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善と悪についての問答
 
問う人:
 善とは何や。

「人の道」: 
 善とは嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉えることや。
つまり善とは見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんと言うことや。
善とは聞こえるもんを聞こえると言い、聞こえんもんを聞こえんと言うことや。
善とは知っとるもんを知っとると言い、知らんもんを知らんと言うことや。
善とは無いものを無いと言い、有るものを有ると言うことや。

問う人: 
 では悪とは何や。

「人の道」: 
 悪とは善の対極にあるもんや。
 つまり悪とは偽ることや、そして物事を捻じ曲げることや。

問う人: 
 偽るとはどういうことや。

「人の道」: 
 偽るとは見えるもんを見えんと言い、見えんもんを見えると言うことや。
偽るとは聞こえるもんを聞こえんと言い、聞こえんもんを聞こえると言うことや。
偽るとは知っとるもんを知らんと言い、知らんもんを知っとると言うことや。
偽るとは無いものを有ると言い、有るものを無いと言うことや。
偽るとは語るべきを語らず、語らざるべきを語ることや。

問う人: 
 なぜ偽ることは悪なんや。

「人の道」: 
 偽ると真理の探究は出来んからや。

問う人: 
 如何なる場合も偽ることは悪なんか。

「人の道」: 
 そーや、如何なる場合も偽ることは悪や。

問う人: 
 最大の悪とは何や。

「人の道」: 
 最大の偽りや。

問う人: 
 最大の偽りとは何や。

「人の道」: 
 神や仏、天国、地獄を語ることや

問う人: 
 なんで神や仏、天国、地獄を語ることは偽りなんや。

「人の道」: 
 だから言うたろ。
 見えんもんを見えると言うことは偽りや。
 聞こえんもんを聞こえると言うことは偽りや。
 知らんもんを知っとると言うことは偽りなんや。

「人の道」: 
 どうや、これで善と悪が何かよー分かったろう。

問う人: 
 はい、よー分かりました。善とは偽りの無いこと、悪とは偽ることや。

「人の道」: 
 では最大の悪が何かも分かったか。

問う人: 
 はい、よー分かりました。嘘八百並べ神や仏、天国、地獄を語るのが一番悪い。

「人の道」: 
 皆にも聞く。宗教漬になって嘘八百並べるのが一番悪いちゅーこと、よー分かったな。
 
 
 

A 回答 (65件中51~60件)

#14です。



つまりいわゆる単なる二元論者に収束するってことですか。。。
う~ん 残念。
というか ふつーに 危険な話(短絡的な話) をしてただけ...?

なんだか腑に落ちませんが。。。
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この回答へのお礼

 
あのなあ、よー聞けよ。
前に嘘も方便の話があったが、これで説明するのが一番分かりやすい。
この嘘も方便ちゅー考え方が一番問題なんや。
こんなもんを一度持ち出すと後はろくなことはない。
白黒はっきりさせる精神が必要なんや。
全てが灰色になってもえーんか。
政治家は灰色を好むがそれではいかんやろ。
そもそも善と悪の中間ラインを渡り歩こうなんちゅー考えはけしからんのや。
 

お礼日時:2010/08/12 22:21

善と悪で構成されている証拠です。

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#9です。


発見の報告で~~す。


> やっぱあんたはわしと同じ感性ではない。

そ,そうでしたか。。。

でも そう言われてみて
私もその点(同じ感性ではない点)を見つけましたぁ!



> 悪とは善の対極にあるもんや。

私は 悪とは善の対極にある とは思っていません。
すべてのものに対極など存在しない。
そう思っています。


単純な話,
私は酒は好きなんですけど,それと同時に自分の中に酒が嫌いな自分も持ってるんです。

単純な話,
私は男なんですけど,それと同時に自分の中に女も持ってるんです。

単純な話,
緑色の紙に,赤色の光を当てると緑色の紙が赤っぽく見えるんです。

単純な話,
私は生きているつもりなんですけど,それと同時に自分の中には死者だらけなんです。


・例えば肉体
私の肉体から水分を取り除くと
ほとんどの大部分 99.9999999999% は死者及び他の生者の分泌物からできています。
私? 私なんてどこにもいない。
死者 や 生者 の分泌物が私というカタチを作り上げているだけ。
それ以上でも以下でもない。
 →死は生の対極ではなく その一部(全部)として存在する。

・例えば精神
言わずもがな
私の精神のほとんどの大部分 99.9999999999% は死者及び他の生者の精神からできています。
私? 私なんてどこにもいない。
死者 や 生者 の精神が私というココロを作り上げているだけ。
それ以上でも以下でもない。
 →死は生の対極ではなく その一部(全部)として存在する。



全てのものに対極などありません。
唯一 その点だけが 違っていることに気付きました。
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この回答へのお礼

 
あのなあ、えーか、よー聞けよ。

善と悪はちょうど磁石のN極とS極みたいなもんや。
お互いに対極にあって反発するだけで決して引き合うことはない。
そーゆーもの同士のことや。
決して交わったりはせんのや。
そこが善の美しいところであり、悪の醜いところなんや。
そーゆーふうに考えれば分かることや。
対局するものは他にもある。

 白玉と黒玉
 水と油
 猿と犬
 共産党と自民党
 日本と北朝鮮
   ・
   ・
 他にもまだまだある
   ・
   ・
どーや、対局するものはいっぱいあるちゅーこと分かったろう。

>単純な話,
>私は男なんですけど,それと同時に自分の中に女も持ってるんです。

>単純な話,
>私は生きているつもりなんですけど,それと同時に自分の中には死者だらけなんです。

これとその後に続く文面については見んかったことにする。
ただ気持ち悪いだけやから。

一度病院に行って診てもらうことや。
それしか言えん。
 

お礼日時:2010/08/12 21:30

 たびたび失礼します。



>>中国や日本などのアジアの国々では嘘偽りを方便などと言うて多用する文化がある。
 確かにありますね。私もこの「嘘も方便」という使い方には以前から疑問を持っていました。嘘=方便ではありません。方便の良い例としては落語の『芝浜』が挙げられます。
 酒ばかり飲んでいる魚屋の男が芝浜で大金の入っている財布を拾います。家に帰って妻に酒を買いに行かせてどんちゃん騒ぎをしますが、眠ってしまったらしく目が覚めると拾ったはずの財布見つかりません。妻の言葉によって「財布を拾ったこと」は夢であったと知らされます。それから男は改心して酒を止め、懸命に働き立ち直り、独立して自分の魚屋を構えるまでに出世しました。そんなある大晦日の夜のこと、妻から実は妻が財布を隠していたという事の真相を知らされ、妻が男の好きだった酒を勧めます。すると男は飲もうとしません。そこで妻は、
「なぜ飲まないんだい?」
と尋ねると、男は
「また夢になるといけねぇや」
 というのがサゲです。このサゲは「とたん落ち」に分類されますが、私は「どんでん落ち」のほうが正しいように思います。なぜなら、この「また夢になるといけねぇや」という男にとっては「財布を拾った」という現実が夢で、「財布を拾ったのは夢だ」という妻の嘘が現実になっているからです。私はこれが「方便」であって、嘘を付く側に方便はなく、それを受け取る側が真実と受け止めたとき方便になると考えています。

>>しかし「人の道」では嘘偽りは方便ではなく、全くの悪なんや。
 しかし、『芝浜』も悪ということですね。しかし、嘘偽りはそれほど単純ではないようです。科学哲学者野家啓一氏はこんな例を挙げています。東北自動車道の交通事故を取り上げたとしても、単純にありのままを話すにしても、運転手、同乗者、目撃者、警察、新聞記者等々立場の違いに応じて、その語りに微妙なまたは決定的な違いが生じるはずですと述べておられます。一体誰が嘘うを付いているのでしょうか。
 なぜこのような事態が起こるかといえば、人間の認知システムに問題があります。人間はビデオテープの如くにありのままを写し取るように認知しているわけではなく、五感による電気刺激を脳の中で再構成することで外界を認知し、そこに誤差が生じるのです。つまり、
>>善とは嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉えることや。
私達がこの認知システムに頼っている以上、物事を有るがままに捉えることなど決してできるものではありません。
 しかもそれを記憶したとしても、覚えているものはいつの間にか変容してしまいます。認知心理学者仲真紀子氏は、実際に体験していないことでも、まるであったかのように思い出されることがあるとし、これを「虚偽記憶」、「偽りの記憶」とも呼んでいる。
 また、神経生物学者ロジャー・スペリー氏の分離脳(右脳と左脳が障害や手術によって分離しているもの)患者の研究では、分離脳患者が椅子に座って言う状態で左耳(右脳と繋がっています)に「歩きなさい」というと、患者は椅子から立ち上がってあることします。この時右耳(左脳と繋がっています)「あなたは何をしているんですか?」と問うと「のどが渇いたので」等々のそれらしい理由をつけます。これは、左脳の「物語システム」オフには出来ないからだそうです。
 しかし、問題なのは上に挙げた例はすべて正常な脳の人間にも日常的に起きていると言うことです。つまり、嘘を付くように出来ているわけですよ。
 
>>知らんもんを知らんと言う。
>>こっちの方が正しいに決まっとる。
>>これは誤魔化しようのないこと、宇宙の法則や。
>>この正しいことを捻じ曲げようとする心が悪を生むんや。
 では、前々からお聞きしたかったことをお聞きします。以前の質問の中にg3452sgpさんのお言葉の中に、
>>神道における天国、地獄は高天原です。
>>高天原の中に天国、地獄があり、人は死ねば高天原に行くのです。
>> 古事記において高天原とは天上の世界、神々の宿る場所であり、イザナギの神、イザナミの神のふるさとです。
>>従って、人は死んで天に昇り神さまのいる世界へ行くというのであれば、そこは高天原以外にはないでしょう。
とありました。こんな思想があるのかと驚いて『古事記』や本居宣長や平田篤胤等の古典から、神道系の新興宗教の書籍をずいぶん読み直してみたのですが、人も神も死者は「黄泉」「黄泉の国」に行くものであって、高天原に行くと言う記述が見られません。また、高天原に地獄と極楽があるという記述も見られません。これは一体どのような方のどのような思想をもとにして述べられたご意見ですか??教えてください。
 
急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀仏
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この回答へのお礼

 
仏教は方便の世界や。
嘘をつくのも方便、お経を唱えるのも方便、真理については言わず語らず押し黙る、これも方便、つまり全てが方便ちゅー訳や。
世の全てを方便で片付けようとするのが仏教や。
その方便の世界で生きとるもんは方便から抜け出すことは難しいと思う。
しかし全てを方便で片付けとったら後には何が残る。
不可解な世界が現れるだけと思うがそーやないか。
嘘も方便で通しとったら世の中嘘つきばかりになるんと違うか。
ほんとにそれでえーか。
「人の道」が言うように”嘘偽りはよーない”の方がましやとは思わんか。
 

お礼日時:2010/08/12 20:47

<<善とは究極的には物事の有るがままを有るがままとして捉えること。

>>

私もそのように思いますよ。

<<これが「人の道」における善の解釈や。そして悪とは善の対極にあるもの、偽るもの、物事を捻じ曲げようとするもの。これが「人の道」における悪の解釈や。この善と悪の捉え方が「人の道」の根幹をなすものであり最も重要なんや。>>

しかしながら「人の道」さんの思索方法には論理的な穴・矛盾が多くあるようにみえます。いささか踏み込みすぎている。言えないことについて無根拠に決め付けるところがあるまだ不完全な論理であるようにみえます。

<<この「人の道」はわしの思想と哲学の集大成なんや。わしが長年こころを込めて作り上げた思想と哲学の最終成果物や。日本中の宗教が束になっても及ばんようなコンテンツがぎっしり詰まっとる。>>

パーリ語仏典に記される、真理の護持の態度ぐらいは学ばれた方がいいかもしれません。
御釈迦様が固定の信仰を持っていない人々に語った部分だけでも読めば、思索に役立つと思いますよ。

人間の認識の過程を鑑みた、理性的科学的態度とはいかなるものか・・・。

「人の道」が自己の見解にしがみつくものでなく、自己の見解の矛盾点を明らかにされることを喜ぶ柔軟な真理の探究者としての道であるなら学ぶものも多いと思います。

<<「人の道」において文明とはこの善と悪の捉え方そのものなんや。文明が発達するにつれ善と悪の捉え方は「人の道」が説く善と悪に近づくんや。今は見えんもんでも、えーメガネを掛ければ立派に見えるようになるんや。真理の探究とはそーゆーメガネを作り上げることなんや。「人の道」とはそれを実践することなんや。>> 
 
悪を抱える「人の道」というシステムをよりよいものにするために、がんばってくださいね。

~一切の生命があるがままを捉えられますように~
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>見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんと言うことや。



えーか、よー聞け。

真理の探究がしたけりゃ、真理の探究ちゅうが何であるか判ってなくちゃならんのや。もし始めから真理が何であるか判ってたら真理の探究なんてする必要がないんや。だから探求しようちゅうんや。そんな判ってない未熟な段階で、見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんなどとたわけたことを言っとるようでは、真理の探究なんてでけんのや。何かをぶち破って新しい世界を見付け出そうとしている時には、そんな未熟もんが見えるとか見えんと言ったって始まらんのや。

えーか、よー聞け。

真理を探究しているときは、自分には見えているか見えていないすら判っていないんや。だから、物を創る時には決意がいるんや。見えていなくても見える、あるいは見えていても見えんと言う決意がいるんや。その決意は大変な賭けなんや。そんな決意は、あんたみたいな馬鹿正直でかつ、崖から飛び込んでみるだけの度胸のない奴には中々でけん。そんな、度胸のない奴には、見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんと言う誰にでもできることしかでけんのや。

えーか、よー聞け。

ところが、そんな度胸を持っているお方達には、見えていなくても見える、あるいは見えていても見えんと一大決心をした時に、突然今まで見えなかった物が見えて来たり、今まで見えていた物が見えなかったりする全く新しい世界がでけてくるんや。そんな時、人類は大発見し、新しい真理が判るようになって来たというのが、あんたみたいな度胸のない奴らには判らん人類の歴史やったんや。だが、これは勿論大変な賭けなんや。その賭けに敗れて討ち死にしたお方達の死体が人間の歴史の中には累々として居るんや。でも、その賭けをやらんと、真理の探究などでけんのや。

だから、真理を探究したいんやったら、討ち死にを覚悟して、見えていなくても見える、あるいは見えていても見えんという度胸がいるんや。そんなもん、けつの穴の小さい奴らには中々でけんので、凡人には真理を探究することがでけんのや。もし真理を探究したいんやったら、「人の道」みたいな役に立たんもんは捨てて、犬畜生みたいに野たれ死に、討ち死にする覚悟がいるんや。感性の問題やない、度胸の問題や。そんなこと、えー加減に気付かなあかんで。

先人達が血の涙を流しながら、石に齧り付きながら、見えていなくても見える、あるいは見えていても見えんと一大決心してこの世界の真理を解き明かして来た人類の歴史をよー咀嚼せいや。
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この回答へのお礼

 
あのなあ、一つ言うとく。
真理を探究したいんやったら、「人の道」みたいな役に立たんもんは捨てて、犬畜生みたいに・・・・なんちゅーこと言うもんやないで。

えーか、よー聞け。
「人の道」ちゅーのはな、真理の探究そのものなんや。
真理の探究のために「人の道」があるんや。
この「人の道」はわしの思想と哲学の集大成なんや。
わしが長年こころを込めて作り上げた思想と哲学の最終成果物や。
日本中の宗教が束になっても及ばんようなコンテンツがぎっしり詰まっとる。

えーか、よー聞け。
今は見えんもんでも、えーメガネを掛ければ立派に見えるようになるんや。
真理の探究とはそーゆーメガネを作り上げることなんや。
「人の道」とはそれを実践することなんや。
 

お礼日時:2010/08/12 07:41

<<あんたが言う「あるかないかわからない」ちゅー議論のやり方はただの逃げに過ぎん。

えー加減これに気付かなあかんで。>>

証拠論拠がない限り「あるかないかわからない」という態度をとることは逃げだとは思いません。
科学的論理的に思索をなすならこのようにしかなりえないと考えます。
 
その先に、嘘八百並べる輩がこの論理を【使って】追求を逃げるのかもしれませんがw

それと「あるかないかわからない」という分析的な態度自体は関係ありません。

餌を食べた犬に噛まれたからといって、餌に文句言ってもしょうがないでしょう。

<<全く破廉恥なものの考え方で、悪と呼ぶ以外に呼びようがない。>>

知らないのにもかかわらず知っているのかの如く「ある」「ない」と決め付けることは、

あなたの論理では、偽りで悪となると感じますよ。

<<神や仏、天国、地獄、死後の世界についても同じや。見たこともなく、聞いたこともないもの、この地球上の誰一人としてその存在を確認できぬものについて存在すると前置きし物語るのが宗教や。>>

全く論理的にも現実的にも成り立たないような世界観を持って、その世界観で現実をみようとし、それを他者に押し付ける輩もいますが、、、

何かの体験があって、それを見たという人に対し、あなたは見ていないとはいえないのが現実です。

しかし、見たからとて事実でないでしょう?
幻覚でも本人は見ているものですからw

指摘すべきは「あなたは見ていない!」という偽りの決め付けではなく、見たからとて事実とはいえない、決め付けられないという指摘でしょう。

そこに概念が加わったら、その論理的矛盾などの指摘もできます。


<<全て偽りであり、先の幽霊、UFO、宇宙人と同レベルなんや。>>

全て偽りであると知っていないのにもかかわらず、偽りであるというならそれは偽りでしょうね。

<<「人の道」では偽りは諸悪の根源なんや。>>

この問答にでてくる「人の道」さんも「人の道」における諸悪の根源である偽りをしているのですね。

偽りを無くすことには個人的には大賛成です^^

精進いたしましょう。

~一切生命が偽りなくあれ~

この回答への補足

文明が発達するにつれ善と悪の捉え方は「人の道」が説く善と悪に近づくんや。 
 

補足日時:2010/08/12 00:12
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この回答へのお礼

 
善とは究極的には物事の有るがままを有るがままとして捉えること。
これが「人の道」における善の解釈や。
そして悪とは善の対極にあるもの、偽るもの、物事を捻じ曲げようとするもの。
これが「人の道」における悪の解釈や。
この善と悪の捉え方が「人の道」の根幹をなすものであり最も重要なんや。
「人の道」において文明とはこの善と悪の捉え方そのものなんや。
 

お礼日時:2010/08/12 00:00

 どうも、毎度失礼します。

お盆間近で法務がございましてどこまでお付き合いできるか分かりませんが、私の思うところを記させていただきます。

>>つまり善とは見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんと言うことや。
>>善とは聞こえるもんを聞こえると言い、聞こえんもんを聞こえんと言うことや。
>>善とは知っとるもんを知っとると言い、知らんもんを知らんと言うことや。
>>善とは無いものを無いと言い、有るものを有ると言うことや。

私もこれには賛成するところです。ただ、「感じるもんを感じると言い、感じないもんを感じないと言うこと」はどうなるのでしょうか??
 認知科学における宗教研究において、宗教の起源のひとつは「信じる」ということ以上に「感じる」ことにあるのではないかといわれています。前回の私の回答の中でも記させていただきましたが「行為者の過剰検出」というやつです。人間の認知システムは進化の過程において捕食者や獲物を過剰に検出するようにカスタマイズされています。居ないものを居ると感じるのは、非合理的なことではなく生き残るために必要な合理的なシステムだったわけです。そして、宗教における行為者の概念(神や仏等々)は、行為者の過剰検出の延長線上におあるのではないかといわれています(重複になりますので、行為者の過剰検出については前回の解答をお読みください)。
 この行為者の過剰検出が現れた例としては、昔やってた『のんのんばぁとおれ』という水木しげる氏の幼少期のドラマに登場した「べとべとさん」という妖怪が挙げられます。夜道を一人歩いていると、誰かにつけられて居るような気配を感じる。そんな時はべとべとさんがついて来ているといいます。その時に「べとべとさん、どうぞ前をお通りください」と目を瞑り頭を下げてると、後ろからついて来る気配がなくなったように感じる。これも、一つの行為者の過剰検出の例ではないかと私は考えています。
 では、この「感じる」ということは偽りなのでしょうか。獲物を「感じる」、捕食者を「感じる」、べとべとさんを「感じる」、神を「感じる」と言うことを、「感じない」というのは偽りではないのでしょうか??

 また、人間特徴を語る上で極めて重要な能力は「事実に反することを想像できること」がその一つです。この能力があるからこそ「推論」というものが成り立っていて、普段の生活の中の「社会相互作用」行動をおこす前にいくつかのシナリオを検討して、より良い反応を得られるであろうと想像することが出来るわけです。実際に私達は、ここに居ない人物についてだけでなく、純粋に想像上の人物(私はシャーロキアンの端くれなので、ホームズについてなら一晩中語れます)についても、推論が可能なのです。このような能力は三歳くらいの子供から出現します。例えば、「目には見えない友達」というのがその一つです。
 心理学者ジョリー・テイラー氏の研究によれば、この目には見えない友達との関係は、空想と現実の混同を意味しないと言います。発達心理学において、現実と空想を区別のテストにおいては、目には見えない友達を持っている子供の方が、空想と現実の区別がはっきりしていることが分かっています。また、同様に目には見えない友達のいる子供は直感的心理学をうまく使わないと解けない問題では、他の子供よりも良くできるものが多かったそうです。このようなことから、テイラー氏は目には見えない友達が、社会的心のトレーニングの機能を担っていると言う仮説を立てておられます。

 認知科学者パスカル・ボイヤー氏は宗教を持つには、人間であれば誰もが持っている標準的な心が必要であり、特別な心は必要ないと述べておられます。神・天国・地獄と言った概念は、そんな普通の人間の普通の心から成り立っている。心理学者トム・ウォール氏の実験に寄れば「想像上の動物を描いてください。しかもできるだけ、おかしなものを描いてください」と問われても、十本脚の動物であれば右足五本左足五本、四目であっても右に二つ左に二つといったシンメトリに描かれる場合が多かったと言います。つまり、想像上の動物であったとしても現実の動物の延長線上にしかないのです。エマニエル・カント氏も通常の概念構造が、見かけには何も制約されないように見える想像力の飛躍のための発射台の役目を果たすと述べております。

>>見えんもんを見えると言うことは偽りや。
>>聞こえんもんを聞こえると言うことは偽りや。
>>知らんもんを知っとると言うことは偽りなんや。 
 さて、本当にこれは「悪」なんでしょうか??人間はこういう能力を持っているから人間なのであり、宗教もそれによる産物でしかありません。それを否定するのであれば、人間の認知機能が間違っているのかもしれませよ。
合掌 南無阿弥陀佛

この回答への補足

 
中国や日本などのアジアの国々では嘘偽りを方便などと言うて多用する文化がある。
しかし「人の道」では嘘偽りは方便ではなく、全くの悪なんや。
 

補足日時:2010/08/11 19:35
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この回答へのお礼

 
>>見えんもんを見えると言うことは偽りや。
>>聞こえんもんを聞こえると言うことは偽りや。
>>知らんもんを知っとると言うことは偽りなんや。 
> さて、本当にこれは「悪」なんでしょうか??

間違いなく悪や。偽りは例外なく悪でござる。

見えんもんを見えんと言う。
聞こえんもんを聞こえんと言う。
知らんもんを知らんと言う。

こっちの方が正しいに決まっとる。
これは誤魔化しようのないこと、宇宙の法則や。
この正しいことを捻じ曲げようとする心が悪を生むんや。
 

お礼日時:2010/08/11 19:10

偽るとは



見えるものを「見ていない」と言い、見えないものを「見える」と言うこと。
聞こえるものを「聞こえない」と言い、聞こえないものを「聞こえる」と言うこと。
知っているものを「知らない」と言い、知らないことを「知っている」と言うことや。
無いものを有ると言い、有るものを無いと言うことや。
語るべきを語らず、語らざるべきを語ること。





ならば、あるかないかわからないことについて
知らないのに「ない」ということは偽りでしょう。
知らないのに「ある」ということも偽りでしょう。

「このように考える」「このように信じている」「あるかないかわからない」
というなら偽りではないでしょう。



もし知らぬのに「死後がない!」といったとき

もし死後がないなら、知らぬのに知っていると偽った上で、たまたまその主張があっていたことになるでしょう。そして偽った行為の結果もでないでしょう。

もし死後があった場合、知らぬのに知っていると偽った上で、全く事実と違う主張をしていたことになります。そして偽った行為の結果がでるでしょう。

もし行為自体に結果がでないというなら、偽りが悪であるということも、全ての善悪も意味をなさなくなるでしょう。

行為とは何か、言葉・身体・思惟の行為のことです。



そして人が見た聞いた語るものについて、他者が偽りであると示すすべはない。
そのすべがないのにもかかわらず
自らが知ったかのごとく他者の知覚は偽りだと決め付けることは極限の偽りである。

しかし、その認識の外の概念見解の矛盾は指摘できましょう。



偽ることは真理の探究が出来ない。

そのとおりですね。






何か思索の役に立てば幸いです

~幸福であれ~

この回答への補足

  
あんたが言う「あるかないかわからない」ちゅー議論のやり方はただの逃げに過ぎん。
えー加減これに気付かなあかんで。
 

 

補足日時:2010/08/11 19:22
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この回答へのお礼

偽りはこの世にはなんぼでもある。
とくに最近の世の中は偽りに満ちておる。
幽霊に会った、UFOを見た、宇宙人と一緒に暮らしたなど嘘八百並べる輩は五万といるんや。
もちろんこういったもんが存在せんことは証明できん。
そういう証明は出来んことになっとるんや。
そしてこういう嘘八百並べる輩はこの証明出来んちゅー性質を利用し、その上に居座って堂々と嘘八百並べとるだけなんや。
全く破廉恥なものの考え方で、悪と呼ぶ以外に呼びようがない。
神や仏、天国、地獄、死後の世界についても同じや。
見たこともなく、聞いたこともないもの、この地球上の誰一人としてその存在を確認できぬものについて存在すると前置きし物語るのが宗教や。
だから宗教はいるかもしれん、いないかもしれんと語るものではなく明確にいると前置きした上で語りかけるもんや。
だからこーゆーもんは全て偽りであり、先の幽霊、UFO、宇宙人と同レベルなんや。
最初のところで最近の世の中は偽りに満ちておると言うたが、オレオレ詐欺、金融詐欺、保険詐欺、マルチ商法とかこの世の中嘘偽りに満ちておるが、その根っ子は全てこういった偽りを許す心から生まれるんや。
「人の道」では偽りは諸悪の根源なんや。

お礼日時:2010/08/11 19:01

物体に本質的な目的(価値性)はありませんが、それゆえエントロピー増大


=淘汰として、常に生物の目的を「生きること」に収斂させます。
それは、個人の意識において、「意志の達成=充足の追及」となります。
つまり、「人生を通算した精神的充足量の最大化」のみが、本質的目的です。

それは肉体に付属した感覚器官に基づくものゆえ、短絡的・即物的になりがち
ですが、3つの点で、そうではありません;

1.「人生を通算した充足量」を構成する関数は、欲求の強さや達成率だけでなく、
 それを感受する上で「認識の深さ」が大きな要因であり、麻薬的な感覚的快感
 とは反対の方向性を持つ。(意味的深さ)

2.「人生を通算した充足量」を目指す上においても、「認識の深さ」によって
 人生全体を見通し、短絡的衝動をコントロールする必要がある。(時間的長さ)

3.分業化や組織化において人が社会性をもつにつれ、自己の生存の成立に、
 社会全体の活動が必須となり、真に「利己的」であるには、社会全体の
 自己の肉体と同等の自覚化(他我化=愛)が必要となる。(空間的広がり)

こうした「自己の肉体の外における『人生を通算した充足量の最大化』の要因=
社会行動」を自覚的に行なわずに、政治(法規)や経済(お金)、権力(地位)、
宗教(善悪)、慣習(正義)、など、他律的に行なう時、先入的価値が生じるのです。
いわば「自律的生存=社会生命的自覚化」を省略して、自己チューなまま安易に
社会化する社会システムのための、必要悪です。
ゆえに、社会性が発達するほど、近似的なシステムによる歪みが増大し精神的に
荒廃していくのです。
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この回答へのお礼

 
つまり宗教とは「人生を通算した充足量」の最大化のため短絡的衝動のコントロールを放棄し、麻薬的な感覚的快感に走り、「自律的生存=社会生命的自覚化」を省略して、自己チューなまま安易に社会化する社会システムの奴隷となり、神や仏、天国、地獄を語ることに明け暮れるようになるちゅーことや。
 

お礼日時:2010/08/10 22:44

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