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日本書紀を指導した藤原不比等と その指導のもとで書き上げた道慈とういう坊さんが、自bンたちの都合のよい内容に書き上げた日本書紀。及び 藤原家の書物・懐風藻から 引用されて作り上げた聖徳太子像であって、実在しなかった人物像と言われ始めている。 誕生の経緯がキリスト園も出、生まれて2年目に 大人の言葉を発したとか、一度に多く人の要求を聞いて、皆答えたとか、あり得ない話ばかり。 これに関しての参考意見や 参考書物を教えてください。

A 回答 (7件)

 聖徳太子と呼ばれる人物に関しては殆どの伝承が作られたのが鎌倉時代以後とされています。


この人物に関する啓蒙書なら武田佐知子氏の『信仰の王権 聖徳太子』新川登亀男氏の『聖徳太子の歴史学』があります。
 専門書ならば飯田瑞穂氏の論稿が『飯田瑞穂著作集』に収められています。
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この回答へのお礼

これに関する数冊の本を呼んでいますが、今一つピンとこない点があり、教えていただいた書籍名のものを、熟読してみようと思います。 時の権力者が、自分の都合のよい様に書くのが古代の書物なので、いろんな観点からの見解書絵を読むのが面白く感じます。  戦前の教科書は、天皇家は 一系万世と言われいたが、現在は 応神天皇や継体天皇 更には 桓武天皇の時に、別の集団による略奪だと言われているし、 小姓を両端に連れて冠をつけ 酌を持った男子を、聖徳太子像と教育してきたが、あれは 唐の時代の服装で、そもそも聖徳太子が存命されたと言われる隋の国も服装だと、現在は言われ、間違った解釈を過去してきた。所有する宮内庁も修正しようとしていません。時代の権力者の都合により、捏造れるものだと 痛感。 紹介本を 読んでみます。

お礼日時:2012/06/15 05:32

昨今では、聖徳太子は厩戸皇子がモデルになったんだろうってのが通説になりつつありますね。


厩戸皇子が生きてた時代は、ちょうど日本に国家意識が目覚め始めて、中国と対等の立場になろうとしてた時期と一致するようです。
そのため、記録の捏造や改ざんなどがあり、また後世につくられた写本しかなかったりと、なかなか事実認定するのは難しいじだいですね。


一応、両方の説の代表選手的な歴史家を紹介しておきます。

・大山 誠一
聖徳太子の「虚構説派」代表。彼の論文がマスコミに取り上げられたことで、一気に火がついたとも言われています。
彼以前にも、「虚構説」はありましたが、今ほど盛り上がってはいませんでしたね。著作は『聖徳太子と日本人』(風媒社)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1% …

・遠山美都男
大山氏の説に異を唱える歴史学者の一人です。
著作は『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』(角川書店)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E5%B1%B1% …

参考
実証研究の先駆けとして、久米邦武の『上宮太子実録』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780770
>生まれて2年目に 大人の言葉を発したとか、一度に多く人の要求を聞いて、皆答えたとか、あり得ない話ばかり。

この手の話って、別に珍しくないですね。
本家本元の仏さんであるゴータマ・シッダールタなんて産まれた途端、七歩歩いて右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」なんて難しい言葉を言ったといわれてます。
ナザレのイエスも処女マリアから生まれたなんて、自然の法則を全く無視した誕生のしかたしてますしね。
日本でも安倍晴明の祟りとか坂上田村麻呂の伝説があっちこっちに散らばって伝えられているとか・・・
まぁ、そんなもんです「歴史」って
所詮、歴史は人間が勝手に創りだした「物語(Story)」です。

ではでは、参考になれば幸いです。
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この問題を専門で扱った書籍ではありませんが、


熊谷公男『大王から天皇へ』(講談社学術文庫、2008年)をお勧めします。
結論をいえばm『日本書紀』編纂時点ですでに信仰の対象となっていたことから、実像に迫ることは容易でないとしています。
そんなに紙面を費やしていませんが、重要な問題点が端的に考察されています。
ちなみに馬屋と十人の話については、厩戸・豊聡耳の名前の由来をを説明するために創作されたものとしています。

それを踏まえて違和感を覚えるのは、創作とされる「聖徳太子」の定義が浸透していないことです。
実在しなかった「聖徳太子」ってそもそも何?どこまで?と。
個別の伝承、逸話がどこからどこまで信憑性のあるものかきちんと整理されずに、「聖徳太子」は実在しなかった、というフレーズばかりが先行しているように感じます。
いずれにしても実在の厩戸皇子とその信仰化した聖徳太子との厳密な区別は上記の書籍が考察するように、きわめて難しい問題だと思います。
同時に実在か不在かという議論はあまり意味がない気もします。用明天皇の子の厩戸皇子が仏教振興に寄与して信仰対象となり時代が下るにつれて拡大していった事実は不変でしょうから。
どうして信仰の対象になり広がっていったのかは意味ある課題だと思いますが。
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<聖徳太子いなかった説>


大山誠一 「<聖徳太子>の誕生」「聖徳太子の真実」(編著)「日本書紀の謎と聖徳太子」(編著)

<聖徳太子いなかった説への批判>
森田悌「推古朝と聖徳太子」
石井公成氏のブログ「聖徳太子研究の最前線」http://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog
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この回答へのお礼

情報 有難うございます。

お礼日時:2012/06/14 17:55

証拠が少ないですから どんなめちゃくちゃでも言えます



そして、それに反論されたり反証を示されても 無視し 与太話を繰返す

厚顔無恥な精神の持ち主なら怖いもの無しです
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この回答へのお礼

参考になりませんが、ご意見有難う

お礼日時:2012/06/14 17:56

いましたよ\(^^;)...



・生まれて2年目に 大人の言葉を発したとか、一度に多く人の要求を聞いて、皆答えたとか

いくらでもあるじゃん、そんな話\(^^;)...マァマァ

zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz
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聖徳太子=厩戸皇子


太子とともに辣腕をふるった蘇我馬子の功績を滅ぼされた蘇我の功績とするのは都合が悪いと
後年に厩戸皇子の功績として残そうとしたのが 聖徳太子

実際に官位十二階 十七条憲法 遣隋使派遣は実際は蘇我馬子の功績だった
太子は推古帝の摂政だったが 推古の治世三六年間実権はほぼ馬子が握っていた


さらに厩戸皇子は推古の後継帝だったが早世 一説には馬子の暗殺だつたとする説も
太子の妻は蘇我ではなく膳氏の出であったため太子が帝になると権勢をふるえなくなると考えた
さらに太子と馬子の死後 時期天皇であった太子の子 山背大兄王も 蝦夷 入鹿親子に暗殺されている

山背大兄は蘇我一族の子ではないため 天皇に即位されては困る事情が曽我にはあった
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この回答へのお礼

有難うございます。 何かお勧めの本は、ありませんか?

お礼日時:2012/06/14 17:58

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