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深い音楽?
バッハやベートーヴェンの音楽を勉強していると音一つ一つがとても深い意味を持っているということを知らされるのですが、ハイドンやモーツァルト、ロマン派以降の作曲家もバッハのように深いのでしょうか、?

ロマン派はそこまで弾いたことがないので(ショパン程度?)分からないのですが、バッハを勉強しているほど、難しく複雑で深いことは実感したことがなかった気がしました。

A 回答 (5件)

「音楽を勉強している」ということなので、ピアノのレッスンを受けているとか、あるいは音高・音大で学んでいる方でしょうか。



私は単なる素人の音楽愛好家に過ぎませんが、「バッハやベートーヴェンの音楽は音一つ一つがとても深い意味を持っている」という「感覚」は理解できます。でも、それが何かを突き詰めていくと、結局は「音一つ一つ」ではなく「音楽全体」が深いのであって、その一部だから、ということなのだと思います。いかにバッハやベートーヴェンといえども、「ポ~ン」(あるいは「ジャ~ン」)と音を一つ鳴らして「う~ん、深い!」ということはあり得ないと思うので。

ということは、(多分そうではないとは思うのですが)質問者さんは「これはバッハだ」「これはベートーヴェンだ」「バッハ、ベートーヴェンは偉大なのだ」という「思い込み」や「先入観、刷り込み、洗脳」の上で弾いているのかもしれません。
あるいは、バッハやベートーヴェンの音楽には、他の作曲家の作品にはない、質問者さんが共感できる、あるいは琴線に触れるものがあるのかもしれません。
私のような「単なる愛好家」ならそれでも良いと思うのですが、質問さんのような「音楽を勉強している」立場の人には、それはある意味で「危険な罠」のような気がします。「先入観、思い込み」から音楽に接したり、単なる「個人的な共感」(ある意味で感覚的な「好き嫌い」)だけで済ませてよいのかどうか。

ハイドンやモーツァルト、ロマン派以降の作曲家も、音一つ一つが深い意味を持っていると思います。バッハやベートーヴェンとは違う深さ、意味を持っていることも多いと思います。
それは近現代、民族的な音楽、ポップスも同じです。
それを探し出す、探り出すのが「音楽を勉強する」ということなのではありませんか? それに共感できるかどうかは別として。
そして、質問者さんがもし「演奏家」を目指すのであれば、それを「聴き手に伝える」ことも勉強するのでしょうね。
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この回答へのお礼

そうですね、ロマン派の曲をあまり好きになれなくて、偏見のようなものを持っているのかも知れません。ロマンも勉強していったら自分が思っているその「深さ」を見つけ出せるかもしれませんね。

お礼日時:2019/09/09 21:14

「深い」という表現がすべてを語っていて,ご質問者が感じる印象とその他大勢(特に僕のようなクラシック愛好家)が感じる印象とは違うかもしれないですね。

「勉強している」とありますから,僕のような単なる好きなだけの人間とは異なるのでしょうが,そういう素人がどう感じているかを参考までに書いておきます。
 ブラームスは好きです。音色が豊かだから。でもベートーベン以前は,コード進行がなんとなく読めてしまう。多分,小中高と音楽室で退屈な音楽を聴かされたのが原因でしょうが,インパクトが無いのです。大学以降,授業以外で音楽に接するにつれ,印象派のキラキラ,六人組等のフランス近代のリズムや音色・コード進行の新鮮さ,もちろんロシア特有の例えば鉄琴の音,ストラビンスキーの官能的なリズムと音の変化・・・などなどに触れると,「深い」という一言では語り切れない「良さ」を感じます。また打楽器だけの演奏や,ピアソラのタンゴ,ブラスアンサンブルによる武満さんの曲などに接すると,ますますクラシック音楽の面白さを感じます。が,ベートーベン以前とは全く違う印象です。いま,バッハの無伴奏チェロ以外は,古典派とそれ以前を聴くことはありません。・・・てな感じ方をしております。
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おいどんにはわからぬ(*´ω`*)

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時代を経るにつれ作曲家にはハンデができる。


それは「めぼしい旋律は使われてしまっている」というハンデである。
音の数が限られている以上、そして人間の耳に届く音はさらに限られる以上、それは避けることのできない宿命である。

それはオーケストレーションの変化となって表れる。
それは音楽形式に現れる。
時にはそれまで顧みられなかったもの、例えば不協和音にも踏み込まなければならない場合もある。

どう新境地を切り開くか、それがその音楽が生き延びられるか滅びるかの分岐点でもある。
そしてその境地はその時代その時代で違う。
どういう曲を作ろうと、作曲家は常に最高の音楽を作ろうと心がけている。
世に発表するのに音符一つの妥協がある、それは到底矜持が許さないだろう。

これは軽音楽の話だが、やたらチャラくて到底無理だと感じた曲があった。
ところがこれはもしかしてこういう切実な気持ちを込めたのではないかという解説をある時聞いた。
そしたらチャラい歌詞も軽い曲調もすべて筋が通って、味わい深い曲に変わってしまった。

表現がどうあっても作曲家の注いだ血肉を感じることができる、それが真の表現家だと思う。
これは深くてこれはダメだ、それでは表面的に理解しているに過ぎない。

作曲で食っていくというなら、ベートーヴェンもモーツァルトもそうだった。
モーツァルトはそのため貴族受けする音楽を意識せざるを得なかったし、
ベートーヴェンも大衆受けする音楽、ガールフレンドや友人向けの音楽を書いた。
動機が不純(商業)だからダメだというのでは、生き残れる音楽などないだろう。
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この回答へのお礼

この視点からは初めて考えたかもしれません。ありがとうございます

お礼日時:2019/09/09 21:17

全員が全員 そう感じるのでは無いので あなたの思う様に・・



クラシックを嫌いな人 好きな人・・

でも それはそれで良いのでは?
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この回答へのお礼

これは好き嫌いかもですよね

お礼日時:2019/09/09 21:16

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