アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 イエスが なぜキリストか。
 次に掲げる聖句に集中します。
 その中で特には

 ○ 人の内から生きた水が湧き出る

 に焦点を当てます。ぎゃくに言うと なぜこのコトに一般にクリスチャンは注目しないのか? と問います。

 ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~

 37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。

    「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
 38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の
    内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
 ~~~~~~~~~~~~

 * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~

 ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。

 ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~

 わたしは乾いている地に水を注ぎ
 乾いた土地に流れを与える。
 あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ
 あなたの末にわたしの祝福を与える。

 ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~

 主は常にあなたを導き
 焼けつく地であなたの渇きをいやし
 骨に力を与えてくださる。
 あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~




 (α) イエスが なぜキリストか。

 すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。

 闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。

 このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。

 教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。



 (β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。


 それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと関係なく《信じる》のは同じであるというところの《非思考の庭》 このかたちがわが心に成るという問題。

 この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。


 おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。





 どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか? さまざまに展開しえましょうか?
 問い求めます。ご教授ください。

A 回答 (73件中1~10件)

たとえ自分の顔を恵んであげましても、


アンパンマンはヂャム叔父(伯父)さんから新しい顔を提供して貰えますので、
其の再生可能性への卑怯な甘えをアンパンマンは継続しています。

でも、修復の度量の酷くきな格差こそ有れ、
我々は自己修復の為の水に身を浸させて頂いていて、
それを疑わずに受け入れていけば宜しいのですね。
http://www.openpne.jp/pne-downloads/mobile_ip_li …
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 えらそうに申すならば まだこれまでの蓄積からお応えしうる。というところではあります。


 ★ それを疑わずに受け入れていけば
 ☆ 《うたがう》ところから 何ごとも進展があります。大いにうたがいましょう。
 うたがったからと言って キリストの神のバチが当たるなどということはありません。カカワリを持ったと思うゆえに うたがいもするのですから。むしろ神はよろこんでいましょう。

 ★ 受け容れる
 ☆ これも じつは はねのけてもかまいません。カカワリを持つことが大事なのだと思います。無関心ではいけないという意味です。
 神に対してツッコミを入れたり このバカタレとののしってもかまいません。それ相応の気持ちや意味があるからこそそうするのですから。つまり神のよろこぶところです。

 すこしくそまじめに行きます。
 ▲ (新約聖書・ヘブル書8:7-13) ~~~~~
 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

   「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

   「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

   「それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。

   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《不義を赦し 罪をもう思い出さない》し 《おれのことを知れと言っておしえる必要もない》と言っています。ユダヤがどう 日本はこうといった違いもありません。


 
 前回わたしはアンパンマンについてひどくけなしましたが 考えてみれば アンパンマンのジャムおじさんへのアマエは あたかも見えざるおじさんとして――つまり非経験の場として――あると思えば それは聖なるアマエでありましょうから 泉のごとく水が湧き出ることにつながる。と言っていい。のでしょうか どうでしょうか?

 



 うたがいを大いに差し挟み しかも手放しで受け容れましょう。

お礼日時:2012/08/21 19:24

たとえ『徳の積み立て』が不十分に留まっていましても、


思考(考慮)に関わらず、保険負債を担って下さるのですね。
http://www.shinnihon.or.jp/corporate-accounting/ …
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この回答へのお礼

 つづきます。

 ★ 保険負債
 ☆ は たとえではなく 実際のことを言っているのですか?
 それなら ふつうにこの経験的なことがらとして 処理されて行きましょう。

 たとえなら?

 ★ たとえ『徳の積み立て』が不十分に留まっていましても、
 ☆ ええ。たしかに《善行を積む》であるとか《徳の積み立て》が十分か十分でないかは 水の湧き出る泉に成ることに差し障りはありません。
 わが《非思考の庭》を かのナゾの何ものかがノックして来たとき それを受け容れたなら 水が流れ出します。
 どういう過去を持ちどういう人柄であるか等々にかかわらず無条件に そうなるという物語です。

お礼日時:2012/09/10 00:37

此の様な意見を見付けました。


http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7685546.html
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この回答へのお礼

 ええっと ひとのみち氏には もうすでにいまの状態からの解脱の道をおしえてあります。
 また さからったようです。

 うまく対処した回答もついていますが はぐらかしの名人にとっては 効かないようです。

 効けばいいのですが だめなら ぶらじゅろんクンに すでにたしなめられたんぢゃないですか? と言ってやってください。

お礼日時:2012/09/08 06:18

無謬性を押し付けられ乍ら祭り上げられたイエスにとりましても、


基督公の称号の付与は迷惑な出来事だったのでしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8% …

http://www.youtube.com/watch?v=Rw7myHKT_VE
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 無謬性を押し付けられ乍ら
 ☆ イエスは すでに生前にみづから自分がキリスト(メシア)であると言っています。
 そしてこのキリストが もし神の子でありみづからも神であるその存在を言うのでしたら その神には真理であることのむしろハタラキとして全知や全能や慈愛や不可変性やそして無謬性があると言われることはあります。
 属性としてそうであるなら 特に《押しつけられた》わけではありません。

 ★ 祭り上げられた
 ☆ というのは キリスト=マッシーアハの元の意味として 王であり またその当時のユダヤのローマ帝国への従属という情況としては政治的解放者という意味を持ったようですから キリストだと噂されれば そのように指導者になって欲しいという《まつりあげ》があったとも考えられます。
 ただし イエスは ほとんどそのウゴキは意に介しませんでした。



 ★ イエスにとりましても、基督公の称号の付与は迷惑な出来事だったのでしょうか?
 ☆ ですから この地上の国における政治的闘争家かつ解放者という意味でのキリスト称号だとすれば それを付与されて《迷惑》かどうかも 意に介さなかったものと思います。うわさはうわさで流れるでしょうから。

 弟子のひとりであるユダ(カリオテの人)が 弟子でありながらそのような――イエスに 政治的指導者になって欲しいという――《夢》を自分の側で持ち追い求めていたとも言われます。

 ほかの弟子たちも イエスの生前には イエスが自分はキリストだと言っていても そのことが神の子であり神であることだという意味を よくは分からなかったようです。

 十字架上の死を死んだのちに イエスは復活したとまでうわさされ 《非経験の場》のチカラとしての神であるとやはりうわさされました。つまり イエスというふつうの人間でありつつ キリストという神であるという見方です。
 このおとぎ話が 現実のチカラとして作用するもののようです。

お礼日時:2012/09/07 09:11

人工的に開発された情報資源の類いさえもが、


無量寿光のヲーターサーバーから汲み出されてきたのでしょうか?
http://okwave.jp/qa/q7681328.html
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この回答へのお礼

 ☆☆(No.33お礼欄) ~~~~
  ○ 『無量寿光』の御蔭で、『非経験の場』をおのが心に受け容れて成る『非思考の庭』には、『ビッグデータ』を有効に使う仕組みを開発する知恵が必要に応じて湧いてくるのでしょう。
 ~~~~~~~~~~

 そして No.60でも《無量寿光》の話が出ています。ヲータサーバについてもです。

 経験世界の情報と無量寿光とは 直接のつながりはありません。あっても 人間には分かりません。

お礼日時:2012/09/05 08:17

こんにちで言うところのキリスト教が〈必要とされてきた意味?〉は、ルネサンスの精神性から培われています。

さかのぼる14世紀、キリスト教を繋いできた精神が暗い時代の象徴を帯びているのを図像学は確認します。このとき、エジプト-ギリシャ出自による成立や、バビロニアのカルディア文化とユダヤ教にみる土地民俗と、キリスト教の精髄は、別物になったようだということにひとつの論点が浮かび上がります。
〈大地に束縛されるもの〉から〈時代と時間に束縛されるもの〉へ、その意味反映が切り替わったように、もしかすると、近い内にかもう既にしてか、〈自己の個人へ束縛されるもの〉へと意味反映が変わっていくであろうことを、ブラジュロンヌさんは言っているのではないかとあえて指摘したいと思います。

太陽が沈んで夜をくぐって昇ること、雨が川となり海から雲へと昇天しまた地に降りること、厳冬を超えて春に命が蘇るということ、洪水を超えて後に繁栄があること、そうした事象が、冥府と豊穣の愛児ホルスをして死者に川を渡らせたり、また黄金の矢と鞭をもつペルシアの王イマをして不可思議な避難の囲い地を設けさせる、通過儀礼の物語を古い神話の世界に生みだしています。ゾディアックを解釈に取り入れているマードック博士は、天体十二宮のみずがめ座通過に注目しています。
ともあれ、通過儀礼のための水の象徴は、〈大地に束縛される人間〉を清める意味を持っていたと思います。ルネサンス前夜から後期のすなわち〈時代と時間に束縛される人間〉にあっても、人々にとりついた死の主題は、『哲学者の花園』が物語るような循環の自然観の中に置かれ、また聖書が人類史であり地史ですから、水の清めは象徴的によく機能しています。

しかし、もしかすると18世紀に兆しがあったのかもしれませんが、近代のものとして、〈自己の個人へ束縛される〉という問題が非常に増したとき、キリスト教が必要とされる意味は変容せざるをえません。かつて、人類史と地史に埋められた通過儀礼の水の象徴を自分の刷新に結び、まさに朝の到来か春の到来かのごときリボーンを讃えることができました。ところが、もう、こんにちの人間は、自然や死と闘うよりもやっかいな内的実質と闘っているのにちがいありません。賢者に守られて超える暗い水はどこにあるのでしょう。己の内に噴き出すのであり非思考の庭にである、とブラジュロンヌさんは言うでしょうか。
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この回答へのお礼

 あまがっぱさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 いやぁ今回は じつにわたしは自分が《最短距離行きたがり屋》であるかを思い知らされました。

 だって すべては 尺八のひと音で済むと思っているのですから。
 人と会えば 《こんにちは》のひと言で宇宙は万々歳だと思っているのですから。

 いえいえ そうではありません。そうではなく 歴史にまなび言わば《人間化》を 類型として整理し しかもその内実をしっかりとおのれの人間化の軌跡とともに思想としても明らかにするといった作業 この王道でしょうか これをいかに怠っているか これを思い知らされました。

 ★ 『哲学者の花園』が物語るような循環の自然観
 ☆ 何枚かの図とともに描かれているものですよね? どこかで見たおぼえがありますが もうとんと見向きもしないで来たなと思いました。
 歴史をたどる道を 気分にまかせいつも飛び越えて来ました。

 ★ 〈大地に束縛されるもの〉から〈時代と時間に束縛されるもの〉へ、その意味反映が切り替わったように、もしかすると、近い内にかもう既にしてか、〈自己の個人へ束縛されるもの〉へと意味反映が変わっていくであろうこと
 ☆ ですか。たどればたどれるものだとは思いました。

 しかも《飛躍屋》の頑固あたまは 言います。
 アブラハムの個人に戻っただけではないかと。
 父祖の地 ふるさとなる《大地に束縛される》ことを嫌ってか アブラムぢいさん どこへとも分からずに 去って行きました。わしにはわしの道があるのぢゃと。

 ★ 賢者に守られて超える暗い水はどこにあるのでしょう。己の内に噴き出すのであり非思考の庭にである、とブラジュロンヌさんは言うでしょうか。
 ☆ のちにアブラハムと名乗り換えたぢいさんが 妻のサラ(サライ)とともに すでにその水を湧き出させ ふつうの生活を送っている。高年になっても 子にもめぐまれた。
 なにが《哲学者の花園》ぞと。わが《飛躍》にこそ われらが人間の人間化の鍵があるのではないかと。



 エジプトもシュメールもどこどこも たとえば何て言いましたか ティアマトだかマルドゥクだか あるいはまたそれとしての創世記の話 これらの話題をいかに聖書がパクっていたとしても どうしてどうして 聖書記者には このアブラハムの《いのちがけの跳躍》がつたわっており すでに水はながれています。とても何て言いましたかエヌマエリシュだとかの神話どころの話ではありません。そのネタ元の話は わたしにはきわめて平面的な物語に映ります。

 水で話を継ぐとすれば わが日本にも ミソギがあります。あるいは滝行もあります。
 きわめて安易な《飛躍》の仕方であるとともに 問題は《身と心》のすべてを一瞬のうちにあらためるといった《人間化》の原理を見ようとしているのかも知れません。《理屈抜き》というやつです。


 ところが 聖書記者は この水は たとえであって 霊だと言いました。わけの分からないものだと。
 つまりこれは アブラハムの問題です。《去ろうと思ったから 去った》 これだけです。記述は 神のお告げのごとくに書いていますが。

 まぁ でも 西欧人もよくぞルネサンスを興したとも思いますけれど。
 ★ ~~~~
 しかし、もしかすると18世紀に兆しがあったのかもしれませんが、近代のものとして、〈自己の個人へ束縛される〉という問題が非常に増したとき、キリスト教が必要とされる意味は変容せざるをえません。
 かつて、人類史と地史に埋められた通過儀礼の水の象徴を自分の刷新に結び、まさに朝の到来か春の到来かのごときリボーンを讃えることができました。
 ところが、もう、こんにちの人間は、自然や死と闘うよりもやっかいな内的実質と闘っているのにちがいありません。
 ~~~~~~~
 ☆ このあたりについては またくわしい歴史をたどる研究がなされているのでしょうが――つまり ルネサンスが言わば何故かまた沈んで行くというような歴史の一面があるかと思われます(あるいは 近代人の理性によって 揚げすぎたのでしょうか)―― その時代を経て
 ★ 賢者に守られて超える暗い水はどこにあるのでしょう。己の内に噴き出すのであり非思考の庭にである、とブラジュロンヌさんは言うでしょうか。
 ☆ とまとめつつ 締めくくってもらいました。


 でも ふと思いました。
 もしこのように言うわたしが アブラハムのおこなったふつうの飛躍とは違って 特殊日本の地における環境が絡んでいるとするなら そのわたしの経験した《 salto mortale 》は みなさんにおすすめできる代物ではないかも知れない。
 いえ と同時に もし特殊日本では 決して被虐趣味ではないのに屈辱と排除との論理も実際も 世界に増して暗く深く普遍的なものであったとしたら 無理なくみなさんのものだと言えるかも知れない。

 吾人は 洪水になるほど 水かさを増して行かねばならないかも。
 (このフリーエッセーをもって お礼のご返事に代えます)。

お礼日時:2012/09/05 08:00

宗教の組織化は護送船団方式で展開していくのでしょうか?

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この回答へのお礼

 いや ぎゃくでしょう。
 組織化した宗教は 他をけとばしてでも自分たちが前へすすもうとするでしょう。

 もしそのほうが都合がよいとなれば あたかも共存共栄だと言わんばかりに 互いに手を携えるというパーフォーマンスを世界宗教者会議等々といったかたちでおこなうに到りましょう。

 ほろびるべき宗派や他宗は ほろびるに任せるでしょう。護送船団方式とはぎゃくです。

お礼日時:2012/09/04 06:56
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この回答へのお礼

 ご回答を――見過ごしていましたが―― ありがとうございます。

 経験から 認識を得ます。
 認識を整理するとともに 普遍性を持つ概念を取り出します。抽象化の作業だと思います。
 そこからさらに概念が どこかワケのわからぬ世界としてのイデアにまで発展し取り扱われるということではないでしょうか?

 ぎゃくの方向で イデアが 経験の世界のもろもろのことにかかわって来て イデアのほうが・つまりは幻想のほうが 現実にはたらきかけ 現実を変えることもあるのでしょう。

 でも まぼろしはまぼろしであって 消えて行きましょう。

お礼日時:2012/09/05 08:06

絶対的な真善美は必要なのでしょうか?


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120829-00009 …
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この回答へのお礼

 真善美としてであろうがなかろうが 《絶対》は 非経験の場として想定されるものです。

 《絶対》は ふつう 《真理》と呼ばれます。人間の主観における・経験的なものごとにかんする妥当性のある認識は 《真実》と呼んで区別されます。

 《絶対》は 一般に《存在ないし 生きること》が わるいことではなく よいことだと見なされるとき 善の系列として 《至高善》と呼ばれます。この上のない善という意味です。

 《絶対》は 美にかんしても かかわっていると見られます。ただしおそらく 美はすでに何らかのイメージやあるいはむしろ理念のようなものとつながっているとも見られます。つまり 美は 一般にすでにものごととしてある。こう考えられます。それでも この上ない美として 《絶対》のことを呼ぶこともあり得ると見ます。

 そういう想定をするという意味です。

お礼日時:2012/09/04 00:03

回答のお礼欄に、イエスの復活という言葉がありましたが、


イエスの〈復活〉は重要なのでしょうか。
最初に成立したとされる〈マルコ伝〉では、
イエスの〈復活〉の直接的な記述はありませんよね。
旧約の〈終末思想〉との関係でいえば、
イエスの復活というのは、イエスの神性に関係する極めて重要なテーマなのでしょうが、
個人的には、マルコ伝がそうであるように、イエスの復活は不必要なのではないかと思います。

いわゆるパウロの〈十字架の神学〉で事足りるんじゃないですか?
いやいや、〈十字架の神学〉もいらない。イエスという存在がキリスト教最大の秘蹟であり、
イエスの十字架事件も、復活も、たいして重要ではない、と思うのですが、
この考え方は駄目ですかね。
復活だ、原罪の贖罪などという教えは、言ってみれば、
泣いていた子供を宥(なだ)めすかすための方便、〈おためごかし〉みたいなものでしょう。
過激過ぎますかね、この考え方は。

bragelonneさんにとって、イエスの十字架事件、そして、イエスの復活はどのような意味をもっているのですか。

少しこの質問のテーマからは外れますが、
キリスト教における人間の霊魂とはいかなる存在なのでしょうか?

旧約聖書において、魂と肉体、どちらが大切かといえば、肉体の方ですよね。
霊魂というか生気は、神から人間の鼻に吹き込まれる息、つまり、バラモン教の気息(プラーナ)みたいなもので、肉体を動かす原動力、機能みたいなものでしょう。
しかし、キリスト教における霊魂は違う。行為の主体者であり、その責任者でもあり、したがって、賞罰の対象者になっている。これを教えの深化と見るか、矛盾と見るか、どうなんでしょう。
この教えの飛躍は、僕にとって、深い謎なのです。
(ゾロアスター教の影響と考えれば、一番、楽なんですが、それを言ったら、さすがにキリスト教的にはまずいでしょう。直接的ではないにしろ、キリスト教がゾロアスター教の影響を色濃く受けているのは、歴史的・文献学的には明らかなのでしょうが....。
大体、地上の王を「神の子」と呼ぶのは、ペルシアの影響。
旧約聖書が書物という形態をとるのは、バビロン捕囚以降の話なので、ペルシアやバビロンの思想の影響を受けていないと考えることに無理がある。
最後の審判や死者の復活思想、世界の終末思想も源泉はペルシアの思想でしょう、間違いなく。
そして、キリストの復活は、カナンの神バール、エジプトのオシリスの復活と関係づけて考えるべきなのでしょう。つまり、その思想の背景には、多くの民族が持っている『生命の循環思想』があるとみるべきなのでしょうね、キリスト教徒が何と言おうが)

キリストの「わたしを信じる者、神の御心にかなう人は天国にゆく」といったような発言、これは額面通り受けとるべきなのか。
それとも、新約聖書によく見られる比喩?
あるいは、イエスの、ハッタリ、プラフ??

一体、キリスト教は、死後の霊魂はどこにゆくと考えているんでしょうかねぇ~。
ローマ・カトリックの伝統教学の説くように、死後、生前の行ないに応じて、天国or地獄にひとまず行くんですかね。
それとも、例外なく、すべての霊魂は神のもとに帰り、最後の審判の直前に、再び肉体に与えられるのですかね。
あるいは、肉体の死と共に、霊魂も消滅する?そして、新たに神が新しい霊魂を吹き込む。

ちょっとした疑問です。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。昨日は かなりの質と量とを書いたと思います。このご回答ひとつを先送りすることになりました。

 ★ イエスの〈復活〉は重要なのでしょうか。
 ☆ むろん 物語としてですが――《非経験の場》のチカラにかんするものですが―― まさにこの質問が注目することがらにかかわるものと考えます。すなわち
 ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~

 ・・・その人の
    内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《霊》における再生についてまで 《あなた自身が 涸れない泉になる》ことは ふくむと見ます。そうなれば 《永遠の現在》なる動態を生きることになる。これです。
 根拠ですか? ふつうの人間であるイエスが 非経験の場のチカラである神としてのキリストと呼ばれるようになったからです。われわれは このような羊飼いの声(笛?)について行きます。つまり 無根拠にてです。

 たぶん 復活は要らないという場合もあるのかと思います。根拠? 自由意志ゆえです。

        *

 ★ ~~~~~
 復活だ、原罪の贖罪などという教えは、言ってみれば、
 泣いていた子供を宥(なだ)めすかすための方便、〈おためごかし〉みたいなものでしょう。
 ~~~~~~~
 ☆ 復活は 触れました。
 《おためごかし》ではないでしょう。なぜなら 羊飼いの笛の音について行かなければよいわけですから。
 ★ 原罪の贖罪
 ☆ これはですね。原罪もしくは《へび》 このことに聖書記者が触れたことから イエスの登場において このアダムらの罪をあがなったという話になった。つまりそう書かざるを得なかった。まづこのように思います。

 ヘビの話は いわゆる世間の知恵なのだと思います。にんげんの自由意志によって 善と悪を知る木から採って食べたのであるにもかかわらず 聖書記者は わざわざ世間のことわざを分かりやすくするために採り入れて ヘビを登場させた。
 つまり 実際は ヘビのしわざなのではなく にんげん自身の意志行為として善悪を知る木から採って食べた。そのあと 《アダムよ きみはどこにいるのか?》との声をアダムらは聞いた。そこで 《きよらかなおそれ》を抱くようになった。
 それまでは 《聖なる甘え》だったわけです。甘えとすら気づいていなかった。ただし逆に見るなら そのアマエの時代にも すでに きよらかなおそれは 身と心に宿していた。

 ですから ヘビは・つまり原罪は すでに初めから まぼろしであった。世間の知恵としては 何かわれわれにんげんの意志を――幸か不幸か また良いほうへかわるいほうへか――みちびくチカラのようなものがあるのではないかと考えた。これを ヘビで表わした。でもすでに初めから まぼろしであった。
 そのヘビはまぼろしであるということを 創世記の記述を承けて新約聖書では わざわざ触れてイエスがチャラにしたのだという意味合いにおいて描かなければならなかった。
 つまり 初めに人間の生きることの中に原罪を据えるということが もともと《子どもだまし》の話であった。
 こう考えます。

         *

 ★ bragelonneさんにとって、イエスの十字架事件、そして、イエスの復活はどのような意味をもっているのですか。
 ☆ 復活は 触れました。
 十字架事件については 次のように回答を寄せたことがありますが まだそこから停滞したままです。
 ☆☆(【Q:キリスト教の教えについて】回答No.12) ~~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6893242.html
 ・・・
 ○ 〔人間であると同時に神であるというのではなく ただひとえに〕神であるなら その十字架から降りて来いと言われて もし神の力によってその危機を切り抜けたとしたら 人びとはこぞって それは神であるから出来たことだ われわれ人間にはとても出来っこない そんな特殊な奇蹟を見せてもらっても何にもならない と言ったりすることでしょう。

 ○ けれどももし イエスはイエスであってただふつうの人間であるしかないとすれば 多少は立派な人間だったでおしまいです。或る程度の光を見させたでおしまいです。身と心に枯れない泉が湧く気遣いはなくなります。そのような泉は イデアのごとく或る程度は希望の星として受け留められたとしてもです。
 ~~~~~~~~~~~~~

       *


 ★ しかし、キリスト教における霊魂は違う。行為の主体者であり、その責任者でもあり、したがって、賞罰の対象者になっている。これを教えの深化と見るか、矛盾と見るか、どうなんでしょう。
 ☆ まづ《キリスト教》というのは オシエであり組織宗教です。個人にとっての非思考の庭なる信仰とは 関係ありません。

 つねに湧き出る水あるいは心の燈心がともっている状態 これはすでに《霊》の問題だと思います。
 この霊つまり聖霊なる神が(つまり 非経験の場なるチカラが) 人をして主体的な存在たらしめます。ということだと思います。
 そのことが実現していなくても 理論として大前提であるとして たとえば自由意志の公理が持たれています。自由意志があるとしないのなら 犯罪者はその犯罪について主体的な行為としての責任は問われることはないわけです。夢遊病者のごとくたまたまその犯罪をするにおよんだ。だけであると見なされるはずです。
 じっさいにそのように夢遊病者のごとくであったとしても・つまり決して主体的な意志による選択として行為したのでなかったとしても 理論上は 自由意志の主体としてその犯罪行為の責任を問われます。
 イエスがキリストであると 物語られたところから 人間論や社会行為論がきづかれていると考えます。


 もしそうではなく
 ★ 霊魂というか生気は、神から人間の鼻に吹き込まれる息、つまり、バラモン教の気息(プラーナ)みたいなもので、肉体を動かす原動力、機能みたいなものでしょう。 
 ☆ という規定だけによるとすれば 世界はまだ 歴史知性以前の状態にあると考えられます。意志自由を知らないからです。そのおのれの意志によってこの世界に入ったという歴史を知らないからです。撞球の玉突きのごとく突き突かれてあっちへ行ったりこっちへ来たりして人生を過ごし社会に生息しているだけとなりましょう。それでも 思いやりや科学の研究はいとなまれると思いますが。


     *


 ★ ゾロアスター教の影響
 ☆ と言えば 例の《ボディサットワ》なんかがそうであると言われます。そういう意味での・つまりいわゆる《救世主》としてのキリスト観 これは それとして影響を受けているのではないでしょうか。

 それは しかもキリスト教というオシエの話としては どうでもよいことなわけです。政治的な軍事的な解放者だと見られた場合もあったかも知れません。それも どうでもよいわけです。ザラトゥシュトラが どこまで明らかにしていたか定かではありませんが 《非経験の場》とそのチカラについて述べていなければ どうでもよい思想だと考えます。

 菩薩にしても王としての救世主にしても それらは 一回きりの歴史としての十字架事件ではないのですから それらが出て成功したとしてもまたあらたに別のそういうたぐいのキリストを必要とすることになります。イエスがキリストと呼ばれるその意味は そういう思想や修行や政治的解放の問題でも次元でもないと考えられます。


     *

 ぎゃくに一回性の歴史事件としてのあたかも世界史上に《特異点》を成すような十字架事件 つまりそれにかかわる《復活》のヒラメキが ほかの神話などから影響を受けているかいないか。これにかんしてですが
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 そして、キリストの復活は、カナンの神バール、エジプトのオシリスの復活と関係づけて考えるべきなのでしょう。つまり、その思想の背景には、多くの民族が持っている『生命の循環思想』があるとみるべきなのでしょうね、キリスト教徒が何と言おうが)
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 ☆ キリスト教のオシエにおいて何と言っているか知りませんが キリストがイエスとなって指し示した神とそのチカラは 同じ復活とい言葉を用いていても 《生命の循環思想》とは似ても似つかないと言わざるを得ないでしょう。
 《わたし》は 掛け替えのないただひとりの存在だということを――その《自由意志》なる中軸の存在において――示しているからです。循環・輪廻は どうでもよいと見ます。
 この人間の生という高々百年・百五十年の時空間 これっきりの思想です。そこにおいて《永遠の現在》を生きるようになるという復活なる課題です。


 ★ 天の国 地獄
 ★ 一体、キリスト教は、死後の霊魂はどこにゆくと考えているんでしょうかねぇ~。
 ☆ 等々は どうでもよいはずです。たとえとしての話です。なにしろ 永遠の現在なのですから。

お礼日時:2012/09/02 10:32
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