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井原西鶴の本朝二十不幸の「本に其人の面影」(?)というお話があります。
兄弟2人が死んだはずの母親を見て、兄作弥は涙をながして手を合わせます。しかし、弟八弥は矢を母親に向けて放ちます。矢は命中し、母親の姿は消え、化けていた狸がでてきました。この狸は悪さをしていて人々は悩まされていたので、矢を放った弟八弥を人々は褒めていました。これを聞いた国司は、「たとえ化けた狸であっても母親の姿のものにむかって矢を放つとは!!」といって国から追い出し、兄作弥は「母親に手を合わせて悲しんだのは武士として立派だ!」と褒めました。
だいたいこんな感じの話なのです。
何故人々と国司の評価が違ったのかをレポートで述べるのですが、全然進みません。
よろしかったら何かアドバイスお願いします。

A 回答 (3件)

不幸->不孝ですね。


孝=孝行で親に尽くすことです。
当時一般的であった考え方は弟をほめ、
国司の考え方は兄をほめるということですね。
では作者西鶴はどちらの立場に立ったのでしょうか。
がんばってください。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!! (*゜▽゜*)

お礼日時:2005/01/15 09:37

 僕が考えた見解です。

キーワードは「理想」と「現実」です。

国司→律令時代の地方官で地域を統治する権力者
町民→その国司に統治される民衆

 兄をほめた国司は権力者です。権力者は権力下にあるものをこうしたい、ああしたいなどと「理想」を追い求めます。
 一方で弟をほめた町民は日々生活していくことで頭がいっぱいである、つまり「現実」的であるはずです。

 兄が死んだはずの母が目の前に現れて涙を流したということは、死んでしまったという「現実」をまだ完全に受け入れられず、実はまだ生きているのではないかという「理想」が頭の中にあったと考えられます。
 逆に弟は死んだはずの母が目の前に現れるはずはなく、「現実」的に考えて化け物に違いないと矢を放ったに違いありません。
 以上より国司は死んだはずの母をいまだ思いやる兄を評価し、町民は現実の生活を脅かす狸を仕留めた弟を評価したのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

たしかに、理想と現実でわかれると思います!!
気付きませんでした!
ありがとうございました (*゜▽゜*)

お礼日時:2005/01/15 09:39

二十不孝というくらいなので、西鶴は国司サイドに立っていると思われます。


国司が兄弟に対してジャッジをした後、人々はどういう反応をしたのか文中に出てきます?出てるとわかりやすいのですが。
人々が喜んだのは、結果として弟が退治したのが狸だったからだと思います。ところが国司ジャッジを聞いて人々は冷や水を浴びせられたような気分になって反省した、なんてオチではないでしょうか?国司は学があり儒教モラルがあったが、人々は無知でそこまで思いよらなかったという教訓話のような気がします。なんせ今とまるで価値観の違う時代の話ですから。
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この回答へのお礼

ありがとうございました (*゜▽゜*)
ジャッジを受けた後の人々の反応はかかれていませんでしたが、そういう考え方もありなぁと思いました♪^^

お礼日時:2005/01/15 09:42

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