスは17世紀の半ばから後半にかけて描かれた作品です。これはちょうど啓蒙がヨーロッパで始まった頃を指す年代だと思いますが、このころの絵画、文学は一部中流階級による客観的な作品達が多くを占めていたと認識しております。(これがいわゆる17世紀におけるmodernityとRealismですよね?)一方でimprssionism, dadanismなど同時期に主体を表す作品が登場してくると思いますが(modernism)、これがghostbuster差の言われた”表象も自律性を失います”になるんですよね?つまり客観から主観に変わったという事でしょうか?客観的なタブロー、epistemeがこの時瓦解し、主観と言う新しい”見方”(んー、表現しづらいな)になった、ということなのでしょうか?modernismは一部中流階級(すみません、うまい言葉が浮かびませんでした)のrealism(客観的表象)へ疑問をなげかけ、post-modernismへと継承されいく、こんなところで合ってるでしょうか?

ちょと話しが移りますが、物語の中に登場する人物などは特徴づけがされていますよね。例えば目の色とか、着ている洋服、身につけている装飾品(cluster of character traits)などが作品における人物を表象(特徴)していると思いますが、ここでです”(特徴が属を決定すると思ってはならない。属が特徴を決定するのだ。)”なんですが、物語の中の人物達の属とはdiscourseになるのでしょうか?つまり他の物との比較、うーん苦しいな、ジャンルをさしているということですよね。つまりdiscursive konwledge によって属が決定され人物達が表象されるということですよね? またもし作品全体を見た時、それぞれの人物たちが今度は作品を特徴づける、表象からsignsまたは属に変わり物語全体を表象するという考えは間違っていますか?

全く関係ないんですけど... 関係なくもないか、ghostbusterさんはLacanの the imaginary, the symbol, the real そしてthe mirror stageについて何かご存知でしょうか?いまちょっとLacanに手をだそうとしているんですよ。おそらく最後の論文は、FoucaultとLacanになると思うんですけどね、もし知っていればご教授願いたいです。一応質問はすでに、このコミュに入れてあります。

それからsausage rollでした(笑)、ソーセイジの役割になってしいました(下記)。

補足日時:2007/05/14 21:58
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。 AC/DCは伝説的な位置づけなっていまが、年代層にやはり偏りがみられますね。家にいるおっちゃんはAC/DCが今でも大好きですね。よくBon Scottの墓はこの街にあるんだぞ!と自慢気に大喜び。それと替え歌をよく歌っています。”it's a long way to the shop, if you want a sausage role ♪”だそうです。うーん,,,嘘笑いすらできない状況です。

話変わりますが、ghostbusterさんは"stolen children(stolen generations)"って聴いた事がありますか?かなり前のジャーナリズムの講義で僕も知ったんですけどね。Australian Aboriginal children のことなんですけど。子供を英教育し、また交配によってアボリジニンを絶滅させようとしたみたです。講義のとき、実際に色が白く、金髪で目が青い(顔の造り-骨格はアボリジニンでした)アボリジニンがゲストで来てました。まぁ講義は朝早く、彼の英語はAussie発音すぎたため、良く理解できず、眠気も手伝い彼の発音をララバイにして寝てしまいました(笑)。ふとPost-colonialismで思い出しました。質問は明日上記します。

お礼日時:2007/05/13 17:00

ああ、ちょっと訂正。


変なこと書いてました。

×「犬を散歩に連れて行った」という話を聞く。

こんなふうにコンテクストに置いちゃダメですね。
これでは「犬」いう語は話した人、場面、さまざまな額縁関係に置かれることになるから、ここで言うような例としてはふさわしくない。
ここでは「犬」という一語でなくてはなりません。

ということで、
○「犬」という言葉を聞く
と置き換えて読んでください。ごめんね。
訂正機能がほしいなあ。
    • good
    • 0

さてさてこんにちは。


何かねー、世間が休みになると、なんだかんだ忙しくて。ぶつぶつ。
と、気を取り直して。

日本語訳では《表(タブロー)》と表記されているので、表(リスト)が同じものだとは、前の回答を書いていて一番最後に来るまで気がつきませんでした(笑)。

ということで、少し〈表〉の話を。
フーコーは古典主義時代のエピステーメーは、表象と記号によって可能になった〈表の学〉であるとします。

『言葉と物』の「第三章 表象すること」はドン・キホーテのエピソードから始まる。
ドン・キホーテは中世のエピステーメー〈類似〉で世界を読みとろうとする。

「それらのテクストに自分を類似させることによって、それらが真実を語っていること、それらがたしかに世界の語る言語(ランガージュ)であることを証明し、そのことの疑うべからざる標識をもたらさなければならない。…彼、ドン・キホーテは、物語の内容のない記号(シーニュ)を現実によってみたさなければならない」(『言葉と物』p.72)

ところが世界のエピステーメーは変わってしまっている。

「ドン・キホーテの真実は、語と世界との関係のうちにではなく、言葉という標識がたがいのあいだにはりめぐらすこの厚みのない恒常的関係のうちにあるのだ」(p.73)

これが〈表〉ということです。

ルネッサンス期において「記号」は
・標識によって示されるもの
・標識となるもの
・後者のうちに前者の標識を認知するもの
と、この三つの要素を含意していた。この三点目こそ「類似性」ということです。

だからこそ、ルネサンス期の自然の記述『蛇と龍の物語』には、観察と伝聞と記録とおとぎ話という次元の異なるものが、類似の法則によって結びつき、並列されて記述される、ということが起こる。

これが古典主義時代になると『ポール=ロワイヤル論理学』が明言するように、「記号は、一方において表象する物の観念、他方において表象される物の観念という二つの観念を含んでいる。記号の本性は、前者によって後者を喚起する点にある」(『言葉と物』p.89から孫引き)ように「類似による思考」は消滅した。

さらに、フーコーはこの『ポール=ロワイヤル論理学』を引用した部分につづいて、こういいます。

「けれども、記号がこの純然たる二元的存在となるためには、ひとつの条件がある。能記となる要素は、他の観念に連合もしくは置換された観念、心像、あるいは知覚というその単純な存在においては、まだ記号ではない。この要素が記号となるのは、それとそれが記号であるところのもの(シニフィエ)との関係を、さらにこの要素が顕示するという条件においてのみである。この要素は何かを表象していなければならないが、さらにこの表象作用がまたこの要素のうちに表象されていることが必要なのだ」

もしかしたら英語で読んだ方がわかりやすいかもしれない(笑)、能記というのはシニフィアンね、言い方がややこしい割りに言っていることは単純です。

「犬を散歩に連れて行った」という話を聞く。
日本語を使う人であれば、意味をたちどころに了解する。
このとき、「イヌ」というシニフィアンを聞いて、実際の犬の姿を思い浮かべる人はおそらくいないでしょう。
「イヌ」というシニフィアンは、その語によって指し示される「イヌ」という意味、シニフィエを指示するのですが、この「イヌ」というシニフィエもまた抽象的な「イヌ」という表象であるわけです。
つまり「イヌ」という語はそれが表象しているもの以外の内容をもたず、しかもその内容が、「イヌ」という語によって表象された状態でしかあらわれない。

これが記号の「二元的存在」ということで、これがどういうことかというと、「イヌ」という語には、「イヌっぽい」ところはどこにもない、ということ。
もう少し知的にいうと物が属する空間と記号とは一切結びついていない、ということです。

ルネッサンス期においては、いまだ表象と物が区別されていなかった。
けれども古典主義時代に入ると、記号は物との結びつきを断ってしまいます。
だから、あらゆるものを平面的な《表》に置き換えることができるようになった。

ああ、前置きだけでこんなに長くなってしまった。
《表》の話はまた明日。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。無事、今日プレゼンを終えました。今回のプレゼンはとても楽しかったです。meaning, communicationそしてcultureが私のトピックだったんですよね。Foucault のdiscourseは自分の勉強のためのエクストラだったんですよ。英語も通じたし、好きな勉強もできたので大満足でした。ところでシニフィアンとシニフィエって英語でいうsignifierとsignifiedのことですかね?記号学ですよね?

お礼日時:2007/05/03 22:12

えーと、しばらく考えていました。


引用された箇所はそのとおりだと思うんです。

ただ、例のスチュアート・ホールのサイトにはこんな箇所があります。

>> こうした意味においては、考えることや感じることは、それ自身「表象のシステム」である――そのシステムによって、私たちの精神生活の中で、私たちの持つ概念、イメージ、感情が、「向こうの」世界に存在する、あるいは存在するかもしれないモノを「表すstand for」、あるいは表象するのである。

わたしはね、そうなのかな、と思うわけなんです。
もしかしたら変なところにひっかかってるのかもしれない。
いや、もちろんそういう側面があることは否定できないけれど、こう言っちゃうことに、待てよ、と思うものがある。

>> 言語は、表象を通して機能するのである。

というのはその通りだと思います。機能という側面から考えたらね。

ただ、やはりわたしはメルロ=ポンティが言うみたいに、「語り手のことばが思考そのものである」というふうに考える。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa918369.htmlの#3で引用してます。

たとえばね、質問者さんは英語でふだん生活なさってるわけでしょ、そういうときに日本語の思考と、思考そのものが変わってきている実感はありません?
少なくともわたしはそうです。
英語で話そうと思うと、自分の思考パターンをえいやっと英語に組みかえなきゃ話せない(ってもたいして喋れやしないんですが)。
そうなってくると、思考そのものが変わってくるんです。
まず、主語+述語、というのが、鮮明に頭のなかにないと、英語にはならない。
日本語だと、結論もないままだらだらとしゃべって(おっと、これはわたしのしゃべりに問題があるのか?)、途中、ああそうか、みたいになることもあれば、そう思うんだよね~、みたいに、なんとなく軟着陸することもある。

「私たちの精神生活の中で、私たちの持つ概念、イメージ、感情」はどちらの会話でも反映されてると思うんですが、英語を使う場合と日本語を使う場合は変わってくるんです。
それは言語がたんに表象じゃないせいじゃないか。
むしろ言語とは思考の〈身体〉だと思う。

ただ、ホールはそんなことを言ってるんじゃないのかもしれません。だからこんどまたホール、読んでみますね。やっぱり読んでないところでは、なんともいえない。ごめんなさい。

> おそらく私たちは物を見ているのではく、言葉を通した意味つまり知識を見ているっていうことになりますよね??

それはそのとおりです。わたしたちは意味を生きています。
けれどもこの意味は、何か真理みたいなものに根ざしたものではなく、つねに差異のうちにしかないものだと思います。

> 意味それ自体が表象であるといえませんかね?

たとえばこんなふうに考えてみてください。
親指を一本だけ立ててにっこり笑ってみせると、それは「やったね」ということであり、もちろん場面によって多少の差はあるにしても、その動作を向けられた人に対して、動作主は肯定的な評価を与えている、という意味を伝えているわけです。

ここで、この「親指を立てる動作」は表象であり、それにこめられた意味は「肯定的な評価」ということになる。

こんなふうに「表象」というのは、つねに「なにものか」の表象なのね。
だからもし「意味それ自体」を表象とするとしたら、「意味それ自体」はいったい何の表象なのかを考えなくちゃならないと思います。

なんか不十分な回答で申し訳ないんですが。
ただ、オーストラリアでスチュアート・ホールが人気がある、というのはすごくよくわかるような気がしました
オーストラリアでのポスト・コロニアリズム研究っていうのは、アメリカやイギリスと意味がちがうものですものね。
マルチ・カルチュラリズムがいまどうなってるのか、そもそもいまでもそういうことが言われているのかは知らないんですが、そういった意味ではカルチュラル・スタディーズの先進国なのかもしれません。

スチュアート・ホール、また読んでみたいと思います。教えてくださってありがとうございました。

えと、ひとつ気になってるんですが、表象のところで出てきた〈表〉は、フーコーの〈表〉と何か関係があるのかな。

この回答への補足

ありがとうございます。そうです私が述べたのはフーコーの〈表〉についてです。

”語り手のことばが思考そのものである”なんですけど、確かに、ここオーストラリアでは僕は英語を話さなければ相手とコミュニケーションが取れないのでがんばって話しています。ghostbusterさんの言う通り、英語を話している自分(思考)と 日本語を話している自分とは何か違うと思います。それはただ単に文法の違いから来る思考の変化だけではないような気がします。自分自身の話し方(当然英語の表現)を通して、態度まで変わっているような気がします。前に、レクチャーが車の運転を例に挙げて、これが『the embodiment of discourse』と言っていました。つまり私たちは話すしている時にghostbusterさんの言うようにいちいち次はこの文が来て、そして次はこう話して。。。なんて考えていないと思います。車の運転も然りです。うーん何て表現して良いか分らないんですけど、discourseを通し、知識の枠組み構築し経験によって思考を作り上げて行く、それとも経験(この経験にしてもdiscourseが深く絡んでいるようなきがします)により得た知識を思考に変えて行くのか..... 自信ないな??『good will hunting』っていう映画の中で、ある好青年が、不良達のグループと接していくうちに、言葉遣いと伴って、態度も大きく変えて行く場面があるんですが、これってまさしく、discourseの体現って言えるのかも知れませんが... とすると、態度の変化とはdiscourseによての知識の変化に伴う思考の変化なのかぁ... 思考そのものが知識の表象なのかな... 頭痛がしてきた。うーんプレゼンの話題から離れてきたかな。

メルロ=ポンティについては殆ど僕は知らないんですけど、前にクラスメイトが面白い事を言ってました。ある男が片足を失ったらしいんですけど、それでも彼の脳はまだそこに足があると認識しているらしくて、ないはずなの足なのに、そこからかゆみを感じるというんです。これって経験論的な話しになってきますよね、きっと。でもこれって、車を動かすことと、話をすることと、どこか共通しているような気がします。

補足日時:2007/05/01 21:52
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。"こんなふうに「表象」というのは、つねに「なにものか」の表象”はとても分りやすく理解できました。それとメルロ=ポンティですが、彼は我々学生達が恐れている哲学者の一人です。彼の名前は時折出てきますが、彼の本を読んだ友達が、that's shitを連発していました。理解できなかったようです。また他の生徒も混乱しているみたいでした。僕は今の所、避けて通っています(笑)。今はまだ少しずつ知識をつけている最中なので、いずれ時期がくれば読むと思いますが,,,,, ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/01 22:14

こんにちは。


南半球のそちらは秋なんですね。
こちらは初夏の気配が色濃くなってきました。

さて、わたしはカルチュラル・スタディーズはあまり詳しくないので、スチュアート・ホールは名前ぐらいしか知りません。

とりあえず引用された箇所で検索をかけてみると、こんなページがヒットしました。

http://www.georgetown.edu/faculty/irvinem/CCTP79 …

出典は『西洋と非西洋 ディスクールと権力』ね。
おおっ、ポスコロ! という感じですが(笑)

ざっと見ていきましょう。基本的なタームには定訳があるはずなんですが、そういうのは知らないので厳密に見ていくとおかしいところがあると思うんですが。

“A discourse is a group of statements which provide a language for talking about ? i.e., a way of representing ? a particular kind of knowledge about a topic. When statements about a topic are made within a particular discourse, the discourse makes it possible to construct the topic in a certain way. It also limits the other ways in which the topic can be constructed…

ディスクールとはひとかたまりの言語表現である。その言語表現は、あるひとつのトピックをめぐって、(表象の一方法として)ある特定領域における知識が語られる、その言葉を明らかにするものである。
ひとつのトピックをめぐる言語表現が、ただひとつのディスクールの内でなされるとき、ディスクールによって、そのトピックがある特定のやりかたで構築されることが可能である。同時にそれは、別のやりかたでその話題が構築されていくことに制限を加えることでもある。

“…it is not based on the conventional distinction between thought and action, language and practice. Discourse is about the production of knowledge through language. But it is itself produced by a practice: ‘discursive practice’ ? the practice of producing meaning. Since all social practices entail meaning, all practices have a discursive aspect. So discourse enters into and influences all social practices...

「これは思考と行為、言語と実践という従来の区分に基づくものではない。ディスクールとは言葉を通した知の所産なのである。とはいえ、ディスクール自身、実践によって産出されたものである。「言説的実践」この実践によって意味が産出される。あらゆる社会的実践は意味を喚起するので、言説としての側面がある。したがってディスクールはあらゆる社会的実践に入り込んでいく。

おそらくこの「言説的実践」っていうのは、スチュアート・ホールのタームですね。
そう思って検索すると、こんなページがヒットしました。

http://homepage.mac.com/morihiro1966/hall/repres …

これ、すんごいわかりやすい。
たぶん、ここを読むとだいたいのことがわかるんじゃないかと思います。

最初の方でいきなり「表象」a way of representing が出てきてなんだろう、と思ったんだけど、これを読んでよくわかりました。

フーコーのディスクール分析というのは、そのディスクールが統一性をもつ集合体として認識されるためになにが必要であったかを見るものなんですね。

たとえばある時代にあって、狂気について語られたディスクールの全体を明らかにすることで、逆に語られなかった空白の場所を、のちの時代と比較しながら明らかにしていく。
そうすると、その時代の狂気のディスクールの欠落部分が明らかになる。
そうして、語られなかったことが語られるようになった原因も見ることができる。

つまり、フーコーはディスクールを通して、その時代ありようを考察できる、と考えた。わたしたちが空気のように気がつかない「現代」というものをその差異によって浮き彫りにしようとしたわけですね。

それをホールは(非言語的なディスクールの方は無視して??)少し別の角度から考えていく。

> 言説は、実践についてのある特定の主題に関する知識を参照する、あるいは構築するさまざまな仕方のことである。〔言い換えれば〕ある特定の主題、社会的活動、社会における制度的な場に関する語り方――すなわちそれに関連する知や行為のかたち――を供給する考え、イメージ、実践のかたまり(あるいは編成)のことである。これらの言説編成discursive formationは、社会的な活動のある特定の主体や場に関して私たちが作る公式、あるいはそれらに関連して私たちがなす実践において、何が適切で何が適切でないかを明らかにする――すなわち、当該のコンテクストにおいて、どの知識が有益で、適切で、「真実」であると考えられるか、またどのような種類の人、あるいは「主体」がその性質を体現しているのかということを。

こうやって言語や意味がどのように使用されているかを見ることで、現実の中で言語や意味がどのように機能してきたか、をあきらかにしようとしているわけですね。
ここから、ホールの「意味は言語を通して生成される」というのもそういう脈絡に置いて考えるといい。
なるほどなあ、と思います。

なにぶんスチュアート・ホールのほうを読んでいないので、どこまで対応できるかどうかわからないんですが、わかりにくいところがあれば、またどうぞ。

参考URL:http://homepage.mac.com/morihiro1966/hall/repres …

この回答への補足

ちょっと今回は質問と確認したい事があります。それはフーコーの言う『representation/表象』です。ますHall (1992)" He (Foucault) syudied not language, but discourse as a system of representation" and "It (discourse) defines and produces the object of knowledge)" と述べています。ここでもう一つquoteを入れさせていただきます。

If I kick a spherical object in the street or if I kick a ball in a football mutch, the physical fact is the same, but its mening is different. The object is a football only to the extent that it establishes a system of relations with other objects, and these relations are not given by the mere referential materiality of the objects, but are, rather, socially constracted. This systematic set of relations is what we call discourse (Pitkin, 1972).

私が道路で蹴る球体と、サッカーマッチで蹴るボールは物理的事実に基づけば同じで物あるが、その意味を異なっていると言えよう。物(質)がサッカーボールに変わるのは他の物(質)との関係の系統/体系が確立した時点である。これは単に関連性のある物質性によって与えられた関係ではなく、それらはむしろ社会的に構成された関係だと言えよう。この系統化された関連の固まりを私たちはdiscourse と呼ぶ。

ここでです表象とdiscourseそしてmeaningについて考えてみたんですけど。まず表象なんですけど、これは幾つかの表(リスト)であり、上記の通り”他の物(質)との関係の系統/体系”を成立させる役割があるのだと思います。前のepismeteの質問の時、ghostbusterさんから説明を頂いた、幾つかの定義で動物というカテゴリーが造られているように---つまり物の知識によってそれが何であるかを認識する(discourse)。おそらく私たちは物を見ているのではく、言葉を通した意味つまり知識を見ているっていうことになりますよね??意味それ自体が表象であるといえませんかね?

一応、the order of things の『Las Menisas』を読んでみたんですけど、これがまた難解なんですよね。

補足日時:2007/04/30 01:27
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お久しぶりです。今夜はこっちは特に寒く暴風雨になっています。

私は去年までマスコミを専攻してました。ここでカルチャスタディを少し齧っていたのですが、今年からliterary and culture に変え、本格的にこれの勉強を始めました。周りからは結構反対されましたけど(苦笑)

スチュアート・ホールは僕たちliterary and culture students にとってはアイドル的な存在なんですよね(笑)。好き嫌いに関わりなくほぼ皆鞄の中に彼の本を忍ばしています。使い勝手の良い本ではありますが、もちろんある程度の知識を要求してきます。今回引っかかっているのはやはり表象ですね。discourseというのもその昔、マスコミの勉強をしていた時、レクチャーに"it is How to talk"と教わりました。確かに簡単に言えばそうなんでしょうけど(笑)ありがとうございました。質問は上記します。

お礼日時:2007/04/30 01:44

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!