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都が藤原宮から平城京に遷都されたとき、飛鳥地方の主要寺は
平城京に移り、その後の飛鳥地方は衰退したと言います

では平城京から長岡京、平安京へ遷都されたときは
なぜ東大寺や興福寺などの大寺は京都に移らなかったのでしょうか?

また京都へ移った寺はありますか?

A 回答 (7件)

都が移されるときは、権力者が交代するときであろうというのが有力です。


飛鳥から奈良へ都が移されるときは、蘇我氏から藤原氏への権力の変遷がありました。
同様に奈良から京都への動きも権力の変遷を物語っています。
もともと東大寺は聖武天皇が優婆塞の行基を中心に建立した藤原氏に対抗するためのものでしたが、春日大社など、藤原関連の寺社を東大寺より高い位置に建てられるなど、十分に対抗できませんでした。
法興寺は、藤原氏の氏寺でした。

桓武天皇の時代は、藤原氏の中で人材が薄い時期で、特に藤原の百川死後天皇の力を伸ばした時期です。このタイミングで藤原氏以外の菅原道真などの有力貴族を引き立てます。
また、桓武天皇は、天智の跡を継いだという形をとり、天武系の色を排除しましたので、天武系の天皇がいた平城京、そして藤原勢力が薄い場所を選んでいます。
桓武の母は高野新笠で百済系ですので、同じ百済系の秦氏の場所を選んだとも言えます。

ということで、対抗勢力や役に立たないものは置いていくということだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2013/10/01 15:42

    #1です。

補足です。僕は遷都には、少なくとも2種類あると思います。

1。大昔型(日本式)
    集団の首長が死ぬと、死霊のついたその家を焼いて、新しい場所に次の首長を移す。一代ごとに場所を変えるので、小規模で頻繁な遷都が行われ、首長はその場所で特定出来る。
    例えば「○は、△にましまして、天の下しらしめき。」で○が人名、△が地名である。○と△は、1対1の関係にある。

2。輸入式(中国式)
    首長の仕事が複雑になり、使用人の数も、建物も増え、首都が簡単に動けなくなる。「京都天皇」といっても、何人も居るので、△で○の特定は出来ない。

    言わば日本の古代史は1から2に移る試行錯誤の時代と言える。首都が大型化する副産物として付属教育機関(=寺)があり、とくに莫大な国費を使い784年に開眼供養を行った東大寺などは動かさない方が経済的だし、1にこだわり2に消極的な保守派の口を塞ぐにも好都合だった。

   まあこんな妄想も可能ですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2013/10/01 15:42

nayami33 さん、こんばんわ。




確か、ないはずです。桓武天皇は平城京がお寺だらけになっていて仏教勢力、つまり僧侶の政治介入を嫌っていました。だから、桓武天皇の時代は平安京に新しいお寺を作らなかったと思います。新しい宗派である真言宗の弘法大師の東寺や等は後の時代のものです。
また、京都周辺になりますが、最澄の比叡山延暦寺も神護寺も後のものです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2013/10/01 15:42

実際は移されようとしました


しかし桓武天皇が平安遷都を決意したのは無実の罪で殺してしまった弟の早良親王の怨霊から逃れるためです
側近だった和気清麻呂は「東大寺の社殿は早良親王の信仰が深かった 一緒に遷宮すればまた怨霊は次の都でも災いを起こすかも知れない」と天皇に進言

そして淡路島に早良の墓を建てさせ東大寺の本尊の分詞を行って怨霊を鎮めました
だからつれてくるわけには行かなかったんですね 東大寺は
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2013/10/01 15:41

簡単にいえば



別の王朝になったから。

寺院は国家鎮護であり、その時の権力者の正統性を可視化する装置であります。

藤原京→平城京は天武天皇の系統なので、可視化する装置は持ち運んだ。

聖武天皇の大仏設置予定地は変更になっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E9%A6%99% …

「このため甲賀寺の盧舎那仏の計画は、「奈良の大仏」東大寺盧舎那仏像として完成されることになった。」

桓武天皇の父、光仁天皇からは天智天皇系統になるので、天武天皇系統の正統性を示すものなど、壊したいくらいなものです。平和裏に王朝を引き継いだことになっているので、破壊工作は出来ませんが。

その後の天皇家の菩提寺である涌泉寺の御尊牌の存在が、天武系とは別王朝である意識を如実に示している。

http://www.mitera.org/outline.php

「天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする霊明殿と御座所、庫裡などの建物が甍を連ねている。」
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2013/10/01 15:41

平城京から他の地への遷都を考えた理由は、政治的な理由と物流の問題解決です。


政治的な理由は多々ありますが、主なものに寺院即ち僧侶の政治への影響力を削ぐことが目的でした。
今は京都には沢山のお寺がありますが、平安京が作られた時には市内には寺院はありませんでした。

>また京都へ移った寺はありますか?
上記の理由から引っ越したお寺はありません。
平城京に残ったお寺は、後年、南都六宗と呼ばれ、何かにつけて京都朝廷を悩ませました。

物流に関しては、平城京は海に繋がる河川は大和川だけでした。
流域も今とは異なり、生駒山地を出た後八尾市付近を北上して大阪湾に流れ出す形になっていました。
現在のように堺市の付近に流れ出すように変更したのは後年のことです。

大阪湾は、淀川沿いに現在よりもずうっと奥の内陸部へ入り込んでいました。
長岡京も平安京も淀川水系に面していることでお判り通り、水運に便利な地域です。
江戸時代までの長い歴史の間、水路は現在の高速道路と同じ働きをしてきていました。

長岡京への遷都が頓挫したのは、遷都の責任者が殺されたり、天災が続いたりしたためです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2013/10/01 15:31

   これ主夫のカンですが、可成り体重のある、東大寺のご本尊を動かし奉るより、おいといた方が簡単だったからではないでしょうか。

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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2013/10/01 15:31

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