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高校の読書感想文の宿題の為に夏目漱石の『こころ』を読んだのですが、どうにもわからないことがあります。

それは、何故主人公が「先生」ではなく「私」なのか、ということです。

最終章は「先生」の遺書で話が進みますよね。
なんだか最終章だけでもよくできた話に思えるし、この作品のテーマである「エゴイズム」もこの章だけでしっかり描かれている気もしますし。

その前の「先生と私」「両親と私」は何故この作品に必要なの?!と思ってしまったのです。
でも無いと無いで寂しいような…。

・主人公が「先生」ではなく「私」であるのは何故?(「私」の存在意義は?)
・「先生と私」「両親と私」は「先生と遺書」にどんな影響を与えている?

以上の2点、どうかわかりやすく解説をお願いします。

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A 回答 (6件)

・主人公が「先生」ではなく「私」であるのは何故?(「私」の存在意義は?)



先生は本来「教授的な職に就きたかったと思うんで。
奥さん頂いた替わりに社会的自己顕示は諦めた。
子も作らなかった。確か奥さん抱く事も自粛してた。
そんな先生にとって、打ち明ける弟子&息子に近い存在の出現は、意義有る&救いに繋がるものだった。

・「先生と私」「両親と私」は「先生と遺書」にどんな影響を与えている?

青年に移り変わる真っ只中、初めて出会った肉親以外の父なる存在との出会いって、大学生にとって素晴らしい物なんじゃないでしょうか?
男性にとって、父以外の師・先輩との出会いって、憧れなんでは?そして必要なものでは?
他人だけど、敬愛・尊敬が成り立つ世界。(私から見て)
完全客観的な立場に向かって罪を吐き出す事。
身内間では甘えが存在しますから、吐いても意味がない相手です。(先生から見て)

先生が親を越える師になっていく過程が描かれています。
先生は、諦めてた弟子に会う機会に恵まれて、満足したから初めて、純粋な心でKに対して殉死出来る心境になれたんだと思います。先生は親戚との金銭トラブルで大変傷付いてました。私に出会って救われた部分が有ると思います。
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わたしはたまたま最近この本を読み返しました、ので知識は無いけど思い入れはあります。



まず、挙げられるのは「先生」と「私の両親」の対比です。学校を卒業したからといってすぐに就職などしなくてもいいという思想(自らもそれを体現している)の先生と、大学を出たからにはすぐに金を稼ぐべきだという両親。
いわば「都会型知識人」と「田舎型実業家」とも表現できるこの対比は漱石の「猫」や「三四郎」にも見られる構図です。

そのような相反する二人の大人と接する主人公は明らかに先生により深く傾倒しており、実の両親の考え方には強く反発しています。
このことは「両親と私」の最後で実の親が危篤だというのに心の師である先生のところへ駆けつけるという、軽薄ともとれる「私」の行為が証明しています。
儒教的道徳からはとても考えられないこの行いが、「私」のエゴイズム(我侭ともいう)では無いでしょうか。

また、この物語の鍵となる出来事が明治天皇の崩御です。明治という時代とともに「先生」はその生涯を閉じます。

明治20年代(?)にあってその生き方が古めかしい「K」を江戸時代的な侍精神の持ち主、
自らの罪にさいなまれ迷いながら生きるも結局は死へと向かっていった「先生」を明治時代の人、
そして彼らの生き方を見つめる「私」は、これからの時代(大正)を生きる未来人、

と考えてみてはどうでしょうか。

彼らはいずれも「都会型知識人」に属する人ですが、それでも生き方は時代を反映して大きく異なります(もしかすると一人の人間の精神が変化する過程かも知れませんが)。もし、この物語が「先生の遺書」だけだと彼の自殺後には何も残らなくなってしまいます。しかし、「先生」も示唆していますが「私」という読み手が存在することで「K」と「先生」の魂は受け継がれて行くことになります。


長々と駄文を連ねてきましたが、わたしなりの結論としては

「私」は「先生」の唯一の理解者であり後継者である、です。
「私」の存在により「先生」は、「それから」の代助や「門」の宗助のように一人でうじうじ悩まずに済んだ、と乱暴に言えばそういう風に解釈しました。

*************
追記

今回、夏休みの宿題のために読んだのであればその感想文を残しておいて、5年後か10年後にもう一度この作品を読むことをお勧めします。きっと違った見方が出来るでしょう。

また、現在ビックコミックスペリオール誌上で「こころ」を漫画化したものが連載されています。
現代風にアレンジもされているので、原作に強い思い入れがある人は読まないほうが良いと思いますが、小説だけでは判らなかった部分が見えてくるかも知れません。
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回答・アドバイスというよりも一読者の感想と思って読んでくだされば幸いです。



十代の頃に『こころ』を読んだ時、わたしは「私」という青年を単なる「語り手」として理解していたと思います。しかし近年読み返した時、「私」という青年はこの作品になくてはならない存在だと思うようになりました。最初に読んだ時には読み流してしまったある箇所に引っ掛かりをもったからです。それは、「先生と遺書」の章の「二」にある次のような言葉です。

「私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。」

「私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝と見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫みなさい。」

「あなたが無遠慮に私の腹の中から、或る生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭であった。それで他日を約して、あなたの要求を斥けてしまった。私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。」

これらの言葉の重みに気づいた時、わたしは激しく心を揺さぶられました。これらの言葉は、先生が青年に向けて遺書を書く理由を語っています。しかし、もしかしたら、先生はこの青年と出会わなければ自殺をしなかったかもしれない、ということすら暗示しているようにも思うのです。

もちろん、「私」が先生を追い詰めた、などということを言うつもりはありません。そうではないけれども、先生は「私」と出会い付き合いを深める中で、自分の心の中の闇と真正面から向き合う決意をしたのではないかと思うのです。

もっとも、この青年の何が先生にそのようなことを考えさせたのかということは、今のわたしにはわかりまん。ただ、それがこの作品を読み解く鍵ではないかと思っています。

  *

既出の回答と重複する部分もありますが、ご了承ください。
なお、質問者さんに余計な先入観を与えてしまったかもしれませんが、「かしこい人」ではないので(笑)、あえて書かせていただきました。

  *

以下、余談です。

十代の頃ではなく近年読み返した時、この作品の構成の見事さに驚きました。特に、汽車に飛び乗って手紙を拡げるところから一転して先生の遺書が始まり、それが長々と続く。その場面転換の鮮やかさには、(作品の主題とはまた別に)ほとほと感心していました。しかしNo.3さんの回答によると、漱石は最初からそのような構成を思い描いていたのではなかったのですね。これまた驚き。俄かには信じられません。
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確かに『こころ』というのは、不思議な構成をとっている作品です。


これに関しては、従来から「先生と私」という章などは要らないのではないか、いたずらに推理小説的手法を採っているだけではないか、と批判する人もいました。

ただ『こころ』がこのような構成をとっているのには、事情があったんです。

漱石は最初『心』を短編の連作として書くつもりでした。
当時漱石は朝日新聞社の記者として(小説を専門に書くという契約は、一般の記者とはずいぶん違いますが、ともかく漱石は帝大を辞めて、朝日新聞社の社員となっていたのです)随時、新聞に連載小説を書くことになっていた。

ひとつひとつには違ったタイトルをつけていくが、その通しのタイトルを仮に『心』としておく、という連載前の手紙が残っています。
そうして開始された連載の第一回目のタイトルが「先生の遺書」でした。
漱石は書き始めるまでに大変に苦労をし、実際にこの作品を書き始めたのは、紙面に載るわずか四、五日前になってやっとのことだったようです。
ところが連載が進むうちに、とても「短編」で終わりそうなものにはならなかった。
そこで、「先生の遺書」というタイトルのまま、作品は書き続けられます。

しかも、途中から、漱石のあとに連載小説を開始することになっていた志賀直哉が、自信が無くなった、と執筆を辞退し、志賀を推薦した漱石みずから、つぎの執筆者を捜さなければならない羽目に陥ります。
執筆者探しは難航し、その間、漱石は自分の連載を引き伸ばさなければならなかった。
結局「先生の遺書」というタイトルは、連載が終了する百十回まで一度も変更されることはなかったのです。
書き上げられて単行本にされる段階で、比較的独立性の高い章ごとをまとめて「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の三部構成にし、全体に『心』という題をそのままつけた。そうしたいきさつがあって、現在の形になったのです(典拠:江藤淳『漱石とその時代』第五部 新潮選書)。

作品の完成度から見れば信じられないことなのですが、この作品の構成は最初から漱石が思い描いていたものではなかった。
連作短編を構想していたときの漱石の念頭に、どのようなイメージがあったのかはわかりませんが、とにかく「先生の遺書」というタイトルから、「先生」は最終的には死んでしまうことと、「先生の遺書」が作品の中で大きなウェイトを占めることになっていたことは決まっていたのでしょう。
けれども、もし志賀直哉がすんなり連載を開始していたら、「遺書」はここまでのボリュームにはならなかっただろうし、そうなると、現在残っているものとはかなり印象の異なるものになっていたことは想像にかたくありません。

ですから何が言いたいかというと、漱石があらかじめ明確な意図を持ってこのような構成を取ったのではないと言うこと、とくに、質問文中の二点目、
>「先生と私」「両親と私」は「先生と遺書」にどんな影響を与えている?
などは、書いている段階ではおそらく漱石自身にもわからなかった部分であろう、ということなのです。

質問者さんが『こころ』を読むとき、その背後の作者に思いを馳せるのは、とても良い読み方だと思います。
けれども、間違えないでほしいのは、作者や、あるいはかしこい人や偉い評論家がどこで正しい「『こころ』の解読」をしてくれているのではない、ということです。

質問者さんが読む。自分でなぜだろう、と問題をたて、答えを考える。
そうすることで、今よりはるか前に書かれた『こころ』という作品が、もう一度質問者さんの中で息づき始めます。

>その前の「先生と私」「両親と私」は何故この作品に必要なの?!と思ってしまったのです。

これはとてもいい着眼点だと思います。
もう一度、そこに注意して、もしこの部分がなかったらどうだろう、「私」がいなかったらどうなるだろう、と考えながら、読み直してください。
おそらくそれが質問者さんの、ほんとうの意味での「感想文」になると思います。
がんばってください。
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 主人公の「私」は「先生と遺書」で危篤状態の父の側を離れ、既に自殺しているであろう先生のもとへ駆けつけます。

これはなぜか。

 僕が高校一年で「こころ」を読んだときには、もしかしたら先生の自殺を止められるかも、という一縷の望みのために駆けつけたと解釈していましたが、翌年国語教師に「今から駆けつけても絶対に間に合わない、それなのに駆けつけたのは先生の奥さんに会うためだ」と言われ、目から鱗が落ちました。

 そういえば主人公と先生の奥さんて結構いい雰囲気だったですよね。

 閑話休題。

 ……いずれにしても、先生は自らの過去、そして自殺を誰にも知られないようひっそりと日記に残すのではなく、他のXとかYとかの青年に話すのではなく、他ならぬ「私」に告白する必要があったのでしょう。

 その理由が何かということはおいておくとしても、この時点で「私」という存在は「こころ」という小説になくてはならないものです。

 この辺の理由を探っていくことが、他でもない「こころ」研究につながっていくのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

青年と奥さんの文、以前別の質問で回答されていたものですよね。質問を調べているときに読ませていただきました。興味の沸くお話です。
そして、とても面白い考え方をなさる先生ですね。
私が去年教えてもらっていた先生も「国語は先生によって読み解き方が違うから、いろいろな先生から教えてもらうと面白い」と話していたことがあります。
青年と奥さん、2人があの後どんな会話をしたのか、考えるとキリがなさそうですね。
その先生に一度教えていただきたいと思いました。

青年にとっても先生は特別で、先生にとっても青年が特別だったのはわかります。
そして、先生は「私」に遺書を残した。
逆に考えれば、先生は「私」だから遺書を残してまで事実を明かすことを決心した、ということでしょうか。
それはつまり、「私」は先生にとってなんだったんでしょうか。変わるきっかけ?それとも別の…?

あ、なんとなく考え方がつかめてきました。整理すれば、文章にもできそうな気がします。

ありがとうございました。

お礼日時:2004/08/21 22:07

こんにちは。


大分前に読んだのでちょっと不安ですが、書いてみますね。
「先生と私」「両親と私」についてですが、もし「先生と遺書」だけだったらどうでしょう。
ただの告白小説になってしまい、それだけの内容になってしまいます。
前の二章があることによって、「私(青年)」の現代の生活と「先生」の過去を重ね合わせて読むことができます。
青年がたびたび先生に諭されるような場面(確か「君はまだ若い」というような意味のことや、お金が人を変える、愛とは何か、という話)
がありますが、それが青年にどんな影響を与えたのか考えてみると良いと思います。
また、主人公が「私」なのは何故か、ということですけども、主人公が「私」だとどこかに書いてありましたか?
どの小説についても言えますが、主人公が誰か、という問題には「裏の主人公」「本当の主人公」という
考え方が常にあります。
「こころ」の主人公が「私」では納得いかない、と思われるのなら、「私は『先生』が主人公だと思う」という主張で感想を書けば、
より良い内容になるのではないでしょうか。
少しでも参考になれば幸いです。
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この回答へのお礼

アドバイス有難うございます。

>ただの告白小説になってしまい、それだけの内容になってしまいます。
確かにそのとおりです。私が最初の二章を「無いと無いで寂しい」と思ったのもそこからかもしれません。
前の二章で先生が諭していたことが、三章目によってより深みを増しますよね。きっと青年も遺書を読む前と後では先生の言葉の意味の捕らえ方も違うはずですし。
先生だけに着目するのではなく、青年の心情にも目をつける…。なるほど、参考になります。

>主人公が「私」なのは何故か、ということですけども、主人公が「私」だとどこかに書いてありましたか?
びっくりしました。裏の主人公、本当の主人公!
主人公=青年、という固定観念を持たずに読めば、また違った感じ方ができるかもしれません。
また始めから読み返したくなってしまいました…。この小説は本当に魅力的です。

「主人公は先生では?」と書くことによって読み手に「ムムッ?」と思わせて読ませる感想文になりますし、私の感想にもなりますね。
たとえハッキリと答えが見つからなくても、ひとつの考え方としてよいかもしれません。

ありがとうございました。

お礼日時:2004/08/21 21:51

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おしえてください、よろしくおねがいします

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Q夏目漱石「こころ」で「先生」が自殺する原因は?

夏目漱石「こころ」で「先生」が自殺する原因は?
昔、「こころ」をドキドキしながら読んだ記憶があります。
あんなに小説に引き込まれたのは初めてですが、結論に納得出来ないものを感じます。
結局、「先生」は友人を裏切った良心の呵責に耐えかねて自殺しただけなんでしょうか?
将来に対する明るいメッセージはないのでしょうか?

Aベストアンサー

思うに、高校の教科書のいずれもが、「先生と遺書」中の先生がKを出し抜いてお嬢さんと婚約し、その後Kが自殺するという箇所を採用してきたがために、多くの読者も、

>結局、「先生」は友人を裏切った良心の呵責に耐えかねて自殺しただけなんでしょうか?

という疑問に囚われざるを得なくなるのではないでしょうか。
そして、いつまでたっても、どこか「結論に納得出来ないものを感じます」という違和感を持ち続けざるを得ないのではないでしょうか。

でも、虚心坦懐に「こころ」全体を読んでみれば、この小説には、質問者さんがおっしゃるように、まさに「将来に対する明るいメッセージ」に満ちていることが浮き彫りになってくるはず、と私には思われてなりません。

思うに、この小説の最大の謎は、先生が、妻にも明かせない、自分の最重要な内奥の秘密を綴った《遺書》を、ほかでもなく、田舎出の、世間知らずで、勝手に先生に魅了され、勝手に先生宅に押しかけ、勝手に先生を師と仰ぐ、やや青臭さく、思慮の浅い、しかし理想家肌の一青年に託そうとしたのはなぜか?という点にあるのではないでしょうか。

で、その前に「「先生」が自殺する原因は?」となると、先生がKを出し抜く形でお嬢さんと婚約したことは、大正以降の日本人の常識的な倫理規範に照らして、特に恥ずべき行為ではないにせよ、「明治の精神」(封建道徳)に照らす限り、許すべからざる行為であったが故に、乃木将軍が明治天皇に殉死したことに触発され、「明治の精神」に殉ずる形で自殺することを選んだと解しうるのではないでしょうか。

ただし、漱石自身となると、「明治の精神」を単純に賛美していたわけでも、時代遅れの旧道徳と蔑んでいたわけでもないことは、「現代日本の開化」からして明らかでしょうね。
「明治の精神」には、封建道徳だけではなく、文明開化と同時に流入してきた個人主義思想も含まれていたはずですが、かつて信頼していた叔父によって父親の遺産を横領され、その後自分を信頼してくれていたKを裏切るという経験をした先生としては、西洋近代思想である個人主義をとても手放しでは容認できなかったはずです。
となると、この自らのエゴイズムを罰するには、やはり「明治の精神」に殉じるという方法しかなかったのではないでしょうか。

その上で、先生が自殺に至るまでの生き様や経緯を告白した遺書を、主人公の「私」に宛てた動機や理由を考えてみますと、主人公がまだ思慮が浅くとも、理想家肌の青年であることからして、先生はこの青年に、自分の精神上の息子として、自分に代わって新しい時代を生きてくれることを期待したのではないでしょうか。
その意味では、先生の遺書には、大正という新時代を生きる青年の指針、成長の糧となって欲しい、という先生の切なる祈念が込められていると言えるのではないでしょうか。

また、「こころ」という小説を、より主人公中心の視点、観点から眺めてみると、主人公が来るべき新時代を自立(自律)して生きていくための、一種の父親殺し(旧思想切り捨て)に通じるモチーフが潜在していると評することもできるかもしれませんね。
さらには、同じような意味で、「こころ」は「三四郎」と同様、主人公の人間的成長過程をテーマにした、一種のBildungsroman(教養小説)に通底する基本性格を持っていると評することもできます。

もし、「こころ」に以上のような解釈の可能性が内在しているとすれば、やはり、漱石の「将来に対する明るいメッセージ」が潜んでいると解してもあながち間違いではないと思います。

思うに、高校の教科書のいずれもが、「先生と遺書」中の先生がKを出し抜いてお嬢さんと婚約し、その後Kが自殺するという箇所を採用してきたがために、多くの読者も、

>結局、「先生」は友人を裏切った良心の呵責に耐えかねて自殺しただけなんでしょうか?

という疑問に囚われざるを得なくなるのではないでしょうか。
そして、いつまでたっても、どこか「結論に納得出来ないものを感じます」という違和感を持ち続けざるを得ないのではないでしょうか。

でも、虚心坦懐に「こころ」全体を読んでみれば、この小説...続きを読む

Q夏目漱石「こころ」名前のある登場人物について

夏目漱石「こころ」についてです。

この作品の登場人物は、ほとんどが代名詞で表されていますが、
上で、奥さんを「静」
中で、母を「お光」と呼ぶシーンがあります。
この作品で個人名が与えられたのはこの二名だけです。

これは一体何を表していると考えられますか。
みなさんのご意見が聞きたいです。

私はジェンダー論と絡めて考察したいと考えています。
(ジェンダー論に関してほとんど無知なので、これから勉強していくつもりです。)

Aベストアンサー

>この作品の登場人物は、ほとんどが代名詞で表されていますが、

「こころ」は、漱石の長篇小説の中では、唯一一人称による語り(回想)によって物語が展開されていくという形式を採用していますよね。
こういう場合、これはあくまでも一般論、原則論でしかないのですが、《語り手》と《語り》の対象との間に、時間的・空間的な一種のパースペクティブ(遠近法)な《距離》がありますから、これが《語り手》に作用して、語る対象としての素材・題材をより抽象化や類型化させやすいと言えるかもしれません。

「こころ」の場合、主人公の《語り手》は帝大を卒業して間もない理想主義者で、人間的にも真面目で誠実だが、まだ人生や社会の裏表を十分には理解できていない、良くも悪くも観念先行型、頭デッカチの田舎青年というキャラクターを与えられていますよね。
その点では、テーマは違いますが、やはり熊本出身の三四郞が良くも悪くも文明開化の光と影を具象化し、自我意識に目覚めた、男勝りの超美人の美禰子に翻弄されつつ自己形成していくのと通底するところがありますよね。

この三四郞が「先生」という人物とたまたま鎌倉の海水浴場で出遭い、持ち前の愚直さで先生の人柄に惚れ込み、最終的に「先生」の「遺書」の差し宛人として遇されるだけの信頼を勝ち取った結果、「明治の精神に殉死」した先生によって自分の後継者として、新しい時代《=大正》を生きていくことを託され、そのための《宿題》としての「遺書」を委ねられたと解することができます。

このような「こころ」の《語り手》としては、あくまでも「先生の遺書」を受取り、それを読んで驚愕した時点から時間を遡るようにして先生と自分との関係を反性的に捉え直す必要性に迫られたはずですから、それ以外のこと、登場人物等のプライバシー等が《語り手》の興味・関心の対象外だったとしても何ら不思議ではないですよね。
だから、「登場人物は、ほとんどが代名詞」であっても全然構わなかったと言えるのではないでしょうか。
彼の興味・関心はひとえに先生の「明治の精神に殉死」する必然性を自分自身の人生の課題として受け止め、その真相を明らかにすることに向けられていたはずでして、これを一種の手記の形にまとめ上げ、読者に披瀝することで、問題意識の共有を求めようとしたとは考えられないでしょうか。

ということで、「こころ」では「登場人物は、ほとんどが代名詞で表されています」ことだけに限らず、彼らのプライベートな側面を描くにしても、実は物語を展開していく上での必要最小限の範囲内に限られていると言えるはずです。
だから、「静」にせよ、「お光」にせよ、地の文の中ではなく、会話文の中でしか使用されていませんよね。
やはり、《語り手=主人公》の興味・関心があくまでも、自分の人生の師である「先生」の自殺の動機、必然性だけに向けられていたからと説明するしかないような気がします。

ただし、以上のように考えれば考えるほど引っ掛からざるを得ないのは、冒頭の以下の一節でして、これをどう解釈するかについては、質問者さんご自身に委ねたいと思います。

「私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。」

なお、「こころ」を「ジェンダー論と絡めて考察」なさるのも結構ですが、漱石が生涯を通じて凝視していたのは、「ジェンダー論」のはるか彼方でチラチラする、より困難な課題であったことだけは忘れてはいけないと思います。
もし、「ジェンダー論」的な視点からということなら、「こころ」よりも「虞美人草」、「道草」、「明暗」等の方が恰好な材料を提供してくれるかもしれません。
「こころ」は「三四郞」と並んで、一種の教養小説(Bildungsroman自己形成小説)と評した方がより適切であるような気がします。

>この作品の登場人物は、ほとんどが代名詞で表されていますが、

「こころ」は、漱石の長篇小説の中では、唯一一人称による語り(回想)によって物語が展開されていくという形式を採用していますよね。
こういう場合、これはあくまでも一般論、原則論でしかないのですが、《語り手》と《語り》の対象との間に、時間的・空間的な一種のパースペクティブ(遠近法)な《距離》がありますから、これが《語り手》に作用して、語る対象としての素材・題材をより抽象化や類型化させやすいと言えるかもしれません。

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Qこころ 夏目漱石

こんにちは。こころ、を読んだのですが疑問点が消えません。もしよければお力貸してください。

お嬢さん、についてです。彼女は先生とk、どちらが好きだったのでしょうか?
なぜ結婚は母親ひとりで決断したのでしょうか。
なぜkと二人であったり、こそこそしてたのでしょうか?
もしkが好きだとしたらなぜ先生と結婚したのでしょうか?
本文中に書いてあること、つまり根拠と一緒に教えてくださると助かります。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

1、彼女は先生とk、どちらが好きだったのでしょうか?
:先生だったのではないかと思います。
【根拠1】
まず、kの同居を奥さんが拒もうとします。これは、お嬢さんを含めた三角関係をあらかじめ防ごうとしたものでしょう(実際懸念したような結果になるわけですが)。
つまり、奥さんは、お嬢さんが先生を好きなことを知っていたということだろうと思います。
【根拠2】
kが来てからのことを考えてみます。
お嬢さんはkと2人だけでいるところを2、3度ほど先生に見られます。
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これは、先生の嫉妬を茶化したということが言えると思います。
自分が先生に対して好意を持っていたからこそ、先生の好意も理解できたのでしょう。
仮に「自分が好意を持っていない人」の「自分に対する好意」を感じて笑ったのだとすれば、これは嘲笑になるわけで、作品中のお嬢さんがそこまで性悪な女性として描かれているとは思えません。
【根拠3】
kと2人でいるところを見てぎこちない対応よりできない先生を、「変な人だ」と皆の前で言います。
これは、「何の感情も持っていなければ普通に対応できるのに変な人だ。」という意味でしょう。
自分が好意を持っている相手の本音を確かめようとする(無意識の)常套手段であり、仮にkの方をすきだった場合にはこのような言い方はしないように思います。

2、なぜ結婚は母親ひとりで決断したのでしょうか。
:先に述べたようにお嬢さんが先生を好きなことは奥さんが良く知っていたからでしょう。
また、本人との話し合いも無しにという意味であれば、昔は親が一方的に決めることが不自然ではありませんでした。
中には見合い写真だけで結婚式の日まで相手の顔を見たことがない、などという極端な場合もあったようです。

3、なぜkと二人であったり、こそこそしてたのでしょうか?
:特にこそこそしていたわけではないと思います。
先生に嫉妬させるための策略という穿った見方もできますが、そこまで歪んだ性格の女性としては捉えられていないと思います。
元々は、kの気持ちがほぐれるように対応してくれと、先生から頼まれていたことでもありますし、多少興味はあったとしても恋心を持ったわけではないでしょう。
kの自殺に関して殆んど無頓着な感想しか持っていないことからみても、それは明らかなように思います。

4、もしkが好きだとしたらなぜ先生と結婚したのでしょうか?
:述べてきたように、個人的には元々先生の方が好きだったので先生と結婚したと思っています。
しかし、先生がもう少し消極的だったら、あるいはkがもっと積極的だったらどうなっていたか、神のみぞ知るといったところかもしれません。

1、彼女は先生とk、どちらが好きだったのでしょうか?
:先生だったのではないかと思います。
【根拠1】
まず、kの同居を奥さんが拒もうとします。これは、お嬢さんを含めた三角関係をあらかじめ防ごうとしたものでしょう(実際懸念したような結果になるわけですが)。
つまり、奥さんは、お嬢さんが先生を好きなことを知っていたということだろうと思います。
【根拠2】
kが来てからのことを考えてみます。
お嬢さんはkと2人だけでいるところを2、3度ほど先生に見られます。
そして、その時に...続きを読む

Q夏目漱石『こころ』はエゴイズムを描いたのか

似た質問がありますが、少し違う視点から質問しますので皆様、盆休みの間によろしくお願いします。

よく『こころ』はエゴイズムを描いた小説とされますが、何度読んでみてもどうもしっくり来ないのです。
先生のせいでKが自殺することになったのは確かです。けれど、先生はエゴをふりまくタイプではないし、もちろん自覚的なエゴイストではありません。
うまく表現できませんが、先生は何だか流されてそうなってしまった人といった印象を受けるので、普通イメージするような「エゴ」「エゴイズム」ということではくくれないような気がするのですが。
作者がエゴイズムを描いたとすると、どう解釈すればいいのでしょうか。また、他の解釈があれば教えて下さい。

Aベストアンサー

『こころ』は人間の心に潜むエゴイズムを描いた小説である、と、自分の持っている文学事典にも載っていました。

この場合の“エゴイズム”は、
辞書にある“自己の利益を最優先させる態度”と取ればよいと思います。

先生は、Kの恋愛感情を知りながら、Kに自分の気持ちを告げることなく、先回りして、お嬢さんとの仲をまとめてしまった。
この行為が“エゴイズム”なんです。

いまの見方からすると、こういうことってあるよね、という感じではあるのですが。

この恋愛パターンは、中期三部作と言われる『それから』『門』にも出てきます。
『それから』では主人公代助は友人の妻である三千代に恋愛感情を持つ。
『門』での宗助は、友人の妻であった御米を妻にしている。

『こころ』でKが自殺しなかったらどうなっただろう、という仮定を、『門』の中に見ることもできます。
漱石は、宗助と御米の姦通に対して、宗助夫婦から富を奪い、健康を奪い、三人の子を奪うという、という残酷な刑罰を課しています。
漱石にとって、こうしたエゴイズムの発露は、許せないものだったんです。

当時でさえ、こうした漱石の倫理観には、反発する人もあったようで、谷崎潤一郎などは、若い頃“世の中というのは、もっとふしだらな、ルーズなものではなかったか”みたいなことを言っていたようです。

漱石は人間の心の奥深くに巣くうエゴイズムを暴こうとしました。それを白日の下に晒していけば、人々は反省し、自然で自由な世界へいくことができる。それが、後期の“則天去私”の心境とされています。
晩年の『明暗』を読むと、もっとその漱石流のエゴイズムがわかるかもしれません。

『こころ』は人間の心に潜むエゴイズムを描いた小説である、と、自分の持っている文学事典にも載っていました。

この場合の“エゴイズム”は、
辞書にある“自己の利益を最優先させる態度”と取ればよいと思います。

先生は、Kの恋愛感情を知りながら、Kに自分の気持ちを告げることなく、先回りして、お嬢さんとの仲をまとめてしまった。
この行為が“エゴイズム”なんです。

いまの見方からすると、こういうことってあるよね、という感じではあるのですが。

この恋愛パターンは、中期三部作と言われる『...続きを読む

Q日本史Aと日本史Bの違いについて教えてください。

こんにちは、疑問なのですがセンター試験の日本史Aと日本史Bとはどのような違いがあるのでしょうか?
ちょっと気になって調べてみたのですが、ほとんど日本史Bの事しか載っていませんでした。

二つの教科の違いや、選択時の有利不利などを教えてください。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

 日本史Aと日本史Bの違いは、高校での単位数の違いと、教科書で学習する内容の対象が若干違うことです。

 日本史Aは、単位数が2単位など。単位の少ない時間で取り扱う科目です。教科書の内容も近現代史~の内容をメインとした教科書の構成となっています。日本史Bの場合は、大体4単位で、教科書の構成が古代史~スタートし歴史全体の内容を取り扱うものです。

 日本史Aでは、大体どの時代も勉強すると思いますが、教科書の構成上「近現代史」に特化した取扱になっています。また、日本史Bでは、古代史からスタートするので日本史Aの教科書より内容的に若干難しい内容も取り扱います。

 したがって、単位数の違いにより、日本史Aと日本史Bの教科書を使い分けていることです。主に、日本史Aは、職業科の学校で使われています。

 農業高校・商業高校・工業高校など普通科以外の学校で日本史Aの教科書を採択しているケースが多いです。普通科の高校でも日本史Aで近現代をやって、日本史Bで古代から江戸まで勉強して、受験するときは日本史Bで受験するというケースも見られます。

 つまり、日本史Aでは、教科書の構成上、近現代史がメインになりますが、日本史Bでは、古代史からスタートして現代史まで扱うという幅広内容になるということになります。そういうことから、日本史Aで勉強したいようで、勉強していないところ古代史~江戸時代の内容に関しては自力で勉強することが求められます。

 【大学受験での日本史選択】
(1)センター+私大(日本史で受験)する場合
 →「日本史B」を選択
(2)センターのみの場合(日本史A・B両方選択可で2次試験で日本史を必要としない学部学科を受験の場合)
 →「日本史A」を選択(学習時間が少なくてすむ)

 ※私大受験を考えていて、日本史で受験を考えているのであれば「日本史B」を選択するのが無難です。リクルートの進学サイトのURLを載せておくので受験科目の選択に参考にして見てください。

 何らかの参考にならば幸いです♪

参考URL:http://www.shingakunet.com/cgi-bin/shingakunet.cgi

 日本史Aと日本史Bの違いは、高校での単位数の違いと、教科書で学習する内容の対象が若干違うことです。

 日本史Aは、単位数が2単位など。単位の少ない時間で取り扱う科目です。教科書の内容も近現代史~の内容をメインとした教科書の構成となっています。日本史Bの場合は、大体4単位で、教科書の構成が古代史~スタートし歴史全体の内容を取り扱うものです。

 日本史Aでは、大体どの時代も勉強すると思いますが、教科書の構成上「近現代史」に特化した取扱になっています。また、日本史Bでは、古...続きを読む

Q中島敦さんの「山月記」についての質問です。

山月記の中の月の役割を教えて下さい!
主題にもかかわっているらしいのですが、全く解らなくて。
ところどころにでてきて微妙に変化している月の意味?を教えて下さい。
6月15、6日ごろまでにお願いします。

Aベストアンサー

旧友との再会の場面は、「残月」つまり明け方近く、月が日の光に見えなくなってしまうまでの、ほんのわずかな間の物語です。
出立時にはまだ暗く残月とはいえはっきりと見える。これは意識の大部分を占めつつある虎の野生を日の光とするなら、それがない間だけ人の心がわずかな光を放てるということを表現していると思います。それも現れるのが暗い闇の中でだけというのが、人の心のある時間彼をとりまいている絶望と対応しています。
最後の「白く光を失った月」が何を表しているかは説明はいりませんよね?
さらには、旧友と話している間、主人公は決して姿を見せようとしません。これも、太陽の前に姿を表せない月にかけての表現だと思います。旧友との立場の違いを主人公がどう感じているかがわかりますね。

Q大急ぎで「ドッヂボールのコツ」を教えてください!

上のまんまです。ドッヂボールのコツを教えてください!

・投げ方はどんなのが良いか
・キャッチの時のコツ
・避けるコツ
・その他アドバイスがあればよろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。

子供の頃、よくやりましたね~。
・投げ方はどんなのが良いか

投げ方は、人それぞれなので、あなたが1番投げやすい投げ方でいいと思います。

・キャッチの時のコツ
・避けるコツ

まず、相手をよく見ること!
で、余裕があれば、目線がどこにいってるか確認しましょう。
胸を狙ってるのか、おなかを狙ってるのか、足元を狙ってるのか
判断する事が大事です。
上半身に来るなら、キャッチしやすいですけど、足元は、落とす危険性が高いので、
避けるようにするのが、いいと思います。
キャッチする時は、できるだけ胸からおなかにかけて、真正面で受けましょう。
中途半端に、手だけで取ろうとすると、失敗します。

・その他アドバイスがあればよろしくお願いします。

はやり、ボールだけでなく、ボールを持ってる人全体を見るようにします。
すると、ボールの行方がある程度判断できるので、それに合わせてあなたも
動くようにしましょう。

Q夏目漱石「こころ」で「K」が自殺した理由

夏目漱石の「こころ」で友人「K」が自殺した理由について、詳しく教えてください。いろいろ考えましたが、いまひとつ腑に落ちない部分もありますので。
テストが近いので焦っています!お願いします!

Aベストアンサー

「こころ」懐かしいです。もうこれを学んでから10年以上も経ってしまいました。

きっとKの自殺の原因は人によっていろいろな解釈の仕方があると思うのですが、私が心に留めているのはこんな感じです。

Kは宗教家(確か僧侶でしたっけ?)を目指して禁欲的な生活を送っていたはずですよね。精神的な高みに登ることを目指していた彼にとって、恋愛という世俗的な心の動きは受け入れがたいものでした。

そして「先生」の裏切り。友人の裏切りにあってまず自分以外の人間に対して絶望した。つまり人間不信ですね。

さらに、他人に絶望した自分に対して絶望してしまった。つまり宗教家として人の心の弱さを受け入れられなかったことにたいして無力感を感じてしまった。自分は宗教家として生きる価値の人間でないと思ってしまった。

だいぶ前のことなので記憶もあやふやですが、大人になってからも、よくこの感想文を書いたときのことを思い出します。haittelさんにとっても心に残る作品になると嬉しいです。


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