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アメリカは南北戦争が長引き、ヨーロッパも巻き込まれ、中国は意外と強かった・・・ということにしておきましょう。

日本では、藩による独占ビジネスに成功したところ・・・薩摩藩としましょう・・・が力をつけて挙兵。九州を制圧する。同時に商人からビジネスを略奪。給料制にしてしまう。もちろん農民の借金は全部チャラにする。すると、この噂が四国、中国地方に伝わり各地で薩摩産いらっしゃいとばかり一揆が発生。混乱に乗じ、薩摩は短期間に四国、中国をも制する。
大阪商人はこれをみて青ざめ、幕府に申しでる。「今までの借金チャラにして、しかも軍資金を寄付しますので薩摩をぶっ潰してください」幕府はその金で大軍を整える。
ここで薩摩藩は扇動作戦を展開。島津に組みすれば借金はチャラ、商人の財産は没収。みんなにお金も仕事も分配します。税金はあんまり取らないし百姓を可愛がります。半分、民主主義にします。幕府は商人とグルです。悪いのは商人です。
この作戦がマンマとハマって大阪は放火によって火の海に。
薩摩は大阪まで進出。
江戸の商人たちは大阪の二の舞はゴメンだとばかりに幕府を説得。自分たちにそこそこ都合の良い条件で江戸無血開城する。
かくして島津幕府は封建制度を大幅に緩めて近代国家を樹立する。


・・・素人考えなのでたぶん、ありえないと思います。そこのところを歴史と政治に詳しい皆さん、ご教授ください。よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

えーとペリー来航はあったけど、その後の日米和親条約などは無かった、ということなのでしょうか?そのあたりの「明治維新に向けての外圧」がどのくらい減ったと想定しているのかがわかりません。


ので、適当に書きます。

まず外圧という点は明治維新にとって、というか薩長などが維新に向かって進んでいくのに非常に重要な推進力を持っています。したがって外圧がないのに「藩による独占ビジネスに成功したところ・・・薩摩藩としましょう・・・が力をつけて挙兵。九州を制圧する」という理由が見つかりません。他藩を軍事力で圧倒してしまっても、その後の運営は絶対にうまく行かないでしょうし、なにより尊皇攘夷という雰囲気からすれば天皇の許可を経ない九州制圧は国賊以外のなにものでもありません。
ですから、薩長だろうが他の藩だろうが、当時の「幕府を倒す思想→尊皇攘夷」という流れを無視して動くことはありえないでしょう。

また商人にスポットを当ててもかなり難しいでしょう。なにより戦争に必要な兵器や消耗品などを調達してくるのは、商人である、ということです。
 この書き方だと薩摩藩の島津公は「商人は悪者」として扱うようですが、どうやって戦争に必要な物資を供給するのでしょうか。その点がありえないし、まさか外国の商人から買うつもりではないでしょうね。そんなことをしたら九州を征服した時点で、幕府も天皇側も薩摩討伐に乗り出すでしょう。日本を外国に売り渡した国賊、になってしまうからです。

また「かくして島津幕府は封建制度を大幅に緩めて近代国家を樹立する」ということですが、そもそも藩という存在の立脚点からすれば、島津公が封建制度を緩める、または廃止する理由がまったくありません。

尊皇攘夷というのは、幕府を廃止することと、幕府を廃止しても外国に付け込まれないこと、を念頭において薩長などが連合して皇軍を組織したことから始まっています。薩長土肥という4藩連合であったからこそ「幕府廃止後の政治運営は西洋にならって民主化する」という方針ができたわけですが、薩摩藩だけでは自分たちの身分制度を否定する動きには繋がらないでしょう。ましてや藩が率先して九州を制圧するなら、その手柄は武士たちのものですから、手柄を立てた武士たちに報いるのではなく、その下の農民たちを優遇するような民主化は絶対に起きないといえるでしょう。

ですから、このような流れが起きるとすれば「どこかの藩で民主革命がおきてそれが九州全土にひろがり、九州民主政府は京都に上って、幕府に変わる民主政府の成立を交渉すると共に、幕府と対立し日本全土が民主政府側と幕藩側に分かれて戦争し、日本全土を包括する民主政府が誕生して天皇がそれを許可する」ということになるでしょう。つまりペリー以降の外圧が弱いわけですから、それを越えるだけの国内の民主化圧力が必要なわけです。

そもそも薩長土肥は幕藩体制を終わりにすること、尊皇攘夷を実現すること、は考えていましたがそれが民主政府を樹立すること、であったわけではありません。ただ、西洋列強に対応しうる政府のあり方、軍隊のあり方、ということを考えたときに封建主義の社会では成り立たず、現実的な解決策として明治政府の変革の流れとして民主化された、ということでしょう。もともと藩士であった初代の明治政府の人々は憲法も国会も「時期尚早」として作っていません。憲法は明治14年、国会が出来たのはようやく明治23年です。それまでは藩閥政治が明治政府の実態であったといえます。

このようなことから、外国の圧力もないのに、国内で商人に対する農民たちの不満が高まって民主化する、というのは実現性としてはかなり無理がある、と思います。
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この回答へのお礼

鋭い!
私の思いつきにこれほどまでに詳しくツッコミを入れていただいて非常に嬉しいです。ベリーベリーサンクスです。

九州制圧は野心家ならやると思います。ただ・・・九州を制圧すると侍に褒美を与えないといけないので民主化は困難。・・・そうでした。
民主化は時期尚早・・・幕末の日本の経済構造と欧米のそれを良く知っていれば、封建主義は時代遅れだと気づいたんじゃないかと思います。ただ、それはインテリだけなので一般人には時期尚早で大きなうねりにはならなさそうですね。・・・大飢饉でもない限り。
悪いのは商人だ・・・はどこから出てきた話か分からないようにして商人を上手く騙さないと失敗しそうですね。

こういう動きが出るのは第一次大戦後のドイツみたいに国じゅうが困窮状態にならないと有り得ないことがよくわかったように思います。

お礼日時:2016/05/10 10:40

薩摩が江戸に入って政権を握ったら、それこそ明治維新と変わらないものになる気がしますが。


明治維新がなければ、徳川中心の政権ができて近代化が図られたと考えるのが普通ではないでしょうか。

あと、商人からビジネスを略奪して農民の借金をチャラにするという手法は何となく社会主義革命を思い起こさせますが、それによって当時の日本で支持を得て勢力を拡大できたようには思えないのですが。商人は金儲けはしていたものの、社会にとって必要不可欠な存在だと認識されていたはずですから。
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この回答へのお礼

江戸時代には飢饉が何度もありましたので、そんな折に
悪いのは商人だ!・・・みたいな。
盛り上がっちゃうような気がするのです。ドイツみたいに。
ご教授サンクスです。

お礼日時:2016/05/09 21:55

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