No.3ベストアンサー
- 回答日時:
edojidainengu さん、こんばんわ。
当時幕府の権威は落ち、財政は赤字逼迫です。黒船関連で戦争が起きれば、ほかの有力な外様大名などの力を借りてどうにか勝ったとしても、幕府の屋台骨が崩れるとも限らないからです。幕閣の人々は何とか幕府の存続を考えていたのです。別に日本のことを考えていたわけではありません。
No.7
- 回答日時:
>黒船で運べる陸軍の数は限られている。
黒船来航に先立つこと約10年前のアヘン戦争で、英国が中国へ送った兵力は
第一陣が、軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社所有の武装汽船4隻、陸軍兵士4000人
第二陣が、インド兵6700人、本国からの援軍2000人
でした。
総勢1万人を超える軍隊は、数が限られている、とお考えでしょうか。
本国を遠く離れた東南アジアで次々と恫喝外交を繰り広げていた連中です。
戦闘に必要な兵員は1万人でも2万人でも簡単に送ってきます。
これができなければ植民地の維持経営などできません。
アメリカはフィリピンを植民地としています。
彼らは近代兵器を装備した軍兵です。
鎧兜に火縄銃の幕府軍が勝てるとお考えですか。
>降伏したんでしょうか。
降伏したのではなく、外交交渉の結果不利な条件を吞まされただけです。
そんな交渉の前に、さっさと追い払えばいいではないか、とお考えでしょうか。
当時所有していた情報に基づいて幕閣がたどり着いた結論が、外国の軍船に下手な手出しはできない。交渉のテーブルにつかざるを得ない。ということでした。
アへン戦争の経緯や顛末についは、幕府は既に情報を入手していました。
長崎には中国船が常時来航していました。
オランダ商館からの定期報告を受けていました。
さらに、アヘン戦争当時、現在のフィリピンに漂着した伊達藩の漁師が無事帰国して、詳細に現地の様子を報告していました。
「呂宋国漂流記」として現在も伝えられています。
江戸時代を通じて、このように遭難した後で海外で生活して帰ってきた人達の件数は254件にのぼります。
大黒屋光太夫やジョン・マンジロウなどが有名です。
江戸幕府というのは、江戸時代を通じて当時の国際水準からしても遜色のない国際情勢に関する情報を入手していました。
それを独占秘匿していただけです。
黒船来航した数年前に、ジョン・マンジロウが帰ってきています。
アメリカが何を望んでいるのかは彼の口から知らせれていました。
彼を交渉の通訳兼補佐官にしようとしましたが、オランダ語の通辞を抱えていた頑迷な年寄りが反対して実現しませんでした。
ジョン万次郎 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/ジョン万次郎
万次郎のよき上司 江川と老中阿部
ktymtskz.my.coocan.jp/denki/j4.htm
彼我の戦力の差を認識していればこそ、近代兵器の製造に必用不可欠だった反射炉の建設を始めていました。
江川 英龍(えがわ ひでたつ)
ja.wikipedia.org/wiki/江川英龍
韮山反射炉 - 明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域
www.kyuyama.jp/kyushuyamaguchi/ky_shizuoka_01.html
反射炉を作ってそれから大砲を作っていたのでは間に合わないことは承知していました。
この程度の軍備で外国の軍船に損害を与えれば、その報復がどのようなものであるかは、東南アジア諸国が植民地化された経緯の知識から判断できました。
何も知らない薩長の下級武士とは訳が違います。
以上のように、情報というものは有効に活用してこそ意味があるのであって、知ってるだけでは何の意味もありませんな~
幕末はいざ知らず、江戸時代の真っただ中に、ヨーロッパ情勢の知識があっても、使いようがなかったでしょうね~
貿易立国などという考えは露ほどもなかったでしょうからね~
No.6
- 回答日時:
こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
あなたへの回答には、ペリー来航からお話しした方が分かりやすいのではないでしょうか。
アメリカは太平洋を広範囲に行き来するためには、どうしても途中の日本での薪や水、食料品などを補給してもらう必要がありました。
そこで、嘉永5年(1852)に長崎の出島に居たオランダ商館長を通じて、アメリカ側は近く訪日することを伝えました。オランダ商館長は直ちに幕府へ報告しましたが、幕府の老中たちはそれを信じようとしませんでした。つまり、危機管理の欠如と平和ボケだったのです。
嘉永6年(1853)7月8日午後5時頃、ペリー艦隊が浦賀沖に停泊しましたが、幕府側ではただただ驚くばかりで何の手立てもしませんでした。ペリーは、一気に事を進めても日本側(幕府)の体制が整っていないと判断をし、一旦は香港へ戻りました。
ペリーが去った後、幕府は川越藩などの諸藩に房総や神奈川、伊豆などに海防強化を命じました。
嘉永7年(1854)1月16日にペリーは軍艦7隻で再来日しました。幕府は色々な経緯がありましたが、「薪や食料の供給」と「難破民の救助」のみを受け入れ「日米和親条約」を締結し、「通商」については断固拒否をしました。
その後、安政3年(1856)8月21日にハリスが来日して日本総領事に着任し、それ以後「日米通商条約」締結に向けての行動を起こしました。
当時の13代将軍家定の重臣で老中の阿部正弘は慎重に話し合いを続けていましたが、安政4年(1857)6月17日に39歳の若さで急死。
そこで、彦根藩主であった井伊直弼が「自分ならうまくやっていける」と家定に直訴をし、安政5年(1858)4月23日に大老に就任しました。井伊は尊王派でした。(つまり、朝廷を重んじる・・・朝廷にお伺いを立ててから行動をする)。
井伊も阿部と同じく慎重にアメリカとの話し合いを始めましたが、井伊が大老となる前日の6月16日にロシアの軍艦アスコルド号が下田に入港していました。
アメリカは、その事態を取り上げて「時間は極めて切迫している。我々と手を結べば、日本と友好的に行動することを誓う」と交渉担当であった岩瀬忠震(ただなり)と井上清直(きよなお)に伝えました。
岩瀬と井上は、直ちに、老中堀田正睦(まさよし)に報告し、堀田は同じく老中であった松平忠固(ただかた)と夜を徹して話し合い、二人は「即時条約締結」で一致しました。
その意見を聞いた井伊は、とりあえず、「調印の延期ができるかどうかを打診せよ」と岩瀬と井上に命じ、6月19日にアメリカ軍艦ポーハタン号へ送りました。
ところが、何を勘違いをしたのか、二人はその日のうちに「調印」をしてしまったのです。
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★ここが重要なのです。
降伏したのではなく、つまりは、岩瀬と井上の勘違いから、「日米通商条約」を締結してしまったのです。
もちろん、岩瀬と井上は即日蟄居を井伊直弼から言い渡されています。
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井伊は仕方なく、6月22日に江戸在中の諸大名を登城させ、「調印」したことを告げると同時に、「条約断行論」であった老中の堀田と松平を解任し、二人に責任を取らせることで諸大名の攻撃をかわそうとしました。
ところが、一橋派と呼ばれる水戸斎昭と慶篤(よしあつ)親子や尾張慶恕(よしくみ)、松平慶永(春嶽)らが23日に登城をして、井伊に「同じ尊王派であるのに、なぜ朝廷の許可もなく調印したのか」と吊し上げました。これを「一斉不時登城」と呼びました。
一橋派は井伊よりも家格が上だったため、井伊はただただ頭を下げるだけでした。
勢いにのった一橋派は、24日にも登城して井伊を吊し上げようとしましたが、井伊は「将軍後継(家定の後継者)に、朝廷の許可がおりて、紀伊慶福(よしとみ)が正式に決まった」と自分も朝廷を立てているのだ、という素振りをみせて一橋派をはぐらかしました。
しかし、井伊は怒り心頭に達し、将軍家定が病弱(精神薄弱)であることを利用して、家定に一応は相談したが、家定は単に「よきにはからえ」の一言であったことを受けて、7月5日、水戸斎昭に「急度慎」(きっとつつしみ=謹慎)、尾張慶恕と松平慶永に「隠居及び急度慎」、一橋慶喜と水戸慶篤には「登城停止」を将軍の名で申し渡した。
さらに、尊王攘夷派や一橋派の大名、公卿、志士(活動家)など100人余りを処罰し、軽輩の者は投獄や処刑されました。
これを世にいう「安政の大獄」と言いました。
さらに、井伊は7月6日に家定が死亡したことを隠したまま、7月8日にはアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダと「修好通商条約」を単独で締結し、8月8日に家定の死を発表。即日、14代家茂(慶福)が就任した。
こうした事態を憂慮した孝明天皇は、同じく8月8日、勅諚(ちょくじょう)「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく・インターネットで調べてください)を水戸藩に下した。
大まかな内容は、アメリカ、イギリス、ロシア、オランダと締結した「修好通商条約」を批判し、水戸や尾張の両藩主の処分を心配し、御三家以下諸大名が合議で国内治安、公武合体、内を整え外国に侮(あなど)りを受けないように、との内容であった。
この勅諚は幕府にも下されたが、特に、水戸藩に対しては、御三家以下諸大名にも通達するように、との添え書きがあった。
なぜ、水戸藩に出されたかと言うと、水戸斎昭の正室が有栖川宮織仁親王の九女、吉子(よしこ)であったためと思われる。
朝廷から政治的な勅諚が幕府を抜きにして直接下されたことを知った幕府(井伊)は、水戸藩に勅諚返納を命じたが、藩内の改革派でも特にその中の過激派は反対をした。
8月10日には、この勅諚が薩摩や長州など13藩にも伝達され、井伊は安政6年(1859)9月頃より、さらに「安政の大獄」を強化し年末まで続いた。
安政7年(1860)2月、水戸藩では、「井伊を討つべし」と言う「過激派」と「穏健派」の対立が激化し、藩主慶篤が仲介、説得するも功を奏せず、老公である斎昭の決断で過激派の首謀者2人を捕捉しようとしたが、2人は素早く察知して逃亡した。
そして、この逃亡した2人を中心に同士が集まっったが、斎昭は居所を突き止めて攻撃した。しかし、2人を中心にした同士たちは、かえって各地に飛散してしまった。
水戸藩は謹慎処分中だったので幕府に届け出た結果、老中らは井伊に対して登城の際の護衛の人数を増やすよう伝えたが、井伊はいままで通りの人数での登城をしていた。
一方その頃、薩摩では島津斉彬が死亡しており、弟の久光の子忠義が藩主であったが、実権は久光が握っており、薩摩でも「井伊を討つべし」との意見があったが、久光は余り乗り気ではなかったため、有村次左衛門ただ一人が脱藩をし、安政7年(1860)3月3日に水戸藩士17名+有村の計18名で桜田門外で井伊直弼の登城の駕籠を襲い、井伊を暗殺した。
こうして「桜田門外の変」へとつながっていったのです。
No.5
- 回答日時:
降伏したわけではないのですが、政治的に妥協して不平等な条約を結んだことを政治的降伏であると位置づけているわけですよね。
>幕府には従う武士が何十万人いる。
これ、ちょっと違います。黒船来航のときに幕府は各藩に海岸防備を命じますが、江戸時代における藩というのは自治権を持った半独立国なんですね。だから、幕府は「海岸を守れ」とは命令できても「ああせい、こうせい」と具体的な命令は出せないのです。また、隣同士の藩が共同して作戦するということもないんです。そりゃ戦国時代はそういうこともありましたが、なにせあれから200年も経っています。藩の立ち位置としては、「ヨソはヨソ。ウチはウチ。風下に立ったら家名に傷がつく」となりますから共同作戦は絶対にあり得ません。実際、後の長州征伐では幕府軍は圧倒的大軍を擁しながら統一行動がとれず、各個に撃破されて討幕への流れを作ってしまいます。
またペリーは「我々には戦艦百隻がある。もし戦争になったらその戦艦がやってひと揉みに揉みつぶしてやる」と恫喝しました。これはいわゆるブラフ(はったり)だったのですが、国外情勢に疎かった幕府側は「あの戦艦百隻はブラフか、本当か」を判断できませんでした。これが情報(外交)の敗北となります。「話半分だったとしてもあの黒船級が何十隻もきたらマズい」となりました。
さらにいえば、アメリカ側は江戸湾(東京湾)から江戸に直接攻撃が可能で、幕府にはそれを防ぐ海軍も、砲台も(ついでにそこに載せる大砲も)なかったのです。
また当時の日本には実質的に軍隊は存在しませんでした。武士は名目上は軍人ですが、実際には官僚(役人)と読んだ方がふさわしいです。剣道を習ったこともない武士なんて大勢いたのです。さらに、持っていた武装は槍だの刀だの、せいぜいが火縄銃です。テクノロジーで200年の差が生じているわけですから、「勝てる気がしない」というのも当然かなと思います。
馬関戦争や薩長戦争では長州軍や薩摩軍は英仏の軍艦にアウトレンジされて一方的敗北を被っているので、仮に戦争になったとしても勝つのは難しかったと思いますよ。
No.4
- 回答日時:
まともに戦えば簡単に負けることはないでしょうが、開戦をためらう諸条件がありました。
・黒船に対抗しうる大型の軍船の欠如
・黒船には江戸湾から江戸城を砲撃できる大砲が装備
・アヘン戦争で大国清が敗北
もし、交渉が決裂しペリーたちと開戦となった場合、江戸湾に侵入され、江戸城を砲撃されれば幕府の権威は地に落ちます。太平の世が続いていたとはいえ、幕府は武士の政権です。圧倒的な武力と武威で諸大名の頂点に立っていた幕府の本拠地が、異国の船に破壊されたとなれば、幕府の支配権が動揺をきたすことは間違いありません。
戦闘を回避することで幕府の武威を維持し、国力をつけて対抗するために、開国→通商に応じたということです。安政の五ヶ国条約も諸外国の戦争に巻き込まれないための避戦外交と評価されています。
No.2
- 回答日時:
NO1に追加
他に当時の幕府は大幅な財政赤字を抱えていた。
そして大砲など軍備もない
戦争できる状態になかった。
そして当時の文化として完全な平和ぼけに陥っていた。
外交で貸しをを与えた、なので次はこっちの番
とおもっていたのかもしれません。
No.1
- 回答日時:
降伏ではなくて、外交上の駆け引きで大幅な譲歩。
プラス無知による不平等なルールの受け入れ。幕府が決めたマイルールが通用しないペリーの強引さに、押し切られた形。
いわゆる旗本八万騎も、形骸化している上、船で直接、江戸城近くまで接近されると、対抗手段なし。
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