有名なサルトルの言葉ですが、この問いにまっこうから答えた人には誰がいますか?
またどのような答え方をしましたか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

 この発言の背景には、当時のフランス文学の若手に対するサルトルの歯がゆさのようなものがあって、強い否定的な発言となったようです。

ですから、サルトルは、単に文学で「平和を訴えたとしても、それで平和になるわけではない」という趣旨で発言をしたようです。
 この発言を聞いた当時(時代をど忘れしているので)、フランス文学の若手たちは、ついにサルトルも年老いた、と落胆のまなざしで、批判を始めたのですが、私は、この発言の趣旨を、それだけでとらえるのは無理があると思っています。
 というのも、その時代の日本の文学者も、この発言に触発されて色々と答えていたのですが、おおむねの発言の趣旨は「そんなのは当たり前で、飢えた子どもに文学が有効なはずはない」という冷めたものでしかありませんでした。
 むしろ問題なのは、飢えた子どもの前で文学が有効でない、としても、文学には「ちゃんと存在価値がある」と断言を出来るかどうか、という文学者としての決意の有り様を問題にしていた、と記憶します。

 文学を捨て、飢えた子どもたちにパンを配る実践の人になるべきか、また別の道を歩むべきか、という選択を迫られた時、「いや、私はそれでも小説を書く、文学をやりとおす」という決心が必要で、それには自分で、この質問に対する回答を見いだすことだ、というのが日本の文学者(主に小説家)の回答でした。

 文学は、実践には見えません。しかし、人が小説や評論を通し、テキストとして文学に対峙することによって、自分の認識を変えること、また、読者に別の認識を迫ること、こうした、すこしづつの変革によって、歴史は変わる、と思い定め、今このときの目の前の不幸は救えないが、全く別の方向から、自分の願いを届けていきたい、と願うことは、文学者としては当然の願いのはずです。そうした後ろめたさを自分の背後に抱えて、小説を書き、発言をすることが、他者の琴線に触れることだ、という認識も大事なのではないでしょうか。

 サルトルは自らの反省も含め、「今役に立たないからと言ってすぐに文学を捨てるのではない、より強く後ろめたさを感じて、自らの言葉を磨け」と言った意味で発言したのではないか、と考えます。

 私の記憶では、武田泰淳、野間宏、安岡章太郎、大江健三郎、三島由紀夫、学者では白井健三郎、竹内芳郎などが、エッセイとか対論で答えていたと思います。この時代の小説家や文学者の文献を丹念に当たっていけば、大体何らかの反応を書いているはずです。


 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

素晴らしい啓発的なお答えをありがとうございました。
どうお礼を申し上げたらよいかわからないほどの、充実したご回答、深謝いたします。

>おおむねの発言の趣旨は「そんなのは当たり前で、飢えた子どもに文学が
>有効なはずはない」という冷めたものでしかありませんでした。
>むしろ問題なのは、飢えた子どもの前で文学が有効でない、としても、
>文学には「ちゃんと存在価値がある」と断言を出来るかどうか、という文学
>者としての決意の有り様を問題にしていた、と記憶します。

結構、常識的な反応だったのですね・・・・・・・
むしろ文学の有効性をいいつのったのではないかと予想していたので、意外でした。

私はサルトルの同時代人たちの文学作品はあまり読まないので、知識不足で恐縮なのですが、SF作家で平井和正が
「人間の精神性の高みを見ようとしない、人間を肉体のみにとらわれたものと
して見ている愚問」
のようなことを答えていたと記憶します(ちょっと正確な文章は曖昧です)。
あと、筒井康隆が
「ぼくの小説を読めばもっと早く死ぬ」
と特有のブラックジョークできり返していました。

サルトルの意見に全否定的なものが多かったのではないか(文学の有効性を擁護しようとする意見)と予想していたので、sokura様のレスは意外でした。

最後に、あらためて素晴らしい回答をありがとうございました。

乱文乱筆お許しください。

お礼日時:2001/08/27 03:23

芭蕉の「野ざらし紀行」に「猿を聞く人 捨て子に秋の風 いかに」という句があります。

旅の途中で捨て子を見て詠んだ句です。小生が訳すと「猿の悲しげな声を聞いて詩歌を作る風流人よ。私の目の前の捨て子は冷たい秋風にさらされている。この捨て子をどうする?」ということになります。この句を大学で習ったとき、恩師が「サルトルの例の問題提起とほぼ同じことをすでに芭蕉は言っている」と言っていたました(小生はこれでサルトルの言葉を知ったのでが)。「芭蕉の昔からある問題を、新しい問題のように仰々しくサルトルは言っている」という冷笑的なニュアンスを恩師の口ぶりから感じたのを覚えています。もしかするとこのへんが、伝統的な国文学者の典型的な感想なのかな、と思って紹介するものです。前のお二人とのやりとりを拝見して、何かの参考になればと思って書きました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>冷笑的なニュアンスを恩師の口ぶりから感じたのを覚えています。もしかするとこのへんが、伝統的な国文学者の典型的な感想なのかな、と思って紹介するものです。

その「冷笑的」という部分が気になります。
サルトルが新しい古いの問題ではなく、tacobe様がお書きになっていたように

>頼りなさ、はかなさのようなものを背負いながら、なおかつその文学に何ができるか考えていくのが文学的実践ということではないか、と思っています。

という覚悟がその文学者自身にあるかどうかが問題なような気がするのですが。

>伝統的な国文学者の典型的な感想

が「冷笑的」というのは、実は彼らが自らの非誠実さから目をそむけるための態度ではないか、疑っている昨今です。

もちろんhiruchan様の恩師が非誠実な方と誹謗しているのではなく、わたしの文学者全般への漠然たる印象でそう感じるだけです。

ご不快になられたら申し訳ありません。(非礼な書き方にならないような文章がうまく書けずに申し訳ありません)

hiruchan様やその恩師をご批判しているわけではありませんので、ご気分害されたらお詫びします。

ご丁寧なご教授、ありがとうございました。

お礼日時:2001/09/08 14:50

 講演会で人づてに聞いた話なのでちっとも詳しくはないのですが、サルトルが、


ビアフラの飢餓のような状態を前に文学は無力だ、と言ったのに対して、リカルドゥという批評家が、いや、(遠い)ビアフラで起こっている悲惨を知って同情したり、何とかすべきと判断するような想像力、判断力を養うのは、文学を含めた文化的教育なのだ、と主張したのだそうです。私は、個人的には、これはまさに文学の存在理由を肯定的に述べた言葉であると理解して、感動したものでした。
 要するに、これは、文学というものが常に抱えている、「思想と行動」とか、「参加」(アンガージュマンとかコミットメントと言われていますね)という、いわば永遠の問題ですね。一方には、文学者もいざとなれば、(政治的に)行動すべきだ、という考え方があり、他方、いや、文学者は文学でこそ初めて仕事ができるので、そういう活動は邪道だ、という考え方があるように思います。どちらを選ぶかは、結局は個々人の判断だと思いますが、サルトルの発言にはsokuraさんの言われるような事情があったとするとよくわかります。
 小林秀雄に「文学なんてものは海の泡でしかない」というような言葉があったように記憶しますが、そうした頼りなさ、はかなさのようなものを背負いながら、なおかつその文学に何ができるか考えていくのが文学的実践ということではないか、と思っています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご丁寧なご回答ありがとうございました。
参考になるお話です。

決してtacobe様のご意見を批判しているわけではなく、個人的な感想としては現在私は、

>リカルドゥという批評家が、いや、(遠い)ビアフラで起こっている悲惨を知って同情したり、何とかすべきと判断するような想像力、判断力を養うのは、文学を含めた文化的教育なのだ、と主張したのだそうです。

という意見は現実へのコミットメントしとしてあまりにも迂遠な方法ではないかと感じています。

むしろ
>小林秀雄に「文学なんてものは海の泡でしかない」というような言葉があったように記憶しますが、そうした頼りなさ、はかなさのようなものを背負いながら、なおかつその文学に何ができるか考えていくのが文学的実践ということではないか、と思っています。

という意見の方が負い目を感じながら文学活動をするある種の聡明さと誠実さを感じます。

決して反論ではありませんので、ご不快になりましたらお許しください。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/08/27 22:43

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qこの言葉は誰が言った言葉でしょうか?

曖昧な記憶しかなく、ニュアンスでしか覚えていないので、わかりづらいと思うのですが、
どうしても誰が言った言葉か知りたいので質問させてください。

「死ぬために生きるのではなく、
生きるから…」

といったような言葉です。すいません、ニュアンスで、もうちょっと違う言葉かもしれません。
確かちょっと前の詩人か、文人だと思うんです。

これかな?と思う方、いらっしゃいましたら回答をお待ちしています。
手がかりでも構いません!よろしくお願いします!

Aベストアンサー

こんにちは。

#4に追加します。

● たった一人しかない自分を、たった一度しかない一生を。

● 人は生まれて、生きて、死ぬ、これだけでたいしたもんだ。

● 生きているということ いま生きているということ

● いかに死ぬか、いつ死ぬかを選ぶことはできない。
   選べるのは、いかに生きるか、それだけだ。

Q『失意の日も得意の日も・・・』という言葉、誰の言葉でしょう??

全文は、
『失意の日も得意の日も それからすっかり時がたって 全てが消えてしまっても いかに小さくとも真剣に激しく生きたときの思い出は残っている』
です。

何年も前の、メモに走り書きしたのを、最近発見したので、もしかすると全く有名なものではないかもしれませんが・・・

もしご存知の方がいらっしゃったら、誰の言葉か、また
本や詩の中の言葉でしたら、その作品名等教えて頂けない
でしょうか。
宜しくお願いします!!

Aベストアンサー

こんにちは!
自信は全く無いのですが、これはもしかすると井上靖さんのお言葉ではないでしょうか??
「失意の日」「得意の日」という言い回しにピンときたのですが、井上靖さんの「夕映え」という作品に、この言葉が出てきます。
井上靖さんのこの作品は、背景描写が本当に素敵なので、もしお時間がおありでしたら一度読んでみて下さい。

Q 「スイカ甘いかしょっぱいか」という言葉を最初に言ったのは誰なんでしょ

 「スイカ甘いかしょっぱいか」という言葉を最初に言ったのは誰なんでしょうか?

 色々検索しても出て来ず、とても不思議です。
 本当に良く出来たダジャレだと思っているので落語あたりから派生したのか、と思っていたのですが…検索をかけてもこの言葉が出てくるばかりで、何も出て来ませんでした。

 また、元ネタは佐藤春夫さんの詩【秋刀魚 苦いかしょっぱいか】ではないかと思っていましたが、とにかく何もかもが不明です。
 私はこの言葉を、いしいひさいち先生の作品『ののちゃん』で見ました。
 いしい先生がお考えになった言葉なのでしょうか?

 ご存知のお方がいらっしゃいましたら、どうかご教示頂けないでしょうか。
 よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

いしいひさいちのアイディアだと思います。プロの漫画家ですから他人のギャグをパクることはないでしょう。

その手のギャグは、筒井康隆の「ことわざパロディ」が嚆矢となっております。

(例)
一姫二太郎三なすび
帯に短し恋せよ乙女
親子三人ネコイラズ
狂気の沙汰も金次第
人は石垣死ねば寿司
荒淫矢の如し

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%8F%E3%81%96%E3%83%91%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3

Q有名俳人の有名な俳句を教えてください。

有名な句を調べています。
有名な俳人までは調べて見ましたが、有名な句ってどういうものがあるのでしょうか?よろしくお願致します。


■小林一茶
■高浜虚子
■種田山頭火
■正岡子規
■松尾芭蕉
・古池や蛙飛こむ水のおと
・夏草や兵どもが夢の跡

■与謝蕪村

Aベストアンサー

ざっとですが、

小林一茶

めでたさも中くらいなりおらが春
名月を取ってくれろと泣く子かな
我と来て遊べや親のない雀

高浜虚子

春の浜大いなる輪が画いてある
流れ行く大根の葉の早さかな     
蓑虫の父よと鳴きて母もなし

種田山頭火

分け入っても分け入っても青い山
もりもり盛り上がる雲へ歩む
炎天のレールまっすぐ
うしろすがたのしぐれてゆくか
しぐるるやしぐるる山へ歩み入る

正岡子規

もののふの河豚にくはるる悲しさよ
いくたびも雪の深さを尋ねけり
鶏頭の十四五本もありぬべし
痰一斗 糸瓜の水も 間にあわず


松尾芭蕉

松島や ああ松島や 松島や
秋深き隣は何をする人ぞ
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
山路来て何やらゆかしすみれ草
閑さや岩にしみ入る蝉の声
五月雨をあつめて早し最上川

与謝蕪村

春の海ひねもすのたりのたりかな
菜の花や月は東に日は西に

あたりでしょうか(虚子や山頭火は好きな人でないとちょっと馴染みがないかもしれません)。

ざっとですが、

小林一茶

めでたさも中くらいなりおらが春
名月を取ってくれろと泣く子かな
我と来て遊べや親のない雀

高浜虚子

春の浜大いなる輪が画いてある
流れ行く大根の葉の早さかな     
蓑虫の父よと鳴きて母もなし

種田山頭火

分け入っても分け入っても青い山
もりもり盛り上がる雲へ歩む
炎天のレールまっすぐ
うしろすがたのしぐれてゆくか
しぐるるやしぐるる山へ歩み入る

正岡子規

もののふの河豚にくはるる悲しさよ
いくたびも雪の深さを尋ねけり
鶏頭の...続きを読む

Qこの句、誰の言葉ですか

>くるしみたのしみあざなわれた縄である<
教えて下さい、お願いします。
又意味も教えて下さい

Aベストアンサー

出典は分かりませんが昔から言い伝えられている人生訓です。縄は二本の紐(昔は藁のひも)をよじるようになって(作る)います。二本の紐が交互に合わさって見えるのを吉(幸)と凶(不幸)が互い違いに表れる、吉と思えば一回転すれば凶に変る、人生は分からないものだ、一喜一憂しても仕方がない・・・と教えています。

同じような諺に「人間万事塞翁が馬」というのがあります。人生は吉凶、禍福が予測できないので、今の自分の境遇などをいたずらに嘆き悲しまず毎日努力して生きよ、という教えです。現代風に言えば英語が出来ないと嘆いていたら、英語が出来るため海外に派遣された人が不幸に会い
国内に残った自分がいい恋人に出会い幸せな家庭を作った、しかし・・・というようなことです。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報