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日本の歴史上、最も高いカリスマ性をもった天皇とは?
明治天皇?昭和天皇?
それとも、伝説上の天皇・神武?蘇我氏を打倒した天智?
様々な意見はあろうかと思いますが、後醍醐天皇は外せないでしょう。

後醍醐天皇に仕えた楠木正成・新田義貞は今なお忠臣として名高く
英雄とされています。
後醍醐天皇の行なった「建武の親政」は武士を軽視した政治でしたが、
武士を省みない君主であっても、彼に対して忠誠を誓うとは、
相当なカリスマだったのもしれません。
後醍醐天皇は他に例を見ない程の野心家の天皇であった事は間違いない
でしょうが、彼の性格・人物像が私にはいまひとつ見えてきません。

後醍醐天皇は賢帝か?愚帝か?
みなさんのご意見をよろしくお願いします。

A 回答 (7件)

>後醍醐天皇は賢帝か?愚帝か?



明治維新から1945年8月15日までの評価は、賢帝。
1945年8月16日以降の評価は、愚帝。

質問者さまがご存知かどうか分かりませんが、後醍醐天皇は「中継ぎ天皇」として登場しました。
後二条天皇が24歳で病死すると、花園天皇が即位。
後宇多上皇は、後二条天皇の皇子である邦良親王(当時3歳)に皇位を譲る+尊治親王(後の後醍醐天皇)の子孫は皇位を継承しない事を条件に「尊治親王を皇太子としました。
ところが、尊治親王が後醍醐天皇として即位するや否や「天皇は、誰にも譲らん!」と約束を反故にしました。
後二条天皇の弟が、後醍醐天皇です。

利用価値がある者は徹底的に利用し、その勢力が強くなると徹底的に排除に向かいます。
鎌倉幕府打倒には足利一門の力が必要なので「自らの名前の一字『尊』を高氏に与え『足利尊氏』が誕生」
尊氏の勢力・人気が高まると「反尊氏の先鋒である新田義貞を利用して、尊氏討伐を命令」

「自己顕示欲の塊」が、今の大勢を占めているようです。
政治も、全くのデタラメだったようですね。
後醍醐天皇時代の、有名な二条川原落書。
「この頃都に流行るもの。夜討・強盗・某論旨・召人・早馬・から騒動・自由出家・生首・にわか大名・からいくさ・訴訟人・下克上する成出者・・・」
和歌山県下津町の某寺起請文。
「後醍醐天皇の建武の頃、天下大いに乱れ、国々に騒動起こり・・・陸には盗賊窃盗多く、民家に押し入り財宝略奪し、神社仏閣の扉を破り、霊宝を奪う・・・」
政治には、一切興味が無かったようですね。
今の政治家と、何かよく似ています。
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 はいご回答のとおりであります。


 そして多くの人は自己の置かれた状況と思いの中で、翻弄されて意欲を以って打開し何とかしようと対処していきます。
 その結果は大抵の場合愚かな行為であり、愚かな結果として終わり、そういう内容となります。
 大抵の人生がそうであります。
 ご回答を拝読し、多くの男女そして、身分や立場の違いに拘らず、賢明な人生対処がどんなに難しいものかと、我が父、両親、先祖たち、そして私自身や先輩たちも思い起こしております。
 異形のみかど、後醍醐も例外ではなく、同情と同感をします。
 無論、肯定はしません。私たちに対しても肯定はありえません。
 何もしないようにしていくことは難しい事であり、それは賢明でありまた愚かでしょう。
 何が、後醍醐をしてかの行為に駆らしめたか。
 異形の中の平凡を見て、自己の考察をさせていただきました。
 異様な愚帝の踊りは自分や多くの友人たちです。
 そういう意味で愚帝という、一言では言い切れない気持ちです。
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幸運にも愚帝だったと思います。

彼は、天皇家が政治の中心的役割を演じる絶好の、そして最後のチャンスを逃してしまいました。もし彼が賢帝だったら、天皇家の下に再び天皇家初期のように中央集権化が復活して、その結果、その後日本でも中国の歴史のように、天皇家を滅ぼして次々と新しい王家による中央集権国家が出来ていた可能があります。ところが後醍醐天皇はこの絶好のチャンスを使いこなす器がなかったため、今までのように武家による封建制度が存続できました。これは天皇家に取っては大変に好運なことでした。

中央集権制度とは、国に抜きん出た権力を持ったたった一人の王がいて、その他は全てその王の所有物となっている政体です。それに対して、封建制度とは、各豪族はどちらかと言うとドングリの背比べ状態で、どの家系でも、残りの家系が束になって掛かられたら存続が危ぶまれる政体です。その結果、ドングリの背比べをまとめる役として、武家達は誰が王の王となるか、すなわち将軍とするかに関するお墨付きを形式的な権力者としての天皇から頂くと言う、大変旨い封建制度を日本で続けることが出来ました。大名達も天皇の存在を自分たちの存続に関して好都合と考え、天皇家から権力は簒奪することに意味がなくなり、天皇家が今まで残ることが出来たのです。

もし後醍醐天皇が賢帝だったら天皇家はとっくに滅んでいて、日本も、日本と同じように例外的に封建制度だった西欧を除いた全ての国家のように、とっくに中央集権国家としてのその他大勢の国の一つになっていたことでしょう。その結果、その他大勢の国のように、西欧にとっくに植民化されていたかも知れません。

これは「予期せぬ結果」(英語ではunintensional consequence) という出来事の典型で、政治の世界では常に起こっていることです。別な言い方をすると、人事は理屈で追いかけても必ず手の指の隙間からこぼれ落ちることが余りにも多いので、いつまでたっても、政治に全生命を捧げても尽きない面白さがあるようです。
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愚帝です。


『太平記』も、後醍醐が愚帝だというのを印象づけるために書かれているのではないでしょうか?

それから、楠木正成・新田義貞のような「忠臣」ですが。

賢帝に従って忠誠を尽くすなら普通の家臣。
しかし、愚帝にもかかわらず忠誠を尽くしたからこそ、忠臣だ、という考えもあるのではないでしょうか。

政治社会学者の小室直樹.氏の著作で、そのように読んだ覚えがあります。
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政治を諸勢力を妥協させて武力による解決にさせないことであると定義し、賢帝とは、そのような政治力を発揮したものであるとするならば、後醍醐天皇は、愚帝です。



被支配者を信じさせる力をカリスマとするならば、後醍醐天皇はカリスマの保有者です。

明治天皇・昭和天皇で言えば、明治天皇は証明されていないカリスマですが、昭和天皇は証明されたカリスマです。
軍人・民間人で300万人、7000万人の国民の5%近くを戦死させながら、敗北し、終戦時に大きな混乱もなく、在位を続けられたのはカリスマです。
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愚帝です。


自己顕示欲が強すぎです。
だから南北朝の争いになるのです。
後醍醐天皇がいなかったら武士が政治を掌ることも無く平和な国だったと思います。

私は新田某の末裔ですが一族が集まると「なぜ後醍醐天皇についたんだ」となります。
私の先祖も馬鹿でした。
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天皇とは、すべての民のために祈る祭司者だと、私は考えています。


カリスマ性はあったとしても、それに従った楠木正成や新田義貞の末路は、後世で讃えられても、あまり幸せではなかったでしょう。
自分のことだけを考えて、民の幸せを考えない天皇は、あまり賢いとは言えません。
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