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差別用語と言われる言葉は誰がどの様に決めたのですか?
また、どの様な形で世の中の人間に広まり言葉を使わなくなったのでしょうか?
返答お待ちしております宜しくお願い致します

A 回答 (8件)

少し調べました。



誰が決めたと言う部分では、自主規制のようです。

しかも、公共の場で発言をしたり、表現をしたりする場合に限り、

身内の職員を指導するという目的でマニュアルとして作成されたものみたいです。


企業内でも、そうしたものは配られています。

言葉として使用することは個々人の自由です。

しかし普段から使っていると、誤って公共の場で気がつかず発言したり、

人に見せる文章内に記載してしまうことがありますから、

避けるようにするのが普通でしょう。

これを黙認すると言う事は、その人が所属する組織が同じ考えを持っていると誤解されます。

これは大変な損失に成ります。


世の中に広まる経緯としては、何かの団体や勢力によって抗議運動が起こり、

例えば非買運動や嘆願などが生じ、

発言(記載、出版、発行、放送)当事者が謝罪をするなどの事件があり、

第三者に意識されるようです。


対象となる言葉や表現が、

ある団体や勢力を侮蔑する言葉として使用された実績があり、

さらに発言した当事者が、世論に影響力を持っている場合、

対象となる団体や勢力が見過ごしてしまえば、これを黙認したという実績になってしまいます。

一切使用を許さない。と、これら組織にとっては、主張することが大事です。

勿論、その団体や勢力の主張であり、世論の総意ではありません。

その団体や勢力もここはわきまえているはずです。




つまり、差別用語が広まる経緯には、事実として、ある程度大きな差別の背景があり、

既に団体や勢力が結成されており、理念を公知している状態であったということです。

この対象となる団体や勢力は、ある程度仕方なく講義せざる終えなくなります。

これを第三者が事件として知り、その様な団体や勢力があり、その様な差別があったと知ります。

第三者は、そうした団体や勢力に配慮して、使用を自粛することができます。

差別を行った個人や団体を無意識に擁護していると言う(気がつかない)実態を回避できます。


言葉を広めることで、相手を参らせると言う卑劣な手段を使う人が沢山いたということです。

これはまともな競争でもありませんし、卑怯であると思います。


この団体や勢力が差別用語として抗議する理由は、

実際にその言葉を使って差別行為が横行していたという歴史的事実があるからです。

言葉を用いるのが個人だとして、

用語が残りますと、これを世代間で引き継ぐ恐れがあります。

これでは差別が価値観となり格差となり、定着する恐れがあります。

個人によるアンフェアな判断が、社会的な損失につながると言う結果になります。


拡散を恐れ、みなで注意するということは大変賢い判断です。

個々人としてつきあったら、大親友になれたかもしれないのです。

そうしたチャンスを社会全体で失っていたかもしれない。

人生を満喫するためには、

個人が行った判断を、自分で何も考えずに引き継いではいけませんよね。


よくよく考えれば、

差別や侮蔑と言うのは、他人の人生で生じた単なる憂さ晴らしであったはずです。

その人の自己責任で解決するべき個人的な不満が最もな理由であったはずです。

子供っぽい思いつきであったはずです。


これを子供が言葉として覚える。

しかし、その子供の人生では同じではないはずです。

そのつど、真剣に向き合えば、チャンスとなるはずなのです。

引き換えにしては大きな損失になります。


判断を曇らせる言葉を憎むと言う気持ちは、その人個人にとって重要であり必要なのです。

イケナイ事として覚えてしまうと、

使用を禁止されて自由を失ったと感じてしまいます。損した気分ですね。

自粛する理由を理解しておくと、

「使用を禁止して、自分の人生だけにはチャンスが広がった、新しい出会いが広がった」

と清々しい気分になります。得した気分ですね。



実際に、差別用語を多用する人は、周囲の人に小さい人という印象を与えます。

こうなりますと、真剣に向き合ってくれる人がいなくなります。

適当な社交辞令でご機嫌伺いをされてしまい、ごまかされてしまいます。

ところが、

本人は社交辞令をされているだけ、とはわかりませんから、

自分が尊敬されていると勘違いをします。(本当にわかりませんよ。)

何時の間にか孤立しているということがあります。この損失は意外と長いです。


しかし差別用語を乱造すると、言葉の表現力自体が痩せていきます。

(これも人体に例えた比喩。痩せている人を侮蔑していると解釈されかねません)

比喩というのは効率よく印象を伝える手法です。

人体に例えての表現が多くなるのは必然です。

これを禁止すると、

社会全体でのコミュニケーション能力や理解力が低下するかもしれません。

そこで、言葉を減らさないようにと反対する団体や勢力もあります。


ご質問の通り、誰が決めたのか? が決め手です。

自粛である以上、禁止する側も禁止による弊害に対して責任をもっていません。

「自分は、余計なトラブルを避けるために禁止しています。

 自分が所属する組織も同様の回避を宣言しています。」

という話ですから、これを真似しすぎるのも損失につながります。


ですので、以下のように考えることで対処できます。

「普段は考えなかったけど、こんなことで悩んでいる人がいるかもしれない。

 もし、気がつかないで皆が自然につかっていたら?

 きっと、笑いながら気にしていないそぶりをして、傷ついているだろう。

 殆どの人はきっと警戒されている。うちとけられないだろう。

 じゃあ、自分だけが配慮していたら?

 自分だけは友達になれるチャンスを残しているはず。

 それは素敵なことだなあ。」

こうした考え方の習慣を持つことで、同時に自分を肯定できます。

また、別の表現がないかと探すことで、頭が鍛えられます。


得をするために行うのであって、損をすることに結びついてはいけませんよね。

ヘイトスピーチを避難しすぎて、誰かと対立するケースが多くなれば、

本末転倒になります。

これらは抗議団体にまかせて、実質的な妥協点を当事者にゆだねたほうがいいです。


個人として人と会話をする時は、

自分の発言をそばで聞いている人がいて、傷ついているかもしれない。

その人は自分の友人や恋人になる運命として、神さまに割り当てられていたのかもしれない。

いまこのとき、自分は親友と呼べる人を永遠に失ったのかもしれない。

自分が不幸なのは、もう過去にそうしたシーンを通り過ぎてしまったのかもしれない。

と考えましょう。

恐ろしいことに、これは真実に思えます。


ヘイトスピーチ(差別用語を用いた扇動)に限らず、

誰かを非難したり、糾弾する会話を人前でしてはいけません。

また、舌打ちをする癖は特に治しておかないといけません。

思った以上に運命を狂わせますし、後で必ず悩むことに成ります。



「付き合ってみると良い奴。」

こういう人は沢山いますし、一人一人は宝物の様な心を持っています。

これが普通です。

ですので、自分の中身が良い奴であることは自慢になりません。

分かりやすく、チャンスを失う行為はさけるべきです。




人の性格や人格は外から分かりません。

しかも、大概において今、正に工事中であり、成長中でしょう。

そんな中で出会いを増やし、我慢を覚えて、磨かれていきます。

最初は幻想であっても、自然と幻想に近づいていくのだと思います。

こうしたチャンスが始まる前に、

次々と失ってしまえば、自分が磨かれていないまま年を取ります。

これでは名実共にダメな人として人生を閉じてしまいます。


中身がダメでも、中身が成長中でも、本当に良い人でも、

等しくチャンスを増やしていかないといけないわけです。



諦めず、まだ見ぬ素的な人に、素敵な自分をプレゼントする。

ここに向けて、日々の会話や態度を吟味しなおす。

清々しい自分を取り戻す。

汚れきっているとして不貞腐れない。

これが大事だと思います。



心根がどうであろうと、

人前では美しい言葉を使いましょう。

また、そういう人を批判する習慣をやめましょう。


確かに、心根と違って建前を言う人もいます。

偽善と思える場合もあります。

しかし相手も偽善者脱出の努力中です。自分も参加して努力すればいいだけです。

自然に善を働く、本物の善になるためには、

偽善から始め、中身を改造する必要があります。

偽善を嫌って、悪を選べば、面白すぎる人生になります。


差別用語の質問で始まりましたが、本質てきな部分を論じてみました。


何が悪いとか、誰が決めたとか、やり返したいとか、自分は正しいのかと

悩む場合が多くあります。

正しくても、気持ちが晴れない場合が多くあるんです。

ですので、

「清々しく生きていたい。」

そういう願いを取り戻しましょう。

すると、意外と簡単に救われます。


以上、ご参考に成れば。
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放送局、音楽業界、出版業界の自主規制リストを放送禁止用語と呼んでいるだけです。



何故、自主規制するようになったかと言えば、倫理観や抗議なとの社会の要請が理由でしょうね。

広まったのは、テレビやラジオの番組内で揶揄するように言及することがあった(今はお詫びというかたちでしかありませんが)事や再放送の際に消されている台詞がある事に気づいた視聴者が疑問や関心を持った事等々がはじまりでしょう。

放送禁止歌や放送禁止用語についての内部リストが漏れたり、これについて考察する書籍が出版されたりして確定的に一般化しましたが、誤解(法的な規制であるとか)も多いです。

一般で使われなくなったのは、放送なんかで使ったことをお詫びしているのみれぱそういうものなんだと学習するでしょうし、罵倒や侮蔑に使われていてもともと好ましくないと思われた表現については放送禁止用語の概念や知識自体が各人の自主規制や教育の後押しになるでしょうし、そうやって使われることが少なくなった言葉は後世ではさらに使われなくなるし、という流れだと思われます。
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望んだわけではないのにハンディキャップを持った人に対して、それをことさらに言って不快な(傷つける、悔しい)思いをさせるのは今の時代にふさわしくない、差別化の助長につながる、それを口にした人や組織の品格も疑われる、などとして放送界や出版界が自主規制したもののようですよ。



回答NO.2にも例があるように、むかしは「かたちんば」は左右不揃いの表現としてピッタリでしたのでごくふつうに使いました。「片手落ち」も配慮や注意が一方に偏り落ち度がある意味として子供の頃から何も考えずに使っていました(注:「片手落ち」は差別用語ではない、とする見方があります。「片手」「落ち」なら差別ですが、「片」「手落ち」では差別ではないと)。「つんぼさじき」では複合してひとつの言葉として馴染んできました。

> どの様な形で世の中の人間に広まり言葉を使わなくなったのでしょうか?
それは人権意識が次第に高まり、差別用語である認識が広まって、使わないようにしてきたからです。親や周囲が使わないようにすると、子供はそういう言葉を知らず、使いませんから、次第に廃れます。
実は、私は本業の傍らで物書きを長年やってきたのですが、NHK系の有名な出版社に毎月原稿を送っていたある日、編集者からこれは差別用語ですよ、と原稿に注意を受けたんです。そこでは差別用語のリストを作っていました。それで初めて私は自覚したんです、これはいけないと。もう30年以上も前のことです。
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>差別用語と言われる言葉は誰がどの様に決めたのですか?


>また、どの様な形で世の中の人間に広まり言葉を使わなくなったのでしょうか?

様々ですね。憲法で保障された基本的人権の尊重や国連の人権憲章の批准であったり、同対申答申や最近の事例では、大阪市のヘイトスピーチ規制条例のように行政主導であったり、放送用語のように業界の自主規制もあったりですが、その根底にあるのは人権意識の向上による民意でしょう。

まぁ、平たく言えば、何気なく普段平気で使っている言葉や言動でも、場合によっては傷付く人もあると言う事を考えて言動しなければいけないと言う事ですね。
ただ、その言葉を使ってはいけないだけでは、単に言葉狩りになるだけ。
根底にあるのは、個々の心の中にある意識の変革だと思いますよ。
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よくわからないですけど、昔国語の先生に


「基地外って言葉は放送禁止用語だから言っちゃダメ!」
って強く言われました。

言いたいことは、僕らの地域では、気違いはMotherFuckerとかもうほんとに気が逝ってることを言ってるわけではなく、人を馬鹿にする、所謂「あんたばかぁ!?」と同じ意味合いで使われているはずなのにこれが内地の言葉だから。現代じゃ差別用語だから。と言われました。
多分、言ってはいけない言葉はあるんでしょうけど、それを超えるのもいけないんでしょうけど、いくらなんでも言葉に束縛をつけるのはどうかと思いますね。
ただ、常用語としていまは基地外と使っていますし、私は自分自身を基地外キャラ└(՞ةڼ◔)」として活動しています!
差別用語って、多分テレビでは使われないし、使うなという世論の圧迫があったのでしょう。わからないですが(´;ω;`)
いきなりですがこれで質問の回答をおわらせていただきますが、これが回答としてあなたに伝わっていればとても光栄です!
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あくまでも放送に相応しくない自主規制用語です。


それを使ったからといって法に触れることはありません。
TVで聞かなくなったので、我々一般人も使わなくなってきました。
ただそれだけのことです。
そして「差別用語」という言葉自体が独り歩きし、普通に使っている人を「逆差別」してしまいがちです。
もちろんどんな言葉も日本語なので1970年代は「性的な言葉」以外は殆ど使われていました。
BSなどで昔の日本映画の放送がある場合放送開始前に「オリジナルを尊重し」などと注意書きがされているものは、いわゆる放送禁止用語が含まれていますが、普通に放送されています。
サザンオールスターズの1995年のヒット曲「マンピーのG★SPOT」は、本来「マンコのG★SPOT」なのですが、「マンコ」はいくらなんでも放送できません。これも本当はおかしな話で、地域地域で女性性器並びに性行為の言い方は違うわけです。
TVでマンコと、もしいった場合、コの部分でピーと言う音をかぶせるのでマンピーなわけです。
サザンには「チャコの海岸物語」というHIT曲もありますが、これなどは四国徳島あたりではチャコ=女性性器・性行為なので、関東なら「マンコの海岸物語」関西では「おめこの海岸物語」という感じに聞こえるということです。
こういったように、本来は放送禁止用語などはなく、大多数の人々が見たり聞いたりする放送にふさわしくない言葉というだけのものです。
ウィキペディアの放送禁止用語も参照にしてください
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E9%80%81 …
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人が聞いて不愉快な気持ちになるような言葉は使わないでおこうという


本来は強制されるような問題ではないです。
卑近な例ではバカチョンカメラって言葉ですね。簡易カメラとか言い直してましたが、
一眼レフと区別しようとしたとき、通じなくて、使わざるをえませんでしたが、
デジカメしかもコンデジという言葉がでてきてからは死語になりました。
同様の時期から困っているのが、関西弁で「かたちんば」一対の左右がそろわないときの
表現がうまくできません。この辺は言い換えてもなんとかなるのですが、
めくらってことばですね、ここでも盲とは変換してくれませんが、
代わりの言葉としてブラインドって言い換えがありますが、
実生活ではうまく通じません。部品の手配等でものすごくもどかしさがありますね。
誰か決めてくださいよ。そうすればとても助かります。
なお、一応伝えておきますが、ここで例に出した言葉は、決して使ってはならない言葉です。
説明の為に使ったということをご理解ください。
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まったく不思議な言葉が差別用語として消えていきます。


百姓と言う言葉は特に不思議です。
私の子どもの頃はお百姓さんと言って尊敬されていました。
百姓がコメや野菜を作るのだから我々は毎日美味しいご飯が食べられる。だからお百姓さんに感謝しなければならない。といつも言われていました。
実はこの考え方は秀吉の時代からあったそうです。それまでの戦国時代は百姓も足軽として動員される。そして手柄を立てて武家として出世する。その考え方が基本でした。実際に秀吉の父親は戦で死んでおります。
 秀吉が刀狩りをした時に、これからは戦は一切心配しなくても良い、百姓は思う存分に安心してコメ野菜を作るように言われました。実際にはその当時使われることはなかったそうですが、精神的な価値として士農工商と考えられました。
 今でも、金を稼ぐことは誰にでも出来る事ですが、食べ物を作ることは簡単なことではありません。何か天災があるとスーパーから食べ物が消えます。キャベツが500円もしたこともありました。それでも庶民はキャベツを買わないという選択はありません。もっと今の世の中で百姓(農民)を大事にするべきだと思います。
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