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あまりこういう質問をみかけたことがないのでさせていただきたいのですが、子持ちの方、自分の子供を産むとき、産もうと決意したときって、どのような心持でしたか?

ぼくはどちらかといえば常々「人生つまんね」と思っている人間で、特に気分がへこんでいるときなんかは「別にうまれてこんでもよかったわー」みたいなことを思っちゃうわけですが、この「生まれてしまった」という事実って人生において「死」に並ぶ大事件のはずなのに、巷ではほとんど話題になりませんよね。でも「出生」がなければその人の人生は無である一方、「死」は発生したとしてもその人の痕跡というかなんやかやは残るわけで、その意味からすれば下手すりゃ「死」よりも大事件なんじゃないかと思うわけです。しかも「死」は選択できるが「出生」は選択できない。

この「出生」という人生における大事件を、究極的にはその人の人生に無関係である二人の人間(親)が本人の同意もなく決定づけてしまう、って考えてみたらちょっと恐ろしくないですか。「生まれてきてよかった」なんて言える幸福な人生をそのひとが送ったならそれは素晴らしいことですが、そんな保証はむろんどこにもないわけです。良心的な親なら子が幸福になれるよう最大限努力するでしょうし、本人だってそりゃ努力せねばならないわけですけど、それでも「環境」やら「才能」、「時代との相性」みたいなどーしょうもないものが人生にはどうしたってからんでくる。もしかしたら「死にたい」「生まれたくなかった」と強烈に苦しむ人生を送ることにもなるかもしれない。このことを、そのひとの親になった人間、要するにその人の人生をスタートさせる側の人間としてどのように捉えますか?

公園でひとんちの子供がキャッキャ遊ぶのを見て「そろそろぼくたちも……(ハート)」「うふふ。もう、アナタったら(ハート)」みたいなノリだったら結構ガッカリというか、ぼくが赤ん坊なら「生まれる側の身にもなってえな」と一言添えたくなるとおもうんですが。虐待なんてのはクズですね。ご意見をどうぞ。

A 回答 (18件中1~10件)

貴方のように考える人が多数派だったらこの問題は深刻ですが、現実はその反対だったようです。

その証拠は、今まで人類が出現して数百万年安定して存続出来ているからです。そうでなかったら、子供を再生産する数はどんどん減って行ってしまい、それこそ百万年ぐらい前に人類は疾っくに滅んでしまっている筈ですね。

んで、貴方は人類の中でなんでそのような例外的な世界観を持つようになってしまったんだろうかと言うことを考えてみるのも良いかもしれません。

生物とは生き残るために、個々の生物の性格は必ず平均値の周りに揺らいで存在しております。皆が同じ値を持ってしまっていると、予測不可能な環境の変化に生き残れないからです。だから、皆の考え方は平均値の周りに幅を持って存在しており、多数派がその平均値近傍にいますが、その分布の端っこの方にも、少数派がいます。明らかに貴方はその分布の端っこの尾っぽのところにいるようです。

そこで提案ですが、貴方のように平均値の値から大分離れたところにいる人が、人類の存続のために役に立つ場合の環境の変化ってどう言う変化なんだろうかと考えてみたらどうでしょうか。以外や以外、貴方の存在も人類の存続のために役割を演じる状況があるかもしれませんよ。それが、自然の妙と言うのです。もし、その状況が判ったら私にも教えて下さい。自然の妙の具体例を見てみたいからです。
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この回答へのお礼

「子をうむ」という行為が徹底して「うむ側」の都合みたいになってるのはおかしいだろう、と思うんですけど、この考えってそんなに異端なんですかね……!

>貴方は人類の中でなんでそのような例外的な世界観を持つようになってしまったんだろうか
本文にも書きましたが、たとえば何か嫌なことがあったときに「生まれたくなかった」と思うときがあるわけじゃないですか。こういうことを感じる人は少なからずいると思うんですよ。で、そういう気分の落ち込みから立ち直ったときに、その「生まれたくなかった」という負の感情を論理的に組み立てなおしたらこういう世界観があらわれました。
でも、言い訳というかそんなかんじになってしまいますが、べつに「生まれてくる人が不幸になっちゃったらかわいそうだからオレは子供つくらないっ」みたいなことを本気で主張しているわけではありませんよ。これは観念の遊びというか、こういう異端な考えを示すことで回答者様のいう「平均値の周りに揺らいで存在している」多数派の人間に対してちょっとした挑発をする、くらいの感覚でやってます。

>人類の存続のために役に立つ
なんかすごい壮大な話になってきましたね(笑) というか、「環境の変化」が起きなかったらぼくは淘汰されるんですか。やっぱり適合するしかないのか。回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/30 13:58

こんにちは。

私も以前は同じように考えたことがありました。

数年前ある事件に遭遇し、いろいろな本を読み、今年「前世療法」という本に出会いました。この本はアメリカの精神科医、ワイス博士が書いた本で、ある女性患者の幼少期の記憶を引き出そうとして退行催眠をかけた時に胎児だった時の記憶、前世の記憶まで引き出してしまい、その記録を1冊の本にまとめたものです。決してオカルト的な本ではありません。

信じる信じないは人によると思いますが、私の生き方を変えた本です。

それによると人はいつ生まれ、いつ死ぬか、何をテーマにどういう人生を生きるかということを全て自分で計画して生まれてくるというのです。前世(今生でも)で良い行いをすれば良い人生に、悪い行いをすれば悪い人生になる、仏教で言う輪廻転生を証明しています。

人は死ぬと苦しみや悲しみは一切なくなるそうです。その人生から学ぶものがなくなった時に人は死ぬのだそうです。

また、今の人生をただ経験するだけではなく、悩みや苦しみからどう立ち直り、どのように生きたかが重要であるというのです。一時的には悪いことと思うようなことでも、長い目で見れば良かったということもあります。

この本によると明るく元気に前向きに人を愛し、人を許し、いつも笑顔で優しい人だけが幸せになれるということなのですが、悪い人が幸せになれるとは思いませんので、そうなのかなと思います。

実は今年2月にこの本を読んだのですが、もう良いことがありました。偶然と言えばそれまでなのですが、偶然が何度も重なれば必然ですよね。
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この回答へのお礼

せっかく回答いただいたのにアレですが、

>それによると人はいつ生まれ、いつ死ぬか、何をテーマにどういう人生を生きるかということを全て自分で計画して生まれてくるというのです。前世(今生でも)で良い行いをすれば良い人生に、悪い行いをすれば悪い人生になる、仏教で言う輪廻転生を証明しています。

正直意味がわからないです。つまり今悪い人生を送っている人は、その悪い人生を自ら計画したということですか?
仮になんらかの意図があってそうしたとして、「計画を立てた私」と「今生きている私」というふたつの自意識が地続きになっていないなら、それはもう「他人」と呼んでいいのではないでしょうか?
「私」と名乗る「他人」に人生を操作されているなんておそろしい世界観、というかタチの悪い自己責任論にしか文章を読む限りでは感じられないです。「悪い人生」の責任の所在はどこにあるのでしょうか。


>明るく元気に前向きに人を愛し、人を許し、いつも笑顔で優しい人だけが幸せになれる

ぼくはこういう価値観こそ一度解体する必要があるんじゃないかと思うんですよ。みんなで「明るく」「前向きに」「笑顔」であろうとして作り出された空気に苦しめられてる人って、今たくさんいます。「明るい」も「前向き」も「笑顔」も単なる結果であって、目指すべきものとして設定すればどうしても軋轢が生まれるとおもうんですけどね。

まあその本を読んだわけではないので、誤解はあるかもしれません。回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/30 15:18

#2です。



すみません。

>この本によると明るく元気に前向きに人を愛し、人を許し、いつも笑顔で優しい
人だけが幸せになれるということなのですが

これは皮肉って言った言葉です。

全てを書くとはできないので、割愛して書きましたが、あなたにはまだ、難しいかもしれません。
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この回答へのお礼

皮肉……? まー読んでみないとはじまらないですね。理解・納得できるかは別として読んでみようとおもいます。ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/30 16:43

>子持ちの方、自分の子供を産むとき、産もうと決意したときって、どのような心持でしたか?



子供を産もうと決意する?
そんな不純な動機で子供ができたわけではありません。
配偶者と性交をしてメクルメク快感を味わって結果子供が生まれました。
ただそれだけです。
人間以外の動物もみな同じだと思います。

産まれてくる子供の同意もなく産むなんて不条理だ?

そんなことありません。
産まれてくる子供の意見を聞くことは不可能です。
産まれてくる子供の意見を聞くなんて、それこそ不条理です。

人生つまらない、産まれてこなかった方がよかった、人のせいでこんな苦しく不愉快な人生を送らなきゃならない。

・・・こんな風に思う人は結構多いと思います。とくに世の中豊かになって来るとこういう人が増えてくるようです。
貧しい国の人や、飢餓に苦しんでいる人は「人生つまらない、産まれてこなかった方がよかった」なんて考えません。
生まれてきたことを他人のせいにせず(そんな余裕なし)、自力で食を求め懸命に生きています。
食べ物が得られれば、それは大きな喜びです。
その喜びを求めて毎日行動しています。動物もみな同じです。

恵まれて生まれてきて、食べるのに楽しみや喜びが無くなった人は、自力で何か楽しみになるものを探すのです。
自分の心を満たせるものを自力で探すのです。
死にたいと思っても簡単に死ねません。

◎生まれてくることも死ぬことも自分の自由にはなりません。これが何億年と続いている生き物社会の理です。
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この回答へのお礼

>配偶者と性交をしてメクルメク快感を味わって結果子供が生まれました。ただそれだけです。

「おい、今夜あたり……」「うふふ。もう、あなたったら」
こんなかんじですか。生まれてくる子の意思なんて聞けないのは当然だし、こんなノリでもまあ別にいいんですけど、せめてこれまでの総合判断から「人生は生きるに足る」と確信してから人の生をスタートさせてほしいですよねえ。出来たから産むわ、じゃちょっとさびしいですよ。まあ幸せ絶頂の二人の結論はめにみえてますけどね。

>生まれてくることも死ぬことも自分の自由にはなりません。これが何億年と続いている生き物社会の理です
じゃあ、「自分」はどこにあるのか。ベタな問いですけども。

お礼日時:2011/04/30 18:09

産む側のエゴですよ。



感謝するかしないか
受容するかしないかは生んでもらった側の自由です。
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この回答へのお礼

産むのは親の自由、それに感謝するかは子の自由。シンプルでよいですねえ。親は子の人生の幸・不幸にどの程度責任というか義務を負うんでしょうかね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/30 17:59

貴方のように考えている人は、意外と多いと


思います。
中島義道て哲学者を思い出しました。

知り合いの中国人は、いつも親に向かって
「中国人のくせにどうして子供を造ったんだ。
 日本人に産まれたかった」
と責めています。

某米国映画の台詞にもありました。
「こんな世の中に子供を送り出したくないから
 子どもは造らない」

私なんかは楽天的だから、産まれて良かった、と
思っています。

子どもを造るのは親の都合ですね。
限りある生命しか持たない生物が、少しでも
永遠に近づこうとする本能の営みでしょう。

人生が面白くない、と思う人は何で産んだ、と、なり
面白い人は産んでくれてありがと、になるのでしょう。

”この「出生」という人生における大事件を、
究極的にはその人の人生に無関係である二人の人間
(親)が本人の同意もなく決定づけてしまう、
って考えてみたらちょっと恐ろしくないですか”
 ↑
怖ろしいと考えるのは、実存的な人生観に汚染されて
いるからでしょう。
天から与えられた、と考えれば、どんなに苦しくとも
歯をくいしばって人生をやって行こう、ということに
なるんでないですかね。
総て、己の意思が関与していないと我慢できない、てのは
ある意味、人間の傲慢さの表出という感じがします。
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この回答へのお礼

中島義道、知ってますよ。書いてあることに共感できちゃって逆に面白くない、というか単なる「確認作業」みたいになっちゃうところがあるのでいつもパラっと読むだけですし、ぼくは彼ほど激しく世間を嫌っていないですが。

>総て、己の意思が関与していないと我慢できない、てのはある意味、人間の傲慢さの表出という感じがします。

だって人生のスタートくらい己の意思で関与したいじゃないですか。というか、まあ、今気付きましたけど自殺しない限り「死」も別に自分の意思で選べないんですね。じゃあ自力で死んでやる!とはぜんぜんなりませんけどね。こわいし。回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/30 17:54

 生物は子孫を残すために異性に対しての“欲”、と言うものが備わっていますが、行動としては子孫を残すためにという自覚の上ではないと思います。



 異性に対しての“欲”が生物に与えられているが故の行動で、その結果として子孫が受け継がれていく、と受け止めるのが良いのではないでしょうか。

 人間は、その行為の結果、子供が生まれると知っているので、産もうか産むまいかと選択できますが、ごく普通には子供を産むために欲を満たすわけではないでしょう。

 ただ、人間には理性があって、ややもすれば質問者さんのような心境になってしまうのが、この世の人生というものなので、理屈など考えている余裕など無いほどの強い“欲”を生物としての人間が、備えた、あるいは天が強い欲を与えた、と受け止めてはどうでしょうか。

 また、「私」が生まれたのではなく、生まれた生命に「私」が誕生する、と受け止めてみてはどうでしょう。このあたりは思案のし甲斐が在りますね。
 私はこのことで結構、彷徨ってます。答えを求めて・・・・・。
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この回答へのお礼

>理屈など考えている余裕など無いほどの強い“欲”を生物としての人間が、備えた、あるいは天が強い欲を与えた

理屈や論理を凌駕して存在する欲、性欲。おもしろいですねえ。「人類とか別に存続しなくてよくね」とか言いながらエロ動画みてコーフンしてますからね、ぼくも。

>「私」が生まれたのではなく、生まれた生命に「私」が誕生する
生まれたときはまだ「何者」でもない、ということですか。でもまっさらな白紙なわけないですよねえ、、、

回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/30 17:11

 まっさらな白紙、のように受け止めようと思います。



 物質としての生命に宿る精神、宇宙的規模で想像すると、空間に現れる物体は個体といえる。その個体である地球に誕生した生命。

 これも一つ一つを個体といえば、その個体に宿る精神も“個”。こう考えるのは宇宙そのものを精神と考えるから。

 大きな御餅からちぎって一口サイズの御餅を作る。
 “個”とはそんな感じ。

 宇宙も“個”も内容は同質。
 
 その“個”である人間は高性能の脳を持ったが故に自身を“意識出来る”。
 意識して初めて「私」が発生する。
 意識を持たない生物に「私」は無い、と思える。

 こんなことを想うと、「私」は生まれる前に私がいるのではなく、命として肉体と共に発生した精神が「私」を意識する。

 と、思う事になってしまうのです。

 だから、どうして私が、ではなく、これが私なのだ、となってしまうのです。

 
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この回答へのお礼

あ。すんませんもうそのレベルまでいかれると全然わからないです。
まあ「私」が「自意識」にすぎないのはわかるんですけど、それが「生まれたときは白紙である」ということにつながりますか? だって、生まれたとき、もう「肉体」はあって、その「肉体」はそれぞれ違う形をしているわけですよね。
ということは明確に可視化されないだけで身体能力やら知能やらだって既に個々に異なるんじゃないですか。いわゆる「才能」ってやつです。「才能」のみが「私=自意識」を形成するわけじゃないでしょうけど、大きく作用はするでしょう。白紙であると言い切るのは無茶なんじゃあ、ないでしょうか。なんかそもそも前提がちがうのかな。

お礼日時:2011/04/30 18:38

子供の産声は世の苦しみに対して叫ぶ最初の叫び



子煩悩とは、子供に執着する煩悩の事。
子供が可愛いのは、一種の自己愛。自分の子供だから可愛いという構図。
よって煩悩による自己執着に端を発している。
仏教では、一切皆苦と定義し、苦しみに対する心構えを説く。

sogoromo5さんには仏教はお勧めの学問と思われます。
仏教は子育てをするな、とは言っていないそうですが、
仏教徒には子煩悩を避けるため、子供を持ちたくないと考える人もいるそうです。


上記の内容とは関連性はないのですが、
子育てとは、子育てを望む親が
「子供を育てるのではなく、子供をお育てさせていただくものだ」と母親がよく言っていました。
母にしてみれば、それくらい自分の思う通りにはならなかったという感覚でしょう。
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この回答へのお礼

>「子供を育てるのではなく、子供をお育てさせていただくものだ」と母親がよく言っていました。

すごいですねえ……そんな言葉、初めて聞きました。子を「育てる」ということの限界、みたいなところからそういう言葉が出てきたのでしょうか。

まあ、、ぼくみたいな奴が親にそんなことを言われたら「おら、ちゃんと育てろ」みたいな、まあそんなこと言いませんけど、そういう態度をとりかねないです。「育ててやる」と「育てさせていただく」との中間にちょうどいい言葉があるといいのでけども。

お礼日時:2011/05/01 00:31

>常々「人生つまんね」と思っている


>特に気分がへこんでいるときなんかは「別にうまれてこんでもよかったわ

思う時はありますね。
そんな時、もっと治安が悪い国の人や理不尽な国家の中で精神的な溺死を免れきれない立場の人を思うと、もしそんな中に居たら生きていける自信がありません。

>「生まれてしまった」という事実って人生において「死」に並ぶ

辛さですよね。

>「出生」がなければその人の人生は無であ

りますね。もしかしたら生きていた無の人がたくさんいることでしょう。

>「死」は選択できるが「出生」は選択できない。

それが嫌ですよね。出生とその後を知っていたら生まれるのを辞める事を選択したと思います。

>究極的にはその人の人生に無関係である二人の
>親)が本人の同意もなく決定づけてしまう

ということになるから、無責任な努力しない動物に近い価値しか見出せない頭の悪い親の元生まれた者は初めから相当なハンデを負います。

>恐ろしくないですか。

恐ろしいです。

>「生まれてきてよかった」なんて言える
>ひと

なんか欺瞞に満ちた台詞にしか見えませんね。

>良心的な親なら子が幸福になれるよう最大限努力するでしょう

ね。手本も示すでしょう。

>本人だってそりゃ努力せねばならないわけですけど、それでも「環境」やら「才能」、「時代との相性」みたいなどーしょうもないものが人生にはどうしたってからんで

きますね。

>「死にたい」「生まれたくなかった」と強烈に苦しむ人生を送ることにもなるかもしれ

ませんね。

>そのひとの親になった人間、要するにその人の人生をスタートさせる側の人間としてどのように捉えますか?

低多楽は、三大欲しか感じず決行しそれを証明するでしょう。猿に近い動機と証拠にその後の無責任さ。こういう親の元生まれた子供はそういう存在でしかない身の存在に精神的に悩みます。親のあほで生まれて今居る存在。

>公園でひとんちの子供がキャッキャ遊ぶのを見て「そろそろぼくたちも……(ハート)」「うふふ。もう、アナタったら(ハート)」みたいなノリだったら結構ガッカリというか

その通りですね。切実な選択を微塵も感じずに決行しようとする。後の人の事など考えずに。身勝手で、自分さえよければ良くて、無関心の無責任でね。どうしようもなく抜けている。
だから生まれてきちゃう。あ~あ。

>ぼくが赤ん坊なら「生まれる側の身にもなってえな」と一言添えたくなるとおも

いますよね。同感です。

>虐待なんてのはクズで

す。上の低多楽に甘んじない徹底ぶり。しかしそれも負方向。
子供が泣くを通り越して啼く。
また。あ~あ。と不条理の中固まらざるを得なくなる心。とため息。
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この回答へのお礼

ちょ、、質問した側の人間がいうのもへんですけど、だいじょうぶですか。だいじょうぶじゃないですね。ぼくの親はまあそこまでひどくもなかったですけど、なにはともあれ人生って不確定要素の部分がつよすぎるんですよ。どーしたらいんすかね。どーしようもないっすね。中島義道でも読んで溜飲を下げることをお勧めします。回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/04/30 21:40

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