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私はよく歴史SLGとかをするのですが、それをきっかけに大河ドラマなども見始めました。
そこで疑問に思ったのが、戦場の会議をしてるところで「○○殿900騎、参陣!」とかいうと「おぉ、頼もしい~」とかそんなことをいうと思います。
ゲームでなれた私から見ると900やそこらではとてもよく来てくれたという気持ちにはなれないと思うのです。
確かに、関が原や桶狭間みたいなおっきな戦いではないのですが、長篠の戦いや賤ケ岳、三方ヶ原など大河ドラマだったのでそこそこ有名な戦いだったのだと思います。

そういった戦いでは1000未満の参陣というのはどういった位置づけなのでしょうか?本当に喜んでいるのでしょうか。また、出すほうも形だけの場合もあるのでしょうか。

回答お待ちしています。

A 回答 (5件)

 取り合えず、純粋に馬上侍が900騎(徒歩の兵はその数倍~10倍近くいる)も参陣したら、そりゃ頼もしい所の騒ぎでは有りません。



 まあ、こう言った時の会話(大河ドラマとか)では徒歩の兵を人数に含めるのかもしれませんが。

 ちなみに、最小レベルの大名である1万石持ちだと外征の為などに1個ほど動員できる「備」の編成人員は、300~800人[騎馬は数十騎]程度です。←「備」を1個編成できる事が大名である条件。
 (もちろん自国に攻め込んできた敵を撃退する為に、根こそぎ動員すれば上記以上の規模に出来ますが、それをやるとその年の収穫にも影響が…。)

>また、出すほうも形だけの場合もあるのでしょうか。
 基本的には出すほうは形だけでしょう…。援軍が死に物狂いで戦えば、姉川の戦いの徳川家康みたいに、特筆して記述されると思いますよ。

 援軍を出すって事は、自軍の外征部隊を相手の目が届く位置に置くことで、手薄になる相手の領土に攻め込む意思が無い事を示す事かも知れません。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
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この回答へのお礼

とても参考になりました、ありがとうございました。

>> 取り合えず、純粋に馬上侍が900騎(徒歩の兵はその数倍~10倍近くいる)も参陣したら、そりゃ頼もしい所の騒ぎでは有りません。

 まあ、こう言った時の会話(大河ドラマとか)では徒歩の兵を人数に含めるのかもしれませんが。

馬に乗ってる侍には必ずお供がつくんですね、司馬遼太郎さんの功名が辻でも確かそんな話が出てきました、それにしても、900騎とかひとつのセット的な呼び方をするなら徳川3部隊到着しましたーとか4団体到着ーとか、実際何人なんだよってことにはならないのでしょうか。
私だったら900騎、兵力およそ9000!とか正確に言ってほしいと思うのですが。

>>援軍が死に物狂いで戦えば、姉川の戦いの徳川家康みたいに、特筆して記述されると思いますよ。

確かに、言われてみればそのとおりかもしれませんね、事あるごとに姉川の話はでてきますね。

回答ありがとうございました、とても勉強になりました。
>>「備」を1個編成できる事が大名である条件。
この話も予想よりスケールが小さくてちょっと面白かったです。
(私の中の大名はとても大きい存在なので。お城が全部大阪城のような大きい城ではないと知ったときのような気持ちに似ています)

お礼日時:2009/10/31 06:53

再度゜です。



<< 話には聞いたことがありますが、確か足が短くてごつかったと聞いた気がします、けれどよく調べもせずに反射的に聞いてしまいますが武田の騎馬軍団といえばとても有名だと思いますが果たしてどうなのでしょうか?>>

蹄鉄もいらないぐらい、(必要な時はわらじを履かす)骨が丈夫で、おとなしく(明治になって、外来種のアラブ、サラブが入ってくるまで、馬の去勢という知識もなかったんですよ。驚きです、それぐらいおとなしい(笑))
粗食に耐えますので、扱いは容易だったそうです。もちろんその中から、軍馬としての適正を見て育て軍役に供用していきますが、外来種との大きな違いは、後ろ足の構造にあります。山岳か草原(日本の草原は世界から見ると規模が小さい)という環境の違いで、進化も違うということでしょう。モンゴルの馬と体躯はそう変わりませんが、驚くほど速く走れません。木曾の乗馬体験で分かります。鎧兜を着て、さらに無理ですわ。
この時代の道は馬2頭並列に並んで、通れる道は数ありません。(明治陸軍の発行地図から過去推計)広い道の整備は、自国への敵の侵入を容易にしてしまいますので、だれも手をいれません。
信玄が晴信の頃、小笠原長時との争いで、甲斐国境から騎馬以上の者のみで、長躯駆け(工程39Km)、相手の油断を突いて、勝利した勝弦峠の戦いがあります。
これは、常時の編成ではなく、特別編成です。これが広く喧伝されて
あたかも、常設のように伝わったのではともかんがえています。
小説も歴史読み物も、がんがん書きますので、変に一般化していますよね。
長篠の戦いも、いわれているような騎馬軍団が存在していれば、武田の勝ちです。鉄砲が3000丁とかいわれていますが。発掘調査では、そんな数の玉は出てきません。そんなに持っていったのかも疑問ですね。
実際、決着が付くまで8時間以上掛かっています。双方、徒歩での戦いだったと見るのが普通でしょう。鉄砲に対して竹束を前に、じりじり前進、地味なものでしょう。
雌雄を決したのは、長篠城を囲む武田の砦が、織田に落とされ、武田の退路が脅かされたことにあり、兵の心理的腰砕けに繋がったことでしょう。情報が各兵に伝わった後半から、撤退を頭に入れての戦いに変化していってのことですから、盾になる部隊の犠牲は当然おおきいものになりますよね。退路を絶たれるという事は、包囲されての戦いですから、通常、全滅か大敗です。信長の戦略勝ちです。

<< 信長も国内統一が済んでからは、この数の論理を採用しょうていますよ。数がお相手より多く揃うまで、待ちます。>>は、
国内統一までは、村木砦攻撃に代表される戦いのおおくは、直属の馬廻り兵(各家の長男以外の次男三男、家を継げない者達)中心の編成700から800の兵数で勝ち抜いています。農耕に従事していませんから、いつでも、どんなときでもすぐ対応できるコンビニ的な集団になっています。こんな数でも十分に、勝ち抜けるわれです。盟主盟友は意思確認に時間がかかるという弱点を見抜いて、最初の一歩で優位に立つ、この戦略なんでしょう。もちろんこのときも、自国には触れを出しますが、
全軍揃うまで待つなんてことは、興味がないように、敏速ですね。
数がないときは、速さで、数があれば、速さと圧力、諜略です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

とても興味深い話をありがとうございます。

>>信玄が晴信の頃~
なるほど、一回きりだったのですね~。

補足説明までしていただいてありがとうございました。

お礼日時:2009/11/01 02:58

勇ましく、すぐ決戦に及ぶわけではないでしょう。

対峙し、勝てると踏んで仕掛けるわけです。勝てないと思えば、仕掛けませんよね。
死ぬんですからね。ケガでもしたらそれが元で死ぬかもしれませんし、
どうもみんな勇ましく考えておられますが、決戦なんてものは、あるいみ偶然の遭遇(この時代の道はとても狭くおのずと大人数で通れる道は限られいます。)、又、双方の強い意志なんだとおもいますね。相手より数で多いことは、自軍のすべての兵の心理が安定しますが、少ないとなると、いざというとき、どうするかといったマイナス思考が個々の心理状態になりますよ。枯れ木も山の賑わいなんですよ。味方は多いほうがいい、当然のことですよ。バーチャルな世界ではありませんから、本当の血がでますのでね。
もともと、この国の人達は、稲作の農耕民族ですから、大規模な戦は能力をこすでしょう(関東軍のロシヤ国境戦は見渡す限りなにもありません、そこで元亀天正の頃の武器を持って勝てるはずもありません。山岳に暮らす民の戦い方はゲリラ戦で強いということだとおもうのですがね)し、大平原もありませんから敵を見たら殲滅なんてふうには繋がらないでしょう。。多くの大名は盟主と盟友の関係、よく話し合って、出てくるわけで、合力してくれるところには、すべてに頼み込んでのことですよ、その約定どおり、来てくれるのは助かるわけですよ。あなたの九百騎参上は供の者も入れますと3200以上になりますよ。この時代の騎は馬に乗った身分の武者が900ということになりますから、それはもう大きな軍団ですよ。余談ですが、関が原当時、馬数は総兵力の1割程度です(それに馬はとても高価で実戦となりますと、後方に避難させて、みんな徒歩で戦います。日本に騎馬軍団なるものは存在しないでしょう。なぜか? 速く走れる構造体型になっていないからです。これは日本の在来種をみればすぐわかりますのでね、一度調べてください。)
一にも数、数数なんですよ、数で圧力をかける。大体これで戦わずに相手は屈服しますので、平和的ですね。
西三河尾張国境紛争戦通称桶狭間戦も義元としては、三国同盟がありますので、割合大人数で出張してきています。(伊勢神宮にも出張しますといった文書が残っていますよ。)直々に義元が来たのは、大人数で、決戦をせず、圧力というか武威を見せつけ、大高に兵糧を入れ、鷲津丸根の砦を落とし、知多の水野や地侍を屈服させるためですよ。最初から信長と決戦するという、そんな基本戦略は想定していません。ですが念のため、来るであろう方面には、ちゃんと蓋をしてますからね。信長も国内統一が済んでからは、この数の論理を採用していますよ。数がお相手より多く揃うまで、待ちます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました、確かに半農半武で生活している人たちにとっては家族のためにも働けなくなることは致命的ですね、ゲームでは右から左に兵力が増えるのでそこを考えていませんでした。

>>決戦なんてものは、あるいみ偶然の遭遇~

確かに、だからこそ小さな戦いでもきちんと記録され手いるんでしょうね、勉強になりました。

>>日本に騎馬軍団なるものは存在しないでしょう。なぜか? 速く走れる構造体型になっていないからです。これは日本の在来種をみればすぐわかりますのでね、一度調べてください。)

話には聞いたことがありますが、確か足が短くてごつかったと聞いた気がします、けれどよく調べもせずに反射的に聞いてしまいますが武田の騎馬軍団といえばとても有名だと思いますが果たしてどうなのでしょうか?

>>信長も国内統一が済んでからは、この数の論理を採用していますよ。数がお相手より多く揃うまで、待ちます。

信長は、個人的な思いで言うと破天荒な人柄だったのだろうなと思っていましたがちょっと見方が変わりました。


ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/31 07:17

直接のお答になるかどうかわかりませんが、参考になるものをあげておきます。



参考URL:http://www.justmystage.com/home/umanen07/siro1yo …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
こういった読み物は好きですのでじっくり拝見させていただこうと思います、ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/31 07:02

戦国時代の、軍隊の基本は「備」となります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
これが、「備の人員は一般的に300~800名」となっておりまして、この単位が実際の戦闘での単位となります。
10人 20人でこられても、戦陣を組むことが出来ないが、1000人ということは、二備と換算できます。しかも、その辺で集めてきた戦闘単位でなく、日頃からいっしょに行動している集団ですから「使える」集団です。

んで、何で備が上記の人数かというと、戦国大名が国人の連合体であったことにあります。
安芸国は毛利家となりますが、毛利家が一元的に支配しているのではなく、各国人連合の親分が毛利家という位置づけ、
http://www.chugoku-np.co.jp/Mouri/Mr97020701.html
12の国人が同盟を結んでいます。
安芸国は慶長年間で20万石程度。軍役で言えば、総兵力一万程度。これを12で割ると、800人。
つまり、一つの国人が平均で800の兵を持っていると言うことになります。これが、戦闘でも単位として動くわけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました、とても面白かったです。
とくに、大名が直轄的に兵を動員できるわけではないというところが新しい目線で戦国時代を見れるようになるきっかけになると思います。
国人の事もうろ覚えですが学生時代に習ったような気がします、改めてその辺のことも調べてみようかなと考えました。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/10/31 07:01

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