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 イエスが なぜキリストか。
 次に掲げる聖句に集中します。
 その中で特には

 ○ 人の内から生きた水が湧き出る

 に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。

 ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~

 37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。

    「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
 38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の
    内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
 ~~~~~~~~~~~~

 * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~

 ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。

 ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~

 わたしは乾いている地に水を注ぎ
 乾いた土地に流れを与える。
 あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
 あなたの末にわたしの祝福を与える。

 ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~

 主は常にあなたを導き
 焼けつく地であなたの渇きをいやし
 骨に力を与えてくださる。
 あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~




 (α) イエスが なぜキリストか。

 すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。

 闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。

 このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。

 教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。



 (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。


 それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。

 この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。


 おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。





 どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?
 問い求めます。ご教授ください。

A 回答 (73件中21~30件)

宗教団体への加入に限らず、何らかの組織への依存が心の支えになっている、


という錯覚を覚えますと、他者達にも其の感覚を共有してほしくなりやすくて、
其のせいで、不毛な派閥化が…。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BE%E9%96%A5
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この回答へのお礼

 つづきます。

 そうですね。わたしの考えでは 組織を 宗教組織とそうでないものとのふたつに明確に分けます。
 宗教組織は あくまで個人の良心・信教の自由として成り立っているものであるにもかかわらずその意志ないし心をも基礎として 人が複数あつまります。つまり信仰の度合いが そこに参加する人びとの評価の基準にさえされてしまいます。

 そうされても 内面がどうにかなるわけではないのですが――精神が 外からのまた他者からのチカラによってどうにかされてしまうということは ほんとうにはないのですが ただし社会的な位置づけやら身分関係やらとして外形的には大いに影響を受けざるを得なくなります―― けっきょく良心・信教の自由を踏みにじるおそれが出て来ます。
 その問題を問うています。

 言いかえると 宗教組織におけるヒエラルキアから来る動きづらさやそこでの派閥関係と そうではない一般の組織における派閥の力学とは 基本的に違う。こう考えます。後者の場合には 表現の自由にもとづき 互いに意見をたたかわせればよいと――理論上は―― 考えられます。

お礼日時:2012/08/29 10:12

http://homepage3.nifty.com/bunpou/keigoC.htm

自然を非経験のサーバーだと考えますと、
関わり方の点で、アクティブモードとパッシブモードとの切り替えが…。

http://ja.wikipedia.org/wiki/File_Transfer_Proto …
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ▲ 敬語マスター編  そのI  「謙譲語」と「尊敬語」と「丁寧語」について
 ☆ から たとえば次の語を取り上げ その起源について分析してみます。

 ○ 謙譲語:まかる :[意味](退出する・参上する);[ふつう語] 出づ・去る・行く

 (1) この語は まづ 次の語と語根を同じくすると言われます。

 ○ まか‐す(任す);まか‐る(罷る);まけ(任け)

 例文:大君のまけ(任け)のまにまに ひなさかる国治めにと・・・(万葉集3291)

 ☆ これは《任命〔する〕》の意味です。
 
 (2) ここからは 推測をまじえます。韓国語に 次の語があります。
 
 ○ 맡기다( math-gi-da マッキダ):任せる

 ☆ 語尾の‐ダは 英語の to 不定詞のようなものですから マッキが語幹です。どうもこれが借用されて《まかる》などが造られたのではないかという憶測です。
 憶測が間違いであっても構わないという前提で取り上げているのですが その意味は 尊敬語であろうと謙譲語であろうと もともと語じたいに 表敬の意味などはない。これを確認するためのひとつの分析になります。

 (3) マッキダは じつは つぎの語から派生しています。

 ○ 맡다( math-da マッタ):引き受ける。

 つまり マッキダは 《引き受けさせる》という意味での派生語です。
 それはそれとして マッキダのマッキから 《まけ・まかす・まかる》が借用しつつ造られた。のではないかという妄想です。

 (4) だいたい 語末の母音は ‐イで安定するのが 日本語ですが 不定法(不定として捉える気分)としては ‐ア か ‐オ( ö )です。
 ですから マッキから マカが想定され そこから 人為・使役相としては マカ‐スが造られ 自然生成の相としては マカ‐ルが得られた。マケ(任け)は 

 ○ maka-i > makä > make まけ

 という生成です。〔 haka 捗(ハカがゆく・ハカ取る・ハカ‐る(測る)のハカ) > haka-i > hake はけ(水はけのハケ)〕



 (5) つまりどういうことか?
 
 ○ まか‐す:引き受けさせる;相手の自由な意志による行為や現象にゆだねる。
 ○ まか‐る:引き受けさせられたこと・命じられたことをする(相手の自由な意志を尊重しているかたち)

 と表現したいのであって そしてそれらが社会の現実の身分関係に沿って用いられたに過ぎないのであって そこで表敬やら謙譲の意味合いが出るというのは 言葉そのものにはない。社会的なニンゲン関係という文脈から出て来るに過ぎない。

 こういうことだと考えます。
 
 (6) もうひとつたとえば

 ○ (謙譲語)聞こゆ・聞こえさす: [意味](申し上げる);[ふつう語] 言ふ

 にしても 《聞こえるかたちをとる。聞こえるように言う》と表わしているだけであって その言葉じたいに上下関係や尊敬もヘリクダリもない。と言わねばなりません。
 
 (7) 社会の情況に合わせて言葉の表現を変えて用いるというのは 宣言と言わずマニフェストと言い 討論ではなくディベートであったり お話会はトークショーであったりとなります。今では身分関係が薄いのですから 敬語表現という意味合いも薄いものです。言葉じたいに 表敬の意味合いが濃かったり薄かったりする中身はありません。


     *


 ★ ~~~~~
 自然を非経験のサーバーだと考えますと、
 関わり方の点で、アクティブモードとパッシブモードとの切り替えが…。
 ~~~~~~~
 ☆ 《非経験の場》と人間もしくは社会のこととのあいだには わが心なる《非思考の庭》を介在させて捉える必要があります。
 非思考の庭と コギト(つまり思考です)とのあいだには ヒラメキ(直感および直観)を介在させます。
 ですから 《サーバ》だとしても 直接に関わるとは捉えないほうがよいと考えます。




 ○ ヒラメキの位置づけ(ロゴスの階層 または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか) ~~~~~~~~

  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神

  ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________

  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
       
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化
         :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?

  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に
        もとづこうとする論理

 
   * ~~~~~~~~~~~
   ・ロゴス:ことば
   ・スピリトゥス:霊。聖霊
   ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)
   ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば
   ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。
    〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕
   ・ラチオ( ratio ):理性
    〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕
   ~~~~~~~~~~~~~~
   
  ~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2012/08/29 10:01

#50の続きです。



敬いの気持ちが添えられているのか否かを申し上げているのは御座いませんでして、
あくまでも『(入門の)国文法』の技術論を展開させていますが、
まさか本当に御存知ではいらっしゃらないのでしょうか?
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この回答へのお礼

 つづきです。

 ★ 『(入門の)国文法』の技術論
 ☆ 知りませんが 問題は ウヤマヒという存在論かつコミュニケーション論としての哲学にあります。と申しています。
 焦点のおき方が 違うかと考えます。

お礼日時:2012/08/28 20:20

一度、別の要素を加えまして、伺います。



『エランビタール』の仕組みは、
『(非経験の場からの)水』に支えられてきたのでしょうか?

http://www1.vecceed.ne.jp/~te1518/hon3.htm
http://goonsh.ddo.jp/fg/2004/06/24/elan-vital
http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20051128

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8B% …
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ▲ ~~~~
 閑老人のつぶやき 本について3
 I 上田閑照『エックハルト 異端と正統の間で』
 ~~~~~

 ☆ この内容に異をとなえます。

 神との合一だとか一たん神を去るとか そういったことは 概念操作である。と考えます。
 非経験の場ないしそれを受け容れたわが心なる非思考の場 ここで概念操作があるとは考えられません。
 
 別様にこの反論内容を説明しようと思えば:
 合一だと思っていなくても 神は手を差し伸べているかも分かりませんし 神を去ったと人間が思ったからと言って 神が遠ざかったとか近づいたとか言うのは ただのうわべのことだと見ます。

 にんげんは 自由意志をあたえられたその意味での主体ですが それを成り立たせる根拠は 神であり その神はじつは 無根拠です。人間から見れば 無根拠です。
 
 エックハルトないし上田閑照ないし《閑老人》の観想もしくは思索は 非思考の庭であそびをしているのかも知れません。つまり いい意味でもそうであるかも知れないとともに あまりいい意味だとは思われない観念のあそびであるかも知れません。




 ★ ~~~~
 『エランビタール』の仕組みは、
 『(非経験の場からの)水』に支えられてきたのでしょうか?
 ~~~~~
 ☆ エラン・ヰタルというのは――推測ですが―― 『(非経験の場からの)水』のあり方を捉えて そのまま名づけているかたちであるように思います。 
 ただし 生物学的な内容がおもなもののようで 生命のチカラを言っていましょうか?

 《泉に湧き出る水》は 生物学的なチカラをふくみ それを超えたチカラをも言っていますから ふつうは――何とも正体が分からないゆえ――《霊》と呼んでいます。つまり 無根拠のことです。

お礼日時:2012/08/28 20:32

『動作主の行為が及ぼす相手達への表敬』の表現は大学入試へも出題される程度の内容に留まっていますが、本当にそれを御存知でいらっしゃらないのでしょうか?



非常に博識でいらっしゃる様ですので、
殊更に常識を紹介する回答を提出させて頂きますと、寧ろかえって失礼に当たるのではないか、
と私には思われましたから、遠回しの表現で十分条件が満たされ得るだろう、
と考えておりますが、『自敬表現』の様な解説が必要なのでしょうか?

因みに、其の発想は通信等の各Protocolの策定にも役立ってきました。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 『動作主の行為が及ぼす相手達への表敬』の表現
 ☆ 表敬表現がなくても――人と人とのあいだにウヤマヒ関係があれば―― かまわないという考えです。

 ( a ) 動作主=話し手。その動作をこうむる人=聞き手のばあい。

  ( a-1 ) わたしは あなたを見た。
  
 ( b ) 動作主=話し手。動作をこうむる人=第三者。

  ( b-1 ) わたしは かれを見た。
  ( b-2 ) わたしは 天皇を見た。
  ( b-3 ) わたしは あなたの父親を見た。

 ( c ) 動作主=聞き手。動作をこうむる人=話し手。
 
  ( c-1 ) あなたは わたしを見た。

 ( d ) 動作主=聞き手。動作をこうむる人=第三者。
 
  ( d-1 ) あなたは かのじょを見た。
  ( d-2 ) あなたは 天皇を見た。
  ( d-3 ) あなたは わたしの母親を見た。

 ( e ) 動作主=第三者。動作をこうむる人=話し手。

  ( e-1 ) かれは わたしを見た。
  ( e-2 ) 天皇は わたしを見た。 
  ( e-3 ) あなたの親は わたしを見た。

 ( f ) 動作主=第三者。動作をこうむる人=聞き手。

  ( f-1 ) かのじょは あなたを見た。
 
 ( g ) 動作主=第三者。動作をこうむる人=別の第三者。

  ( g-1 ) かれは かのじょを見た。
  ( g-2 ) 天皇は 皇后を見た。
  ( g-3 ) あなたの親は わたしの親を見た。



 ★ 通信等の各Protocolの策定
 ☆ は哲学以後の問題だと見ます。

お礼日時:2012/08/28 10:42

『(内大臣が夕霧を)あなづり聞こえ給ふ』という表現が源氏物語に御座いますが、…!?

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この回答へのお礼

 直前No.48のお礼欄と同じお応えです。

お礼日時:2012/08/27 21:28

自己受け手形の様な自敬


http://boki2s.seesaa.net/article/31101257.html
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この回答へのお礼

 敬語表現――すなわち 相手を高める尊敬語および自分を低める謙譲語―― これはあくまでこの世の身分関係に沿ってその事実関係に合わせて表現しているのみです。
 
 やはり人間関係としてはその表層の心理について気を配るのみの話です。
 言ってみれば ウヤマヒの振りをしていれば済むという思想です。
 その意味での敬語表現は シガラミにわざわざ自分からどっぷりとつかって行こうという《自己犠牲》の精神に発しているのでしょう。
 《見上げた》行為なのでしょう。



 身の周りの者から尊敬語によってものを言われることをつねとする身分の上の者が そのように尊敬語表現を相手にうながすためのようにしてさらに自敬表現を用いるまでに到るのは 謙譲語に輪をかけるようにして自分を貶めさらに謙譲語をつけ加えて相手におもねることと同じように 笑止千万なことです。

お礼日時:2012/08/27 14:54

御互いの意見の尊重は尊厳を…。

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この回答へのお礼

 だれがいつどこで相手の意見をないがしろにしましたか?

お礼日時:2012/08/27 14:46

尊崇対象への尊敬は適切なのでしょうか?

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この回答へのお礼

 ★ 尊崇
 ☆ という言葉は ほとんど哲学的内容を持つとは考えません。

 ただすがりよることに過ぎないと考えます。
 心の動きではあっても ただ表層の心理に過ぎないという意味です。
 意志行為として内実を持たない。こういう意味です。

お礼日時:2012/08/27 14:45

たとえ別の文を添えませんでしても、日本語では#41の内容を『非常に』簡単に…。

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この回答へのお礼

 と言うよりも 内容がよくつかめません。

 判じ物を回答とするのは いかがなものでしょうか?

お礼日時:2012/08/27 14:42

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