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 イエスが なぜキリストか。
 次に掲げる聖句に集中します。
 その中で特には

 ○ 人の内から生きた水が湧き出る

 に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。

 ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~

 37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。

    「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
 38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の
    内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
 ~~~~~~~~~~~~

 * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~

 ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。

 ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~

 わたしは乾いている地に水を注ぎ
 乾いた土地に流れを与える。
 あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
 あなたの末にわたしの祝福を与える。

 ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~

 主は常にあなたを導き
 焼けつく地であなたの渇きをいやし
 骨に力を与えてくださる。
 あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~




 (α) イエスが なぜキリストか。

 すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。

 闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。

 このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。

 教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。



 (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。


 それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。

 この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。


 おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。





 どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?
 問い求めます。ご教授ください。

A 回答 (73件中11~20件)

ご無沙汰しておりました。



☆☆☆
>○ 人の内から生きた水が湧き出る

☆「水」ですか。bragelonneさんなら、「水」ではなく、過激に「火」という言葉が出てくるのではないか、と思っていたので、
いささか拍子抜けしております(笑い)。
イエスは”恵み”をもたらす人ですので、少なくともここでは、「火」はまずいですかね。
にしても、「イエスはまだ栄光を受けておられなかった」というヨハネの記述が僕には気になります。
この〈栄光〉とは何を意味するのでしょうか。
このことばは、神としてのイエスの正当性に関わる重要なキーワードだと思うのですけれど、
bragelonneさんのお考えは?

十字架で磔になったことで、人間イエスは神として完成する、なんて意味ではないですよね。
それではつまらない。イエスの人間としての一面が欠落してしまう。


☆マルコ伝8:27以降に、
イエスの正体について、ペテロとのやりとりがありますよね。
そこで、イエスは『なんじはキリストなり』と答えたペテロを
『サタンよ、わが後ろへ退け。汝は神のことを思はず、かえって人のことを思ふ』
と叱りつけています。
この個所は読みようによっては、イエスは自らがキリストであることを否定している、とも解釈できます。
少なくとも、マルコ伝はこの立場をとっているように僕には思えるのですけれど。

また、

▲かれ(洗礼者ヨハネ)のべて言ふ
『我よりも力ある者、我が後(のち)に来る。我はかがみて、その鞋(くつ)の紐をとくにもたらず、我は水にて汝らにバプテスマを施せり。されど彼は聖霊にてバプテスマを施さん』
(マルコ伝1:7ー8)

 洗礼者ヨハネのこの言葉の後に、イエスが登場するので、
 〈聖霊でバプテスマを施す者〉はイエスだと、ふつうは解釈されていますが、
 これは〈イエス〉ではなく、〈父なる神〉と解釈すべきだという考え方もある。
 この考え方に従えば、イエスはあくまで人間。人間イエスが、なぜか分からないけれど、神に選ばれて、聖霊を与えられた。そして、イエスは神の言葉を人間に伝えたとなる。

神とイエス、さらに聖霊まで関係してきて、難しいですねぇ~。
三位一体説、これはなんか苦しい理論体系のように思えてならないのですよ、僕には。
僕は、イエスを神にまつりあげなくても、イエスは人間でも十分、キリスト教は成立すると思うのですけれども。
イエスの正体が何であるか、この問題は、それほど重要ではないのではないか、などと
例によって、罰当たりなことを考えております。

そもそも、〈キリスト〉という言葉が何を意味しているのか、これ自体が極めて曖昧ですから。
そもそもは、単なる人間世界の、地上権力としての王の意味かもしれませんし…
後世の人間が、キリスト教の教義確立の過程で、本来、聖書にはなかった新たな意味が、この〈キリスト〉という言葉に与えられた可能性も否定できませんし…

〈キリスト〉という夾雑物、いらないんじゃないでしょうかねぇ~。
イエスで十分だと、個人的には考えるのですが。

☆☆☆
この夏、すこし、仏教の仏身論(報身)を勉強したのですが、
報身(ほうじん)の他受用身というのは、
十地の菩薩でないと、その姿を見たり、その言葉を聞いたりはできないのだそうです。
つまり、阿弥陀仏の姿を目にすることのできる菩薩は、十地の最低レベルである〈初地〉以上ということです。報身は、菩薩のための仏さまということになります。
なので、阿弥陀浄土に往生できる人は、この娑婆世界において、ある程度、菩薩行を完成させた人ということになります。
しかも、阿弥陀浄土に往生後の、菩薩の修行の階梯・レベルによって、報身の他受用身の姿・形・大きさが異なって見えるのだそうです。
もちろん阿弥陀仏に姿・形がいくつもあるはずがないので、菩薩の機根・能力によって、その見え方が異なってくるのだそうです。

実は、阿弥陀仏の住む極楽世界というのは、とんでもない高みにある世界で、この世界に住む人間がおいそれと行ける世界ではないみたいですね。
〈聖なる甘え〉は、果たして、極楽往生に通用するのだろうか?
しないような気が....
親鸞の結論もそこに達していたのではないかと....

なので、誰でもその姿を目にし、その言葉を聞くことのできる応身(おうじん)が必要になるって仕組みになる。
もっとも、歴史的にいえば、応身であるゴータマ・ブッダが先で、報身は大乗仏教になってから成立した仏身なので、順序は逆になりますが…

十地のリンク先
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%9C%B0


☆☆☆
例によって、脱線しました。

○それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。
 この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。


〈キのじを言わない〉云々は賛成なのですが、
〈主観の問題〉は、どうでしょう。
〈主観〉と〈客観〉に分かれている間は、まだ《非思考の庭》に達していないような気がするのですが。
まだまだ、認識の対立構造が残っており、《思考の庭》の範疇内のような気がするのですが....
ここは、〈直観の問題〉の方が適切な気がするのですが、いかがでしょうか。

この回答への補足

 《三位一体》についてです。

 まづ図示です。
 聖書から次の文句を取り出しその表示するところが ひとは三位一体なるカミの似像(にすがた)であるという。その見方をさらに内容として分析したものです。

 ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

 ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~~~~~~~
   ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 

 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)
 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)
 ____________________________
  スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )
 ____________________________
 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
 [S者/S圏]
 個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
 [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
  〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ つぎに いくらかの説明です。

 《三位一体》とは?

 1. 神は 三つの位格(ペルソナ)が 《絶対》として 一体となった一つの本質(存在)である。

 2. 人は 一人ひとりの存在に 三つの行為能力が――相対的に・つまりは時間的な過程として―― 一体となった自然本性を持つ。

 3. 三つの行為能力の――時間的な懸隔をともなった―― 一体性が すでに次元を別にしていて はなはだ不類似ながら いくらかは 神の三位一体に似ている。これが 《ひとは 神のかたちに似せて 造られた》の意味です。

 4. 神の三位一体の説明には 光の喩えが 用いられる。
 ・光源が 父なるペルソナの神。
 ・光源からの発耀が あたかも父から生まれた子なるペルソナの神。
 ・光源および発耀から発出する明るさ・暖かさが 父および子から発出する第三のペルソナである聖霊なる神。

 5. 光源も発耀も明・暖も 光として 一体であるように 神の位格も 子の父と 父の子と 父および子から発出する聖霊と 三者は 一体である。

 6. その一体性というのは 《絶対》としてであるゆえ 父なる神も 子なる神も 聖霊なる神も 各個が 各個と 各個は全体と 全体は各個と それぞれ 等しいというものである。

 7. 無限は――絶対であるが―― それを仮りに分割すれば じつは 分割しても その各部分は やはり 無限である。こういう想定である。

 8. 人は 経験的な知識や知恵を 記憶します。心の体験や あるいは 魂の発動をも 記憶します。また 記憶する前から 精神の秩序が この記憶という行為能力には あると考えられる。

 9. 記憶という宝庫から 人は もろもろのことを 知解します。あたかも記憶から生まれるかのように。

 10. 人の自然本性として備わる行為能力には さらに 三つ目がある。すでに 記憶するに際して あるいは そこからの知解を得るときに 何の問題についてか また その問題のために どういうことを知りたいか そういった主題や方法の意識をもって はたらく行為能力。これは 意志と呼ばれる。



 11. ここで 早道をすれば 単純な類似関係として 《記憶》が 父なる神に 《知解》が子なる神に 《意志》が聖霊なる神に それぞれ 比べられるという。

 12.意志は 意志行為として 社会にあって 相手がいる。相手との関係が 具体化して 交通し合うとなれば そこに 方向性と向きとが 決まる。こういった関係性を 一般的な意味での愛と言う。

 13. つまり 意志は 個なる独立存在として 自由意志であり ひととの関係性において 愛である。聖霊は 父と子から発出する明るさや暖かさである。この《人の意志》と《神の位格としての聖霊》との類似は その内実が 《愛》である。

 14. 意志=愛は 家族にあって 愛。組織にあって 経営。社会にあって 自治・共同自治。

 15. 社会全体としては 記憶が 法秩序。知解は 経済。意志は 政治。

 16. 三権分立としては 記憶が 司法。知解は 立法。意志が 行政。つまりは 三権分立も 三権の分業かつ協業としての一体性を持つと考えられる。つまり 《似像》であると思われる。

 このような人間と社会の成り立ち つまりは全体として 世界の構造だという理論です。どうでしょう?

補足日時:2012/09/01 16:53
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この回答へのお礼

 やっほー。まだ閉めなかった甲斐がありました。
 こんにちは ねこさん。ご回答をありがとうございます。

 まづは 引用・援用のあいまいさを確認します。(へへっ)。
 ▲ (マルコ福音8:27-34) ~~~~
 8:27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、
 ・・・
 29 「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。
 30 するとイエスは、自分のことをだれにも言ってはいけないと、彼らを戒められた。

 31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、
 32 しかもあからさまに、この事を話された。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめたので、
 33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
 34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。・・・
 ~~~~~~~~~~
 ☆ ここは ほとんど明らかなように お説とは逆でしょう。
 ★ この個所は読みようによっては、イエスは自らがキリストであることを否定している、とも解釈できます。
 ☆ ちょうどサマリアの女との会話でも キリスト(メシア)であるとイエスみづからが言ったように ここでも 肯定していましょう。ただし 口外するなと言っているところではないですか。
 ペテロの《いさめ》は イエスが 自分は殺されると言った そのことゆえではないか?



 次にはですね:
 ★ ~~~
 十字架で磔になったことで、人間イエスは神として完成する、なんて意味ではないですよね。
 それではつまらない。イエスの人間としての一面が欠落してしまう。
 ~~~~~ 
 ☆ これは 時系列としてと言いますか 出来事としては 磔とその後の――物語としての――復活 これで《神として完成する》つまり《キリストと呼ばれるようになる》のだと思いますが? 
 ★ それではつまらない。イエスの人間としての一面が欠落してしまう。
 ☆ これは その物語の肉づけや味付けの問題ではないか。と思います。三位一体論の問題でしょうし 《同時に 人であり神である》ところがミソだと思います。この思想は もう破られ得ないワールドレコードでしょう。

 つまりは その《イエスは キリストである》なる命題〔をもたらした出来事〕について:
 ★ にしても、「イエスはまだ栄光を受けておられなかった」というヨハネの記述が僕には気になります。この〈栄光〉とは何を意味するのでしょうか。
 ☆ この《栄光》でいいんぢゃないですか?



 ★ ~~~
 〈聖霊でバプテスマを施す者〉はイエスだと、ふつうは解釈されていますが、
 これは〈イエス〉ではなく、〈父なる神〉と解釈すべきだという考え方もある。
 ~~~~~
 ☆ たとえば:
 ▲ (マタイによる福音書 / 11章 27節 ) すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
 ▲ (ヨハネによる福音書 / 10章 38節 ) しかし、〔わたしが父の業を〕行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」
 ▲ (ヨハネによる福音書 / 14章 10-11 )~~~~~
 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。
 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうして 子の父も 父の子も 父と子とから発出する聖霊も すべてそれぞれ互いにひとしく 個は全体と 全体は個と やはりそれぞれ互いにひとしい。

 ★ 三位一体説、これはなんか苦しい理論体系のように思えてならないのですよ、僕には。
 ☆ これについて 補足欄にておぎないますから どうぞ。


 ★ そもそも、〈キリスト〉という言葉が何を意味しているのか、これ自体が極めて曖昧ですから。
 ☆ イエスにひとしいものとしては ねこさんがお認めになっていない例の《非経験の場》のことです。

 ★ そもそもは、単なる人間世界の、地上権力としての王の意味かもしれませんし…
 ☆ サウルでしたか以下の王に油がそそがれたということですから そのとおりですよね。《神の子にして神》なるキリストという意味は あたらしく造ったことになりましょう。

 ★ 後世の人間が、キリスト教の教義確立の過程で、本来、聖書にはなかった新たな意味が、この〈キリスト〉という言葉に与えられた可能性も否定できませんし…
 ☆ これは あたらしい意味付けを別にすれば まづないでしょう。上に引いたマタイやヨハネのくだりだけでも じゅうぶん三位格の一体を言おうとしていましょう。《ことばが 肉(=人間=つまり 身と心)になった》。

 ★ 〈キリスト〉という夾雑物、いらないんじゃないでしょうかねぇ~。イエスで十分だと、個人的には考えるのですが。
 ☆ 補足欄の図示を参照くださいませ。





 ★ ~~~~
 報身(ほうじん)の他受用身というのは、
 十地の菩薩でないと、その姿を見たり、その言葉を聞いたりはできないのだそうです。
 ~~~~~~~
 ☆ たとえば:
 ▲ (ハバクク書2:4) ~~~~
 ○ たかめられたるわがたましいも ああ ただしからず。きよき人びとは しんじることによって生きる。

 ○ (新共同訳) 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。

 ○ (口語訳) 見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《信仰= 非思考の庭》が稼働し始めたなら 十地も 何て言いましたかね 理即も名字即も無知即(?)も関係ありません。《非行非善》です。修行で一定の地位に行けたからどう 行けなかったからこうといった思考法も理論もありません。《ハカラヒ無き》です。
 報身が見えなくったってかまいません。いまは鏡に映ったおぼろな姿を見て 信じるによって あゆみます。神直視は かなわなくてかまいません。むしろ 無理です 生身では。
 ある人には 異言を言う能力が ある人には預言するチカラが ある人には・・・というような多様性の姿でいいぢゃないですか。



 ★ 客観
 ☆ は 実際にはありません。主観の内なる認識のあり方を言うのみです。具体的な何らかの主観が人びととのあいだに共同性を持つとき 或る程度の客観だと見なされます。

 主観の内に《非思考の庭》が成ったときには たしかに
 ★ 直観の問題
 ☆ になると思います。ヒラメキです。直感および直観です。それは 非思考の庭に生じます。 
 そのあと コギト=思考の緑野あるいは密林ないし感性の田園または知性の都会・・・。



 

お礼日時:2012/09/01 16:47

教儀・教祖は特定の宗教へのログインパスワードなのでしょうか?


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7674521.html
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この回答へのお礼

 つづきです。

 ★ 宗教
 ☆ は どうでもよいものです。
 その意味をきちんと表わすために言えば くそくらえです。

お礼日時:2012/09/01 15:34

『無教儀の庭園』なのですね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2% …
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この回答へのお礼

ご回答をいただきました。

 ★ 無教儀
 ☆ ではありません。

 教義がある・ないというのは あくまで思考の緑野という次元です。
 オシエも 思考の対象ですし それがある場合も ない場合も 経験世界での出来ごとです。

 ところが 《非思考の庭》は 思考に非ずです。強いて言えば ヒラメキです。


 〔非経験の場=〕非思考の庭―――思考の緑野・感性の田園・知性の都会・・・

お礼日時:2012/09/01 01:38

非思考の庭では、個人情報から解放され続け得るのですね。


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7672857.html
http://www.atmarkit.co.jp/fwin2k/network/baswinl …
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ちがいます。
 ○ 非思考の庭つまりわが内なる心と 精神の緑野(および密林)とも言うべき思考の分野(あるいは要するにそこから外に出て社会なる平原)とは 場がちがいます。

 ★ 個人情報から解放され
 ☆ るというのは 自分の個人情報が他者に知られないで守られるという意味でしょうか? それだとしますと そのことと(つまり 思考の緑野の次元)と わが心なる《非思考の庭》とは 《わたし》というにんげん存在においてつながっていますが 次元は別です。

 非思考の庭は 思考に非ずなのですから その庭においてたとえば《個人情報が守られる》といった思考次元の事柄は――つながっている・もしくは連絡がとれるようになっていましょうが―― やはり別です。意志ないしその行為として 別です。



 早い話が 非思考の庭における祈りと願いが 思考の緑野かつ行動の分野で叶ったというばあいがあるとします。
 そういうときには すでに《非思考の庭》がわが心に成っているということそのことを ありがたいと思っていればよいのだと考えます。
 そのめぐみが まわりのほかの人びとにもあまねく泉のごとく湧いてくるようにと祈りましょう。

お礼日時:2012/08/31 10:46

教儀の内容を思考して振る舞う段階に執着していますと、


無量寿光のウォーターサーバーからの水を活用し難くなるのですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9E%9A% …
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 No.53お礼欄に掲げました《ヒラメキの位置づけ または ロゴスの階層》 これをごらんください。
 というのも

   非経験の場・・・《わたし》:非思考の庭 / ヒラメキ / コギト(思考の緑野)

 この或る意味で言えば階層秩序は なかなか微妙な連絡関係になっていると考えられるからです。把握しがたいところがあるかも知れません。

 ★ 教儀の内容を思考して振る舞う段階
 ☆ これは あきからに《コギト:思考の緑野》であり またその野原かつ密林かつ田園かつ都会における社会生活を言います。オシエがコギトの段階なのは あきらかです。

 ★ 無量寿光のウォーターサーバー
 ☆ 無量寿光は 《非経験の場》のことです。それを言い換えたものです。
 その要するに神が 《ヲータサーバ》であると見ることも出来ましょうし あるいはいわゆる《霊(聖霊なる神)》として そのサーバからすでに《人間なるわたし》のところに来ている(やどっている)という見方も出来るかも知れません。

 ★ ウォーターサーバーからの水を活用
 ☆ これは 祈りと願いとともに ただしげんみつに言えば あくまでサーバのほうからの《めぐみ》としてもたらされるものです。
 学問や思いやりとしての光ないし水は にんげんの能力と努力とでもたらされ得ますが みづからがともしびとなり 泉となることは にんげんのチカラでは無理だと捉えられます。(そのわけは これも 無根拠です。無根拠において そう捉えます)。
 (言いかえると 赤子の《聖なるアマエ》であったり 成人してからの《立ち帰り》としての《きよらかなおそれ》であったりするものです。つまり 《非思考の庭》なる動態のことです)。

 しかも《その水を活用する》ことは すでに《思考の緑野(密林・野原・田園・都会)》という段階ないし舞台におけることがらです。 



 ▲ (ヰキぺ:一枚起請文) ~~~~~~

 唐土(もろこし)我朝(わがちょう)に
 ( a ) もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。
 又
 ( b ) 学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。

 ( c ) ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、
うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細(しさい)候(そうら)わず。
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~
 ☆ この法然の文章に沿って考えるなら ( a )の《智恵あるいは愛情や思いやり》や( b )の《学問ないし科学の成果》は にんげんの能力と努力のたまものです。
 法然が 念仏はそうではないと言っていることは たしかに
 ★ 教儀の内容を思考して振る舞う段階に執着してい
 ☆ ることではないと言ったかたちです。


 そうして あとは法然と親鸞との違いがあります。
 法然は ( c )のように《念仏をして極楽往生する。つまり念仏をつうじてあたかもヲータサーバからの水をあたえられる》と言ったかたちのようですが 親鸞は まるきり違います。

 称名念仏は 《非行非善なり》と言います。
 行に非ず。すなわち 念仏行をつうじて往生するのだとは見ないと言います。
 善に非ず。すなわち 善行をおこなうことによって極楽の水が このいま・ここなる《わたし》に湧き出るのだとも言わない。

 それは 《ハカラヒ無き》ことでなくてはいけないとも言いますし 言ってみれば アミターバは無根拠だと言ったことになります。

 無根拠に 聖なるアマエをいだく。無根拠に対して きよらかなおそれを持つ。そのとき 口をついて アミターバへの帰命(南無)のことが出て来ると。それだけのことだと。
 つまりは 《非思考の庭》なる動態なのだと捉えられます。

お礼日時:2012/08/30 12:02

『無宗教だ』と語って特定の団体への所属を否定し乍も、


我々日本人達の多くは東洋医学的なエネルギーの存在を受け入れていますので、
安易に基督教等への入信を訴えたがる民族よりも我々日本人の方が、
遥かに『非経験の庭』に触れ合えているのでしょうね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 我々日本人の方が、遥かに『非経験の庭』に触れ合えているのでしょうね。
 ☆ ひとつに 民族ごとに分けて 信仰のあり方について判断をくだすのは――わたしも趣旨説明の(β)の最後のところでそれらしきことをやっていますが―― 慎重でなくてはならないと考えます。

 ひとつに 《非経験の場》をわが心に受け容れたとき成る《非思考の庭》は あくまで個人ごとの出来ごとであり 主観の問題です。これが 信仰です。

 ひとつに (β)の最後で
 ☆☆(趣旨説明欄) おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。
 ☆ と言っているのは 《唯一神についての信仰》が 文章化されたオシエとして受け取られそれによって取って代わられ挙句の果てに《観念の神を思い描く信念や信条 そしてそれによって展開される文化や教養》となってしまっている状態と情況としては 日本人の社会ではそれほどつよくない。この事由によります。

 これら三つのことがらについてぎゃくの角度から言えば 心が《非経験の場》にしづかに・はげしく接しているのは 誰でも同じです。例外はありません。あとは その人と《とき》とによります。


 ★ 基督教
 ☆ これが 非思考の庭としての信仰ではなく オシエとしての宗教であり信念・文化・教養のたぐいのことです。

お礼日時:2012/08/30 09:42

勿論乍ら、55の野蛮な個人主義は西洋人達の精神的態度を指しています。



つまり、特定の教儀に個人主義が同調しますと、『ルサンチマン』型の排除が…。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7668799.html
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この回答へのお礼

 ご投稿をありがとうございます。

 西洋は 西欧とアメリカとを分けて 或る程度考えを述べたおぼえがありますが。

お礼日時:2012/08/30 07:44

#53の投稿は#50の内容への解説ですが、


引用先のページの意味を理解なさっていますか?
(動作主の行為が及ぶ相手への…)
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この回答へのお礼

 そのようにおっしゃるということは わたしの理解が そちらの理解どおりには到っていないということなのでしょう。

 ですから わたしは自分の見解を述べています。
 それについての批判は と言いますか つねにわたしは批判に開かれています。批判を受けるためにこそ こうして設問しているのですから。
 理解が行き届かないのは 致し方ありません。
 その労を取ってくださるかどうかだと思います。

お礼日時:2012/08/29 10:41
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この回答へのお礼

 われわれ――というのは 誰を言うのかを措いておきますが――は この世の屑でありゴミですよ。

 その程度に笑いものになることくらいでは おどろきません。

 この世の不平や不満に苦悩や揉め事 これらをいだいた人びとの意識による排泄をすべてアース役となり再生処理工場となって処理しています。
 イエスの下請けですけれどね。

お礼日時:2012/08/29 10:23

組織への依存が無自覚の裡に其処への責任転嫁を促し得ますので、


野蛮な個人主義が蔓延り、。
http://ja.wikipedia.org/wiki/MARS%E6%8A%95%E8%B3 …

因みに、出馬予定は?
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この回答へのお礼

 つづきです。

 ★ 野蛮な個人主義
 ☆ これについては 直接に《イエスが なぜキリストか》の問いとはかかわりません。


 それと 日本人のあいだでは 《個人ないし個人主義》は――ないとは見ませんが―― きわめてまれだと考えす。
 およそたとえば神輿の上に載せられ担がれるかたちで その神輿の上のひとりの個人が やがてワンマンぶりを発揮すれば 《野蛮な個人主義》に見えるというほどのことでしょう。

 われわれは 三度の飯よりも 群れたがります。

 群れによる出馬はありません。

お礼日時:2012/08/29 10:17

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