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恥ずかしながらこの歳になるまで時間は無限じゃないかと思っていたんですが、、、、。

宇宙物理の本(といっても一般向けの)を読んでいたら、時間には始まりがあるんですって。

宇宙のビッグバンとかいう言葉は聞いたことがあって、宇宙の始まり、実際にはビッグバンの「少し」前が始まりということは理解していたのですが、「宇宙が始まる前」なんてのを勝手に想定していて、時間はその前にさかのぼれるんじゃないかと、漫然と思っていたんです。

ところが、宇宙の始まりが時間の始まりであって、それ以前の時間は「無い」んだそうです。

科学は、ときどき非常識な真実をつきつけてくるものですね。

過去にも未来にも無限にたどれると思っていた時間ですが、過去に遡れるのは「ここまで!」で、時間は有限であることが分かった。

始まりがあると言われると「じゃ、おしまいは?」と聞きたくなるのが人情じゃないですか。

物理学では、宇宙の終わりは、今のところ「分からない」そうです。
いつの日かわかる日がくるのかもしれないですが、私の生きている間ではなさそう。

科学でわからないことは、宗教か哲学に答えを求めるしかない。

無限でない時間のおしまいについて、哲学は答えを用意しているのでしょうか?

宗教に行く前にちょいと聞いておきたくて。

A 回答 (14件中1~10件)

高度な科学は哲学と似たようなものですね。


きちんと科学を学んでから哲学に、
哲学を極めたら、自分で宗教を作るのもよいでしょう(笑)

未来が無限かどうかについて、こんな思考実験をしたことがあります。

仮定1.時間軸は未来に向かって無限である。
仮定2.高度な文明は僕らが考えるようなタイムマシンを作れる。

仮定1が成り立つとすれば、どんなに低確率であっても、
宇宙のいたるところで、人間のような生物が、人間のような文明を起こし、
さらにそれよりもすぐれた文明を完成させるでしょう。
どんな小さな確率であっても無限回試行すれば、無限回成り立つはずです。
なぜなら時間は無限なのだから。

次に仮定2を考えてみましょう。
ここで言う僕らが考えるようなタイムマシンとは、
過去の時間軸に物質を送れるようなモノだとします。

すると仮定2が正しいとするとどうなるか?
無限の未来においては、無限回の高度な文明が誕生し、
無限個のタイムマシンが作られるとなります。
無限個のタイムマシンは無限回のタイムスリップを行いますので、
無限の過去に向かって無限の世界の広さを
たちまち埋め尽くすのではないでしょうか?

今この世界が、無限の未来の物質によって埋め尽くされてしまいます。
「今」は今この時しかありませんが、
「無限」は比較にならないほど多いですから。
仮にビッグバン宇宙論のように始点があるとすればなおさらです。

しかし、今現在未来人の一人もこの世で見ることができません。

ということは、
仮定1が間違っているのか、
仮定2が間違っているのか、
少なくともどちらかであります。どちらも間違ってる可能性もあります。

ということは「未来は有限」なのか
「(僕らの考えるような)タイムマシンは完成しない」
のか、どちらかということですね。

未来が有限かどうかの決定的な話にはなりませんけども、
ちょっとした思考実験で、二択にまで絞れました。

どちらにせよ残念な話ですね。
こうしたことを考え続けてたら、
いずれ答えは出るような気がします。
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この回答へのお礼

大変興味深い思考実験ありがとうございます。

魚取りの田吾作の話、ご存知ですか?

昔々、魚とりの田吾作は、一日中川辺に座って、魚が川面に飛び出すのを待っているのさ。
魚が川面に飛び出したころを、目にも止まらぬ素早い動きで、網で魚をとる。
まあ、確率で言うと、一日平均で10匹の魚が川面に飛び出してな、成功率は30%。
それで、日に三匹の魚を家に持ち帰ることができたんじゃ。
そりゃ、確率だからね、日によって違うよ。

それがね、ある日から、田吾作は一匹も魚を持ち帰ることができなくなったんじゃ。
まあ、確率の話だからそのうち30%に収斂すると信じて、毎日、毎日、川面に座って待っていた。
田吾作にとっては無限といえる程の長ーい年月が経った。
まー1000億年とでもしておこうか。
1000億年で一匹の魚を持ち帰ることができない田吾作は、女房に逃げられてしまったさ。

実は、確率を信じていた田吾作はあることを見落としていたんじゃ。
それはな、あの日から、川の温度が下がってな、まあ絶対温度で3Kぐらいかな。
つまり川面は凍りついて魚は二度と川面に飛び出すことができなくなってしまったんだ。
田吾作の確率が成立するのは「H2Oが個体でもなく気体でもなく液体のときだけ」ということを見落としておった。

確率を信じていた田吾作は1000億年分の後悔をしたけど、あとの祭りだったという話じゃ。

多湖明の「頭の体操」みたいでスンマセン。

このお話は作り話ですけど、無限に長い時間軸で確率論を論じるために必要な追加の仮定は、
「測定期間を通じて環境が不変であること」ですよね。

したがって、pugera542さんの思考実験を続けるためには、
「仮定3:宇宙環境は人類誕生の当時とあまり変化しなかった」
が必要なんですね。

ところが、現実には宇宙は膨張し続けており、質量一定、体積膨張、つまり密度低下、温度低下が続いている。
それに、エントロピーがなんだとか言って、「系の中での不可逆反応」もある。

そう考えると、今、未来人が見当たらないということが、未来が有限であることの説明にはならないかも、、、。

お礼日時:2010/04/08 15:07

思うところを書いてみますね。



原因によって結果が生まれ
その結果が原因に結果が生まれる

現象は原因と結果の流れだと思います。

さかのぼっていけば始まりは成り立たない。
無始だ。

終わりも渇愛がある限りなく続く。
無限だと。

そこで、渇愛をなくす方法は~~。

というのが仏教(パーリ語の仏典)で言うところだと思います。

ちなみに2500年以上前に現代で言われるような宇宙のありように関しても
、説法のたとえ話などの中にいろいろ語られているようです。あの時代にw


何か参考になれば幸いです

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

宗教とか、哲学ってのは諸説あってもよいのですがね、今日現在物理学者たちが認めるビッグバン宇宙ではね、
「無始」じゃあなくて、「初めが合った」「これ以上さかのぼれない」「時刻=0」と言っているので、それを前提として考えています。

お礼日時:2010/04/13 11:55

思いつきですみませんが、参考までに。


あるいは、さらに木造さんの問い(という火)に油を注ぐことになるやも、あるいは回答者の浅知恵を曝露するだけかもしれませんが。

いったん「時間は無限」という表現をもった以上、この問い(意味空間)から逃げることはできないのだと思われます(いったん原爆をもったら二度と原爆のない世界にもどれないのとちょっと似ています)(原爆をなくすのではなく、原爆をどううまく管理するかがあるだけなのも)。

原爆の話に似せるなら、この問いをどううまく手なずけるかなんだと思います。

●「無限」といいますが、時間のさきっぽを誰もみたわけではありません(さきっぽなんてあるかどうかは知りませんが)。その「見えない」という「(私たちの)有限性」への「恨み」あるいは「復讐心」を「時間の無限性」へ投影してはいないでしょうか。

●「時間は無限である」と口に出して(あるいは心中で)いってみる。そのとき、どんな「意味」が私たちをよぎっているかなんだとも思います。Aの次にはBがあるふうな「推移性」に還元されないものとして「無限」を表象できているかどうか。

●あるいはこうも考えます。「時間は無限である」という文の真理(値)はどうなんだと。
この文が有意味であるとすれば、私たちは少なくとも「時間」という語(主語、述語論理ふうに言えば、変数)を理解しているのでなくてはならない。「時間」とは変数なのか、これ自体が「述語」ではないのか。
「~時間である」という形で存在するもの(論理形式)をあたかも実体であるかのように扱って、それを「~無限である」に代入しているのではないかと(それのどこが悪いとおっしゃるかもしれませんが)。
「~時間である」の「~」に代入するものはあるのだろうか。

●「時間」という語が有意味であるという、その瞬間、私たちは「時間」のそとに立っている(時間を超越している)のではないかとも考えます。この「超越」という態度が「時間の無限」を招来させるのだとしたら、やはり、「無限」であるのではないかという思いを消すことはできない、のではないか――「時間」ということばを使うかぎり。

●だんだん、怪しげな議論になってきてすみません。以上でいう「時間」といわゆる物理科学でいう「時間」は意味がずれています。それを説明する力はありません。
ただ、私は「時間の無限」という「直観?」を否定するのは原則的に不可能なのではないか、「時間はいつか終わる」という文はナンセンスなのではないか、と言いたかった。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

観察者を中心とした時間の概念も面白いですね。

とりあえず、私は、観察者がいないところの時間を理解しておきたいと思いまして。
つまり、人間などが存在しなかった状態での時間や、人間などが消滅した後の時間です。

時間以前に、森羅万象を考えたときに「無限は無いぞ」というか、「すべては有限だぞ」と思っているのですが、どうも時間だけは、特別に「無限の時間」ってな事を漠然と考えていた自分に気が付き、「反省!」ってとこです。

物理学の考え方をかじってみると、時間は「物質とかエネルギーの変化」がある場合に存在するものとの理解に至りました。

したがって、宇宙が存在しなかったときに時間は無く、宇宙の始まりを「時刻ゼロ」とするというのは疑問の余地がありません。
では、「始まりがある」とわかったので、「終わりはどうよ?」って質問に答えが欲しくなっちゃってね。

したがって、「時間は未来方向に無限か?」という問いは、「宇宙のおしまいはどう定義されるか?」って質問に置き換えられつつあります。

私は、理屈っぽい性格なのか、直観を大切にしながらも、説明のつかないものは信じることができないんです。

お礼日時:2010/04/13 11:21

 小野田さんかな横井さんとかいうのかな旧軍戦地から帰還して、やはり恥ずかしながらっていいました。


 人類も私も、Mokuzo100nennさんと同じくらいの年齢かどうか、時間って知らないようですね。
 限界とか、切り出しとかは何か客体オブジェにはいえるけど、そうでなければ無理かなって思います。
 だから時間って有限なんでしょうね。しかしカントのア・プリオリしても、観念上の想定カテではないでしょうか?
 でも本当はもっと具体的で、客体創造界の存在が始まって時間というか空間というかそんなものがあることになったが、実はこの客体創造界のことではないのでしょうか?
 観念としての時間とか空間なんて、私たちの先輩の古代日本人や近代日本人にあったのでしょうかね。
 かの西洋の思考や意識の生活からの異物移入のような気がするのですが、いかがでしょうか?
 時間という観念はありましたでしょうが、観念としての時間はなかったかと存じます。
 それで、客体創造界なんですが、変化したりしていることは、何か変化してないものがあるのでしょうね。
 そして変化しているものを客体創造界や存在というのでは、それは始まりがあり、その始まりも前のものがあるのでしょうね。いえ物かな?
 そして時間(変化)が生じ、消滅していく。何時って、それは宇宙ユガっていうのでヒンドゥの哲学にでていますよ。
 Self-Realization Fellowshipのスワミ・シュリ・ユクテスワの聖なる科学で読みました。
 上記団体のリンクは削除してありますが、貼り付けるとHPが出てきます。
 聖なる科学は日本語でも出版されています。森北出版です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうござます。

ヒンドゥ経は面白いですよね。僕は御釈迦さんの仏教がこのみですけど、御釈迦さん自身はインドに生まれたので、多少なりとも輪廻転生みたいな考え方をもっていたかもしれないな。
だからヒンドゥ経が容認するカーストを否定する仏教でも「前世」「後世」などヒンドゥっぽい考え方を継承しているのかもしれませんね。

私としては、科学が明らかにする事項に関して哲学や宗教にお願いしようとは考えないタイプなので、時間の有限性に関しても科学でちゃんと見極めといてほしかったんですけどね、、。

科学は、「聖なる科学」とか「邪なる科学」ってのは無くて、「科学」しかないんですよ。
したがって、「聖なる科学」などという形容矛盾を起こす人達は科学者ではなくて、なんかの目的をもった「マーケティング活動」でしょう。

お礼日時:2010/04/10 11:23

>>全く逆の答えも出せるのではないでしょうか?



そうですね。立ち位置によっていかようにもなるものですね。
蟻が東京タワーを見れば無限に高いと考えることは簡単に想像できますね。でも100メートルの巨人がいれば東京タワーはちょっと高い程度のものですね。人間はわずか2メートルに満たない存在ですが、その思い・考えはいかようにでも大きくなるのですね。地上にいると地球は限りなく巨大ですが宇宙に出ると漆黒の闇に不安そうに回転する点のような存在でもあるのですね。では地球は巨大が真実かといえば銀河や宇宙ボールから見れば塵あくたの一つでしかないのですね。その塵あくたの一つに住む微生物の一つが人間ですから、その人間の目で見るということが正しいともいえないのですね。
時間とか空間を哲学的に考察する場合は、微生物の人間の思考ではだめということなんですね。これが物理学者が陥りやすい罠でもあるわけですね。宇宙大の巨人になった気分で考えることがより正しい見方ということなのですね。
大きな花火を上げるには大量の火薬が必要ですし、いろんな材料が事前に必要になるはずですね。ビッグバンも巨人からみれば、準備が必要ですね。微生物の立場ではそれがさっぱりわからないということでしょうね。・・・・そういう見方ですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

そして、前回の回答に対する「お礼」で反論みたいなこと言って申し訳ありませんでした。

時間は未来方向に有限であるとのmmkyさんのお考え良く理解いたしました。

重ねて御礼申し上げます。

お礼日時:2010/04/08 23:52

問いのこたえは、「現実とは何か」ということであると思います。



建築家の無知と大工さんの力の違いといってもよいでしょう。
どちらが強いかは一目瞭然です。

無知でナヨナヨの建築家には何も出来ない。
世界中何処にいっても自分で家を建てることが出来ない。

対して
大工さんは、素材に謙虚であり現実を把握している。
空論については、そんなんじゃ5年も持たないだろう、と建築家の意味不明な
机上の空論として本能的に察知する。

本物には負ける偽者という事です。

時間とは人が作り上げたもの、現実に生きる人の手が、時間をダイナミックなものにしていくのです。

現実は非常識ではないということです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

nananisseさんも大工かい?
まあ、大工も「なんちゃって大工」がふえているからえらいことを言えないけどね。
「大工になりたかったわけじゃない」みたいな若いのがいるでしょ。
いつまでたっても空気銃で合板うちつけるだけの「たたき大工」になっちゃうんだよね。
大工って言えば鑿と鉋を使いこなしてばらばらの部材をあたかも有機的一体であるかのような建築物に仕上げる、男の中の男と仕事だってのにね。

でも、彼らもかわいそうだよね。
昔みたいに手刻みの木造があるわけじゃなくて、たいていパネルパタパタ、ボンドベタベタの家ばかりやらされるからな。
鶏と卵なんだけどね。

設計士にはね、ものの通りってのがイマイチわかっていないようなのも、なかには居てね。
たとえば屋根のこう配。
えらく平たい屋根をつくらせる設計士がいるでしょう、最近。
雨水はね、上から下へ流れるけど、上から下だけじゃないんだよ。
下から上へ流れるのもあるの。
毛細管現象ってのかな。
たとえば、瓦と瓦の合い間のすごく狭い隙間。
この隙間では、雨水は下から上に流れるんですよ。

重力による上から下に流れる力とね、毛細管現象で下から上に引かれる力がひっぱりあって、やっぱ重力が勝ちましたってことになるようにね、昔から大工は屋根こう配ってのを決めてきたんですよ。

それが、鉄板使って、つなぎ目はコーキングするから傾斜はほとんどなくてもよいはずだってね。
それは計算上のことでしょう。そして、建築したての何年間のことでしょう。

大工はね、計算上じゃなくて、経験でこう配が必要って言っているんだ。
大工の言うと折りにしておきゃ、20年30年雨漏りなんかしないよ。
台風や地震でも上等な職人が積んだ瓦はびくともしない。

どうも大工と設計士の関係は、物理屋と数学屋の関係みたいに思えてきたな。

おっとイケねえ。ここは大工のカテゴリーじゃなかったね。

どうも回答ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/09 00:53

現在でも、宇宙論に関しては人類はほとんど何も分かっていない状態だそうです。

ですから、この分野で有名になる方法は、数学的に整合する範囲内で奇を衒って極端なことを言う方が勝ちだそうです。

物理学は数学を使います。とろろが、数学は論理的な整合性を論じる学問ですが、数学的に整合していることが即この宇宙では在りません。例えば絶対座標系と言う概念は数学的には整合していますが、それは相対性理論とは相容れません。ですから、論理的なあるいは数学的な無矛盾性を如何に論じた所で、この宇宙を理解できる訳では在りません。

私の先生でノーベル賞を受賞した方は、彼が30代の頃、戦前の国際会議で、自分の最も重要な心情を参加者皆さん黒板に書けと言われたとき、「時間は宇宙の存在に先んじて存在している」と書いたことをいつも自慢にしておりました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

cyototuさんは科学者でしょう?

しかも上等な部類の科学者だな、きっと。
正直なんだよね、上等な科学者ってのは。
「分からない」ことを「分からない」と仰る。
しかも日本語もきちんとして無駄が無い。
上等な大工が組んだ建屋みたいなすがすがしさがあるじゃないですか。

大工もね、上等な大工はね、設計士が変な図面描いてきたら「出来ないものは出来ない」って言いますよ。
「なんでもできます」って言う大工もいるからそっちに仕事が流れちゃうけどね。

その点、哲学者ってのは、適当に答えを用意してくれるでしょ。
科学者が「分かった!」と言うまで私の寿命は持ちそうもないから、哲学のカテゴリーで質問してみたんだ。

ソクラテスの時代に科学者しかいなくて「分からないものは分かりません」とか「まだ観測できていませんので、、、」なんてことばかり言っていたら人類の文明は面白くなかったと思いますよ。

適当に「地球を廻る太陽周期が計算できた」なんてことが発表されれば、今から見れば間違っていても、にぎやかになるし、しかも、一つの進歩ではあったわけでしょう?

いや、しかし、数学と物理学の関係、薄々思っていたことですが、見事に喝破いただき気持ち良いです。
物理量に虚数なんか代入しちゃって、「こんなん出てますぅ」って、歌舞伎町の占い師じゃないんだからね。
こういうのは哲学とか宗教の領域ににしておいてほしいですね。

あ、それから嬉しかったのは、ノーベル賞もらった先生の大先生と同じ誤解していたっての。
こりゃ傑作だね。
俺の誤解はノーベル賞級だぞうって、うちの娘に自慢しておこう。

「あんたの想像力は大工なみです」って、大先生によろしくお伝えくださいね。

ありがとうございました。

ついでにひとつ、わがまま言わしてもらってよいかな。
物理のカテゴリーにね、「物理量が取りうる最大値は無限大ですかい?」って質問を投げるんで、もし、時間があったら、哲学じゃなくて、科学でご説明願いたいんだけどね。
よろしくお願いします。

お礼日時:2010/04/09 00:37

科学も哲学もちんぷんかんぷんだけど、


時間は観測者がいて、変化があるから存在すると思っていた。
将来的にすべての観測者がいなくなるか、若しくは変化がない状態になるかはよくわからない。
(wikiも読んでみたけど、やっぱりわからない)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E9%96%93# …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

つまり、宇宙での観測者が居なくなり、宇宙の変化がなくなった時点が時間の「おしまい」になるということですね。

なんかビッグバン前後で勢いよく誕生した時間が、熱力学第二法則にしたがって静かに終焉を迎えるというのは、情緒的にすごく納得感ありますね。

ありがとうございました。

お礼日時:2010/04/08 23:59

物理学では、宇宙の終わりは、今のところ「分からない」そうです。


物理学者はだめだめですね。
常識的に考えて、始まりがあれば終わりがあるものですね。言い換えれば何にでも寿命があるということですね。
短いものでは一瞬、人間は平均寿命80年、木は長くて数千年、石の類は数千万年もすれば泥になってしまいますね。惑星や銀河、宇宙もこの延長線上にある存在ですね。惑星や恒星は150億年ぐらいでしょうか。銀河はもっと長いのでしょう。宇宙ボールは惑星の10倍としても1500億年ぐらいでしょうか。
時間は宇宙ボールや銀河・惑星なのど空間物質の存在のもとでの存在ですから、同じ見積もりでしょうね。
というように哲学者は原因結果の連鎖で何でも見積もることが出来るのです。一方、宗教家は始まりの理由・わけ・終わりの理由・わけを説くものですね。
確かに、理由・わけは知りたいですね。
ちょっと気が利けば哲学者にはなれますが、わけを知る宗教家にはなれません。だから宗教家のほうが偉いね。

この回答への補足

その後、いろいろおしえていただいた結果、物理量は無限の値をとらないことが分かりました。
無限は数学の概念上だけのことで、物理の世界で無限大というときは「とても大きい値」という意味の有限値とうことのようです。

知らずに変なアナロジーを出して申し訳ありませんでした。
下記訂正の上、お詫び申し上げます。

補足日時:2010/04/10 11:42
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

やっと哲学のカテゴリーらしい回答をいただきました。

宇宙物理学者の名誉のために補足しておくと、「分からない」というコメントは「宇宙の終焉には複数の可能性があり、そのいずれの可能性も、現在の観測データからは、否定しきれるものではない」と言っているようです。

これは、来年の今月今夜の天気は「雨の可能性も否定できないし」「晴れの可能性も否定できない」と言うのと同じスタンスで「来年の今月今夜、再来年の今月今夜、あの月を僕の涙で曇らせてみせる…」とお宮に宣言した寛一のスタンスとは少々異なるだけです。
科学者の態度ですね。

>常識的に考えて、始まりがあれば終わりがあるものですね、、
とのアナロジーを使うとすると、
物理量としての長さは最小=0で、最大=無限、
物理量としての質量は最小=0で、最大=無限、
物理量としてのエネルギーは最小=0で、最大=無限、
だから、
物理量としての時間は、ビッグバンの直前をゼロと起算して、最大=無限

全く逆の答えも出せるのではないでしょうか?

お礼日時:2010/04/08 19:45

一般に「時間は普遍的かつ不変に一定に流れている(=絶対時間)」と考えられがちです。


しかし、ご存知のように相対性理論において、相対的に運動しているものの時間は遅れる(「相対的」なので、相手からみたらこちらの時間が遅れる)という事が明らかとなり、絶対時間の考えは(1つの同じ時空を同じメンバーが共有するという考えも)否定されました。
更に相対性理論は、「超光速においてエネルギーが虚数になる」という結論を導き、相互作用においてエネルギーは自乗になるので、マイナスエネルギー=時間軸逆行=タキオン粒子の存在を予言しました。

そこにおいて、世界像全体の再考が必要になります。

1.この世界は、光速を限界(超えるには無限のエネルギーが必要)とする法則性に基づく。

2.超光速の可能性は虚数エネルギー(実数と作用しないのでオーバーラップし得る)であり、時間軸逆行と等価。

3.超弦理論において、原理的本質は量子(=光速)のみに還元されることが明らかとなった。

4.光速以外の速度(光速以下、超光速=時間軸逆行)は、超弦からの階層現象性(量子(光速)>クォーク>素粒子(回転)>原子>分子(振動)>細胞>個体(意識=原点))を、表面的に捉えることで仮想的に生じる。

5.運動速度の速いものの時間は遅れるので、時間の流れは、階層現象表面性に応じて流れる、と言える。

6.意識される時空的広がりは、感受表面における量子相互作用に還元される。五感の違いは媒体の違い(視覚=光子、聴覚=空気、味覚=化合物、触覚=物体etc.)であり、その情報性の強い遠隔作用(光、音)に対する、過去の五感の相関した経験の蓄積による生理的予測(そこで何が起きるか)が、空間的広がりを生むに過ぎない。

7.これらの結論として、「一定に流れる時間の中に認識が生じる」という一般的な捉え方の等価性において、「現在(光速)から過去(超光速)と未来(光速下)が対発生する」ことが可能になる。

8.そうした、「全ての時点から(仮想的に)対発生した時間性」を、時系列的に重ねる(経験の蓄積)ことで、宇宙膨張(=物体の収縮=h(プランク定数)の収縮)や相対性理論を伴う時空が派生する。

9.先の「虚数領域の過去化」において、時空軸が転換することから、上記の時系列的時空において、「位置(S)と運動量(St)、時点(T)と質量(Ts)の2対の存在性において、その一方を確定するともう一方が無限不確定化する」という、不確定性原理の相補的不確定性を伴う存在を可能にする(本来同一軸のものが過去と未来で入れ替わり、その延長上で直交して「相補的」であり得る)。

実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との相対によってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っています。
認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。
その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識します。
全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)補完であり、あなたという歪んだレンズを通して見た無が、この宇宙(137億光年の空間的広がり(=可能性=未来)、137億年の過去(時間))なのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

絶対時間というキーワードを頂きましたので、少し調べてみます。

しかし、正直申しあげて、なんか、「風が吹けば桶屋がもうかる」という話を聞いているみたいです。
物理の境界を数学の境界まで拡張しちゃっていませんか?

大工でもわかる言葉で説明していただけるとありがたいです。

結局、psytexさんという歪んだレンズを通して見ると、時間の未来方向は無限に見えるのですか?それとも「おしまい」が見えるのですか?

お礼日時:2010/04/08 19:21

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