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みなさんは、音楽、映画、や視的技術を通しての自分のアイデンティティの確立の仕方ってありますか?
私は言語の壁を超えるこでで、幅広い範囲での人々のアイデンティティの確立の手伝いを将来したいなと思っているのですが、その「手伝う」という具体的なイメージが思い浮かびません。


今文章に書きだして見ているのですが・・・

「メディアを通して構築された現代文化により、昔より人々の自己の確立が難しくなっていて、どちらかというと、他者との同化を好む人が多くなっています・・・メディアと人々を結ぶ仲介者として、日本、世界に貢献していきたい。


という文章で締めたいのですが、上手く文章がまとまりません・・・

何か良いアドバイスはありませんか?

回答の方宜しくお願いいたします。

A 回答 (2件)

なかなか面白そうだと思ったのですが、イマイチ意味がわからないところがあります。

この疑問点に答えられれば、文章を書くのに役立つかもしれません。以下補足要求です。

(1)「言語の壁を超える」の具体例としてどういったものが挙げられますか?

(2)なぜ、メディアを通して構築された現代文化により、人々の自己の確立が難しくなったと考えているのですか?
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なかなか、面白い点を突いていると思いますので、要点を書いてみます。



『言語の壁を超える』と云う事は、その一点だけでもアイデンティティの確立と結びついている事をここに示しておきたいと思います。

『アイデンティティの確立』と言う意味は『自己の中に本当の自己を見出す』と言う意味ですが、その本当に意味する事は『自身の中の、霊的な自己を見つけ出す』と言う意味でもあります。

この事を昔から突き詰めて、その指導方法を確立した分野が日本には存在しています。その源はインドの釈迦の確立したものですが、中国に伝えられて、中国で発展したものです。ですが今の中国にはもう、既に衰退していると鈴木大拙博士は60年も前の書物に書き記しています。

それが『禅』と言うものですが、禅の主張する事が『言語の壁を超える』と云う事と重なっていると感じます。禅の主張する事は、言葉を持っている自分の脳と、『言葉を持っていない自分の脳』をはっきりと出会わせる事を眼目としているからです。その二つの意識の出会いが『悟り』ですが、そのためのテキストが『禅問答』となっています。

この事をもう少し説明してみたいと思います。

『アイデンティティの確立』が未だ出来ていない状態を『失楽園』と聖書では表現しています。今までは天国に住んでいた人間が『大人の脳に成長する事によって』天国から追放されたと言う意味です。この意味するところが『知恵が付いて、、、、、』と云う事になります。


この『知恵が付いて、、、、、』と云う事が「メディアを通して構築された現代文化により、、、」と云う事とも重なっています。

現代文化が『心を病む事や、神経症や、自律神経失調症』を生んでいる背景になっている事と重なっていると言う意味ですが、この三つの現代病の背景に存在しているものが、『アイデンティティの確立』が未だ出来ていないと言う意味となっています。

この三つの現代病に共通する事があります。それは『自分の心の矛盾』が症状として現れている点です。医師の元に行って精密検査をした場合『何処にも異常がない点』です。何処にも異常がないにも拘らず『執拗に異常を訴えている点』が共通点ですが、この意味するところは『自分が、何処にも異常がないのに、自分の頭の中で、症状を作っている事です』

眼の前には無い事実を、分かっていながら『頭の中にもう一つ作った事実を、恰もあると認識している事』です。この場合その人の頭の中では『事実が二つ存在する事になります。』この二つの事実を認識する事を『心の矛盾』と言っています。

この心の矛盾の解消が『アイデンティティの確立』と云う事になります。頭では分かっていながら、心の奥底では疑いを抱いていると言う意味です。

この事がどうして起こってしまうのかを書いてみます。その訳は脳の構造によっています。その事を載せてある記事を、ウイキペデアから載せてみます。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。”

この場合の右脳の意識が『心の奥底からの、得体の知れない漠然とした不安の正体』と云う事になります。

道元禅師が『仏性は誰も持っているのに、どうして修行しないと判らないのか?』と疑問を抱いて仏門に入った、きっかけです。

釈迦が『一切衆生悉有仏性』と言った事に対する疑問です。この疑問は誰の心にも湧いています。この疑問とは『自分に対する疑問です』この疑問から『人間(自分は)は何処から来たのか?或は自分は誰なのか?、或は自分は何のために生きているのか?』と言った疑問が湧きあがってきます。

この疑問が湧き上がる背景が『言葉の壁』或は『有限を越えられないじれったさ』或は『願いがありながら、願いが叶えられない』全ての壁として人間に立ちはだかっています。

この壁を越える事を『禅』は主張しています。この意味は『言葉の壁を越える事』で『有限の壁』を越えられるという意味になります。そのテキストが『禅問答』と云う事になります。

『メディアを通して構築された現代文化により、、、、』と言う意味は『今の人間は余りにも言葉に頼り過ぎている』という警鐘となっています。人間が余りにも言葉による思考方法に頼っている事が『三つの現代病』を生み出す背景になっているという意味です。

再び脳の機能解説になります。左脳の意識は顕在意識です。『我思うゆえに我在り』とする『我』です。この我とは生まれてからの記憶です、言葉を媒介とする考え方です。この言葉と言うものが、分化の発展を促して来ましたが、弊害も同時に生んでいると言う意味です。

この弊害が『三つの現代病』と云う事になります。この意味は『余りにも発達した頭(左脳)が現実には無い事までも頭の中に作っている』と言う意味です。言葉自体が割り切れるもので構成されています。従って言葉のみで考える事が『自ずから限界を作っている』という意味です。

その理由は、割切れる、或は分析できる事のみの世界では、やはり有限の壁は越える事が出来ないと言う意味です。割切れる事を有限と称している事実からも伺うことが出来ます。言葉の壁を越える事が有限の壁を越えることを意味するからです。

右脳の意識の説明です。右脳の意識は仏教では『仏性』キリスト教では『神』に当たります。この意識は脳梁を切断した場合、自覚出来ようが出来まいが、誰の心にも存在しているものです。

この意識が自覚でき難い理由を書いてみます。

この意識は『無意識の意識』として働いているからです。自我意識が無くなった時『無意識に入っています』無意識に入った事は自覚できないようになっているからです。

この意識の機能を説明します。この意識は『命そのものを働かせている意識』です。命として芽生えた時から働き始めています。細胞分裂から始まって、泣く事も笑う事も知っている意識です。学校に行かなくとも安心する事も不安になる事も知っています。

各種生物がその固体として、或はその種としてその『個』としての働きを働く『働き』です。暑い時には汗を出す仕組みです。腹が減った事を『我』に知らせる仕組みです。高い所の情報を発信する仕組みです。人に会った時にはその人が如何いう人かを『我』に知らせる仕組みです。

カラオケをした事がない人にさえ、どの人が上手く歌ったかを『我』に教えています。悲しい場面では悲しい事を『我』に知らせています。すばらしい場面では『観衆が総立ちになって拍手させる』働きです。

生まれた訳では無い事から、滅する事がない働きです。永遠の存在として働いている働きです。まるで宗教そのもので出来ている働きです。

この意識は『我』と交替制を取っています。言い換えるなら『意識=我』と『無意識の意識』は交替制で働いています。この二つの意識は『意識の根底では相談しながら』どちらの出番かを決めています。

意識の根底で『意識か、無意識かが混沌として』芽生える前の段階で、『共存している場合があります』この時『二つの意識が出会う場合があります』それが『悟り』です。

禅ではこの体験を『生死の問題が解決する』といっています、キリスト教では『神と和解する』といいます。心的な内容はどちらも同じです。

脳の機能的な書き方をするなら、右脳の意識と左脳の意識の間に『ホットラインが通じた事』を意味します。是以後『心の矛盾が解消された事』を意味します。もう二度と出番を間違えなくなるという意味です。『心の中は、子供と同じになって、二度と心同士が争わなくなる』と言う意味です。『心は静寂を取り戻した事』を意味します。

仏教的な言い方をするなら『涅槃』キリスト教的な言い方をするなら『神の僕となる』と言う意味です。その意味するところは『全てを肯定的に受止めて生きる』と云う事になります。

例え自分の死でさえも、肯定的に受止める事が出来る生き方になるという意味です。この段階で『全ての不安が解消された』事になります。

三つの障害の根底に存在するものは『生に対する不安』です。その事を釈迦の場合『一切皆苦』と云う言葉としています。

『アイデンティティの確立』とは自分自身を知るという意味です。それが究極の癒しの心理学です。それが『悟り』と云う事になります。
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