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もともと風見鶏は文系指向なのか。
それとも文系やるうちに風見鶏になるのか。
いずれでしょうか。

A 回答 (18件中1~10件)

#17の補足です。



軍人と文民の比較をする場合、以下の主張が成り立ちそうです:

暴力機能としての強大な力を持つ者はそれを持たない者よりも遥かに危険である。だから、非暴力機関の文民が軍人を制御すべきである。

単純で一見わかり易い主張ですね。これって、正しいのでしょうか。しかし、わかり易い主張って大抵は間違っています。わかり易い主張が説得力があるのなら、なぜ未だに権力者に悪人がおり、また戦争が無くならないか、全く解らなくなってしまいます。

弱肉強食の動物の世界を見てみましょう。肉食動物は強力な武器を持っております。ライオンやトラは強力な牙を、鷹や鷲は強力な曲った嘴を持っている。ところが、肉食動物が雌などの争奪戦で仲間同士で戦うときには、ほとんどの場合その強力な武器を使って相手が死ぬまで戦いません。彼らはその危険な威力を知っており、勝ち負けが決まったら手を緩め、相手の逃げるに任せます。

一方、草食動物も肉食動物ほど強力ではないが牛や鹿は角などの武器を持ち、馬やシマウマは強力な蹴りなどの武器を持っております。しかし、その武器は肉食動物から身を守る事が主目的ではなく、雌の取り合いで仲間の雄同士の戦いのために進化させて来たものです。そして、草食動物はしばしば相手が死ぬまで戦い続けます。実際、雌の争奪戦での死亡率は草食動物の方が肉食動物より圧倒的に高いと、ある自然博物誌のドキュメントで聞いた事があります。

同じような例として、何年も前にベルギーにいたとき見たドッキリカメラの例が印象的でした。スーパーマーケットで買い物カートを押している客のそばに、役者の男性も同じようなカートを押して来て、その役者がそのお客のカートの中の物を自分のカートに移してしまうのです。そのお客が男性だった場合、それに気がついて呆気にしながらしばらく見ているうちに、ほとんどの男性は笑い出したのです。一方、そのお客が女性だった場合、ほとんどの女性は血相を変えて、自分で持っていたハンドバッグなどで、その役者に殴り掛かっていったのです。

肉食動物も男性も、自分の強さの危険を知っているが故に、戦いを避ける。一方、草食動物も女性もその危険を意識しないが故に、血相を変えて相手に食って掛かって行く。さあ、不必要な戦いをしかねない者としては、軍人と文民でどちらが危険なのでしょうか。
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風見鶏が非難されるのは、権力を持った者が保身に走るときですね。



軍人は基本的に理系で、官僚は基本的に文系です。国民が安泰で暮らせるために両者とも必要であり、近代国家では、両者ともその権力を国民からお預かりしている。

権力を握ると必ず既得権益が生まれる。そして、その既得権益の保持者は様々な方法を駆使してそれを独り占めにしようと工夫して来ました。近代国家以前では、官僚を世襲制にしてそれを独り占めにした。それを貴族とも呼びました。現代の日本ではそれを学閥制にして独り占めにしています。そして、人類史を眺めてみると、独り占めの結果必ず官僚は腐って来た。腐らなかった官僚の例が一つでもあったら教えて欲しいです。

官僚が何時腐るのか。それは自分たちの保身に走るときです。保身のためには、国の安泰が二の次になって、風見鶏に変身するのです。 一方、軍人はその成り立ち上、命を惜しまぬ「潔し」とそれを讃える「名誉」いう世界観から離れることができない。だから、保身がその世界観の中心である官僚よりも信用ができる。軍人が風見鶏になってしまったら、軍人がカレー粉抜きのカレーライスになったようなもので、軍人自身がその自己認識法を失ってしまい、意味不明な存在になってしまうから軍人自身が耐えられないからです。

また、軍人は情緒や既得権益よりも、合理性と技術を重んじます。日本人や西欧人独特の技術信仰は、ドングリの背比べの群雄割拠で血を血で洗う戦乱の連続した西欧や戦国時代を経験して、中央集権制度に収斂できずに封建制度に落ち着いた歴史的経験の生み出した世界観でしょう。

中央集権ゆえに悪政の連続であった中国を筆頭とする歴史的事実と、封建制の下の鎌倉幕府の百数十年続いた善政や江戸幕府の二百数十年続いた善政であった歴史的事実との違いは、この腐敗予備軍の官僚と、武士道とは死ぬ事と見つけたりの軍人との違いから来ているのですね。だから、シビリアン・コントロール(文民統治)ほど危ないものはない。軍人ではなく、両班という文民に統治された李氏朝鮮の国民弾圧の歴史などもその好例です。文系で構成されていた両班が青磁や白磁などの高度な技術をもった朝鮮文化を徹底的に破壊してしい、さらに、鉄のたがの技術も失って車輪を作れなくなり、さらに水車すら作れなくなってしてしまったなど、文系の連中の恐ろしさを彷佛としています。

日本も明治維新で封建制度から中央集権制度に移行してしまい、人類史で常に起こってきた官僚のフツフツとした腐敗が150年ほど経っていよいよ表に出て来た。人の道さんもそんなことに気が付き出したので、「風見鶏」なんて言葉が気になり出したのでしょうね。

さて、国を司るためには官僚がどうしても必要です。必ず腐敗する運命の必要悪である官僚の害を逃れるためにはどうすれば良いか。今まで人類は繰り返してきた経験を見れば、制度上どうすれば良いかの答えは既に解っています。官僚は必ず腐るので、必ず被害が出る。そこで、巨大な権力を一点に集中させて、被害を大きくしてしまわないようにすればよい。

アメリカは、連邦政府に権力を一点集中させないで、各州の官僚に権力を分散させている。だから、今でも日常茶飯事に起こっている官僚の腐敗の被害を各州内に留めて、アメリカ全体に被害が及ばないようにしている。幕府制も、中央政府の将軍家に権力を一点集中させないで、各藩の行政は家老と呼ばれる官僚たちに任せて来た。この幕藩制の事を今様に言うと地方分権制度と言います。

今の日本は東京の中央政府の官僚に権力を一点集中させてしまっているので、今まで世界中のどこにでもあった中国型の中央集権になってしまっている。したがって、多かれ少なかれ中国型の腐敗国家になりつつあると言う、中央集権国家の免れることの出来ない道を歩んでいる。

この腐敗からの被害を最小限に留めるには、どのような単位であれ、国を地方自治体、すなわち、道や州や各藩に分解して、その地方自治体にアメリカの各州並みの強大な権限を与えれば良い。そして、中央政府にはそのまとめ役としての最小限の権限だけを与えるようにする。そうすれば、各藩なり地方自治体の官僚たちが当然のように風見鶏となってその地方自治体が腐敗しても、国が滅んでしまう事はないからです。

しかし、その方向への権力の分散は、既得権益を持っている現在の官僚たちによって、あらゆる方法を用いて妨害されるでしょう。その方法には、御用学者やマスコミや子飼の政治家たちを抱き込みや、文科省を通じての教育による洗脳などがあります。軍人ではない文民の官僚に取っては、国ではなくて自分及びその家族の保身の方が遥かに重要なのですから。

蛇足になりますが、官僚とは既存の規則を責任を持って施行する者であり、政治家は既存の規則の欠点を改めて新しい規則を創りだす者ですから、当然その役割も資質も全く違っております。日本の政治の特徴は、中央官僚の既得権益が強大過ぎて、本来全く役割の違う政治家が官僚の配下においてしまっているところにあると考えられます。本来の政治家の役割を全うさせるためにも、中央官僚の力を分断して、地方の各藩なり地方自治体の力を大きくしなくてはなりません。
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どっちもありますねえ。

私は文理系ですので分かるような気がします

理系の学問は理論が目に見えるようにわかりますが 文系の学問は理論というか傾向ぐらいしか分かりません

何度も何度も戦争をして 同じ様なものですが、ここが違う、こういう条件があったから、と

理系なら戦争の法則一つで片付くことを「ああでもない、こうでもない」と言って研究しているので

法則性や確信が掴めない。南京事件一つ、従軍慰安婦一つハッキリしない。

これじゃあ自分の都合でああでもない、こうでもないと言うようになるでしょうねえ

信念を持つ人は少数派ではないでしょうか?

その様にして文系の人は風見鶏になる。真実が分からないからです。
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たくさんの回答をみての、再考です。


風見鶏と云う言葉を皮肉的に使うようになったのはどんな事からなのかなぁと思いました。大昔からあったんでしょうか、それとも比較的現代に近いところからなんだろうかと。
無学なんで知りません。

とりあえずは政治家に対しての皮肉、として使われているとの解釈で考えて、文系に風見鶏タイプが多いと云う事が事実ならば、政治家は文系、と云う事になるのでしょう。

世の中の状況を見ながら行動を決断することが政治家には必要ですよね。
でもそれは必要な事であって、批判的に云う処の風見鶏とは違うと思うのです。

非判的に使う風見鶏とは、私的利益の為に大勢の動向に合わせて行動する事を云うはずなので、私事をはなれて公共の、或いは国家の為の風見鶏的行動は政治家の務めであると思えば、褒め言葉と化すと思います。

たぶん、この質問は行動の決定に短期的な目先の利益にのみに走っているのではないかと、批判的な思いを込めての事だと考えます。

その意味では、今の日本の進んでいる方向は長期的視点での結果を目標としているように思うので、そのことに対して世間の反発する傾向に敏感なマスコミの"風見鶏"的報道が目立つと捉えて居ます。

蛇足ですが、鶏と卵、では精神性に於いては卵に軍配を挙げますが、生物進化としては鶏が先であると云っておきます。自然が生命を生み出すのにわざわざ卵から作るはずはないからです。 

更に、蛇足ですが№14の「安倍総理の政策は歓迎すべきもの」との発言はまさに自身は風見鶏であるとの表明ですが、逆説plapotiの言葉なので、そのおつもりで・・・
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回答番号4,7のplapotiです。

反卵派であり、鶏派を自認する者といたしましては、
"もともと風見鶏が先であつて、風見鶏だから文系になる"
とする見解を死守する必要があります。

Q&Aサイトには、ねこひこさん、ddtさん、モクゾーさんなど、理系の人がたくさんゐますが、このやうな人たちが文系の問題を扱つてゐても風見鶏になつてゐる光景を見ることなどありません。ですから
"文系やるうちに風見鶏になる"
といふ命題は誤りです。すでに反証されてゐます。

私の人生を振りかへつてみますと、確かに子供のころから風見鶏でした。焚き火をするときには、煙が自分のほうに来ないやうに風向きを見て、常に風上に位置することを考へました。文系の選択は必然の結果だつたのです。

教えて!gooの文系カテゴリを見てゐても、風見鶏状況が蔓延してゐます。法律関連では、裁判所の判例や、偉い先生の学説ばかりが論じられてゐて、状況に適合した新説で対抗しようとする姿勢が見られません。語学関連では、辞書に載つてゐる説明が正しいのだ、と主張して、実際の用例から生きた言葉の使ひ方を説明してゆかうとはしません。

やはり風見鶏が先です。安倍内閣の政策は歓迎すべきものです。
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風見鶏がどっちを向いているかの問題です。


そして文系だろうが理系だろうが、向いているのはスポンサーの方向です。

理系はやってみたらわかりますが、文系はやってみないと分からない側面があり、理系は比較的原因究明がしやすいですが、文系は究明がしにくいうえに恣意的な解釈がしやすいという点はあります。
そういった点ではスポンサーの意向が反映されやすいと言えるでしょうけど、風力の違いで風向は一緒です。
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潰しが利く、究極言えばコインの裏表。

強みでも有り弱みでもある。これを風見鶏と捉えるか否かも、発想する側の風見鶏度による。
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皆さんと私も同意件です!風見鶏と割りきれるものではないですよ。


文系はたくさんの本を読んでいて政治的な傾向があります。人間というものをある程度わかっているのですよ♪
理系の人は何でも理屈で割りきろうとするから、白黒つけようとする習性がありますね。
風見鶏というより人間関係はグレーゾーンが大きくてあるときは白あるときは黒になることは当たり前なのです。 文系と理系と程よくミックスされているのがバランスのいい人間というものではないでしょうか?
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この回答へのお礼

確かにそんなふーに考える時期もありました。
世の中理屈で割りきってはならないとかね。
しかし今の世の中見ているとやはりどー考えてもおかしいのではないかって思いますね。
文化レベルが風見鶏化しているっていうか、軽薄化しているのではないかってね。
とにかく悪法が簡単に作られてしまってますね。
そのために詐欺や劣悪な犯罪が多くなってきています。
これは国や行政の中に風見鶏化した文系が入り込んでいるために、信念とか正義感いうものが社会から次第に消えて無くなっているからではないかと思うのです。
この辺りで大きく方向転換してもらいたいです。

お礼日時:2015/10/29 09:08

風見鶏ってw


文系指向の風見鶏や文系の風見鶏の回答を得る気はないのか?

理系やるうちに風見鶏でなくなる、と思う。
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考えても仕方がないことを馬鹿は熱中する。

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