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キリスト教(というより聖書では)は同性愛禁止らしいですが、プロテスタントでは同性愛者の牧師が実在されていますが、プロテスタントでは認められているのでしょうか?プロテスタントは聖書主義を説いているのに問題ないのでしょうか?カトリックはどうなのですか?
初心者でも解るように回答頂けると有り難いです。お願い致します。

A 回答 (8件)

創世記のゾドムの滅亡の時、ロトの家にいる天使に関してのロトと群集のやり取りから、群集たちが同性愛者と判ります。

ここから同性愛者=ゾドムの男という隠語が発生。ゾドムは町ごと滅ぼされました。
その後、出エジプト記などで、同性愛者は、女と寝るように男と寝るものと表現され、禁止されてます。
分厚い聖書のどこにも、同性愛を肯定する箇所は、1行もありません。

同性愛者は牧師になれませんし、バレたら追放でしょう。
ただ、そういう誘惑に負ける人もいるでしょう。
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プロテスタント?聞いたことがない、なんちゃってクリスチャンならあり得る。

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カソリックは「男性原理主義」です



つまり「神は人間を神の姿に似せて作った」という聖書の記述と「神が人間界に遣わした救世主(イエス・キリスト)は男である」と言う事実から「神に似せて作られたのは人間の男である」という論理になっていて、カソリックはその教義を守っています。

だからカソリックの司祭は男しかなれないし、司祭は結婚できない(本来はセックスもできない)し、教皇は当然男しかなれないわけです。
この辺りは、日本でもお坊さんが「男しかお寺で修行できないし、昔は妻帯できなかった」というのに似ていて、実は非常にアジア的な感覚なのです。

それに対してプロテスタントは、ドイツのあたりで「カソリックは『神への信仰を仲立ちする』と言っているが、やっているのは金儲けと権力闘争ばかりではないのか?」という疑問を持ち「聖書には『教会(カソリック教会)を通さないと信仰できない』とはどこにも書いていない」という論理で「神への信仰は自由であり、個人個人がそれぞれに行うものだ」という考えに至った宗派をいいます。

なので彼らはカソリック教会を否定し、自分たちで集会のような信仰を持ち始め、カソリック教会が排除しようとしたのを抵抗して「自分たちの信仰を守った」からプロテスタント(抵抗者)とよぶわけです。

で、信仰を持つ人々は男も女もいるわけです。聖書には「神の姿に似せて作った」としか書いていないので、旧約聖書のイブの位置づけを無視すれば「女性だって神への信仰を持てる」ことになり、その結果牧師(プロテスタントは牧師と呼びます。あくまでも信仰者の中の指導的な立場だからです)は男女ともなれるし、結婚は信仰の妨げにならない、と考えたからです。

で、ここからが同性愛とかLGBTなどに関わってくることなのですが、プロテスタントが今の社会にもっとも重要な役割を果たしたのは「自由」ということです。

つまり「神と個人が信仰の契約を結ぶのは自由、カソリック教会が邪魔をすることはできない」という考え方を発展させると「神と個人が信仰の契約を結ぶのは自由、カソリック教会が邪魔できないのだから君主や貴族などが庶民の信仰を禁止したり邪魔することもできない」と解釈できるようになり、信仰とは「教義に基づいて生活を行う」ことですから、たとえば君主が安息日である日曜日に「お前ら仕事しろ」と言っても「いや信仰は私たちの自由ですから、それに基づいて行動も決めます」と拒否する自由にも気が付いたわけです。

このような「自由」という考えは、やがて「貴族だろうが奴隷だろうが、神から見て個人との関係は対等」という考えに発展し「身分差があっても、個人は自由であり、皆が等しく権利を持つ」という思想に発展していきました。これを「啓蒙思想」と呼ぶわけです。

つまり啓蒙思想の発端はプロテスタントが持った「信仰の自由」という考え方に有ったわけです。

啓蒙思想は「個人の権利は等しい」と言う考え方ですが、これはだんだんに範囲を広げて行ったわけす。最初はフランス革命やアメリカ独立戦争で階級的な身分制度から「自由」になり、その後奴隷制が廃止(欧州ではフランス革命とほぼ同時期に奴隷制も廃止されています)されて自由になりも、19世紀には女性解放運動の結果「女性も男性と同等の権利を持つ」自由を獲得し、第2次大戦後には民族自決という「自分たちの国を自分たちの民族が決める自由」をほぼ世界中の国が手にしたわけです。

最後に残ったのが同性愛などのいわゆるLGBTの人々で、これは「男でも女でも自由であり権利があるのだから、その間のどの立場でも自由であるのが当然」ということになり、だからプロテスタントは同性愛者の牧師も認めているのです。

カソリックはローマ時代に決めた「神は男」という概念を壊すと、いろいろなことを見直す必要が出てくるので、天動説を地動説にするとかダーウィンの進化論を認めるとか(その代り、ID説も同時に教えるように要望している)などの時代に即した最低限の修正だけして、後は譲らないので「個人として同性愛者やLGBTの権利は認める」としても、組織としてカソリック教会で同性愛の司祭を認めることはない、のです。
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教義で認められていてもいなくても、同性愛者として産まれ育ってしまう人は一定数いるんですよ。


それは牧師でも神父でも導師でも、です。

内心に留め苦しむ人もいれば、隠れて行為をおこなう人もいます。
表沙汰になって問題になることもありますよね。

アメリカのドラマでは、街で尊敬されていたキリスト教会の指導者が陰で立場の弱い少年に悪戯をはたらいていた、というモチーフがしばしば登場します。
ドラマはドラマですが、実際にあり得ることと共感か持たれるからからなんでしょうね。
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隣人を愛するがごとく 愛は人を善行に導き 心を大きくしてくれるもの。


それが同性だったとしても 少なくともその心は 悪ではない。

人は罪を犯すものだが 神の愛はそういった者にさえ 救いの手を差し伸べる。
我らの至らなさを反省しつつ 出来ることを出来るだけ良くしていこう。

自分はキリスト教でも何でもないのだが もし自分が同性愛者のプロテスタントで 人に教え諭すとしたら こんな事を言うと思う。

ホントは「聖書で言ってるんだからダメだろ」とは思うのだが 牧師だって隠れて浮気したり金儲けしたりするのはいるし それに比べれば遥かにマシだし 誰にも迷惑かけてなければ 「まあ大したことではない 範囲内だ」で良いと思う。

カトリックは厳格だからなあ。
だから逆に 聖書に書かれてなければ何しても良いみたいに考えて 変に支配的になるのかも。
十字軍なんか最たるものだし。

もともともあの「神の国」に 洗礼を受けてないと入れないとか 一段下の世界に行かされるとか 「それ教会の都合だろう」としか思えない。
だいいちイエスは「ただ神のみを主とし仕えよ 信じあがめよ」と言ったのに 教会は勝手にイエスを象って「主イエス」にしてしまったし 本質的に自分の都合で塗り替えて使ってる。
仏教もそうだけど 後の人たちが勝手に自分たちに合わせて解釈していくのは まあ不敬とまではいかないけど あまり良くないと思ってたりする。
少なくとも自分は たとえ膨大な「歴史」があろうと そういう本質を無視するのは嫌い。

・・後ろの方は蛇足ですね。
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神は人間のする事に 一切 何も指定していません



人間が・・・(その人自身が・・) 一人一人が 正しい判断をする・・・と言うか しないと いけない
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◯◯組系××組。


みたいな、
いろんな宗派が
有象無象あるんでしょ?

で、認める所もあれば、認めない所もあるんでしょ?
一律に、プロは~カトは~。って言え無いんでは?

個人的には、
原理主義反対。
教条主義反対。
ですねッ!

宗教も、
「いい加減が、良い加減」ですねッ!

生きてる人間が、一番大事デス。
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プロテスタントです。

同性愛は神様が勧めている天国に至る狭い道ではないけど、人間が神ほどに正しくないのも神様はご存知だからイエス様を私たちに下さり、罪を赦してまた神様と繋いでくれました。同性愛牧師は新しいので違和感と嫌悪感が個人的にはあるし、従う羊にわざわざその教会に行ってなろうとは思いません。カトリックも同じかもっと厳しいでしょうよ。中絶とか、それはダメですね、終わり、みたいなバッサバサ感ですよ?同性愛に寛容だとは思えません。同性愛についてはこの先生の話が分かりやすいです。http://seishonyumon.com/movie/2240/
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