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応仁の乱の細川対山名の争いは当事者を置いて戦国時代に突入するきっかけとなりましたが、その後の細川と山名の争いは決着はついたのでしょうか?
無理やりでも決着を判定するとしたらどちらが勝った(または領土などの有利に終わっている)のでしょうか?

A 回答 (3件)

東寺記(東寺執行日記)によると文明6年(1474年)4月3日に山名宗全の息子(養子とも)・政豊と細川勝元の息子・政元との間に和睦が結ばれています。

応仁の乱が終わったのはその3年後のことです。

無理やりにでもどちらが勝ったかを判定するとするならば、やはり細川家でしょうか。山名家は宗全の時代が全盛期でしたが、細川家は政元の時代が全盛期です。細川家は畿内に領土が残ってましたので領土的にも有利だったと思います。
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この回答へのお礼

私はかなり誤解していました。
それは応仁の乱自体に終わりがあったのですね。うやむやになったと思っていました。
またNO1様回答のように、息子世代で和睦していたのですね。
山名は但馬、因幡でしたっけ?それに比べれば三好党に支えられているとは言え京に近いのはやはり有利です。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/11 20:47

ANo.1です。


1472年の段階で、山名宗全・細川勝元の間で和睦交渉がすでにあり、そのときには赤松政則らの反対で流れます。で、この責任を取って宗全は切腹をしかけ、勝元は出家しようとします。さらにそのうえ和睦を後押ししたのは、足利義尚に将軍宣下が下ったことがあり、西軍に大義名分が消滅してしまったということもあげられます。ともに決定打にはかける所があるので、やはり痛み分けです。

ちなみに
政豊のあと山名氏は没落しますが、江戸時代まで家名を残します。
細川は知っての通り
総理大臣まで輩出する名家になっていくわけですから
そういう意味では
細川は応仁の乱を乗り切りました。
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この回答へのお礼

豊国は毛利、豊臣、徳川を頼ってお伽衆として生き残りましたが、大名としてではないので、細川の優位なのでしょうか。
痛み分けである、との前提での回答も理解しました。
再度の回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/12 07:21

1473年に山名宗全・細川勝元ともに死去します。

これにより講和の機運が一挙に高まり、で翌年和睦が成立します。結局痛みわけというところでしょう。がこれで終わったわけではなく、乱自体の終結は1477年に大内政弘が周防に帰国するまで続きます。この大内政弘ですら、形の上では将軍に降伏しますが、周防・長門などの守護職を将軍から安堵されています。
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この回答へのお礼

仲良く(?)同時に亡くなられたわけですか。そうなると残された者たちは当事者が居なくなったから講和。和睦。
そうですよね。何時までも争っていて、ふと周りを見回せば戦乱。疲弊する兵力を温存しないと、浦上や毛利、三好らが急成長していてそれに対応しなければならないということでしょうか。
無理やり決着をつけるとすれば、どちらになるのでしょうか?
回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/12/11 20:43

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