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 イエスが なぜキリストか。
 次に掲げる聖句に集中します。
 その中で特には

 ○ 人の内から生きた水が湧き出る

 に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。

 ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~

 37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。

    「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
 38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の
    内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
 ~~~~~~~~~~~~

 * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~

 ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。

 ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~

 わたしは乾いている地に水を注ぎ
 乾いた土地に流れを与える。
 あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
 あなたの末にわたしの祝福を与える。

 ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~

 主は常にあなたを導き
 焼けつく地であなたの渇きをいやし
 骨に力を与えてくださる。
 あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~




 (α) イエスが なぜキリストか。

 すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。

 闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。

 このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。

 教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。



 (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。


 それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。

 この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。


 おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。





 どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?
 問い求めます。ご教授ください。

A 回答 (73件中31~40件)

盛況ですね。



こんなページを見付けました。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3019521.html
(5番の回答を御覧になって下さいませ。)
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ▲ (【Q:尊敬とリスペクト】回答No.5) ~~~~
 3.尊敬(日)とリスペクト(英)の違い:

 (1)
 尊敬(日):話し手と聞き手の間に、身分、位置の上下関係が自然に発生する。
 リスペクト(英):話し手と聞き手の間に、身分、位置の上下関係はなく、あくまで対等。

 尊敬(日):「尊敬する」は人を目的語にとる他動詞で、物を「尊敬する」とは言わない。
 リスペクト(英):「リスペクト」は人も物も目的語にとる他動詞で、物、例えば人の考えなどを「リスペクトする」と言うことができる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 二点 反論します。

 (あ) ▲ 尊敬(日):「尊敬する」は人を目的語にとる他動詞で、物を「尊敬する」とは言わない。
 ☆ 漢語の《尊敬》はそのような意味合いで遣われるようですが では《ウヤマヒ》はどうかという主題が欠けていると思われます。

 ◆(大野晋・古語辞典) ~~~~
  うやまひ〔敬ひ〕
   [語源] ウヤ(礼)マヒ(舞)の意か。マヒは フルマヒ・タチマヒのマヒに同じ。
   [語義] 敬意を表わす動作をする。
   [文例] ・阿闍梨も大威徳を――・ひて (紫式部日記)
       ・仏法を崇(うやま)ふ (大唐西域記三・長寛点)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 《文例》から見れば 《大威徳》は ほぼその人のことを言っているようですが 《仏法》については 《人》ではないものを目的語に取っています。
 ですから 借用語としての《尊敬する》だけをしらべただけでは 全体像を捉え得たとは言えないでしょう。

 (い) ▲ 尊敬(日):話し手と聞き手の間に、身分、位置の上下関係が自然に発生する。
 ☆ 《自然に発生する》ことと その発生する前の状態について考えることとは ふたつの別のことです。
 哲学は 両方をあつかいます。

 《マナザシを上からそそぐ側とそれをそそがれる側とに分かれる》というのは なるほど自然本性の意志行為によって発生します。
 その自然本性の意志行為の以前は どうか? いえいえ そうではなく同じ意志行為において その自然本性の内容として 《マナザシを同じ高さにおいて見る》という意志行為はないのか? この問いがまだなお考慮されていません。

 言いかえると こうです。
 世の中は すでに社会が出来ていて歴史を経て来ているならば すでに広い意味でのシガラミがそこかしこに出来ています。このシガラミに沿って人は そのそそぐマナザシを決めていると言えます。たいていは そうだという意味です。
 ということは 《同じ高さにおいてマナザシをたもつ》人間は どうするか? 上からそそがれたとき どうするか?
 その人の人格をとうとび にわかにはその意志行為のマチガイを指摘することもないでしょう。ただし そのマナザシを同じ高さにたもとうとするし――その心つもりを絶やさないでいましょうし―― とりわけ自分のマナザシについては やはり同じ高さであるようつねに意識して 相手を見る。こうだと言えましょう。



 つまり これら(あ)(い)の見解から 《自由で対等なウヤマヒ表現》が――例としては レル・ラレルのように―― あり得たし 成り立っていると考えます。
 成り立っているのは 潜在的にと言ったほうがよいかも知れません。
 ということは 敬語表現の中で《相手を高める尊敬語 および 自分を低める謙譲語》のナラワシを 上層として その下層には 《同じ高さのマナザシを持ってのウヤマヒ表現》がのぞみにおいていとなまれている。
 こういうことではないでしょうか?

お礼日時:2012/08/27 09:47

教祖無しの組織管理は…?


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E5%8A%9B% …
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この回答へのお礼

 つづきます。

 ★ 教祖無しの組織管理は…?
 ☆ ムラムラ(市町村)に祭りは 或る種の仕方で 人びとの信仰共同体です。強いて言えば 神道です。
 そこに《教祖》はありません。

 ただし ムラムラの神社は その昔 国家が出来たときから ヒエラルキアの中に組み込まれその位置づけが出来ています。その最高位の司祭は 天皇であるのでしょうか。

 と考え始めましたが これは 実際の事態を知らないで述べてもつまらないことになりますから やめます。理論の問題ではないと思いますから。
 現在の神社組織がどうなっているのか。という課題になりましょうか。


 イスラームも 《教祖無し》ですよね。
 ムハンマドは 預言者でしかないのですから。

お礼日時:2012/08/27 10:02

日本語の連文節が中心の流動化を…。

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この回答へのお礼

 つづきます。

 ★ 日本語の連文節が中心の流動化を…。
 ☆ うながす ですか?

 たぶんそれは 大勢に影響はないと考えます。
 主題が提示されるということは 《中心主題》が明確に示されるということです。
 その中心主題 つまりあくまでひとつの中心主題に いかに多くの連文節がついても 同じことでしょうから。

お礼日時:2012/08/27 09:55

動作主の行為が及ぶ相手達への間接…。



目の付け所が◎ャ~プでしょう。
http://okwave.jp/qa/q7665290.html
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 動作主の行為が及ぶ相手達への間接…。
 ☆ 的な敬意表現 でしょうか?

 基本的に言えば 文を別に添えればよいと考えます。
 その《相手達》について 自分はどう思っているかを 別文にて説明すればよいと考えます。
 同じ文の中で 体言なら別のかたちで表わすとか用言ならそこに敬語法の補充をおこなうとか そういう形態は おそらく上層ないし表層における敬意表現に過ぎない。こう考えるという意味です。

 わざわざシガラミを 鋼鉄の鳥かごに代え補強するようなものです。

お礼日時:2012/08/27 09:53
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この回答へのお礼

 ▲ 命が2つあった場合、その価値は大きく変化しますか?
 ☆ これもわたしには どこから切り込んで行けばよいのか。分かりづらいところを どう尋ね返せばよいのか。が分からないでいます。 
 この主題は それほど関心を引きませんというのも ほんとうですが。

お礼日時:2012/08/26 14:13
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この回答へのお礼

 ▲ 自信のない自分
 ☆ 《和風》かどうか?
 いづれにしましても その趣旨説明がいまひとつよく飲み込めません。

 一方では なんら心配することなく問題などないと見られますし 他方では それでもどこか愚図っているところがあるのかなとも思われます。

 そこを尋ねる場合もありますが いまなかなか はっきりしません わたしには。様子見です。(どうするかも分かりませんが)。

お礼日時:2012/08/26 14:11

古代日本の庶民は為政者陣営に降参したのでしょうか?

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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづおことわりしなければならないことは 文献のない時代のことで 歴史学もお手上げだということです。
 記紀(古事記・日本書紀)等々の――単なる神話でしかない文章をふくむ――資料をもとに自分の歴史物語をえがくというかたちになります。

 基本は 《くにゆづり》をした これです。

 ふたつの説明を用意します。


     *

 縄文人から弥生人へそして古墳時代人へと推移する日本人の《心性ないし知性》を次のように捉えます。

 -1 :原始心性= 《ヨリ(憑り)》:世界への寄り憑き
          (アニミスム&シャ​ーマニスム)
  0 :歴史知性= 《イリ(入り)》:世界への入り
 +1 :超歴史知性= 《ヨセ(寄せ)》:世界を寄せる。《ヨリ》を束ね
      依らしめ​ 《イリ》をも社会力学上(政治的に)寄せる。

 原始心性は 非情のごとく言えば 歴史知性以前です。イリは ふつうの社会人です。
 ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では な​ぜ 最後にヨセが出て来たのか。ここでは これ(ヨセなるスーパー歴史知性)は 要ら​ぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と​言ったりします)。これはまた 宗教の始まりです。

 言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる​原始心性におけるアニミスム自然本性の要素を備えている​でしょうから(つまり むやみに捨て去ることはないでし​ょうから) その非科学的な――反科学的ではなく 非科​学的な――心性として いわゆる信仰(非思考)をも持っ​ています。単純に 超自然のちからを かみと呼んだこと​でしょう。

 さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》​なる人間類型が出ました。



 単純に言えば ヨリ・アニミスムを備えたイリ歴史知性​は その信仰において 神との共生をふつうの社会的な(​村の)人生としており 実際に或る種の儀式として 神と​の共食を持ちます。つまり 穀物の収穫に感謝し供え物を​して 共に味わうわけです。つまり《まつり(奉り・祀り​・祭り)》です。どんちゃん騒ぎもおこないます。

 ヨセは このマツリを 一段高いところから(ふつうの​イリ歴史知性を超えたと言わんばかりの精神において) 《まつり​ごと》として制度化したというものです。マツリゴトとは​ 個人の信仰を束ねる集団としての宗教であり政治です。

 古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナ​ガタラシヒメのミ
  コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき​。
  
 西暦四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州​のクマソもしくは半島の新羅を討つというくだりで出て来​ます。

 これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせ​ます。そして 違いは すでに人びとは一般に イリ歴史​知性なる有限で時間的な存在としての自覚を持ったあとだというこ​とです。かくて 《ヨリ・シャーマニスム+イリ歴史知性》で​ 《ヨセなるスーパー歴史知性》の誕生というわけです。鬼っ​子かも知れません。



 つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ 人びと(​アニミストの)と同じ地平に立っていたところがあります​が このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌ったよ​うです。
 嫌ったので 強引に社会のいわば第二階に みづから上​がって行ったのか それとも人びとが その新型シャーマ​ンに辟易してこれを敬遠し 人びとの合意で これを社会​の神棚に据えてまつろうということにしたか いづれとも​推し測られます。(《国譲り》説は 後者です。社会が ​二階建てになりました。アマアガリが完成しました)。
 要するにここに 神の代理が 出現しました。ムラムラにおける見えな​い神との共食(供え物をしてのまつり)が 見える神との​共食(貢税を伴なうまつりごと)になったという話です。 


     *


 西欧近代における社会契約説にあっては

 ○ 人は人に対して狼である( Homo homini lupus. ) / 万人の万人に対する戦い( bellum omni contra omnes )

 という命題がかかげられました。土地を囲っておれのものだと宣言したら その所有が決まる。けれども あとは・そのあとでも 奪い取ればよいというような考え方だと思います。

 これを《主戦論》の思想として規定し それに対してわが国では そもそもの二階建て構造の国家が打ち建てられるときには そうではなく《非戦論》としての《くにゆづり》をとおしてであったと仮説しています。これをめぐって歴史が問い求められています。

 ちなみに主戦論も非戦論も どちらも人びとの自由を社会的に実現するためには 人は弱いものであるというその人間の能力の限界がからんでいるであろうと見ています。どちらも同じ人間の弱さから来る思想であれば 人殺しをしなくて済む非戦論を取ろうという考え方が その昔の日本人にはあったのではないか。この問題です。

 二階建て構造が《アマテラス公民‐スサノヲ市民》の連関から成るという仮説も 公民・市民の規定は ふつうの経験科学のものだという反面で アマテラス・スサノヲは明らかに神話にのっとっており 歴史事実であるかどうかも分からない事柄ではあります。

 そしてその神話に関する限りで 両者は 実の姉と弟であり それぞれのクニ(市民社会)のあいだに主導権の争いが起こったのも そのとおりであるようです。そこでスサノヲ共同体は 非戦論により国ゆづりをおこなったとも書かれています。

 国ゆづりをするに到るまでの経過は 要するに《アマテラスの国に従え》という服属の要求があったということです。たとえば 次のように全権大使もしくは軍隊が何回かに分けてやって来ました:

    ~~~

 タカマノハラ(=アマテラス国)に神(かむ)留まりまして 事始めたまひし神ろき・神ろみのミコトもちて 天の高市に八百万の神たちを神集(つど)へ集へたまひ 神議(はか)り議りたまひて 

   我が〔* アマテラスの〕皇御孫(すめみま)のミコトは 〔* スサノ
  ヲの〕トヨアシハラのミヅホの国を 安国と平らけく知ろしめせ(統治せ 
  よ)

 と 天の磐座(いはくら)放れて 天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて アマクダシ寄さしまつりし時に 

   誰(いづ)れの神をまづ遣はさば ミヅホの国の荒ぶる神どもを神攘
  (かむはら)へ攘(はら)ひ平(む)けむ

 と 神議り議りたまふ時に もろもろの神たち皆量(はか)り申さく

   〔* 第一の使い:アメノホヒのミコト〕
   アメノホヒのミコトを遣はして平(む)けむ

 と申しき。
 ここをもちてアマクダし遣はす時に この神は返り言申さざりき。

   〔* 第二の使い:タケミクマのミコト〕
 次に遣はししタケミクマのミコトも 父の事に随ひて返り言申さず。

   〔* 第三の使い:アメノワカヒコ〕
 また遣はししアメノワカヒコも返り言申さずて 高つ鳥の殃(わざわひ)によりて 立ちどころに身亡(う)せにき。

   〔* 第四の使い:フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト〕
 ここをもちて天つ神のミコトをもちて また量りたまひて フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト二柱(ふたはしら)の神たちをアマクダしたまひて 荒ぶる神どもを神攘ひ攘ひたまひ 神和(やは)し和したまひて こと問ひし磐ね樹(こ)の立ち・草の片葉も語(こと)止めて 皇御孫のミコトをアマクダし寄さしまつりき。



  かくアマクダし寄さしまつりし四方(よも)の国中(くぬち)と 大倭(おほやまと)日高見の国を安国と定めまつりて 下(しも)つ磐ねに宮柱(みやばしら)太(ふと)敷き立て タカマノハラに千木(ちぎ)高知りて 天の御蔭・日の御蔭を仕へまつりて 安国と平らけく知ろしめさむ皇御孫のミコトの 天の御舎(みあらか)の内に坐(ま)す皇神(すめがみ)たちは 

  荒(すさ)びたまひ健(たけ)びたまふ事なくして 

 タカマノハラに始めし事を神ながらも知ろしめして 神直び・大直びに直したまひて この地(ところ)よりは 四方を見はるかす山川の清き地に遷(うつ)り出でまして 

  吾が地と領(うしは)き(おさめること)ませ

 と たてまつる・・・
   (《祟(たた)り神を遷(うつ)し却(や)る》――《祝詞(のりと)》)
 
    ~~~

 ☆ 古事記には《第四の使い:フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト》が スサノヲ側と腕相撲をしたとも書いています。
 スサノヲ側は すでにオホクニヌシの代になっていて オホクニヌシは ふたりの息子と相談すると答えたあと ひとりはじつは主戦論をとなえ たたかい諏訪にまで逃げてそこで滅ぼされました。
 もうひとりは 腕相撲をしたとも ゆづったとも書いてあります。

 《侵略によって奪い取られた》と言えないこともないかも知れません。ぎゃくに その場合でも奪い取った側のほうが それはもともと我が領土であったと言いたいし 言っているのだと見られます。 
 ただし《国ゆづり》とは はっきりと書いてあります。


 そうして豊葦原の瑞穂のくに(スサノヲの国)にやってきた《皇御孫(すめみま=天孫)のミコト》は じつは アマテラスとスサノヲとのあいだの子の子どもであったらしい。ホノ二ニギのミコト。

お礼日時:2012/08/26 14:07

参考になるかも知れない質問を見付けました。


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3543763.html

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7663749.html
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この回答へのお礼

 そうですね。

 ▲(大野晋・古語辞典) ~~~~~
 ○ たまふ(賜ふ・給ふ)

  [語義の解説] 目下の者の求める心と 目上の者の与えよういう心とが合って 目上の者が目下の者へ物を与える意が原義。
  転じて 目上の者の好意に対する目下の者の感謝・敬意を表わす。

  [仮説としての解説] タマ(魂)アフ(合ふ)の約か。
   〔求める〕心と〔与えたいと思う〕心とが合う意で それが行為として具体的に実現する意。
   古語では 《恨み》《憎み》《思ひ》など情意に関する語は 心の内に思う意味が発展して それを外に具体的に行動として現わす意味を持つ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 もしこうだしたら すでに初めに《眼差しをそそぐ者とそそがれる者との目上・目下の関係》が成ったあとの社会における言語表現になるかと思います。
 《まなざし》が互いに自由で対等であるか? の問題だと。

 上から目線や あるいはときには下から目線といったマナザシのそそぎ方であるなら その表敬表現は 起源なる状態からの二次的な派生であると考えられませんか?
 二次的で派生した情況こそが すでに押しても引いてもどうすることも出来ない現実であったとしても 哲学の理論としては 《大道》を思うこともおこなうと思います。


 自由なあいだがらにおいて よこせ――くれてやる といったやり取りが出来ることを目指します。

お礼日時:2012/08/26 08:43

閑話休題


http://thinkit.co.jp/story/2011/08/18/2233
http://ascii.jp/elem/000/000/465/465458/

表敬は直接的にのみぞ為されむや?
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この回答へのお礼

 《間接的な表敬》 ですか?

 それは たぶん いづれあとで直接に会うときの表敬表現が問題になるのだと思います。

 直前のやり取りを参照していただきたい。

お礼日時:2012/08/26 08:26

オリンピックでも見られました通りに、


西洋人達は自己の勝利の後に敗者の健闘を讃えたがりますが、
日本の伝統的な美意識では、自己の偶発的な勝利…。
http://twitter.com/XF5/status/201264619719901184
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch/0/0na/16630100/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%AA%9E
http://ameblo.jp/daisan110/entry-11277878846.html
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ことは 敬語表現には限られないということですよね。

 まづ 長く引用します。
 ▲ ( ameblo の記事です) ~~~~~~
 テーマ:武士道!

「アメリカにおいては、贈り物をするとき、
 贈る側は受け取る人にその品物を褒めそやす。
 しかし、日本ではこれを軽んじたり、悪く言ったりする。」

 この文章は新渡戸稲造の「武士道」(第六章)に出てくる文章です

 この違いはアメリカ人は「素晴らしい貴方には、
 素晴らしい品物以外を贈るのは無礼です」と考える

 そして日本人は「素晴らしい貴方には、
 どんな品物もふさわしくないこの品物を、物そのものの価値ではなく、
 私の好意のしるしとして受け取ってください」と考えるのです

 アメリカ人は物の面からいい、日本人は気持ちの面から言う

 表現は違えど同じ考え…

 しかし、アメリカ人が好意を「主張」するのに対し

 日本人は好意を「謙譲」するのです

 さらに新渡戸稲造はこの考えが、「謙譲」は仁とともに

 「礼」という徳をつくると言ってます
 ~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《贈り物》ないし《贈与》論は けっこうやっかいな議論があると思います。それは 受けた側における《負い目〔を感じること〕》の問題です。いづれ返さなければならない《債務》とさえ感じる場合もあります。

 それはひとまづ措いておいて 贈り物をするとき贈る側は どういう表現をするか? この主題です。

 1. ここでもわたしは 《贈り物》の起源を問います。

 2. 敬語表現で《ウヤマヒ》起源説を取りましたが 一般に《贈与》の起源は 《ウヤマヒ不在》説を取ります。

 3. 自由で対等なカカワリないしマジワリ そしてそのシルシとしてのウヤマヒ これがまだ築かれていないときに この互いのウヤマヒを求めておこなうのが 贈与であると。お近づきのシルシとするそのかたちであると。

 4. ならば・もしそうならば 贈るモノを持ち上げようとけなそうと その基本の意図としては変わりない。のではないか?

 5. そのモノがすばらしい相手にふさわしいと言いたいゆえその品物はやはりすばらしいのですよと自分もモノをも高めて渡す場合にしろ 相手に対して自分は贈り物をするにはあたいしない者ではありますがどうぞ受け取ってくださいという意味合いで つまらないものですがとわざわざ自分もモノをも低めて渡そうとする場合にしろ 《お近づきのシルシ》であることに変わりはない。

 6. 何かすでに事が起こっていて その結果に対してたとえば感謝の気持ちを表わそうとして贈る場合など すでに因縁がある場合は たぶん別だと見ます。カカワリやマジワリがすでに始まっている場合だからです。

 7. と考えるとすれば 敬語表現は起源としてウヤマヒの既成ゆえにでしょうし 贈与という表現はやはり起源としてウヤマヒの不在ゆえにであるとなります。どちらも ウヤマヒゆえにです。その実態は 自由で対等な人間関係です。

 8. 相手や品物を高めるかあるいは自分や品物を低めるか この違いは それほど大きな要因になりましょうか?

 9. もし《仁》や《徳》を問題にするのならば 《お近づき》に際して そのかたちあるシルシとしては 何も用いない。これが 人格の核であり境地のゆとりなのではないでしょうか? もともと自由で対等なのです われわれ人間は。
 
 10. そうでないとすれば あなたも提起しておられたように 《大道すたれて仁義あり》となろうかと思われて来ます。贈り物をするときの表敬――尊敬であれ謙譲であれ――の表現は まさにその《仁義》のかたちであろうかと思われて来ます。

 11. 新渡戸稲造は 浅い。と言ったわけです。

 12. 《スポーツの試合などにおける自己の勝利》について どう表現するか? どうでしょう? どうなんでしょう? 高橋尚子と福士加代子の場合は それぞれどうか?

 13. ★ ~~~~~~~~~
 西洋人達は自己の勝利の後に敗者の健闘を讃えたがりますが、
 日本の伝統的な美意識では、自己の偶発的な勝利…。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どちらも 《仁義》としてのかたちだとしたら どうか? あなたは 絶対無をかかげておられましょう? そのことと仁義というかたちとは どう調和しましょうか? どうでしょう?

お礼日時:2012/08/26 08:24

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