アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 イエスが なぜキリストか。
 次に掲げる聖句に集中します。
 その中で特には

 ○ 人の内から生きた水が湧き出る

 に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。

 ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~

 37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。

    「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
 38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の
    内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
 ~~~~~~~~~~~~

 * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~

 ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。

 ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~

 わたしは乾いている地に水を注ぎ
 乾いた土地に流れを与える。
 あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
 あなたの末にわたしの祝福を与える。

 ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~

 主は常にあなたを導き
 焼けつく地であなたの渇きをいやし
 骨に力を与えてくださる。
 あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~




 (α) イエスが なぜキリストか。

 すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。

 闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。

 このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。

 教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。



 (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。


 それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。

 この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。


 おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。





 どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?
 問い求めます。ご教授ください。

A 回答 (73件中41~50件)

動作主達の行為が及ぶ相手達へと書き手・語り手が届ける表敬の技術が『謙譲』なのでして、


西洋人達が御互いを讃え会う表敬(respect)の為の『サービス』とは全く共通点が御座いません。

つまり、『謙譲』は自虐の美徳だと言えましょう。
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この回答へのお礼

 表現形態論としての敬語論になってまいりました。ご回答をありがとうございます。

 一般的な議論をおさらいしてみます。(一部の説明文や例示を省略しています)。
 ▲ (ヰキぺ:敬語) ~~~~
 1. 尊敬語 : 話題中の動作や状態の主体が話者よりも上位である場合に使われる。

 1-1 語彙自体を変える - 例:いる・行く→いらっしゃる、食べる→召し上がる、見る→ご覧になる、する→なさる
 1-2 お / ご~になる - 例:待つ→お待ちになる、掛ける→お掛けになる
 1-3 れ / られ - 例:待つ→待たれる、掛ける→掛けられる

 2. 謙譲語 : 話題中の動作の客体(間接的である場合もある)が話題中の動作の主体よりも上位である場合に使われる。
    そのため謙譲語は話題中に2人以上の人物が登場しなければならない。
    動作の主体を謙(へりくだ)す言い方であり、主体=話し手の場合には自分が謙ることになる(卑しめるという意味ではない)。

 2-1 語彙自体を変える - 行く→伺う、見る→拝見する、する→致す
 2-2 お / ご~する - 待つ→お待ちする、掛ける→お掛けする、相談する→ご相談する
 2-3 お / ご~頂く・申し上げる - 買ってもらう→お買い頂く、辞退する→ご辞退申し上げる

 3. 丁重語 : 聞き手が、話し手よりも上位であることを表す動詞の語彙をいう。

 3-1 山田と言う。→山田と言います。→山田と申します。

 4. 丁寧語 : 聞き手が話し手よりも上位である場合に使われる語をいう。
          広義として聞き手に対する配慮を表すもろもろの語を含める場合があるが、文法的に語末に使われる現代語の「です」「ます」「ございます」、古語の「はべり」「候ふ」などを指す。

 4-1 です:(名詞+繋辞) - 学生だ→学生です(現在)、学生だった→学生でした(過去)、学生ではない→学生ではありません(否定)、学生だろう→学生でしょう(推測)
 4-2 ます:(動詞) - 見る→見ます(意志)、見た→見ました(過去)、見ない→見ません(否定)、見よう→見ましょう(勧誘)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ (あ) この説明によれば 敬語表現は いづれの場合にも 人と人のあいだに社会的な位置や身分から来る上下の関係があることによって または あると見立てることによって 生じると見ている。

 (い) 果たしてそれは ほんとうか? 自由・対等な立ち場にあっても 相手にウヤマヒを持ってそのことを言語表現にもあらわす場合があるのではないか?

 (う) それは ヰキぺでは尊敬語に入れられている(1-3)の《れ / られ - 例:待つ→待たれる、掛ける→掛けられる》であろうと 見られないか?
 →No.16お礼欄の《敬語の起源》
 また ヰキぺの中での(4)丁寧語の《です・ます》 これも 対等なあいだがらにおけるウヤマヒ表現だと捉えられまいか?
 (3)の丁重語も 上下関係を抜きにして見れば デス・マスと同じような表現形態だと受け取られるように思います。

 (え) というように起源としての《ウヤマヒ》理論を基礎として捉え得たとすれば そのあと《身分関係》から来る敬語表現なる形態が来ると思われます。

 (お) たしかに社会関係は 世襲という要因がからむならば シガラミとまで言うほどの上下関係が出来て来ます。これを よくもわるくも 言葉の上でもあらわそうとする。単純にそういうウゴキだと見られます。

 (か) 言いかえると敬語表現は 単純にふたつの形態に分かれる。
    相手〔の側〕を立てるか(すなわち 上に置くか) 話し手〔の側〕を下げるか(つまり へりくだるか)。 
    《側》と言ったのは その本人ひとりだけではなくその周りの人びとをも含む場合を言います。
    すなわち 尊敬表現か謙譲表現かです。

 (き) もしこのように整理し分類した《謙譲表現》のことを 
 ★ 動作主達の行為が及ぶ相手達へと書き手・語り手が届ける表敬の技術が『謙譲』なのでして、
 ☆ と言うのだとすれば おそらく違うとおっしゃるでしょう。《こちら側から相手側に届ける表敬の表現形》と言えば おそらく(う)のウヤマヒ表現のことを言うのではないでしょうか?
 
 (く) つまりはヘリクダリと言うよりはむしろ互いに対等であるゆえにその対等であることを――いくらかは こちら側が下に立ったような感じで―― 言葉のかたちにもあらわそうとする。そのことではないのでしょうか?

 (け) わたしは このウヤマヒ形が
 ★ 西洋人達が御互いを讃え会う表敬(respect)の為の『サービス』
 ☆ の起源でもあると考えています。同じ発想から来ているのだと。その後の言わば第二次の変化形については それぞれの発展があったのでしょう。
 
 (こ) でもどうでしょう? 現代のイギリス国民が 国王やその家族に対して敬意を表するその言語表現は 市民どうしで対等な関係におけるウヤマヒとして表現するかたちと そして心とも 同じであるということではないでしょうか?

 (さ) もし日本人においても アマテラシテ象徴やアマテラス公民に対する敬意の表明が 市民どうしのあいだで交わされるウヤマヒ表現とその基礎において同じであると言うのならば――言えるのならば―― あなたのおっしゃる『謙譲』は たしかにそれとして活きている。こう考えられます。どうでしょう?

 (し) ★ つまり、『謙譲』は自虐の美徳だと言えましょう。
 ☆ いえ 《自虐》の要素はあり得ないと考えます ウヤマヒ表現にあっては。自由で対等な場に 似つかわしくありません。

 まだ我田引水していましょうか?

お礼日時:2012/08/25 16:39

『無量寿光』の御蔭で、『非経験の庭』には、『ビッグデータ(

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%83% … )』が収容され続け得るのですね。

http://okwave.jp/profile/u2301503.html
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この回答へのお礼

 つづきます。

 たぶん

 ○ 『無量寿光』の御蔭で、『非経験の場』をおのが心に受け容れて成る『非思考の庭』には、『ビッグデータ』を有効に使う仕組みを開発する知恵が必要に応じて湧いてくるのでしょう。

 と思いましたが。

お礼日時:2012/08/25 07:21

二重敬語と逆向きの謙譲とのコンビネーションが、日本…。


http://ringonoki.net/tool/browser/srware_iron.php
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 謙譲
 ☆ は 二重敬語との関連では 《謙譲語》を意味すると受け取ります。
 そうしますと

 ○ 言葉としての謙譲表現と一般におこないとしての《ゆづりあい》とは 別である。

 と見ます。慇懃無礼ということばもあります。それとは少し筋が違うかたちでもっと悪い事例としては 言い方でいくらゆづっていても それは自分の意見を通すためにする手段でしかない場合があり得ます。
 つまり物腰や態度でも下手に出ていたとしても 強固に自分の言い分についてはゆづらないという場合があり得ます。

 《くにゆづり》は ぜんぶゆづったのです。スサノヲ市民は 優秀で態度も人間的であってしかも自分の言い分については一歩もあとに引かなくなった公民志向の特殊スサノヲ(のちのアマテラス公民)に対して 中にはぐずった人たちもいましたが それこそ敬して遠ざけたのかも知れないのですが 社会としての神棚(お二階さん)に住んでもらおうと ぜんぶゆづりました。

 だから その後千五百年まだまだ ゆづりっぱなしです。どうぞ思う存分自由にご自分の英知と人格で国を経営してくださいとぜんぶゆづったからには おいそれともう返してくれとは言えない。言いません。(ただし 人間として マチガイをただしアヤマチについて改善をもとめて批判をすることはおこないます)。




 この君臨するアマテラスお二階さんに対して 基本は《ゆづりあい》の精神です。
 その基本からそれる場合があります。すり寄って行く場合と倒そうとする場合です。

 後者は ほとんど無意味です。ただ首のすげ替えになるのみです。《 A - S 逆立ち連関制》という枠組みは そのままです。

 前者は これが二重敬語になる場合でしょうか。あるいは《 A =自敬表現 - S =謙譲表現》という連関制でしょうか。
 そういう意味での謙譲表現は ただのおもねりです。




 崇神ミマキイリヒコイニヱのミコト(西暦300年頃)のとき 疫病が流行って人びとは悩まされました。
 薬草の研究にもすでに熱心でしたが 神のお告げに従うこともやりました。後者としては ミマキイリヒコは お告げどおりに市民らのあいだから オホモノヌシのカミの子(或る種の仕方で 処女降誕としてのキリスト・イエスにあたる)だとされるオホタタネコを探し求めて これを得て 神をまつらしめ ようやく事なきを得たと言います。
 このミマキイリヒコの社会は まだクニが平屋建てでした。お二階さんはありません。

 やがて この中から アマアガリ(公民志向)・シンドロームに罹った人びとが出て来ました。
 高千穂の峰に降臨したというホノ二ニギのミコトは アマテラスなる神の子孫なるぞと言うのですが アマテラスは スサノヲのじつの姉です。その子孫なるホノ二ニギの父であるマサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミのミコトは アマテラスとスサノヲとのあいだの子であると見られることがあります。
 すなわち万世一系は スサノヲの血筋でもあります。

 スサノヲは ゆづる人です。
 アマテラス公民の中には あたかも神のごとくいかなるものの下にも立つまいと堅く誓った者もいるということのようです。国家という家は わが家なりという思想は いかがなものか?
 崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトなるご先祖さんが泣きます。ミマキイリヒコの思想に見倣うべし。
 ゆづりあいの精神によるなら 謙譲表現も互いに対等なるへりくだりであるはずです。

 と思います。

お礼日時:2012/08/25 07:17

記憶を保ちながら、アンパンマンは輪廻を繰り返しているのでしょうか?


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7660782.html
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この回答へのお礼

 アンパンマンに訊いてみますか。

 というのは 冗談だとしても――まづはご回答をありがとうございます―― この場合の
 ★ 輪廻
 ☆ は想像上の生まれ変わりのようなものを言うのでしょうね。
 つまりは
 ★ 記憶を保ちながら
 ☆ その記憶の中の想像を重ねつつ あたかも一ぺん二へんとすでに命を落としたかのような体験を 想像の世界の中で 繰り返しているのかも分かりません。
 
 言いかえると 死を死にもういちど生まれ変わるというのは すべて想像世界での出来事であって――そしてその出来事をいちいち漫画やアニメではあたかもそのように実際に推移したというかのように描いている―― じっさいには最後の幕引きのあたりの出来事だけが起こった。ということかも知れません。

 ひとりの人間の存在は 掛け替えが出来ないのと同じように この人生は 一度っきりであって 輪廻を思い描くなどということは 想像力のたくましさを語ることはあっても 命がふたつあるとか一度死んでもう一度生まれ変わるとかいうことは ない。むしろ そのような想像の世界のほうが そのことをおしえている。のかも知れません。

お礼日時:2012/08/24 16:33

架空の国境線の様な枠組みを設けますと、『ルサンチマン』の様な排除…。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E5%B2%A9% …

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。

 ☆☆(その末尾の部分) ~~~
 そのような《アマテラス‐スサノヲ》連関制なるあたまでっかちな逆立ち構造があるからこそ 《国境線》についても もめごとが起きる。のではあるまいか?
 ~~~~~~~~
 ☆ つまり スサノヲ市民どうしは 国境の線引きを忘れるならば 仲がよい。取り立てて敵愾心をむき出しにする謂われはない。はずです。
 国境にいっしょに住めばよいはずです。
 つまり 国家と国家の境ではなくなる。はずです。

補足日時:2012/08/24 15:57
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この回答へのお礼

 つづきます。(続きますねぇ)。

 ★ 架空の国境線の様な枠組み
 ☆ もともと 隣りのムラとの境はあったわけですが 或る日或る時 ムラムラを束ねて 一方ではおそらくさらに向こうの敵になりうる人びとに対する安全保障政策のために そして他方では 人びとやムラムラを寄せて束ねるという仕事が根っから好きでその支配欲を満たすために名乗り出たお山の大将が号令をかけて その境は 何々国の国境であると言い渡した。
 戦争がおこなわれたかどうかを別として そのように国境線が天から降って湧いた。

 また お山の大将に対して ムラムラがどう対処したかには ふたつの場合があるようです。
 ひとつには 学力優秀で品行方正なアマテラス大将に対しては あまりにもその人徳ゆえに国なる広域の経営をまかせてくれと拝み倒すものだから これに根負けしてゆづった。社会に神棚をもうけて そのような第二階に住んでもらうことにした。《くにゆづり》の場合。
 あとは 力づくで決めた場合です。

 でもたいていは おなじ同胞(はらから)ですから まんざらよそよそしい間柄でもない。
 かくて 社会の形態は 一階に生活する市民たちスサノヲとそしてやがてお二階さんとなるアマテラス公民とに分かれて 二階建て構造となった。
 この国という家の形態は あんがい居心地がよかったのか わるくても何も抵抗しえなかったほどひどかったのか まだまだ世界史において つづいています。


 さて話を端折ります。
 おそらく
 ★ 『ルサンチマン』の様な排除
 ☆ あるいは排除というよりは不信感やたしかに敵対心を持つのは――持ってもおかしくないと思われるのは―― むしろ頭がいいからと言って ふんぞり返っているアマテラス公民に対してなのではないか?
 そのような《アマテラス‐スサノヲ》連関制なるあたまでっかちな逆立ち構造があるからこそ 《国境線》についても もめごとが起きる。のではあるまいか?

 というひとつの見方を提示します。どうでしょう?

お礼日時:2012/08/24 15:53

若し特定の宗教団体からの認証が御座いましたら、


寧ろ逆に西洋近代的な誤前提による支配からの解脱が難しくなるのですね。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7660693.html
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この回答へのお礼

 つづきます。

 わたし自身の立ち場からですが
 ★ 宗教団体
 ☆ は その組織のヒエラルキアによる権限関係から 参加する人びとの信仰上の到達度合い(つまりその深さや高さ)が判定されるという傾向があります。そのことによって 個人の信教良心の自由を――外形的にですが――侵すおそれがあります。

 これは 結社の自由を無効にするほどの不法行為を誘発し得ます。

 信仰の度合いを他人が決めることによって――それでもたしかに《心の内なる〈非思考の庭〉》そのものが傷つくことはないのですが―― 社会的な自由な活動を制限し左右するまでに到ります。


 もしそれでも結社の自由を認めるとするならば それは 宗教組織が《信仰》にもとづいて建てられたものではないと保証することが条件となると考えます。

 聖典なり修行なりについて――信仰には間接的にのみかかわって―― まなび実践するという内容に限定する必要がある。こう考えます。

 そのような条件は あいまいになっていると思われるからには 《信教・良心の自由を――社会活動にかかわる外形において――侵すおそれがある》。ゆえに
 ★ 宗教団体
 ☆ そのものをわたしはみとめません。憲法違反ではないかと考えます。





 ★ 西洋近代的な誤前提
 ☆ これは ちょっとあまりにも大雑把な規定だと思います。

 現象学というのが出て 分かりやすく言えば それまでの文化的学問的ないっさいの知的活動から 一たん判断中止(エポケー)して 白紙(純粋意識)に還れと言ったそうです。合気道みたいなもんです。

 環境の自然やあるいは人間存在としての自然 これらに《あはっ!》と言うまでに・つまりまた感受性を研ぎ澄ましてそう言えるまでに《もののあはれを知れ》というようなかたちで その脳みそ(記憶し整理した情報)を自然本性に戻せと言ったそうです。

 西欧は西欧でがんばっています。
 日本は日本でしっかりと着実に一歩一歩をあゆんで行かねばなりますまい。

 と考えます。

お礼日時:2012/08/24 15:34

非経験世界の側でも、使途不明の『水』の内部留保(

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%83%A8% … )が無根拠で繰り越されて来たのでしょうか?
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この回答へのお礼

 つづきます。

 基本的に言えば 

 ○ 非経験の場なる神にあっては 《ひとり満ち足りている》。

 です。
 ★ 内部留保
 ☆ を必要とはしていない。となります。

 水が涸れる・火が消えるというようなことはないわけです。




 前回 預言者が出て来ましたので その預言者にかかわって次のような話を 旧約聖書から引いて来ます。

 ○ 【Q:預言者ホセアの行動をどう捉えますか?】 ~~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6827810.html
  
 旧約聖書における預言者ホセアの行動について 問います。

 次に言う《淫行》は 人に対する裏切りと取ります。裏切りに遭っても その相手をホセアは 受け容れました。戻って来た妻を迎え入れました。
 これをどう扱うか? ホセアの行動をどう解釈するのか? 

 ▲ (ホセア書) ~~~~~~~~~~~~~~
 1:2 主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。

    「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。
    この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」

 1:3 彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。
 1:4 主は彼に言われた。

    「その子をイズレエルと名付けよ。
    間もなく、わたしはイエフの王家に イズレエルにおける流血
    の罰を下し イスラエルの家におけるその支配を絶つ。
 1:5 その日が来ると イズレエルの平野で
    わたしはイスラエルの弓を折る。」

 1:6 彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は彼に言われた。

    「その子を ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。
    わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず
    彼らを決して赦さないからだ。
 1:7 だが、ユダの家には憐れみをかけ 彼らの神なる主として、
    わたしは彼らを救う。
    弓、剣、戦い、馬、騎兵によって救うのではない。」

 1:8 彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、また身ごもって、男の子を産んだ。
 1:9 主は言われた。

    「その子を ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。
    あなたたちはわたしの民ではなく
    わたしはあなたたちの神ではないからだ。」

 ・・・・

 2:7 その母は淫行にふけり 彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。
  彼女は言う。

    「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻 オリーブ油と飲み物
    をくれるのは彼らだ。」
  
 ・・・・



 3:1 主は再び、わたしに言われた。

    「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。
    イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子
    を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」

 3:2 そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。
 3:3 わたしは彼女に言った。

    「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもと
    で過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」

 ・・・・

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 主題は いくつかあると思われます。

 (あ) 神によって与えられたヒラメキをどう受け取るのか?

 (い) ヒラメキ直観によって わが心がやわらぎを見出したそのあと 淫行すなわち人に対する裏切り行為をも ゆるされたと見ることが出来るか?

 (う) ヒラメキ直観に従うことは 裏切り行為をゆるせなくても その当の人(その掛け替えのない存在じたい)については 受け容れることが出来るということか?

 (え) ホセアなる男がヒラメキ直観に心から従うならば 相手つまりこの場合《淫行の妻ゴメル》の心においてもやわらぎが得られていると言えるのか? ゴメルは ホセアをただのロボットだと見なさないか?

 (お) ヒラメキによって心のやわらぎを覚えたとは言え ホセアは ほんとうに裏切りの人間を心から受け容れることが出来たのか?

 (か) そのほか じつはこういう主題が語られているのだというお考えがあれば どうぞそのように。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《用途自由の『水』の内部留保》が ホセアにはたくわえられていて その水がはたらいた。のでしょうか? (とてもわたしには まだまだ現実ではありません)。

お礼日時:2012/08/24 15:09

預言者達を経由させる判断(野蛮な西洋近代的主張)の過ちが、


神の裏技の妨げになり得るのでしょうか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7648144.html
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 預言者
 ☆ は 新約聖書の立ち場からは イエスに先行した洗礼者ヨハネを最後として もう出ないとなっています。
  
 ということです。

 神秘思想としての瞑想・観想も 或る種の神学として著わされたようですが 預言者と呼ぶには遠いと思われます。

 ですから
 ★ 預言者達を経由させる判断(野蛮な西洋近代的主張)
 ☆ ということが何を言うのか ただちにはよく読み取れないでいますが どうでしょう?



 エレミヤ書31:31以下のくだりを引きましたし その内容について触れました。
 《もう主を知れと言っておしえることはないし それまでのいわゆる罪は もう神は覚えていない》という事態が キリスト・イエスの十字架上の死のあと 実現した。こう見るかたちです。

 そうしますと
 ★ 神の裏技
 ☆ という主題ももう要らなくなっている。こうも考えます。すべて おまえたち人間どうしで 話し合い決めて行きなさいと。

お礼日時:2012/08/24 14:57

『前提(

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%8F%90 )』の正当性の有無が、
ジューダスプリーストの問題にも関わっているのでしょうね。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7659980.html
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この回答へのお礼

 つづきまして。

 ★ ジューダスプリーストの問題
 ☆ これが 分かりません。このバンドの曲で 少年が自殺したという事件があったそうですが――無罪判決でしたが―― これなどですか?
 それとも イエスの弟子だったユダの問題ですか?

 日本への核兵器の持ち込みについて まづどういう方向へ向けて話をすすめるのか。これが 決まりません。と いまはまづ 思います。すでに核配備していることの真偽を問うのか。中国や北朝鮮との外交関係を問おうとするのか。世界という視野で これからのじんるい社会についての展望を問おうとするのか。つまりは 国家の問題 国家という社会形態をどう扱って行くかを問題にする観点 これを問おうとするのか。



 ★ 前提の正当性
 ☆ これも 広すぎてどう応答すればよいか 思案します。
 正当性がうたがわれたなら 何であれ 互いに尋ねあい互いにそれに答えるという手続きを経て行けばよいとは思います。

 のですが?

お礼日時:2012/08/24 10:26

西洋人達の自然観は勧善懲悪の筋書き(

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%BC% … )へと依存せざるを得ないのでしょうね。
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この回答へのお礼

 そんなことを言ったら 水戸黄門はどうなるんですか。

 と口を撞いて出ましたが 果たしてどうなんでしょう?

 まづは ご回答をありがとうございます。



 わたしの感触では アメリカ人を――ただし行ったことはなく 文章や映像をとおしてですが――見ていると フェアだとか decency だとか consistency などといった言葉をすでに強固な観念として持っていて(あるいは 社会の側から持たされていて) それに振り回されているかに感じられる場面があります。

 言いかえると そのように言葉をとおして――つまりディベートのごとく――《公正さや 上品で高潔さや 思想の一貫性ないし言行一致》を追い求めているというように見えます。
 言行一致を 言葉の上だけで追い求めている。のです。

 あの五輪サッカーの優勝決定戦で米国チームに見られた《アンフェアネス》は どこへ行ったのでしょう? つまり自分たちが《ファウルを犯した》と自首するのではないかともわたしは少し思っていましたが そうはなりませんでした。
 やはり ホンネとタテマエ あるいはウラとオモテとがあるということでしょうか。

 欧米人は 不自然ないし反自然としての《社会性(社交性でしょうか)や文化的態度》を重んじて来ましたから ホンネとタテマエを 思想(生活態度)の一貫したかたち( ディースンシー)にととのえるのは やっかいになるかと思われます。

 人間どうしの交通(カカワリやマジワリ)を 競争的にしてさらには攻撃的であらざるを得ないと思って来たでしょうから 《自然》にもどすのは――それは 万人の万人に対するたたかいであり野蛮な状態だと規定して来ているのですから――むつかしいのでしょうね。

 スサノヲ人間語・自然語に対して そこから《文化の薫り高い》アマテラス普遍語(科学語および人格語)へとアマアガリ(上昇)しようとして頑張って来たのでしょうから それによる頭でっかちの状態を直すには ときが必要なのでしょうね。
 
 日本人のあいだで 欧米型がいまでは君臨していましょうか。どうでしょうか?

お礼日時:2012/08/24 09:57

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