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世界68億人が幸せになる社会は実現できますでしょうか?

皆さまのご意見をお聞かせ下さいませ。

A 回答 (72件中21~30件)

<ただ、今一つどういう意味で、或いはどういう背景で、こうした意見を頂いたの


<かについては、僕側で分かりませんでした。ですので、確認させて下さい。
<b-w-stepさんは、どの情報を受けて
<>逆転の発想も時には必要です。
<と仰り、
<>あなたは野生の動物の目を見つめたことが・・・だと思います。
<>野生と人間。何が違うのでしょうか。・・・有無は相違点といえます。
<>人間でも狩猟民族あたりは・・・がいると考えます。
<と続いているのでしょうか?
どの情報を受けたかというと特定の情報ではありません。今回野生の動物の話を出したのは次の理由からです。あなたは人間の幸せについて考えています。そこで他の動物の幸せについても考えてみてはいかがでしょうか、ということです。あえて言うとすれば
<それとも主題『人類69億人が幸せになる社会は実現可能なのでしょうか?』を受けて>
です。あなたの文面や他の方とのやり取りを見ていて若いな、と感慨にひたりました。まだまだ熱い鉄ですね。昔の私を見ているようです。
 それは置いておきます。あなたは人間の幸せについて今考えています。しかし逆に動物の幸せや生活についても考えることは無駄ではないと私は考えます。なぜ人間が苦にあふれているかというと欲が多いからといえます。欲が苦しみを生みます。一方で他の動植物は大して苦しんでいません。犬も泣き叫ばずに静かに厳かに死んでいきます。他の動植物には欲がありません。逆に楽しみも無いようですが。楽しみが無いからこそ欲と苦しみが無いのかもしれません。人間の楽しみといえば何でしょうか。私は学問です。しかし学問は私は人工的な芸術と考えています。逆に芸術以外の何者でもないともいえます。また、学問というのは単純な事柄に権威を持たせようと難しい単語で置き換えていると感じます。観想を『テオリア』、性エネルギーを『リビドー』『エルゴン』とする倫理的学問。学問は人間は過剰評価しているきらいがあると私は考えます。現代の高等学問は基本的には役に立たないと私は思います。医学の先端技術も普通の病院では殆ど使えないように。
 また、他の動植物は何事も天任せにしていると私は考えます。人間と違って動植物には殆ど計画性はありません。人間は計画を立てますが、一方でそれが人間をしばっているともいえます。昔の旅人は生と死は紙一重でした。そこまで覚悟して旅をしました。しかし旅人が胃炎を起こしたり胃潰瘍を起こしたりした例を私は知りません。そう考えてみると計画などは果たして人間にとって幸せか考えてしまいます。
 よく考えてみれば他の動植物は人間の様々な行為を目の前にしても羨ましがりません。
 良かれと思って作った学問。しかし学校という制度が金銭的な差を正当化している面があります。学校教育も矛盾だらけです。人間的に困った人が道徳を教える矛盾。学問について語ることの出来ない人間が学問を教える矛盾。人工的な学術用語や年号の暗記に終始する学問。問題を解くだけに成り下がった学問。学問を学ぶ理由や正当性を説明せずにひたすら教える学問。学校側が学問を規定して生徒の(厳しいことを書いてしまえば)服従度によって差をつけるテスト制度。もしそういう事柄に思い当たる面があるとしたら教育制度にはやはり問題があるのでしょう。私は暴走族や極道の人の気持ちも分かります。そういう意味で学問や人間育成の為の学校は多くの矛盾をはらんでいるのかもしれません。
 ただどの場所でも良い人は必ずいます。それも確かでした。 
 人間は計画を立てます。しかし計画に縛られます。明日死ぬかもしれない旅人でもストレスは意外と多くない。
 結局、何かを作れば何かを失うのではないでしょうか。同様に幸せを考えるのならば逆に幸せの為に『何かを犠牲にする』ことが必要なのではないでしょうか。犠牲を作らずに全てを丸く収められるとは私は思えません。そういう意味で何を犠牲にするか。自由を犠牲にするか。進歩を犠牲にするか。便利さを犠牲にするか。多様性を犠牲にするか。そのあたりの取捨選択も必要だと思います。
 ところどころ厳しい文が入っていますが、誰かを責めようとしているわけではありません。気にされた方がいらっしゃったらすみません。直接的な回答になってなくてすみませんでした。

この回答への補足

いつもご回答ありがとうございます。

今回の投稿は、そもそも主題が人間のみを対象としていると解釈されたb-w-stepさんが、人間のみを対象としている観点を離れて、人間だけを観察するのではなく、動物を観察した後に、もう一度人間へと戻ってくる時に、人間という立ち位置や、人間として本来どう生きるべきであったかが観えるという事について仰ってくれているのだと受け取っています。

>あなたは人間の幸せについて今考えています。しかし逆に動物の幸せや生活についても考えることは無駄ではないと私は考えます。なぜ人間が苦にあふれているかというと欲が多いからといえます。欲が苦しみを生みます。一方で他の動植物は大して苦しんでいません。犬も泣き叫ばずに静かに厳かに死んでいきます。他の動植物には欲がありません。逆に楽しみも無いようですが。楽しみが無いからこそ欲と苦しみが無いのかもしれません。人間の楽しみといえば何でしょうか。

動物に欲はなく、人間に欲があるというところに共感します。更に言うなれば、動物には所有欲がない、人間には所有欲がある、と言い換えられるのではないかと思っています。

更に表現を変えると、動物には自己認識能力がありませんね。人間には、自己認識能力があります。それ故に、動物は自分の事で悩みません。人間も生まれたばかりの赤ちゃんや、小さい子どもは自分の事で悩みませんね(だから、動物・赤ちゃん・子どもは可愛くみえる・・・という話がある様です・笑)。

苦に溢れているのが欲から来るという点は、自己認識と重ねながら非常に頷くところです。


>私は学問です。しかし学問は私は人工的な芸術と考えています。逆に芸術以外の何者でもないともいえます。また、学問というのは単純な事柄に権威を持たせようと難しい単語で置き換えていると感じます。観想を『テオリア』、性エネルギーを『リビドー』『エルゴン』とする倫理的学問。学問は人間は過剰評価しているきらいがあると私は考えます。現代の高等学問は基本的には役に立たないと私は思います。医学の先端技術も普通の病院では殆ど使えないように。

僕は、b-w-stepさんは学問そのものに楽しんでいるというよりは、知的欲求であったり、自己を拡張する姿勢の事ではないかと思っていたのですが、学問だと聞いて驚きました。

何事も聞いて見ないと分からないものですね。


> また、他の動植物は何事も天任せにしていると私は考えます。人間と違って動植物には殆ど計画性はありません。人間は計画を立てますが、一方でそれが人間をしばっているともいえます。昔の旅人は生と死は紙一重でした。そこまで覚悟して旅をしました。しかし旅人が胃炎を起こしたり胃潰瘍を起こしたりした例を私は知りません。そう考えてみると計画などは果たして人間にとって幸せか考えてしまいます。よく考えてみれば他の動植物は人間の様々な行為を目の前にしても羨ましがりません。

時間の概念が弱いのが動物ですね。
特に未来。

人間は、脳が未熟状態で生まれてくる事、また極力は未熟の状態に留めておく事、という機能があります故に、未来を予測する事が可能です。と言うよりも、不安定さ、不確定さを取り扱う事が可能なんですね。

その事で新たな苦しみを生んでいるのも胸痛い事実です。

> 良かれと思って作った学問。しかし学校という制度が金銭的な差を正当化している面があります。学校教育も矛盾だらけです。人間的に困った人が道徳を教える矛盾。学問について語ることの出来ない人間が学問を教える矛盾。人工的な学術用語や年号の暗記に終始する学問。問題を解くだけに成り下がった学問。学問を学ぶ理由や正当性を説明せずにひたすら教える学問。学校側が学問を規定して生徒の(厳しいことを書いてしまえば)服従度によって差をつけるテスト制度。もしそういう事柄に思い当たる面があるとしたら教育制度にはやはり問題があるのでしょう。私は暴走族や極道の人の気持ちも分かります。そういう意味で学問や人間育成の為の学校は多くの矛盾をはらんでいるのかもしれません。

供給過剰問題というのがあります。

始めはそれで良かった事、当初は大ヒットだった事、それは広げていきたい・・・とするのが人間のみならず自然界の特徴ですね。ですが、人間も自然も、それがあるところまで広がる時に、永遠に広がり続けるという事がありません。

途中で飽和状態が来ます。

飽和とは動きの無い様な印象ですが、実際は飽和というよりもまだまだ供給され続ける現象ですね。供給過剰は、必ずおきる様になります。

僕は、学問が及ぼす種々の問題点を観察しながらも、それは学問という当初の良さ、大ヒットの時の供給過剰が及ぼしている現象であると見ています。

勿論、供給過剰は永遠に起きず、次には必ずパラダイム転換が起きています。


> ただどの場所でも良い人は必ずいます。それも確かでした。 
 人間は計画を立てます。しかし計画に縛られます。明日死ぬかもしれない旅人でもストレスは意外と多くない。
 結局、何かを作れば何かを失うのではないでしょうか。同様に幸せを考えるのならば逆に幸せの為に『何かを犠牲にする』ことが必要なのではないでしょうか。犠牲を作らずに全てを丸く収められるとは私は思えません。そういう意味で何を犠牲にするか。自由を犠牲にするか。進歩を犠牲にするか。便利さを犠牲にするか。多様性を犠牲にするか。そのあたりの取捨選択も必要だと思います。

僕は、本当に重要な事は、動物の観点になりきる事だと思っています。冒頭にも触れましたが、真に人間社会を観るには、或いは人間の立ち位置を、同じ地球に住む命として観る場合には、人間を離れて完璧に動物になる事です。

人間を完璧に離れる事が出来たのか、どうかですね。人間を離れていないけれども動物を観察する事は出来ます。

ですが、あくまで人間として動物を観察しています。
動物・動物・・・と言いながら、結局、自分は人間です。


それ故に、突っ込んだ質問で恐縮なのですが、b-w-stepさんは

・動物が達成した快挙
・動物の喜び・楽しみ
・動物のマンネリ
・動物の苦しみ
・そしてそこから来る動物としての限界突破

についてどの様に捉えていらっしゃいますか?

> ところどころ厳しい文が入っていますが、誰かを責めようとしているわけではありません。気にされた方がいらっしゃったらすみません。直接的な回答になってなくてすみませんでした。

今までのb-w-stepさんとの交流から僕個人はよく分かっております。しかしながら僕のみならず、他にも読んで頂いている方の為にもそうした配慮をして頂けるのは質問者として嬉しい限りです。

今後とも宜しくお願い致します。

補足日時:2011/05/19 16:47
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この回答へのお礼

昔、TVでドラえもんを見ていた時にフッと思った事があります。

ドラえもんが映画版になるとジャイアンがとても頼もしくなったり優しくなったり思えましたし、すねおも妙に冴えていたり親身になってくれているのを感じたりしていました。

TVでの短編の場合と、映画での違いには一体何があるんだろうか?とクビを傾げていたことがありましたが、後になって、気付いた事がございます。

映画版では、とても団結する姿が描かれていますね。
きっと、そういうところに何かしらを感じているんだと。

更にフッと気付いた事があります。

映画版では、とても非日常の世界観が繰り広げられます。状況設定がまるで変わりますね。周りは皆、恐竜や原始人だったり、動物だったり、ロボットだったり。

そうした非日常ゆえに、日常の事が浮き彫りになるんだと気付きました。つまり、人間とは何か?という問いに対して非常に難解ではありますが、人間以外の存在や、その存在との関係性によって、人間というものが浮き彫りになってきます。

ロボットが人間っぽく見えたり、人間がロボットっぽく見えたりする逆転現象まで起こりますから、そんな中で人間とは何なのか?に感じ入るのでしょう。

b-w-stepさんの問題提起には、まさにそうした機能があったかと思います。観点が人間に固定されている事は真の意味で人間と向き合っているとは僕も思いません。

まずは、人間から完璧に観点が離れてこそ、真に人間という観点を選択する事が出来る事を明確に理解しています。新たな観点、そして問題提起をありがとうございました。

お礼日時:2011/05/22 15:25

>確認の条件、確認の概要について触れたものです。

抽象的なのは当然ですし、現段階ではこれで十分と判断しています。

すみません,私の考えでは,みなを幸福にするにはみなを説得する必要があると思っています.
にもかかわらず,抽象的でよいと言う理由が分かりません.

>これは少し強引ではないでしょうか?

ある意味測定基準は何でもありだと思いますが...
月以外でも重力が1/6の場所があると仰いましたが,
そこはどこになりますでしょうか.
月より楽に行けるところで持続的に重力が1/6の場所
というのは無いと思いますが.
測定は,あくまで測定であって目標達成の手段ではありません.
(測定原理によって目標達成の方法が見つかることはありますが,
それでも測定と目標達成は異なります.)
価値のある測定基準かどうかはそれこそ
みなで議論して決めるべきことであると思います.

>masudayaさんは、東京から大阪、東京から月に行く際に、本当にその測定基準を選択するというのでしょうか?この点、どの様にお考えですか?

どのような測定基準があり得るかと言う話をみなで決める必要があるでしょう.
その中の選択肢として重力を測定することもあり得ると思います.


>恐らく、次元についてのイメージがmasudayaさんと僕との間で違うのだと思います。僕は、[m(メートル)]という対象を[Kg(キログラム)]で計れるのでしょうか?という問いかけをしています。
>そこでお尋ねしたいのですが、その根拠とは何でございましょうか?masudayaさんの考え方では、その前提としてあらゆる対象物は測定する際にどんな次元でも計れる・・・というのがあるのでございましょう?それとも、僕の受け取りが誤っているのでしょうか?その場合は修正して頂いて構いません。

あのですね,質問者さんは地図で目的値が分かればいけるとか,
[m]と[kg](キロは小文字のk)とは違うとか仰っていますが,
それは仰るとおりです.
しかし実際の問題,特に人間を扱う問題には地図もなければ,
測定の単位もわかりません.
自分(たち)で基準なり方向性を作っていくしかないと思っています.
その場合,基準の測定方法が方向と合致することは限らないこと,
また合致したとしても一つの目線からだけでは,危険であること
(科学の世界ですら,複数の方法を用いて確認しています.)
なので,必ずしも測定基準は目的達成の手段と同じ次元にある必要はないと考えてます.

>今のところ破れは見つかっていない・・・事と、今後破れる可能性が無いという事は等価ではありませんね。また、破れは見つかっていないという情報が一般常識化されている事と、実は破れがみつかっているのだけれども未だ一般常識化になっていないだけ、という可能性もありますね。更には、僕が既に破れを明確に理解しており、また僕だけではなく多くの人が破れに対して理解している現状があり、加えて一体どうして今までは破れが見つかっていないのか、についての理由までも今の時代、この日本では突き止められているという可能性も無い訳ではありませんよね?
>「永久機関が実現できない」と計っている基準は、「熱力学の第1,第2法則」でした。ですが、この判断基準が正確である理由が少し物足りません。

熱力学の法則の破れですが,無いと言っていいと思いますよ.
理由の第一点目もしそんな現象が見つかったら,科学者が放っておかないこと
すごい現象の第1発見者になるのですよ,だれが放っておきますか.
その現象に自分の名前が付くかもしれないし.....
科学者は怠け者でも,権威主義者でもありませんよ,
(ムエンバ効果なんかは今でも,論争しているし...)
第二点目としては,もし破れていれば,熱現象における通常の測定基準が壊れるため
測定結果が,他の原理を用いた測定基準(力学的基準,電磁気学的基準.量子力学的基準など)
と合致しないことがすぐに判明してしまうこと.このことから万一破れがあったとしても
現在の測定限界以下でしか発生していないこととなり,その測定限界以下の力では
摩擦などの抵抗力に勝てないので,結局永久機関は作れません.
第三点目として,もし分かっていれば,永久機関を作ることによって
今日のエネルギー問題は解消するため,すぐに特許を取って,
大金持ちになれるにもかかわらず,だれも特許を取っていないこと.
(お金と言うインセンティブ,は人間にとってはかなり大きいですよ.)
(ただし日本の場合は,熱力学の法則によって確実に成立しないとして
永久機関の特許は取れない.海外はその限りではない.)

質問者さんに言いたいのですが,他人が作った地図は信用するけど,
同じように先人達が作った物理法則を信用しないという態度はいただけないと思います.


>幸せを定義する事。その必要性。
>定義した幸せは本当に幸せと言えるのか?
>というジレンマです。

それはジレンマですね.何となく幸せを定義した方が,幸せでなくなるような気もしますね.
前の回答者さんの回答などを見ていると特にその思いが強く感じされます.
"足るを知ることが幸せ"とはよく言ったものと思います.
質問者さんもいきなり全人類の幸せではなく,自分の周りの人(手の届く範囲の人)を幸せ
にすることからスタートしたらいいのではないでしょうか.その幸せの輪が広がれば
結局全人類が幸せになれる訳で....いかがでしょうか.
(結論としては月並みですがね.)

この回答への補足

>>確認の条件、・・・と判断しています。
>すみません,・・・と言う理由が分かりません.

中身・内容についての共有をしないと言っているのではありません。masudayaさんとの交流の中で、タイミングを見て共有すると言っています。

タイミングとは、抽象的な領域から具体的な領域へと入る切り替わりの事です。現段階では、未だmasudayaさんと僕の間でのイメージ共有がなされていない状態ですので、具体的な領域には入れないと僕が判断しています。


>>これは少し強引ではないでしょうか?
>ある意味測定基準は何でも・・・べきことであると思います.

masudayaさんの判断基準からでは、なる程その通りですね。

>>masudayaさんは、・・・どの様にお考えですか?
>どのような・・・あり得ると思います.

masudayaさんの判断基準からでは、確かに仰る通りです。可能性だけを見れば、その重力での測定によって月に到達した・・・と判断したり確認する事もあります。


>>恐らく、次元についての・・・問いかけをしています。
>>そこでお尋ねしたいの・・・して頂いて構いません。
>あのですね,質問者さんは・・・と考えてます.

実は、僕とmasudayaさんは同じ事を別の角度から言っているのですが、masudayaさんはお気付きでしょうか?僕側では、僕の観点でも、masudayaさんの観点でも、疎通・交流の何たるかが見えてきているのですが、masudayaさんは僕の観点でもご自身の観点でも疎通・交流が果たせる状態でしょうか?


>>今のところ破れは見つかって・・・無い訳ではありませんよね?
>>「永久機関が実現できない」・・・少し物足りません。
>熱力学の法則の破れですが,・・・名前が付くかもしれないし.

masudayaさんは、ご自身の判断基準が絶対に正しいと思われるのでしょうか?そして、科学の判断基準、物理の判断基準が絶対に正しいと思われるのでしょうか?そして、masudayaさん・科学・物理が認めないからと言って、或いは知らないからと言って、ただそれだけの理由で、上記に示した可能性を否定されるというのでしょうか?

それは、とても残念な事です。
理解は出来なくはありませんが、とても残念です。

これは、masudayaさんご自身が、どれだけ可能性を許容できるかの問題でもある様な気がしていますので、もう一度同じ事を記載いたします。決して軽い気持ちでは読まずに、一文一文を深く読み落とし、その文章の意味するところ、その可能性について吟味して頂きますようお願い申し上げます。

また、綿密に吟味なさった上で、同様の結論をお持ちでしたら、根拠をお示し下さい。即ち、上記に述べた事は根拠にはなりません。

【今のところ破れは見つかっていない・・・事と、今後破れる可能性が無いという事は等価ではありませんね。】

【また、破れは見つかっていないという情報が一般常識化されている事と、実は破れがみつかっているのだけれども未だ一般常識化になっていないだけ、という可能性もありますね。】

【更には、僕が既に破れを明確に理解しており、】

【また僕だけではなく多くの人が破れに対して理解している現状があり、】

【加えて一体どうして今までは破れが見つかっていないのか、についての理由までも今の時代、この日本では突き止められているという可能性も無い訳ではありませんよね?】

これだけの可能性は本当に無いのでしょうか?
その上で、次の様に僕は述べているのです。

【「永久機関が実現できない」と計っている基準は、「熱力学の第1,第2法則」でした。ですが、この判断基準が正確である理由が少し物足りません。】

物足りません・・・と。
masudayaさんの今回の投稿でも、物足りません。

僕は、「永久機関が実現できない」という測定基準「熱力学の第1,第2法則」について、正確な理由・・・つまり破れていない理由について、その根拠を科学的に伺えると思っていたのですが、それがありませんでした。

masudayaさんは、測定基準について話し合いで決めると仰っている観点なのですから、根拠を科学的に、物理的に示して頂かなければ僕側では納得しませんし、物足りません。その事を前回お伝えしました。


>科学者は怠け者でも,・・・しているし...)

本人たちは一生懸命やっているでしょう。ですが、69億人が望んでいる程には一生懸命ではありませんし、自分たちの自己満足に留まっています。今や、科学者たちは更にもっと必死にならなければならない時ですのに、部分的見解、部分的理解に留まった非常に視野の狭い領域に固執しています。

ですから未だに放射能除去技術の開発にも向かえません。

加えて物理・科学が既に限界である事を、彼らこそが分かっているにも関わらず、プライドがあるからか認めようとしません。最先端の科学者たちこそ「分からない事が分かりました」と宣言します。

>第二点目としては,・・・結局永久機関は作れません.

科学には前提条件がある事をご存知ですか?

熱現象における通常の測定基準・・・と仰いますが、そこにも条件・状況・環境が潜んでいる事を分かった上で、その条件・状況・環境の中だけで成り立つ部分的な法則である事を理解していなければなりません。

熱力学を語る上で、前提となっている条件・状況・環境についてをmasudayaさんは語る必要があるのではないでしょうか?それとも、無条件で熱力学は成り立っているとお考えなのでしょうか?

この点をどの様にお考えでしょうか?


>第三点目として,・・・海外はその限りではない.)

この論点は、第一点目とほぼ同様ですよね?

根拠としては非常に乏しいです。

それと第二点目のところでも述べましたが、科学・物理には前提条件があります。その前提条件の下で成り立つのでありまして、前提条件を超える世界については無法状態です。

お尋ねしたいのですが、永久機関とは前提条件内のものなのでしょうか?それとも前提条件を超えているものなのでしょうか?

masudayaさんの永久機関が実現不可能である根拠は、科学・物理学によっていますので、その前提が崩れれば、永久機関が実現不可能であるという測定基準が揺らぐ事となります。

これは、第一点~第三点までに共通する事です。


>質問者さんに言いたいのですが,他人が作った地図は信用するけど,同じように先人達が作った物理法則を信用しないという態度はいただけないと思います.

それは僕が思っている事ではなく、masudayaさんが受け取ったmasudayaさんの中にいる僕の態度なんだと思います。

僕は、物理法則を完全に信用している訳ではありません。
その意味をお伝えしますね。

その事は物理法則を信用していないという事ではありません。先にもお伝えしましたが、条件・状況・環境の中だけで成り立つ物理法則であるという事を明確に理解しているだけです。当然、その条件を超えている領域については物理法則以外を適用するのが妥当かと思っております。

>>幸せを定義する事。その必要性。
>>定義した幸せは本当に幸せと言えるのか?
>>というジレンマです。

>それはジレンマですね.・・・よく言ったものと思います.

とても重要な課題かと思います。

幸せの定義の必要性。
その一方で、定義する事による幸せの実現の難しさ。

量子論的な、揺らぎの様なものを感じます。

>質問者さんもいきなり全人類の・・・(結論としては月並みですがね.)

ご提案ありがとうございます。
その意見も多いものでございました。

街頭アンケートやディスカッションでも、このQ&Aの回答の中にもそうしたものがありました。

確かに、一見すると捉えどころのない69億人の事や、たった自分一人では影響力もたかが知れている・・・と思いやすい小さいアイデンティティから見ますと、全人類だとか歴史を含めて幸せを実現するというと、とても突飛であったり、不可能だと思い易いですね。

だから、まずは手の届く範囲から、影響を及ぼしえる範囲から、と考えるのはある意味では自然な事かと思います。ただ、その思考方式は昔だったらそれで良かったろうと思うのです。

ここからは僕の観点です。

今の時代、インターネットで全世界が繋がり、人・モノ・金・情報は地球上を激しく巡りめぐっております。一時期の様に、部分的な空間、部分的な関係性の平和というのが起こりえないのが今の時代ではないでしょうか?

言い換えれば69億人が運命共同体となっているのが実情です。自分の周りの人、手の届く範囲の人、それが69億人だという事です。僕にとっては、目の前の人は69億人そのものであり、人間全体であり、地球そのものなんですね。

僕にとっては、全人類というのはいきなりではありません。自分の周りの人、手の届く範囲の人、ネットを通じて出会う人、皆がみんな全人類です。毎日、そんな事をしきりに感じている事です。日常こそ69億人を観ますし、このネット上でも69億人を認識しています。

ご提案は、心を配って頂いている行為ですので有り難いのですが、Q&Aにしましても、主題の実現にしましても、このテーマだけで為されるとは思っておりませんし、、しかしこのテーマだけでもキッカケとしては相当数の事を実現すると思っております。

masudayaさんの意見も、僕を含めて、これを観ている人にとってとても参考になっているかと思います。このテーマに即して、行きたいと思っています。

補足日時:2011/05/19 15:49
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

僕の関心ごととしては、主題「世界68億人が幸せになる社会は実現できますでしょうか?」でございます。そして、masudayaさんは幸せの定義、それとコンセンサスを得る事の必要性を仰っています。

実は僕もそう思っています。
それを前提で話しています。

ただ、僕がそこで気になる幾つかの事がありましたので、どんどん細やかな話へと展開してはいますが、そもそもその関心ごととは実現するか、しないか、です。

masudayaさんとのQ&Aのやり取りは、実現の方向性へと向かうならば、この展開はどれだけでも行いたいと思っています。しかし、もしmasudayaさんが実現は不可能であると見ているのであれば、この話の展開には意味や価値がかなり軽減されてしまいます。

その場合は、実現しないという事について話を深めれたらと思っているんです。永久機関についての話題などから切り変わるという事ですね。

この話をするのは、このところのmasudayaさんのお応えから感じますのは、どうも主題の実現に向けた話の展開ではないなぁ、という気がしてきております。

即ち、例え反対の意見や論理があっても、寄り合う姿勢があれば、続ければ続ける程に寄り合っていくものですし、上昇された意見や論理として新たな展開へと向かいます。

ですが、始めから寄り合う姿勢がなく、自分と相手を常に切り離した状態での交流をしておりましたら、反対の意見や論理は本当に間反対となってしまい、いつまでも寄り合う事がございません。上昇も起きませんし、ただ自分が言いたい事だけを言い合っている状態に留まります。

僕は、今回の主題から観て、それを良しとしません。

ですから、途中段階で観点が違ったりイメージが違うところに関しては、僕の方から観点を移動させています。

主題は、「世界68億人が幸せになる社会は実現できますでしょうか?」でございますので、寄り合う姿勢がない中で反対の意見や論理が行ったり来たりする事は、そもそも目的でもなければ関心でもございません。

masudayaさんからのイメージを僕が曲げて取っている様でしたら、その事を是非お伝え下さい。理解し、受け取る事については極力意識しています。

masudayaさんから観たら、抽象度の高い話であったり実現不可能な話に見えるかもしれませんし、更に言えばそもそも意味の無いQ&Aをやっている様に見えているかもしれません。

もし、思っている事があって中々表現できず、若しくは表現していても伝わっていないというのであれば、そういう前置きを起きながら率直に伝えて下されば有り難いです。

これからも宜しくお願い致します。

お礼日時:2011/05/22 19:31

逆転の発想も時には必要です。



あなたは野生の動物の目を見つめたことがありますか? 私は何度もあります。野生動物がいなければ動物の写真集でも良いでしょう。動物の目をじっくりと見て下さい。ただし人に飼われた動物は野生動物とは全く違います。野生動物の目は綺麗で吸い込まれそうです。どんな野生動物でも大体はそうです。また、野生動物には不幸なものはいません。不幸な顔をした野生動物を私は見たことがありません。どの野生動物も割と幸福です。カラスや蝶や小鳥などは意外と好奇心も旺盛で人とたわむれることすらいます。野良猫も割りとそういうものもいます。また野生動物は死ぬ際に「死にたくない」などと吠えたり鳴いたりしません。それをするのは人間だけです。少なくとも野生動物はある程度幸福だと思います。

野生と人間。何が違うのでしょうか。野生動物は全てを天に委ねて生きていると感じます。野生動物は傲慢になりようがありません。彼らは自分が弱いことを知っています。人間は自分たちの力で何でも出来ると心のどこかで考えています。私もそうです。そういう意味で傲慢さの有無は相違点といえます。

人間でも狩猟民族あたりは野生動物と大体は同じです。彼らでも色々と争いがありました。しかし不思議なもので猿や人などの高等動物になるほど争いが増えている気もします。現代ですら人間同士の差はあります。依然、最貧国と言える国の若者を新聞で見たことがあります。20歳の男性でした。彼の目を見たときに感動しました。日本の若者(気にした方がいたらすみません)と比べて美しい目だったからです。たとえるなら野生動物に似ていました。今考えてみると人間は様々な文明を手に入れていますが、それらを使いこなせているとは思えません。高等になるほど文明などに振り回される人がいると考えます。

直接的な回答になってすみませんが、このあたりも知っていて損はない情報かと思います。

この回答への補足

zakky74でございます。

>直接的な回答になってすみませんが、このあたりも知っていて損はない情報かと思います。

知っておいて損な情報は、確かに一つとしてこの世にはありません。

全ては1つによって繋がっているからこそ、必ず生きてくる情報ですし、機能しあう情報だからです。僕も、知っておいて損となる情報は一つとしてこの世にはないと思っております。提示された情報も、必ず何かに繋がっているでしょう。

そう理解できるならば幸せです。

ただ、今一つどういう意味で、或いはどういう背景で、こうした意見を頂いたのかについては、僕側で分かりませんでした。ですので、確認させて下さい。

b-w-stepさんは、どの情報を受けて

>逆転の発想も時には必要です。

と仰り、

>あなたは野生の動物の目を見つめたことが・・・だと思います。
>野生と人間。何が違うのでしょうか。・・・有無は相違点といえます。
>人間でも狩猟民族あたりは・・・がいると考えます。

と続いているのでしょうか?

前回の投稿の補足による

>>> 幸せの定義は会話による洗脳・・・バラバラ度はだいぶ減ると思いますが、如何ですか?
>>これを69億人が行うという事でしょうか?

>>> 宗教が他の宗教を認めていない。・・・イスラム教徒も同じです。
>>b-w-stepさん自身は、・・・思うかは分かりませんが。
>>ですが、歴史的な背景や・・・に繋がるケースも多いですね。
>>主題「世界68億人が幸せ・・・信仰心や宗教を挙げていました。

>>そんな中で、
>>>相手の宗教を尊重し、その上で『宗教でない考えを教える』とすれば問題は特に起こらない・・・もっと普遍的な教えにすれば良いのではないでしょうか。

>>ここについては同感である一方で、疑問も感じます。

>>> 同時にそういう宗教を持った人に聞きます。・・・宗教同士の対立を和らげる方法かと思います。

>>今まで、例えばこの2000年もの間にそうした動きや対立を和らげる試みはなされてきたのでしょうか?それともなされてこなかったのでしょうか?

を受けて

>逆転の発想も時には必要です。

が来ているのでしょうか?

それとも主題『人類69億人が幸せになる社会は実現可能なのでしょうか?』を受けて

>逆転の発想も時には必要です。

がきているのでしょうか?それとも、他に何かb-w-stepさんの考えや意見などがありまして、それを受けて

>逆転の発想も時には必要です。

が来ているのでしょうか?

何に対しての逆転の発想なのかが、僕側で今ひとつ分かりませんでしたので、確認の意を込めて質問させて下さい。

宜しくお願い致します。

補足日時:2011/05/17 17:09
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>今回野生の動物の話を出したのは次の理由からです。あなたは人間の幸せについて考えています。そこで他の動物の幸せについても考えてみてはいかがでしょうか、ということです。あえて言うとすれば

やはりそうでしたか。

そうかもなぁ・・・という印象を受けながらも、しかし以前にも観点が固定していた事によって勘違いや受け取り間違いがございましたので、再確認しようと思いました。

ついつい、Q&Aを繰り返していると、直列的に、或いは直線的に会話が進んでいると思い込んでしまうものですが、今回の様に、並列的に、或いは曲線的に会話が進む事も十分ありえます。

どちらの場合でありましても、お互いが、何を、どの様に受け取って会話しているかのキャッチボールが命であろうと思っておりますので、今後も会話に違和感を感じましたら確認させて下さい。

今回は、補足欄に触れました話題を一旦は保留にしておいて、逆転の発想について話を展開しようと思います。

お礼日時:2011/05/19 14:16

私の回答をいただきまして、ありがとうございました。


私は、教育のない国(明治維新の日本だと思いますが)では、幸せの価値観は、一日一日死なずに済んで食事ができ、また明日仕事ができ、明日の食べ物があればという考えの方が多かったのでないでしょうか。幸福感という長いスパンで考えることがなかったんではないでしょうか。そして、3月11日のような災害が起きると、神が怒り我々に不幸を示されたんだと思ってしまう。幸不幸を神仏のが行った「たたり」ということまで考えてしまう。みんな自然の恵みから災難まですべてが神の仕打ちすべてだと思ったに違いないと思います。
教育を受ければ、個々の価値観が生まれ個々から組織へと幸福感が広く流れてよりよく一人でも今より幸せの実現に役立つのではないでしょうか。これをすべてに行くのは長い時間がかかるのではないでしょうか。
前の回答と重なったところがあったらすみません。
他の回答者の方の回答が私にとって難しい答えになっているので、このぐらの答でよいのかと考えてしまいました。
私の方の回答は、ほんの少し待ってください。

この回答への補足

zakky74でございます。

ご回答ありがとうございます。

前回の回答における僕からの補足にお応え頂いているかと思います。つまり、教育の重要性を確認する一方で、教育が画一的に成りすぎてしまうと個性を失わせてしまったり、価値観が画一的になったりするという危険性やジレンマなどはないでしょうか?との問いかけでした。

>私は、教育のない国(明治維新の日本だと思いますが)では、幸せの価値観は、一日一日死なずに済んで食事ができ、また明日仕事ができ、明日の食べ物があればという考えの方が多かったのでないでしょうか。幸福感という長いスパンで考えることがなかったんではないでしょうか。

なるほどですね。

これは、もっと時間軸を戻ってみますと更に鮮明になるかと思いました。農業革命が起きる前は、特にそうだったかもしれませんね。

幸福感という長いスパンで考える事は余りなかったかもしれません。

>そして、3月11日のような災害が起きると、神が怒り我々に不幸を示されたんだと思ってしまう。幸不幸を神仏のが行った「たたり」ということまで考えてしまう。みんな自然の恵みから災難まですべてが神の仕打ちすべてだと思ったに違いないと思います。

これは、農業社会の時には特に実感する事かもしれませんね。農業革命が起きてからは、食べていく事がその日その日ではなく、ある程度の安定感が生まれる様になりました。秩序立ってきた事の意味ですが、秩序立ってきたからこそ、そこに無秩序が生じた時には、向き合う機会となった事でしょう。

農業社会においての無秩序とは、自然がもたらす劇的な変化となる自然災害、或いは他国から攻め入られるという文明災害、などがあった事でしょう。

3.11に関しての意見交換も、この話の流れで必要性がありましたら積極的に行いたいものです。


ところで、とても稀なタイプの意見だと思ったのですが、

>教育を受ければ、個々の価値観が生まれ個々から組織へと幸福感が広く流れてよりよく一人でも今より幸せの実現に役立つのではないでしょうか。これをすべてに行くのは長い時間がかかるのではないでしょうか。

gaiseiさんによりますと、教育を受ける事によって個々の価値観が生まれて・・・という事なんですね。教育を受ける事で、画一的な個人が生まれるのではなく、寧ろ個々の価値観が生まれる・・・というのがgaiseiさんの教育に対する見解だと知って、とても新鮮な気分です。

これについて、更に踏み入った質問としたいのですが、一般的には教育とは画一的なものとして理解される場合が多いのではないかと思うのですが、如何なる理由から教育は多様な価値観の創出となっているのでしょうか?

とても興味深い観点でございます。
gaiseiさんのお応えを楽しみにしております。

補足日時:2011/05/17 16:50
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

教育は、僕もとても可能性を見出しているジャンルです。人間は、教育によって人間になるという様な言葉を聞いた事があります。教育は、それを横に置いておく訳にはいかない問題であると観ています。

だからこそ、教育によって育つ人間とはどういう人間なのか、という観点はとても大事であろうと思います。残念ながら現状では、頭のいい大学に行った人ほど、人間を苛める様な仕組みやメカニズムを創る側に回っていますし、戦争・紛争や経済格差を助長させる様な仕事を手掛けています。

真の教育、今、本当に求められている教育とは何かが問われている時かと思います。

お礼日時:2011/05/30 16:08

一人ひとりがそれを求め、望めば、叶うと思います。


そこには、共通の価値認識が必要だと考えます。

ひとつの星の家族なんだ、地球という家で、みんな仲良く、愛し合い睦み合い、信じ合って暮らせるんだと思えば、可能だと思います。

ひとりが、多くの人の為に考え、多くの人がひとりの為に考え生きれば、叶うと思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

こうした質問を、街頭アンケートやディベートなどを行うと、実現可能だと想う方は2割を下回り、実現不可能だと想われる方が圧倒的に多いです。

8割を超える人が実現は不可能であるとお応え頂いている主題でございますが(本Q&Aもそれくらいの割合になりそうです)、誰もが皆、69億人が幸せで生きられる社会の実現については、それが叶うならば勿論その方が良いけれども、現実的に見るととても難しいと思う・・・というところから不可能を選択したという方が多いです。

kor7ponさんが仰る事は僕もそうだと思うんですね。ですが、多くの方はそれさえも実現が不可能であると考えていらっしゃる様です。

そこで追加でお尋ねしたいのですが、

>一人ひとりがそれを求め、望めば、叶うと思います。
>そこには、共通の価値認識が必要だと考えます。

これは実現が可能なのでしょうか?

>ひとつの星の家族なんだ、地球という家で、みんな仲良く、愛し合い睦み合い、信じ合って暮らせるんだと思えば、可能だと思います。

素晴らしい事です。
これは実現が可能でしょうか?

>ひとりが、多くの人の為に考え、多くの人がひとりの為に考え生きれば、叶うと思います。

ホントその通り!だと思っています。
しかしながら、実現が可能なのでしょうか?

人類が文明を持ち出してからは1万年と言われており、人類が誕生してからは500万年とも言われております。しかし、実現が可能にはなっておりません。

果たして、実現は可能なのでしょうか?
この点も踏まえまして、kor7ponさんは如何お考えでしょうか?

補足日時:2011/05/17 16:21
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この回答へのお礼

kor7ponさん。

ご解答ありがとうございます。
そして、返信が遅くなってしまいすみませんでした。

僕は、人類69億人が幸せで生きられる社会の実現に向けて日常を送っておりますが、その為の一つのプロジェクトに関わる様になってからライフスタイルがゴソッと変化しましたものですから、返信したりお礼を打ち込む事が中々できずにいたのです。

振り返りますと、kor7ponさんのコメントに対して「それは実現可能なのでしょうか?」との僕側の質問に対して、kor7ponさんは実現可能だとの主張であると受け取っています。

とても心強くて頼もしいと思えるご意見でした。
僕個人としてはとても嬉しい限りです。

条件・状況・環境によって、実現可能/実現不可能という判断を下すのでありましたら、やはり条件・状況・環境によって実現は可能であったり不可能であったりするのでしょう。

無条件に実現可能な道を見出す事、
無条件に推進できる可能性を模索する事、

それが大切なのではないかという印象を受けました。

お礼日時:2011/07/31 10:34

>>逆に質問になってしまいますが,質問者さんは"世界68億人が幸せになる社会の実現"は何で確認されるのでしょうか.



>確認は、双方が同時に起きる時になされると思っています。

>個人一人ひとりが確認する事。人類全体(69億人、或いは未来には75億人とか)が確認する事。勿論、それは実現が可能なものです。その確認の指標と申しますか、基準についてはmasudayaさんとの交流の流れの中でタイミングを見て共有しますね。

回答ありがとう御座います.私にとっては抽象的で,ぼやっとした感じに受け取れます.
具体的にはどういうことかは,またお教えいただけるとありがたいと思います.


>つまり、どれだけ頑張ってみても体重計を使って、東京から大阪へ、東京から月へ、行く事の実現を図る尺度にはなりません。
>実現に向かうという次元(運動の方向性)を、測定基準は持っていない限りは、測定すらままならないのではないでしょうか?というのが僕の疑問でした。

そんなことは無かろうと思うのが,私の考えです.月に行けば,重力が減少するので体重計でも月に着いたことは確認できますでしょう.つまり実現に向かう方向と測定基準は必ずしも同じである必要がないと思っています.

>それは、そもそも実現するのかどうかも分からない・・・という前提の上で、基準が必要だと言っておられるmasudayaさんだったのではないか?という事です。

私としては,実現することと実現したことを確認することが同一次元である必要性がないと思っています.
その一方で"実現した"と言うためには"実現した状態"を定義しないと"実現した"と言えないと思っています.

>逆に、僕は実現する・・・が前提で、その上で測定基準の必要性を受け取ろうという姿勢だったのではないか?という事です。

もちろん実現できたらよいことはいくらでもあります私自身も実現できたらよいと思います.
ですが,実現できたとは何を持って言うかと言うことを考える必要はありますよね.と思います.


>ここで僕の立ち位置を、masudayaさんの立ち位置へと移動しようかと思います。そもそも、実現するのかどうかも「分からない」・・・という前提の上で、基準が必要だと考えてみる事にします。
>ここで気になるのは、永久機関が実現できないという点です。ここには疑問が残ります。「実現できない」と分かっている事は、既に計っている事の意味でしょうから計っている事の基準を知りたいのでございます。
>つまり、永久機関が実現できないという判断基準は何でしょうか?そして、その判断基準が正確である理由についてお聞かせくださいませ。

入力にエネルギーを印加せずに,出力としてエネルギーを出し続ければ永久機関ですよね.なので測定は可能です.
一方この永久機関は熱力学の第1,第2法則によって出来ないことになります.
(法則とありますが,帰納的に導かれた法則で,今のところ破れは見つかっていません.)
詳しくは熱力学の教科書をご覧下さい.(この法則自体が,永久機関と密接に関係しています.)

>masudayaさんは、幸せの測定基準そのものを69億人の中から作り出すものだと考えていらっしゃいます。だから、もし自分の中に測定基準があったとしても、それが69億人に共有されるまでは、それが測定基準の条件を満たしきっていない。だけど、その69億人に共有されるという事そのものが実現不可能であると思っていらっしゃいます。

イメージ的にはそうだと思っています.一緒に歩み出すかは分かりませんが...
幸せとは,当人が幸せだと思うことによって実現されます.
しかし各人が幸せをと思うことの中にしか幸せはないと思います.
どなたかが洗脳という話をされていましたが,まさにそんなことをしないと各人は同じ方向を向かないと思います.
例えば,洗脳してみんなが幸せを感じたとして,それが幸せな世界とは私には思えません.

>ところが、これは二重の意味で実現が不可能だろう・・・とも思う訳です。一つは、69億人で幸せの定義とそこに基づく測定基準を創る事、もう一つは、69億人が測定基準に沿った目的地にまで到達する事、それが実現不可能だろう・・・と。

私もその観点で不可能とは言いませんが,非常に難しい難問がいくつも横たわっていると思っています.
ただ,誰かが,これが幸せな世界なのだから幸せを感じろと強制する世界も
私にとっては幸せな世界とは思えません.
幸せな世界とはみんなそれぞれが,幸せと感じていることと思います.
なので,実現が非常に困難であり,不可能に見えようとも各人の幸せをより高次の目的に展開して実現を図ったり
コンセンサスをとったり,話の経路を考えたりが必要と思っています.

この回答への補足

>回答ありがとう御座います.私にとっては抽象的で,ぼやっとした感じに受け取れます.具体的にはどういうことかは,またお教えいただけるとありがたいと思います.

お伝えしたのは、指標や基準の様な確認の内容ではありません。確認の条件、確認の概要について触れたものです。

抽象的なのは当然ですし、現段階ではこれで十分と判断しています。

>そんなことは無かろうと思うのが,私の考えです.月に行けば,重力が減少するので体重計でも月に着いたことは確認できますでしょう.つまり実現に向かう方向と測定基準は必ずしも同じである必要がないと思っています.

これは少し強引ではないでしょうか?

この様な論理を認めていれば、測定基準は何でもありになってしまいませんか?東京と大阪、東京と月、の関係性や現在地から目的地までのプロセスにおいて、それを計る基準は空間情報である事は確認するまでも無い事でしょう。

お尋ねしますが、masudayaさんは本当に東京から大阪、そして東京から月に行く基準として体重計を用いるのでしょうか?その必要性に迫られた時に、本当にmasudayaさんがそれ用いるのかをお教え下さい。

それともう一つ。masudayaさんを含めた何人かのチームや組織でいる時、東京から大阪、そして東京から月に行く基準として、本当に体重計を用いるのでしょうか?お聞かせ下さい。

測定基準の必要性を問うているmasudayaさんなのですから、僕はてっきり意味のある測定基準、価値のある測定基準について提案をしてくれていると受け止めているのですが、それは違うのでしょうか?

それとも、可能性が(低いとはいえ)僅かでもあるならばその測定基準を使うとでも言うのでしょうか?その姿勢そのものは、僕は大好きです。可能性を閉じる必要はありません。ですが、選択は必要です。観念論や抽象論で留まるならば、最も必要としている空間情報ではなく、重量情報を選択する事も可能性を否めない事は理解しておりますが、実現する際には、例えば重量が1/6となってしまう条件は月以外でもありますので、本当に月に行けたかどうかを測定する基準には、それだけでは危うさが残りますでしょう。

体重計でなくとも、例えば他には時計[h]、温度計[℃]、年表[西暦○○年]など、あらゆる測定基準がある事になります。masudayaさんは、東京から大阪、東京から月に行く際に、本当にその測定基準を選択するというのでしょうか?この点、どの様にお考えですか?

>私としては,実現することと実現したことを確認することが同一次元である必要性がないと思っています.その一方で"実現した"と言うためには"実現した状態"を定義しないと"実現した"と言えないと思っています.

恐らく、次元についてのイメージがmasudayaさんと僕との間で違うのだと思います。僕は、[m(メートル)]という対象を[Kg(キログラム)]で計れるのでしょうか?という問いかけをしています。

一方、masudayaさんは対象を[m(メートル)]で規定するのではなく、その対象は[Kg(キログラム)]の尺度も持っているから、その対象を[Kg(キログラム)]で計る事は出来うるじゃないですか?という論理なのではないかと受け取っているのです。

実は、僕は「そうですよね」と納得しています。

ただ、問いかけの中心が少し違う事をお気付き頂けますでしょうか?

そして、もう一つ。

その対象が[m]でも計れたり[Kg]でも計れたり[h]でも計れたり、と多様な測定基準を取り得るという前提が、masudayaさんにあるという様に受け取っています。ですから、東京⇒大阪、東京⇒月という対象を、空間情報で計るのか?重量で計るのか?は自由だと仰っているのだと思います。

そこでお尋ねしたいのですが、その根拠とは何でございましょうか?masudayaさんの考え方では、その前提としてあらゆる対象物は測定する際にどんな次元でも計れる・・・というのがあるのでございましょう?それとも、僕の受け取りが誤っているのでしょうか?その場合は修正して頂いて構いません。

>(法則とありますが,帰納的に導かれた法則で,今のところ破れは見つかっていません.)

今のところ破れは見つかっていない・・・事と、今後破れる可能性が無いという事は等価ではありませんね。また、破れは見つかっていないという情報が一般常識化されている事と、実は破れがみつかっているのだけれども未だ一般常識化になっていないだけ、という可能性もありますね。更には、僕が既に破れを明確に理解しており、また僕だけではなく多くの人が破れに対して理解している現状があり、加えて一体どうして今までは破れが見つかっていないのか、についての理由までも今の時代、この日本では突き止められているという可能性も無い訳ではありませんよね?

この点、如何でございましょうか?

「永久機関が実現できない」と計っている基準は、「熱力学の第1,第2法則」でした。ですが、この判断基準が正確である理由が少し物足りません。

今まで破れていない・・・から、判断基準が正確だと仰っていると理解して宜しいのでしょうか?それであれば、これから破れらる可能性もありますし、実は今破られているにも関わらずmasudayaさんが未だ知らないという可能性もありますし、既に破れている事に僕は出会っているという可能性もございます。

>イメージ的には・・・幸せな世界とは私には思えません.
>私もその観点で・・・考えたりが必要と思っています.

実は、masudayaさんとの疎通・交流を重ねる度に、幾つかのイメージの違いや観点の違いを確認しながらも、僕も幸せのコンセンサスを得る事は重要であろうと想うに至っています。幸せの定義や、その為に共通のイメージを持つ事が重要であろうとも思います。

その一方で、そのイメージが画一的なイメージであったならば、それもまた違うであろうという事も仰っています。何か一つの幸せ像、幸せ観が69億人にインストールされる事を持ってして、本当にそれが幸せなのだろうか?という疑問です。

僕も、そう思います。

多くの人からアンケートで意見をもらったり、ディベートする中で、そうした声も少なからずありました。

幸せを定義する事。その必要性。
定義した幸せは本当に幸せと言えるのか?

というジレンマです。

そのジレンマを突破する意味も込めながら、masudayaさんとのQ&Aを進めています。

補足日時:2011/05/15 15:23
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

masudayaさんとの交流の中で僕側で浮き彫りになってきた事があります。もしかしたら、masudayaさんから見たら、僕が投げ掛けている主題や、このQ&Aを通じて交流している事は、もしかしたら実現が不可能に見えるのかもしれませんね。

頭の中だけでゴチャゴチャやっている様に映っているのかもしれません。非常に観念的であると言いますか、リアルではない。masudayaさんからは、その様に見えるかもしれません。

masudayaさんから見ると、この主題、或いはQ&Aは、可愛らしさという意味ではなく、大人ではないという意味で、幼稚臭いのかもしれません。

実際は、その様に見ていらっしゃらないのかもしれませんが、僕側では現段階ではその様に受け取っております。しかしながら、もしそう見ているにも関わらず回答を続けて下さっている事には、幼稚臭さや観念的な事に対してもお付き合い頂いている事の意味ですので、とても貴重な交流だなぁと改めて思う次第です。

このQ&A、どこまで続くかは回答者さま方との交流次第ではありますが、引き続き皆さまとの交流を楽しみにしております。

masudayaさん、今後とも宜しくお願い致します。

お礼日時:2011/05/19 14:07

>>なるほど,でも定義をして測定可能にすることと実現可能にすることは別物のように思いますが.


>別物ではありますが、同次元です。
>そうでないならば、そもそも計る意味がございません。

そうでしょうか.前にも使った例を出して恐縮ですが,
永久機関は実現できませんが,永久機関であるかを測定する方法はあります.
このことは,測定することと,実現することが必ずしも同じ次元にいないことを
示唆していると思います.
測る意味があるか無いかと言う話は,上の例の場合は測定方法はエネルギー効率
を測ることを意味していますので,意味はあると思います.
この例は言い方を変えると,エネルギー効率を測定する方法を用いることで
永久機関かどうか測ることは可能であるが,永久機関を実現することは不可能である.
上をさらに言い方を変えると,実現が不可能な永久機関を測定する方法を用いると
機関のエネルギー効率が測定可能になる.とも言えます.
当然,測定原理が明確になることによって,実現方法が見えてくると言う例も
かなりあるとは思います.そういう方が多いとは思いますが,だからといってすべてが
そうとは限らないと思います.


>確かにmasudayaさんが仰る様に測定可能にすることと実現可能にすることは別物でございましょう。それは例えるな
>らば、地図上に目的地までのプロセスを計る事が出来たとしても、未だ体は目的地に到達していないという事に似てい
>ます。

これは,頭の中で実現方法を模索していることであって,測定方法とは別なことと思います.
それにこのたとえは,実現できることが前提であって,"指針があるのだからゴールできる."と言うことかと思います.
実際には,前人未踏の地に行くのに測定方法である,GPS(緯度と経度を表示するだけのもの)だけ持って行っても
到達したことの証明には使えても,この断崖をどう超えていくかの為には使えないと思います.

>頭の中で到達しているだけですね。ですが頭の中でも明確に到達している事はとても大きいです。

これには異論はありません.この状態になっていれば軌道修正で実現できる可能性は極めて高いと思います.
ただそのために地図は与えられる物では無く,自分で作る必要があります.
なぜならば,自分の頭の中で到達指定のであって,他の人は到達できると思っていないからです.
一人で実現できる物であれば,頭の中だけでもいいのですが,他の人の協力を得ようとしたら
その地図を示して,納得してもらう必要があるためです.


>masudayaさんの仰る幸せのコンセンサスを得る事によって、主題「世界68億人が幸せになる社会は実現できます
>でしょうか?」は実現可能だと言えるものなのでしょうか?

それは残念ながら私には分かりません.相反する国家や相反する宗教が存在していますので
きわめて難しいのだろうと想像することは出来ますが,この相反する条件は何なのか
その条件を含みつつ双方が同意をすることが出来る高い次元での共通目的を醸成することが出来るのか.
そのような経路をどのように実現していくかなどの答えのない難問が横たわっているように思います.

>例えば東京から大阪に行くという時、全体像が分からなければ何をどうすれば良いのか分かりません。ですが、
>地図という全体像があり、現在地と目的地を測定できれば、同時に大阪までのプロセスが浮かび上がります。
>地図を用いて全体像が分かり、今という現在地から目的地までのプロセスが測定できます。実現する可能性は
>当然ありますでしょう。

前にも述べましたが,一般に解決しなければならない問題には地図はありません.自分で条件を整理して
地図を作っていくことになります.地図が出来ているというのは,すでに条件が整理されている状況になります.
実際には,到達したことを把握する方法も困難な場合が多いですが,到達したことだけを把握する方法
(GPSで緯度経度を測る方法,GPSはそもそも緯度と経度と時間を計測するシステムでこれを地図にマッチングして
ナビとして利用している.)しかない場合も少なからずあります.

>これは、計る事と実現する事が同じ次元にあるから起きる事です。
上の二つの例では,測ることの方向には実現はないと思いますので
必ずしも同じ次元とは言い切れないように思います.


>例えばですが、東京から大阪に行く時に、体重計という計りを用意した時の様なものかもしれません

このたとえも,月に行く場合にはある程度の意味を持ちます.
月に行けば,体重計はもとの体重の約1/6になります.地球上でそのようなところ
はありませんので(落下する飛行機ではそのようなことはあり得ますが...),
体重計の測定結果を持って月に行ったことを示すことも可能かと思います.
しかし体重計では,月への行き方は分かりませんね.

逆に質問になってしまいますが,質問者さんは"世界68億人が幸せになる社会の実現"は
何で確認されるのでしょうか.

この回答への補足

>逆に質問になってしまいますが,質問者さんは"世界68億人が幸せになる社会の実現"は何で確認されるのでしょうか.

確認は、双方が同時に起きる時になされると思っています。

個人一人ひとりが確認する事。人類全体(69億人、或いは未来には75億人とか)が確認する事。勿論、それは実現が可能なものです。その確認の指標と申しますか、基準についてはmasudayaさんとの交流の流れの中でタイミングを見て共有しますね。

ところで、

>>例えばですが、東京から大阪に行く時に、体重計という計りを用意した時の様なものかもしれません

>このたとえも,月に行く場合にはある程度の意味を持ちます.月に行けば,体重計はもとの体重の約1/6になります.地球上でそのようなところはありませんので(落下する飛行機ではそのようなことはあり得ますが...),体重計の測定結果を持って月に行ったことを示すことも可能かと思います.しかし体重計では,月への行き方は分かりませんね.

と仰っているので、僕が例えを使って何を共有したかった事の何たるかは、受け取って頂いているかと思います。

ここでいう「東京から大阪に行く時に」と例を挙げたのは、説明が不足過ぎましたが、東京から大阪に行く目的で・・・或いは、東京から大阪に体が移動している事を実現する事は可能でしょうか?・・・の様な意味合いで引用しております。

その場合、実現後を計る為にも、実現までのプロセスを得る為にも、全体像と、全体像から来る現在地や到着地点までのプロセスを知る基準が必要であろうと理解し、それを空間的キョリを埋める道具として地図を選びました。

そして、東京と大阪の空間的キョリを埋める実現の為には、地図は適切であろうかと思います。更に、例え地球から月に行く場合も同様です。宜しいでしょうか?

実現したいことは、空間的なキョリを埋める事でございますので地図は判断基準として適当かとは思いますが、如何なる理由で体重計が意味を持つのでしょうか?キョリの単位と、体重計の単位が違うのでございまして、その意味で次元が違うとお伝え致しました(次元とは、運動の自由度・方向性の意味)。〔m〕と〔Kg〕では運動の自由度・方向性が違いますので、次元は違いませんか?と問いました。

恐らく、この違いはmasudayaさんも理解されています。
ですから、

>しかし体重計では,月への行き方は分かりませんね.

と仰ったのではないでしょうか?

つまり、どれだけ頑張ってみても体重計を使って、東京から大阪へ、東京から月へ、行く事の実現を図る尺度にはなりません。

実現に向かうという次元(運動の方向性)を、測定基準は持っていない限りは、測定すらままならないのではないでしょうか?というのが僕の疑問でした。

とは言え、masudayaさんとの交流で気付いた事もあります。キッカケは以下の文章でした。

>ただそのために地図は与えられる物では無く,自分で作る必要があります.

>それは残念ながら私には分かりません.相反する国家や相反する宗教が存在していますのできわめて難しいのだろうと想像することは出来ますが,この相反する条件は何なのかその条件を含みつつ双方が同意をすることが出来る高い次元での共通目的を醸成することが出来るのか.そのような経路をどのように実現していくかなどの答えのない難問が横たわっているように思います.


それは、そもそも実現するのかどうかも分からない・・・という前提の上で、基準が必要だと言っておられるmasudayaさんだったのではないか?という事です。

逆に、僕は実現する・・・が前提で、その上で測定基準の必要性を受け取ろうという姿勢だったのではないか?という事です。

この両者間の立ち位置の違いを考慮しますと、お互いの意見のすれ違いや噛み合わない点が理解出来る気がします(もし違うのでしたら仰ってください)。

そこで僕の立ち位置を、masudayaさんの立ち位置へと移動しようかと思います。そもそも、実現するのかどうかも「分からない」・・・という前提の上で、基準が必要だと考えてみる事にします。


>>>なるほど,でも定義をして測定可能にすることと実現可能にすることは別物のように思いますが.

>>別物ではありますが、同次元です。
>>そうでないならば、そもそも計る意味がございません。

>そうでしょうか.前にも使った例を出して恐縮ですが,

>永久機関は実現できませんが,永久機関であるかを測定する方法はあります.このことは,測定することと,実現することが必ずしも同じ次元にいないことを示唆していると思います.測る意味があるか無いかと言う話は,上の例の場合は測定方法はエネルギー効率を測ることを意味していますので,意味はあると思います.

ここで気になるのは、永久機関が実現できないという点です。ここには疑問が残ります。「実現できない」と分かっている事は、既に計っている事の意味でしょうから計っている事の基準を知りたいのでございます。

と言いますのは、そもそも実現できるかどうか「分からない」というmasudayaさんの立場において、そこから判断基準を探すという立ち位置にいるだろう、と僕が受け取っているからです。

永久機関が実現できないと「分かっている」のでしょうか?
永久機関は実現できるかどうかは「分かっていない」のでしょうか?

どうも前者のニュアンスで受け取れてしまったのでお聞きします。

つまり、永久機関が実現できないという判断基準は何でしょうか?そして、その判断基準が正確である理由についてお聞かせくださいませ。


永久機関の理解については繊細でありたい為に、横道に逸れる様に映るかもしれませんが、是非お付き合い下さいませ。

ところで、masudayaさんとQ&Aを重ねておりますと、masudayaさんご自身が主題を通して、どこに重きを置いているかが少しだけ垣間見えた気がして参りましたので、お伝えしてみたいと思います。

僕の勘違いや受け取り間違いかもしれませんので、その場合は遠慮なく修正して下さい。

masudayaさんは、幸せの測定基準そのものを69億人の中から作り出すものだと考えていらっしゃいます。だから、もし自分の中に測定基準があったとしても、それが69億人に共有されるまでは、それが測定基準の条件を満たしきっていない。だけど、その69億人に共有されるという事そのものが実現不可能であると思っていらっしゃいます。

そのイメージから出てくるのが、測定基準は必要。そして、その測定基準とは69億人が納得するものであり、幸せの定義・コンセンサスが得られた状態。その状態が出来て、初めて人類共通の地図が得れたのであり、その地図に向かって69億人が歩みだす・・・と思っていらっしゃいます。

ところが、これは二重の意味で実現が不可能だろう・・・とも思う訳です。一つは、69億人で幸せの定義とそこに基づく測定基準を創る事、もう一つは、69億人が測定基準に沿った目的地にまで到達する事、それが実現不可能だろう・・・と。

如何でございましょうか?
もし違いましたら修正をお待ちしております。

masudayaさんの意見は、とても大切な観点であり発展性のあるものかと思っております。いつもありがとうございます。

これからも楽しみにしております。

補足日時:2011/05/11 14:33
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

masudayaさんの仰る測定基準の必要性について、僕もそうだと受け取っています。ですが、masudayaさんが必要だと仰ったのは、実現という方向性や機能に向かう為に必要だと仰ったのではないでしょうか、と想う訳です。

でなければ、必要であるとは言いません。

つまり、実現が可能であるという次元と同じでなくてはならないと思えてなりません。ですが、次元間の違いを自由自在に変換する事が可能であるならば、次元が違っても良い事になります。

計る事は同次元だから計れますが、例え異次元であったとしても、次元間を行き来する計りがあれば次元間の違いを含めながら計る事が可能であるからです。

実現する事と切り離された計り・・・それは次元間の違いを超える事が出来ていないという意味であろうかと思っています。

数学にもよく起こりますが、観念で成り立つ論理があります。ですが、現実には起こりえない事がありますね。では、現実では成り立たない論理という事になります。あくまで、観念の中だけで、その条件化だけで、成り立つ論理です。観念の外、条件の外、では成り立ちません。数学の世界に多いですが。

追加の質問をさせて頂いています。
改めて宜しくお願い致します。

お礼日時:2011/05/15 15:33

ntttmです。


>一体何人ならば幸せは実現可能となるものなのでしょうか?
ということですが、僕は研究者でもなければ何でもないので詳しくは良くわからないですが、小さな村などでみんなが幸せそうに暮らしていることがあるというように思います。なので人口の少ない村程度なら十分可能かと思います。
その小さな社会の集合体として大きな社会を作れば、あるいは可能性があるかも知れません。

また、そうでなくても全員の価値観が大きく変わるような出来事が起これば(よっぽどのことですが…)実現できるかもしれません。でもやっぱり69億人、ましてやそれより増えるとなると、現実的には実現不可能のように思えてしまいます。

ただ、「幸せ」というのは精神的なものですから中身があろうとなかろうと良い訳ですので…
運よく弱弱しい宇宙人を奴隷としていっぱいこき使えるみたいな非人道的な方法でも可能なのかな…
と思えないでもありません。

でも、こうなったとしても非人道的だと感じることができるような価値観の持ち主が人間の中にはいるでしょうから、今の僕ではやっぱり実現不可能としか思えません。

それでも、実現できると信じて、そして考えて、行動していきたいものです。

なんだか、考えながら書いたらよくわからない文章になってしまいましたが、お答えになりましたでしょうか。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>>一体何人ならば幸せは実現可能となるものなのでしょうか?

>ということですが、・・・あるいは可能性があるかも知れません。

人口の少ない村というのは、それ以外の領域とは隔離された孤立状態を意味しているのでしょうか?それとも、それ以外の領域とも疎通・交流が必要なんでしょうか?

>また、そうでなくても全員の価値観が大きく変わるような出来事が起これば(よっぽどのことですが…)実現できるかもしれません。でもやっぱり69億人、ましてやそれより増えるとなると、現実的には実現不可能のように思えてしまいます。

実は、主題「世界68億人が幸せになる社会は実現できますでしょうか?」のイベントに参加したり、街頭アンケートを行った事がありました。

その時に、実現可能といった方の多くの意見には(或いは実現不可能だとの主張をする人も、もし実現可能になるならば・・・の条件として言っていたのが)、全員の価値観が大きく変わる事で実現が可能だと思うと言っておりました。

ここには何かしらのヒントを見出す事ができるかと思います。

もし宜しければ、なぜ、現実的には69億人ともなると無理なのかについてお聞かせ下さいませんでしょうか?

>なんだか、考えながら書いたらよくわからない文章になってしまいましたが、お答えになりましたでしょうか。

とても参考になっておりますし、応えになっております。僕は、Q&Aは繰り返す中で洗練されてくると思っておりますし、とても発展を臨めると思っているので、これからもとても楽しみにしております。

補足日時:2011/05/08 14:49
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/09/23 13:43

>定義しないと測定は出来ないですが、定義しても実現可能とは言い切れない・・・それは、測定だと言えるのでしょうか?


>何かこう・・・測定そのものが揺らいでしまっている印象を受けてしまうのですが。
>つまり、その測定の基準、判断基準は間違っているという事にはならないのでしょうか?

なるほど,でも定義をして測定可能にすることと実現可能にすることは別物のように思いますが.

>世界68億人が幸せになる社会は実現できますでしょうか?

元々の質問が上のような物なので,そのためには何を持って実現したかを測定が必要です.
そうでないと,質問が実現したとは言えなくなってしまうからです.
その一方で,そもそもそのようなことは実現可能かというのは測定とは別の次元に存在しています.
例えば,永久機関そのものは実現することは不可能です.
ですが永久機関であるかどうかの測定は可能です.
この関係と同じようなことかと思います.
例えば命題を出来るだけ多くの人が幸せになる社会と変更しても,同じように幸せに対する定義が必要になると思います.
もしそのように本気でお考えなら,一番の弱者と思われる方に対して何をして欲しいかを確認されると良いかと思います.ただ,その通りにして上げることが必ずしも弱者のためにならない場合もあるので,実際に行動を起こす場合は注意が必要と思います.(支援に依存するようになり,自立できなくなってしまった例は日本の農業に限らず発展途上国にも見られます.)

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>なるほど,でも定義をして測定可能にすることと実現可能にすることは別物のように思いますが.

別物ではありますが、同次元です。
そうでないならば、そもそも計る意味がございません。

確かにmasudayaさんが仰る様に測定可能にすることと実現可能にすることは別物でございましょう。それは例えるならば、地図上に目的地までのプロセスを計る事が出来たとしても、未だ体は目的地に到達していないという事に似ています。

頭の中で到達しているだけですね。ですが頭の中でも明確に到達している事はとても大きいです。たとえ間違った路地に入り込んだり、交通手段を間違えたとしましても地図がある事によって、もう一度修正し、目的地まで到達する事は可能でございますよね?

地図を手にした時点で、頭の中であっても到達可能である事がイメージできている事は大きかろうと思います。

その意味で尋ねました。
もう一度、お尋ねしたいです。

masudayaさんの仰る幸せのコンセンサスを得る事によって、主題「世界68億人が幸せになる社会は実現できますでしょうか?」は実現可能だと言えるものなのでしょうか?

>元々の質問が上のような物なので,そのためには何を持って実現したかを測定が必要です.そうでないと,質問が実現したとは言えなくなってしまうからです.

この点は、前回の投稿のお礼欄にも触れましたが、ほぼ同意です。

>その一方で,そもそもそのようなことは実現可能かというのは測定とは別の次元に存在しています.

本当にそうでしょうか?
必ずしもそうでしょうか?

例えば東京から大阪に行くという時、全体像が分からなければ何をどうすれば良いのか分かりません。ですが、地図という全体像があり、現在地と目的地を測定できれば、同時に大阪までのプロセスが浮かび上がります。

地図を用いて全体像が分かり、今という現在地から目的地までのプロセスが測定できます。実現する可能性は当然ありますでしょう。

これは、計る事と実現する事が同じ次元にあるから起きる事です。

ただ、同じ次元であっても、地図の通りに体を動かさなければ到達はしません。測定と到達は同次元であっても別物だからです。それは実現しなかった事にはなりますが、しかし、その時にも計る事が出来ておりますので再チャレンジする事が出来ます。

その再チャレンジによって到達可能なのではないでしょうか?

次元が違うという事は、運動の方向性が全く違う事を指しております。次元とは、そういう意味ですね。

ですので、計る事と実現する事が別の次元だという事は、測定基準を持ちえたとしましてもその事によって実現する事には何ら影響を及ぼさないという事になります(例えばですが、東京から大阪に行く時に、体重計という計りを用意した時の様なものかもしれません)。

その場合、一体、その測定基準は何の意味があったのだろうか?という事にはなりませんか?(大阪に行く時に、体重計によって測定する事の意味がありましょうか?)

それ故に、次の様にお尋ね致しました。

>>定義しないと測定は出来ないですが、定義しても実現可能とは言い切れない・・・それは、測定だと言えるのでしょうか?

付け加えますと、上記は「意味のある測定だと言えるのでしょうか?」という様なニュアンスを含みます。

追加の質問となり恐縮ですが、とても有意義なQ&Aであろうかと思っております。宜しくお願い致します。

補足日時:2011/05/08 14:23
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

永久機関が例に挙がっておりますが、この点は慎重な姿勢が必要であると考えております。個人的にはとても関心の高いテーマですし、本来は全人類に関わる大きなテーマでもあります故に、行き着くところまで掘り下げてみたいと思っておりますので宜しくお願い致します。

お礼日時:2011/05/19 14:06

補足に対する回答です。



<隣人愛の実施に想いが籠っている印象を受けました。
<また、隣人愛の実施がキリスト教的な洗脳だと仰っている様に受け止めています。
<もし違うのでしたら、修正してください。

仰るとおりです。拘っています。また、キリスト教はあくまでも『例示』です。キリスト教も完全ではありません。しかしながら
1:神様に感謝する
2:隣人愛を実施する
3:姦淫をしない
4:略奪をしない
5:嘘をつかない
などの点においてキリスト教の考えは個人的には良いと思っています。そこでキリスト教を出しただけです。私自身はキリスト教が完全とは思っていません。(気にした方がいたらすみません。)そこで仏教や国家神道やアニミズムやカムイなどの考え方もいい所どりをするのが最善と思っています。ただ、それらの諸宗教の中で一番私が重視したい考え方はキリスト教、ということです。私は神殿や宗教の為の建築物ではキリスト教系が好き、というのも理由のひとつではあります。

<ところでキリスト教的な洗脳によって人類69億人が幸せで生きられる社会が実現するのでしたら、
<その様にしたいと思いますが、他の回答者さまの応えに耳を傾けますと、
<幸せの定義がバラバラであるという点や、
<具体例として宗教によっては他の宗教を認めていないという点などが挙がっています。
<この点はいかがお考えですか?
 幸せの定義は会話による洗脳(洗脳という単語はこの場合、不適切ですね。教化あたりが適切と思えます)によって変わる人は大勢いるはずです。幸せとは何か。人間の幸せとは何かを深く考えずにその場の雰囲気に流されて幸せを定義している人は相当数いるはずです。そう考えるならば幸せ論をしっかりと話し合えば幸せの定義におけるバラバラ度はだいぶ減ると思いますが、如何ですか?
 宗教が他の宗教を認めていない。私自身の考えは宗教ではありません。たとえばクリスチャンならばクリスチャンとして考えを根本にすえつつより幸せに向かえば良いと考えます。イスラム教徒も同じです。相手の宗教を尊重し、その上で『宗教でない考えを教える』とすれば問題は特に起こらないはずです。宗教を信じる人に最初から他の宗教論を教えては誰でも嫌がります。そうではなく、もっと普遍的な教えにすれば良いのではないでしょうか。
 同時にそういう宗教を持った人に聞きます。他の宗教を認めない理由を。なぜ他の宗教を迫害するのか。悪を否定するのは悪ではないかと。本当の善ならば悪をも導けると。間違っているのならば否定し、破滅に追い込むのではなく、お互いに話し合って高めるべきではないかと。キリスト教では聖書に『敵を愛せ。』と書いてあります。よって真のクリスチャンならば「絶対的な根拠・理由無しに誰かを破滅へ導くのと自分と違う人間が改心するのを祈り、平和的に対話をする。神様はどちらを喜びますか?」と聞けば大体は相手の宗教に理解を示すのではないでしょうか。それが宗教同士の対立を和らげる方法かと思います。

<また、隣人愛の実施が真に行われるならば、
<それはキリスト教というものを持ち出さなくても良いものなのでしょうか?
<それともキリスト教的なものを持ち出さないと隣人愛の実施はそもそも不可能なものなんでしょうか?
 キリスト教はあくまでも『手段』に過ぎません。人間が幸せになり、世界が平和になるのならばキリスト教の教えや他の宗教の教えのいい所取りをしても神様は私達を罰しないのではないでしょうか? イエス様が律法をコテコテに守るファリサイ派を責めて隣人愛に生きる人々を助けたように。律法か平和。神様は間違いなく平和を喜ぶはずです。よってキリスト教はクリスチャンの方々には誠に失礼ですが『手段』と割り切っても良いのではないかと個人的には思っています。

何だかんだいって私はこの問答を非常に楽しんでいます。有難うございます。
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この回答へのお礼

> 幸せの定義は会話による洗脳・・・バラバラ度はだいぶ減ると思いますが、如何ですか?

これを69億人が行うという事でしょうか?

> 宗教が他の宗教を認めていない。私自身の考えは・・・イスラム教徒も同じです。

b-w-stepさん自身は、キリスト教信者であるという印象は、僕は受けませんでしたよ。また、b-w-stepさんが宗教を認めていない、などとも僕には思えませんでした。他の方がb-w-stepさんをどう思うかは分かりませんが。

ですが、歴史的な背景や文化的な特色を見てきますと、宗教同士の間ではとても溝が深い様に感じている人も多いです。それが宗教や信仰に対する嫌悪感に繋がるケースも多いですね。

主題「世界68億人が幸せになる社会は実現できますでしょうか?」をテーマにしたイベントによく参加した時、或いは主題について街頭アンケートを行った時、町の人は、或いは知人を含めた身近な人たちは、69億人が幸せに生きられる社会になっていない理由として、概して信仰心や宗教を挙げていました。

そんな中で、

>相手の宗教を尊重し、その上で『宗教でない考えを教える』とすれば問題は特に起こらない・・・もっと普遍的な教えにすれば良いのではないでしょうか。

ここについては同感である一方で、疑問も感じます。

> 同時にそういう宗教を持った人に聞きます。・・・宗教同士の対立を和らげる方法かと思います。

今まで、例えばこの2000年もの間にそうした動きや対立を和らげる試みはなされてきたのでしょうか?それともなされてこなかったのでしょうか?


人類69億人が幸せになる社会は実現可能なのでしょうか?

お礼日時:2011/05/08 13:17

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