アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 イエスが なぜキリストか。
 次に掲げる聖句に集中します。
 その中で特には

 ○ 人の内から生きた水が湧き出る

 に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。

 ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~

 37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。

    「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
 38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の
    内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
 ~~~~~~~~~~~~

 * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~

 ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。

 ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~

 わたしは乾いている地に水を注ぎ
 乾いた土地に流れを与える。
 あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
 あなたの末にわたしの祝福を与える。

 ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~

 主は常にあなたを導き
 焼けつく地であなたの渇きをいやし
 骨に力を与えてくださる。
 あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~




 (α) イエスが なぜキリストか。

 すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。

 闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。

 このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。

 教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。



 (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。


 それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。

 この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。


 おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。





 どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?
 問い求めます。ご教授ください。

A 回答 (73件中51~60件)

たとえ契約を根拠に据えませんでしても、相互の謙譲は可能なのでしょうけれども、


海外の方々には理解され難いのでしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%81%E8%B5%B7
http://sec.ipa.go.jp/std/ent03-b.html
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 すでに投稿したことのある文章ですが 《ゆづりあい》の問題について考えるところをしるしたものです。

       *

  社会形態は いやしくも国家と称するようになるならば 市民たちの第一階とそして公民圏としての第二階とから成ると考えられ この一階と二階との社会力学的な関係のあり方によって 市民一般の生活のありさまや 生活態度としての思想がかなりの程度において規定される。こう考えます。

 市民圏=第一階:S 圏;市民 S
 公民圏=第二階:A 圏:公民 A
 これら互いの力学関係:A‐S 連関制

 こういう用語で説明します。

 日本における国家は 《国ゆづり》型であるゆえ 市民 S らは おとなしい。もともとおとなしく けんかをするほどに仲良しであった。その中から出た公民 A らは 特に優秀であったゆえ 人びとは社会というヤシロにも特殊な神棚をこしらえてやりそこに特別に住まわせた。この第二階となる神棚にまつりあげたことになる。これが くにゆづりである。

 優秀であるうえに品行方正で申し分のないほど人間的な人間たちであったが ただひとつ玉にきずなのは つねに人びとから注目を浴びていなければ落ち着かない。お山の大将志向型であったことだ。市民らは かれらに根負けして それならと言うので神棚をわざわざこしらえて そこを棲み処としてやった。檻に住まわせたとも言えるのだけれど これが のちのち或る意味でわざわいともなった。

 市民 S らの中には この第二階への出世志向が流行り病いのごとく起こり ひとつには とうとう A 者公民たちにこびへつらうようになり ひとつには ゆすり・たかりをはたらき甘い汁を吸おうとするようになる者が出た。
 このお二階さん志向――そして 別様に言えば お上意識――が絡んでくると 仲間どうしのあいだでも いざこざが絶えなくなる。

 簡単に言ってこういうわけで 市民 S 者のあいだには まっすぐな心持ちにもとづく行動と どこか歪んだところのある振る舞いと 両面が見られることになる。



 ちなみに西欧の 市民は そして公民も 誰もがおのれの中にお二階さん志向(または アマアガリ症候群)を持つ。すなわち A=S としての市民 S であり この市民がおそらく誰もが 同じく A=S としての公民 A となる傾向を有する。と推し測られる。

 (α) 欧米型(または遊牧民型): A ( A=S ) ∽ S ( A=S ) 連関制

 相似形の記号( ∽ )の意味は つねに転覆(回転=レヲ゛リューション)が起こり得るということを表わす。
 言いかえるとその社会では 第一階においてすでに 《人は人に対して狼なり Homo homini lupus. / 万人の万人に対するたたかい Bellum omnium contra omnes. 》という市民( A=S なる市民 S )どうしの意識の流れが関係し合っている。意識の対立とその弁証法的展開が ふつうに見通されているのではないか?

 日本市民が このアマアガリ志向に対して《くにゆづり》をしたと言う時 それは非戦論であり そうだとすれば 欧米市民は 主戦論に立つものと考えられる。
土地に縄を張って ここはおれのものだと宣言したとき 言葉たくみににしろ力づくでにしろ その土地を獲ってしまえば 自分のものになると考える傾向なのだろうか。

 日本市民は これこれはおれのものだと主張するときに どういうかたちにしろ争うことは 人間の弱さから来ると考え それならと言って 非戦論を採った。非戦論も主戦論も確かに 人間の弱さから来る。
 非戦論をえらびいちどゆづったら その神棚に挙げてしまったのだから おいそれとは返せとは言えない。言わない。おとなしい。ただ それだけのことだと考えられる。
 ただしそのアマアガリ症候群の感染具合いに応じて 波風も立つこともある。アマテラス公民のほうへすり寄って行くスサノヲ市民もいる。




 ちなみに 別様の A-S 連関制がありうる。《アフリカ的段階》と呼ばれるもので 市民らに絶対主権があるというようなかたちである。

 (β) アフリカ型:S (=じつは A )∽ A 連関制

 ◆ (『アフリカ的段階について』 ヘーゲルを解剖学した世界観?) ~~~
  http://y-bat.txt-nifty.com/doyo/2009/01/post-8de …

 マルクスはインド・ヨーロッパ語圏の外にアジア的共同体を見出したが、吉本〔隆明〕はそのアジア的段階より前の段階としてアフリカを見出している。

 ( a ) そこには殺生与奪権を独占し自由に行使できる王( A )がいる。
 ( b ) しかし、民衆(じつは A なる S )は豊穣と生活の保障と引き換えに王(権力)を認知しているのであって、不作や疫病があれば王は民に殺されてしまう。
 ( c ) 生命の等価交換(という原始的なシステム)の上に成り立っていた頃の世界がそこにはある。
 ( d ) 民衆(個人と共同性)と王(権力と象徴)は等価なのだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 民衆暴君型である。日本は対話型 西欧は競争型であろう。


      *

 この区分が 紋切型でなければよいのですが。

お礼日時:2012/08/24 08:36
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 《領土》問題について このスレででしたか わたしは触れてしまっていますが じつは 外交問題ないし国際関係論は 明るくありません。
 この質疑応答の場で 少し質問をしたこともあります。勉強していこうと思っております。

 竹島をめぐる韓国との関係。
 そうですね。《観念》に振り回されないようにという趣旨で触れたことから いまただちにさらに展開するのは むつかしいところです。
 話し合いの場に出て来ないというのが いちばんの問題であるように思います。
 つまり こじれてしまっているようです。

 これも どうしましょう? となりますが。

お礼日時:2012/08/23 23:13

鯨の処理に象徴化される振る舞いと違いまして、


日本人は繊細…。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7659496.html
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ▲ (【Q:ドット抜けについて教えてください】回答No.3) ~~~~
 それどころかまずドット抜けの「液晶テレビ」が自宅に届くことはありません
 さすが日本企業といったところですが素人向けですから粗相があってはいけないのもあります
 なので知識のない人はドット抜けは単純に故障としか思っていません

 それに対してパソコン関係の「液晶モニタ」の分野や、それを作っている「海外メーカー」から言わせれば
 極小のドット抜けがいくつかあったところで映像を見るのも仕事をするにも何も問題無いだろ?
 という理屈で多少のドット抜けでは初期不良として扱ってもらえません
 文化の違いなんですかね
 ~~~~~~~~~~


 ちなみに あまりにも繊細で細かいところも行き届いている製品なのに 普及品に押されて売れないというような現象が いま新興国などで起きているのぢゃないですか?
 こまったものですね。どうしましょう?

お礼日時:2012/08/23 21:21

http://okwave.jp/qa/q7655378.html
関係性を見出だせますでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 つづきます。

 ん?
 ▼ ~~~~~~~
 質問:会ってみたい歴史上の人物は誰?

 例)
 クレオパトラです!ほんとうに、一体どのくらい美人だったのかをこの目で確かめたいです。

 様々な回答、お待ちしております!
 ~~~~~~~~~

 ☆ どういう
 ★ 関係性を見出だせますでしょうか?
 ☆ でしょうか。
 中には イエス・キリストという回答もありましたが。
 広く一般に《今は亡き人に会ってみたい。話を聞いてみたい》ということと 思想やあるいはこの質問のように《信じる》を主題にした場合のその同じこととは 違うようにも感じます。
 会っても会わなくても それほど実践については違って来ないように思います。

 ただしもともと 別の人の思想やその伝えようとしたことを受け留め受け容れたと言っても もとのかたちがそっくり伝わったかどうかは 分からないかも知れません。
 というより その肝が分かればよいのでしょうし しかもその肝の要素も 経験的なかたちとしては 絶えずさらに変わりゆくことがある。こうも考えられるからです。(でも同じ系譜は 同じ系譜であると知ることが出来るはずとも考えています)。

お礼日時:2012/08/23 11:04
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 つづきます。

 たしかに
 ★ 自然観の齟齬が、…。
 ☆ 感じられるようです。
 ▲(ヰキぺ:鯨の爆発) ~~~~
 鯨の爆発については、これまで顕著な事例について2件が記録されている。このほか知名度の低いものも何件か存在する。
 最も有名な爆発は、米国オレゴン州フローレンスで1970年に起きた。死んだコククジラの腐敗した死体を廃棄しようとしたオレゴン高速道路局によって発破されたものである。
 ・・・・
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もっともこれらの事例は すでに死んでいる場合ではあるようですが。 
 浜に打ち上げられた死んだ鯨は 日本ではどうするんでしたかね。腐っていて食べられないでしょうし。

お礼日時:2012/08/23 10:51

基督帝への表敬は西洋人の短絡的なサ~ビス?

    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 基督帝への表敬
 ☆ これはですね。つまり要するに 儀式のことを言うのですよね?
 だとすれば けっこう深い意味合いを持った成り立ちも ひとつの側面として 考えられるように分析されてもいます。

 そのひとつの側面に ふたつの場合があると思われます。

 ひとつは キリスト・イエスをはりつけにしたとの思いから これを悔いて そうする場合です。
 ユダヤの高等法院の連中や一般の民衆やあるいはユダヤ駐在のローマの総督らといっしょに〔後世の〕自分も 磔の刑に処したということ 加害者であったということ こう受け留めてこれを悔いる。


 この場合ややもすると その気持ちがどこかで自信を持って来ます。自信を持って来ると そこで キリストを言わばまつりあげる。たたりのないようにと 丁重にあつかう。ようになる。

 

 そこでもうひとつは そのような《悔いるこころ》を通り越えて 開き直った場合です。
 心の中で次のような展開を経て最後に開き直りによって キリストをたたえるまつりをおこなうようになった。
 悔いる心からたしかに葛藤を持ちつつも やがて何でしょうね 自敬というよりは自尊でしょうか その自尊心からの開き直りを経て――いつまでも卑下してばかりもいられないと考えた結果―― キリストをうやまい奉ればよいのだと《さとる》場合です。
 《たたり》をおそれての行動になるのかも知れませんが 言ってみれば性質(たち)の悪いものです。

 自分たちは このように盛大な儀式をおこなって キリストにわびつつキリストをたたえ そのキリストのゆたかな心からのめぐみをあたえてもいただくのだと語って 人びとをその《まつりあげなる儀式》に連ならせ この〔あまり使いたくない言葉ですが〕ザンゲを基礎とした和解を 社会にも築こうとする。
 人間関係ならびに社会の成り立ちや仕組みが つねに後ろ向きになると同時に そのザンゲなる祭りをつかさどる務め人を中心として築かれて行く。
 もし仮りにキリスト・イエスがじんるいの罪をみづからに背負ってみづからの命をもって〔神に〕支払いを済ませたのだとすれば この罪なる債務の返済という行為をあたかも真似てわざわざ重ねて演じている。というのが まつりあげなる儀式である。

 言いかえると このいわゆる教会における《基督帝への表敬サービス》につらなるとすれば その人は まだなおキリストのめぐみを受けていないことを意味します。
 もし世間と和解し得てまたみづからとも和解し得ているのならば わが原罪よさようなら イエスよありがとうと言って キリストなる神に きよらかなおそれをいだいている。そのようにして生活する。これだけでよいはずである。
 わざわざ儀式をおこない これを制度としてつくりあげこれを主宰する。人びとはそこにつらなる。のならば キリストの威を借りて 自分たちの身分を高めその地位を保全しようとしている。と勘繰られてもおかしくない。そうしないほかの人びとを 野蛮だとか彷徨える霊(迷える子羊)だとかと言って見下すのならば すでに精神錯乱である。国家ともなれば 戦争をして人殺しをする。キリストに反する。




 臨月のマリアが夫にともなわれて例の馬小屋でイエスを産むというとき――物語によれば―― 近くの野にいた羊飼いの青年たちにそのことを天使がやって来て知らせた。
 イエスの誕生を祝ったのは そのように名も無い人びとであった。
 はりつけのあと キリストの誕生を祝うのも われわれ一人ひとりその主観のうちで しづかにはげしくしっかりとそうすればよいはずだ。
 いやしくも聖職者を自認するのならば 世界を・人びとをそのような方向にうながそうとしてもよいはずだ。何がクリスマスだ。何がまだなお 人びとよ悔い改めよだ。

 そんなことでは 人びとを イエス・キリスト以前の時代に戻しそこに閉じ込めようとしているに過ぎない。ではないか。
 



 ★ 基督帝への表敬は西洋人の短絡的なサ~ビス?
 ☆ 《短絡的》と言いますか ひとつには もうその必要もないことを自覚しなければならないのに わざわざそれでもなお何故か《悔いる》ことをおこないつづけているという引っ込み思案で恥づかしがり屋のはにかみ屋・・・。

 もうひとつには 《わが身とわが身分の保証》を追い求めこの世での地位の安泰を《短絡的に》図った教会野郎ども。キリスト・イエスをたたえまつりあげておけば その司祭たるおれたちに人びとはついて来るだろうと。誰もが脛に傷を持つのならば・持つのだからと。





 * この文章の内容についての責任は ひとえに このわたし・ぶらじゅろんぬにあります。

お礼日時:2012/08/23 06:44

有り難う御座います。



身分制への評価を考えますと、『謙譲の使役による自敬』には問題が御座いますが、
『時制の一致』とは違う言語的な技術の解析には価値が御座います。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 大鏡を読んでみました。
 ▼ (大鏡 道長と伊周の競射) ~~~~~
 ( a ) 帥殿(そちどの=伊周)の、南院(みなみのゐん)にて人々集めて弓あそばししに、
 ( b ) この殿(=道長)わたらせ給(たま)へれば、
 ( c ) 思(おも)ひがけずあやしと、中(なかの)関白(くわんばく)殿思(おぼ)し驚きて、
  いみじう饗応(きやうよう)しまうさせ給(たま)うて、
 ( d ) 〔道長は〕下藤(げらふ)に御座(おは)しませど、前にたて奉(たてまつ)りて、まづ射(い)させ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけるに、
 ( e ) 帥殿、矢数(やかず)いま二つ劣(おと)り給(たま)ひぬ。
   http://www.j-texts.com/chusei/rek/fokgmall.html

  ▲ (現代語訳) ~~~~~~~
  a 藤原伊周公が(父藤原道隆公の二条邸内の)南院で、人々を集めて弓の競射をなさったときに、
  b 藤原道長公がふらりと御出席なさいましたら、
  c 思いもよらず不思議なことだと、関白道隆公はお思いになり驚かれて、たいそうご馳走をなさって、
  d 道長公は伊周公より官位が低くいらっしゃったけれど、順番を(伊周公の)前になさって、まず先に道長公を射させ申し上げなさったところ、
  e 伊周公の命中した矢の数は道長公より二つほど劣られなさった。
   http://classfriend.rakurakuhp.net/i_735871.htm
 ~~~~~~~~~~~~~~

 敬語表現を整理すれば:(敬語法の助動詞等を ≫・・・≪でかこむ。)

 ○ 《帥殿(そちどの=藤原伊周)》が主格:
  1. あそば≫し≪し
  2. 劣(おと)り≫給(たま)ひ≪ぬ

 ○ 《この殿(=道長)》が主格:
  3. わたら≫せ≪≫給(たま)へ≪れば:二重敬語
  4. ≫御座(おは)し≪≫ませ≪ど

 ○ 《中(なかの)関白殿(=伊周の父・道隆)》が主格:
  5. ≫思(おぼ)し≪驚きて
  6. 饗応(きやうよう)し≫まうさ≪≫せ≪≫給(たま)う≪て:二重敬語
  7. 立て≫奉(たてまつ)り≪て
  8. 射(い)させ≫奉(たてまつ)ら≪≫せ≪≫給(たま)ひ≪けるに:二重敬語


 この短い段落で見てみるかぎりでですが 若き日の道長とそのとき関白の道隆とについて それぞれ二重敬語が使われていると思います。
 伊周は そうでないので 道長によりも〔作者の〕敬意の表し方が少ない。

 このかぎりで それほど敬語法という技術が 何かを表現するときに決定的な役目を果たすとも思えない部分もあるように感じます。
 つまりたとえば三重敬語は ないのでしょうか? そこまではしないと言うべきなのでしょうか? つまりもしそうだとしたら 敬語法をどこまでも追求しようとしているとも思えません。妥協のある表現方法であるかも知れません。

 一般には 述語動詞の主格に立つ語(つまり 一般に人)が誰であるかをそれだけで分かるようにするのが 動詞に添える敬語表現だということでしょうか? つまりそういう特徴のことを言っておられますか?

お礼日時:2012/08/23 10:27

特に鏡シリーズには、自敬と謙譲とが巧みに連携させられていますので、


其の御蔭で、たとえ挿入部分から主語を省略しましても、
連文節の意味の読解が可能になっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%8F%A1
http://okwave.jp/qa/q4208897.html
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 つづいてですが 直前のやり取りでは わたしは 身分関係にからむ敬語表現にはきわめて懐疑的であることを いくらか説明しようとしました。

 ★ 特に鏡シリーズには、自敬と謙譲とが巧みに連携させられています
 ☆ このような敬語表現が表わされる社会の人間関係について きわめて不自由さを嗅ぎ取っています。
 しかも 日本社会では そういう一時期があったのだということのようです。

 ★ ~~~~~
 其の御蔭で、たとえ挿入部分から主語を省略しましても、
 連文節の意味の読解が可能になっています。
 ~~~~~~~
 ☆ そうなんですか。そうなんでしょうね。
 でもこの大鏡にしても 翁の語る視点というのは あんがい権力者のその飽くなき権力欲に対しては皮肉もうかがわれるということだそうですね。(ヰキぺ)。

 そのような《自敬‐謙譲》の固くむすばれた連関制は やはり特殊な閉じた――人間どうしがヨコにではなくタテに連なった――ムラ世界だと思われます。お気に召されないかも知れませんが そう考えます。

お礼日時:2012/08/22 15:10

謙譲と自敬との関わりが日本語の特殊な文法を…。


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7656624.html
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 謙譲と自敬との関わりが日本語の特殊な文法を…。
 ☆ そうかも知れません。そして ぎゃくに 《特殊な文法》としての敬語表現は ただただいわゆる身分関係の社会的なそして歴史的な定着につれて〔ただただ〕複雑にそして不必要なまでにソフィスティケートしたかたちとなった。

 身分関係と言っても 特には 社会が二階建て構造になったところでの一階の平民より見たお二階さんとのカカワリから来るその自己表現のむつかしさ・わづらわしさ このような要因がはたらいているように思っています。
 敬語にかんしては ていねい語以外には わたしはきわめて懐疑的であります。

 【Q:敬語は ほんとうに 尊敬を表わす語法でしょうか】
  http://okwave.jp/qa/q4977918.html

 ○ 敬語の起源  ~~~~~~
  1. 《うやまひ》説:相手を互いに同等・対等な人間と見ることによる。

    ・ その自由対等を確認する意味で たとえば《言う》を《言われる》とわざわざする。
    ・ レル・ラレルは 自然生成の相。それゆえ 親愛称をつくる相。
    ・ それゆえ 言わレルのウヤマヒ表現は 互いの自由の確認を親しみを込めておこなおうとしている。

  2. 《敬遠》説:相手は どこの馬の骨だか分からないといううたがいを持つところから出る。

    ・ ただし (1)のウヤマヒを欠かさない。ゆえに 敬してとおざける。
    ・ あまりひとのふところ深くへは 踏み込まないでいようとする心つもりを表わそうとした。
    ・ 付かず離れずの関係を保つためにウヤマヒつつ(自然な人間関係をよそおいつつ)それ以上は深入りしないでおこうという。

  3. 《身分関係》説:上下関係をことばによる表現にも表わそうとする何かのきっかけがあったとする。言いかえると 身分の世襲を前提としていると思われる。

    ・ 《まなざしを 上からそそぐ側と下にいてそそがれる側との関係》を表わそうとした。
    ・ そそがれる側つまり一般に命令を受ける側は そのささやかな地位を守るためにだけとしても その身分関係を損なうことは出来なくなる。これを 言葉による表現に表わす。
    ・ エライ人がものを《言う》場合は 《のり(告り=掟・法)たまふ→ のたまふ》となる。
    ・ あるいは 《おほせ(負ほせ=負はせ=背負わせる。課し命じる)‐ある→ おっしゃる》。
    ・ 韓語の《マルスム(おことば)》を借用してこれを動詞にした。すなわち《まをす=まうす=もうす》。
    ・ 申すは 必ずしも謙譲語ではなかった。荘重語と言われもする。

  4. 《身分関係語》からの特殊な複雑な進展:尊敬語から二重尊敬語が現われたごとく。

    ・ 身分の高いひとは 自己尊敬の表現を用いるようになった。自敬表現。
    ・ それに合わせて 下の者は 自己を低める謙譲表現で答えた。
    ・ これは 身分制社会の華であるか? あだ花であるか?

  5. その後の展開やいかに?

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~~
 起源についての一考。

 ○ めし(召し・飯 ← 見し)
 ▲ (万葉集一・50)・・・国を見(め)し給はむと〔売之賜牟登〕=《お治めになろうと》
 ▲ (同上 一・52)・・・見(め)し給へば〔見之賜者〕=《ご覧になると》
 ◆ (大野晋・古語辞典) ~~~~~~~~~~~~
 めし:《見る》の尊敬語
 1.ご覧になる
 2.お治めになる
 3.お呼び寄せになる
 4.結婚の相手となさる
 5.お取り寄せになる
 6.お取りあげになる
 7.〔目の前にご覧になる意から〕飲む・食う・着る・乗る・引く・買うなどの意の尊敬語
 8.他の動詞の連用形について 厚い尊敬の意を添える。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ シは スルという動詞。見ナサルというように 能動性をつけ加えている。メは ミの母音交替形。

 見ナサルゆえ そのものを《身近に寄せる》。(2)から(6)までについて 不都合無し。(7)は 《寄せた》あとの動作について 直接に触れず 遠回しに言う。

 ここで 別の解釈をします。
 シを 使役の意に採る。見ナサルではなく 見セル・見セシメル。
 すでに権威を帯びた偉い人が みづからの姿を ひとに見セル。このようにも 解釈できる。

 ただし モノを取り寄せるという用例では 合わない。
 おそらく この使役の語法は 第二次的であろう。
 高貴な人が 召し使いに 食事や入浴や着替えのときに みづからの姿を見セル。ゆえに 《めし(召し・飯)・召しあがる・お召し物》という意味。


 メシのシ つまり 他動相ないし使役相の動詞・シをとおして 第一次と第二次の用法が見られる。
 第二次の用法は 《上下関係》にもとづく尊敬語法。表面的でもある。

 第一次の用法は では 人びとの生活から 自生的に 起こったか。
 レル・ラレルという敬語法を見てみるとよい。古語で ル・ラル。
 これは 自然生成の相。
 《出来る》という可能の相も 自然生成の相をもって 能力の有無を表わそうとする。

 能力があるという相を その表現に使えば 敬うかたちになる。見ラレルや食ベラレルは あまり使わないが 第一次的なうやまいの気持ちを添えようとしてはいまいか。身分関係にかかわらず 発生したのではないか?
 《敬遠》の語法は どうあつかうべきか。
 ~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2012/08/22 14:59

別の方からの質問(

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7656410.html?rel=inn … )へも、福音の呼び水を導いてあげて下さいませ。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1473771.html
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ただいま回答を寄せて来ました。

 ○ 自敬語
 ☆ はわたしの高校までの学校では習わなかったと思います。

 ○ 尊大語
 ☆ これについても あやふやなままでした。今回わかりました。古代と現代とのあいだは 歴史も言語も 隙間だらけです。

お礼日時:2012/08/22 08:44

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!