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夏目漱石のこころを読みました。
私たちはどうしたらエゴイズムから脱出できるのでしょうか。

A 回答 (4件)

エゴイズムとエゴティズムという語を区別しなくてはならないと思います。



エゴティズムというのが今一般に言われる「あいつエゴイストだよ」という時のエゴを指します。自分のことばかり主張して他人のことを顧みない、いわゆるわがまま者ということですね。
それに対して、エゴイストは、自分のことばかりを考えたり、話したりすることです。要するに、他人のことに関心を払えないということです。

漱石の「こころ」の場合、エゴティズムというのはやむを得ない部分もあるのではないでしょうか。
なにしろ、恋愛感情というものは、そう簡単に止めようと理性では思っても止められるものではないからです。
恋愛において、自己主張をしないとどうなるかは大体のことは察しがつくと思います。
しかし、秩序というのがありまして、道徳だとか倫理だとかというものですね。それを守っていればとりあえずは大丈夫かな、と思います。
それに逆らってまで自分の利益(恋愛成就)をはかるというのは、やはりエゴティズムであるということができるでしょう。
自分の利益抜きで恋愛をする、というのは不可能だからです。

エゴイストというものは、自分の主張をするばかりですから、他人に恋することはあっても、恋愛感情がうまくいくケースが非常に少ないです。つまり相手への気配りをしなくなる、ということがいけないのだと思います。
文学でよくあるのは、自分で禁じられた恋をして、自分ひとりで悩んで、自分で死を選ぶというパターン(若きウェルテルの悩み、など)です。これがエゴイスティックなものであるとすれば、これは悲劇でもあるといえるし、喜劇でもあると言えます。
特にウェルテルでは、ウェルテルの宛てた書簡ばかりが並んでいます。まさに自分は自分は、の主張の連続です。それで挙げ句に他人の忠告を聞かずに突き進む。
これがエゴイズムというヤツです。自分にとって利益がなくても、自説を押し進めてしまうということです。

宗教を持ち出すこともなく明らかなのは、自分の考えに固執しないことです。
自分が正しいと思い込む人は、意外に後で空っぽであることに気付かされるものです。
ギリシャのデルフォイの神殿(神託で有名)の入り口には「汝自身を知れ」という言葉があります。これは自分が分に応じた振る舞いをせよ、ということです。自分が絶対だと思うこと、他人は「俗人」であると思うことが、そもそもの誤りであると考えることが必要です。そのために、他人の言葉に耳を傾けるということは大事なことなのです。

こころを読まれたということで、もしかすると、国語の授業でしょうか。中高生さんだとすれば僕の書いていることは少し論がしっかりと立っていないのでわかりにくいかもしれません。ですから、最後にきわめて単純に要約します。
「【自分が絶対】、ではなく、【自分も相対、他人も相対】、として、自分の意見と他人の意見を同等の立場において判断するように心掛けることが、エゴイズムからの脱却の第1歩です」
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この回答へのお礼

私は他人のことを軽く見がちです。
自分も相対、他人も相対。
いつもそういう風に考えるようにします。
立派な人間になりたいです。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/11/23 18:22

 夏目漱石の「こころ」は名作で多くの評論が書かれています。

印象に残っているのは、江藤淳ですが、彼の解釈を自己流で解説すると、明治という時代は、西洋化=近代化を急いだ時代で、その中で、先生は「自立」するため、恋愛を成就させようと腐心をしました。「恋愛」は言うまでもなく「戦い」で、自由競争、資本主義的な戦いです。従って、この戦いの中で戦略をはりめぐらすことは当然であり、嘘をついても、自分の所有を高めていくのは、時代が要求する、近代的人間の宿命でもあるのです。エゴイズムは賞賛すべき資本主義的人間のモデルです。
 しかし、いざ、大人として、伴侶を得、資本主義社会に認定される「自立」する人間を獲得したとき、先生は「勝利」するものの「喜び」ではなく、「悲哀」を感じ取ります。
 「時代」の要求に応え、従順に時代に従った自分に、全く別の感慨をもったのです。
 そのことが、日露戦争での戦略ミスから死に時をはかっていた「遅れてきた近代人」=乃木希典への傾斜となり、「自死」を選び取ります。
 彼もまた、「失敗をするKのような青春」を歩みたかった、と言いたげに。

 夏目漱石は、「こころ」で作者の意図にかかわらず、「近代人の悲哀」を見事に書き上げた、と言えるように思えます。そして、彼は、「則天去私」なる「エゴイズムからの脱却」が可能となるかのような「思想」を私たちに提示しましたが、「こころ」の先生の生き方が示すように、エゴイストとして「自立」するしかない「近代人」が「則天去私」なる解脱の地に辿り着くはずもないこともしめしたようです。
 私たちは、「時代」を脱却することは出来ません。それは、その後書かれた「道草」で、奥さんに「お父さんは何を訳のわからないことをいってるのでしょう?」と妻に全く相手にされない寂しい中年男によく描かれているように思います。

 今も、時代は私たちに「エゴイスト」たれ、と求めています。脱却ではなく、合理的思考に基づいて。エゴイストを生きることこそ、「エゴとは何か」の回答です。
 

この回答への補足

初めて聞く解釈で、なるほど、と思いました。
参考になりました。
どうもありがとうございました。

補足日時:2001/11/25 07:29
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この回答へのお礼

すみません。補足と御礼の欄をまちがえました。

お礼日時:2001/11/25 17:36

こんにちは。

私の考えを書きます。
自分の望んでいるいろいろなことを、よーく考えてみてください。
それは、あなたひとりが幸せになることではないでしょう?
自分の大切な人も幸せでいて欲しいし、まわりの他人ともいい関係でいたい。
それだって、自分の自然な欲望なんです。
どこまでがエゴなのか、私は分けないで考えています。

ただ、「こころ」の場合のように、ふたつにひとつを選ばなければ
いけないことはときどきあります。
だけどこのときだって「自分があるものを手に入れたい」ことと
「友人に幸せになってほしい」ということのどちらを大切にするかを、
自分の気持ちの中でよく考えて、結果を出せばいいのではないでしょうか。

このときに、とにかく正直に思いつくことを全部考えておくことです。
あるものを手に入れることについて、
・そのためにどれくらい苦労しそうか
・ほんとうはしてはいけないことだと自分は思っていないか
 (したら自分を軽蔑することになりそうか)
・それで誰かが傷ついたり怒ったり嫌な態度に出たりしそうか
 (そのことで自分がどれほど傷つくことになるか)
などを、じっくり考えます。考えるだけなら、誰も傷つきませんから。

それで、いろいろな問題を考えてもやっぱり手に入れたい、となったら、
それは本当に欲しいものなのです。手に入れるべきです。
問題点は覚悟して、対策を立てた上で、努力するのがいいと思います。
問題を考えてみて、これはめんどうだ、となったら、
それは本当はあまり欲しくないものなのです。そのままにしておきましょう。
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この回答へのお礼

何か重大なことを決定する際にどのように考えて行動すればよいのかがわかりました。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/11/24 07:49

 「エゴイズム」は、利己主義という意味で、「エゴ」とも言っています。


 例えば、仏教のどの宗派もそれぞれ自宗の教えこそ正当であり、利益があると主張します。たとえば念仏宗では捨閉閣抛(しゃへいかくほう)といって他経を捨てよ閉じよと教えますし、禅宗では教外別 伝(きょうげべつでん)といって釈尊の正意は文字で表されるものではなく、以心伝心で自宗のみに伝えられてると主張します。
 宗教の歴史を見ても、キリスト教やイスラム教はいまだに異教徒との闘争にあけくれています。これらのすべては自らの優越性を誇示するところに端を発しています。このように見ると宗教の世界は「エゴ」の集まりとも考えられます。だからといって自己の正当性を主張することが悪いということではありませんよね。
 たしかに、周囲を無視し、道理や現証を無視していたずらに自己の優越性のみを主張することは独断であり、悪しきエゴの宗教というべきです。したがって、真実に人間を救う教えであるか否かを合理的に検討し、その上で、“悪しきエゴ”の宗教か、正しい宗教かを決定すればよいわけでしょ。少なくとも表面 のみを見て、“宗教はすべてエゴだ”と速断して宗教全体を否定することは、決して賢明な態度ではありませんし・・・。
 難解な宗教教義を判定するひとつの規準として、原因があって結果が生じるというあたりまえの因果 律に立脚しているかどうかということがあります。たとえばキリスト教では人間の起源は神が土の塵から造り出したものだといいますが、その神は誰によって作られたかという点は説いておりません。神道でも日本の国は神によって作られたと説きますが、天上の神の起源については何の説明もありません。仏教においてはじめて“三世にわたる因果 律”を根本とする人間生命の真実相が説き示されたのです。人間が帰命依止する宗教が不完全なまま民衆に信仰と尊崇を呼びかけることこそ“悪しきエゴ”というべきです。
 仏教のなかにおいても、釈尊が当時の人々に対して、低い教えから高い教え、浅いものから深いものへと、次第に説き示しながら機根(衆生の性格と心)を調養し、最後にもっとも完全で功徳力のある法華経を出世の本懐(目的)として説き顕わしたのです。
 これを釈尊自身も法華経のなかで、
 「私が今まで説いてきた経典は数え切れないほどである。過去に既に説いたもの(已説)、今説いたもの(今説)、将来説くであろうもの(当説)、それらの中でこの法華経がもっとも深い教えである」(法師品第十・開結三二五取意)
と、法華経がもっとも勝れたものであることを主張しています。
 普遍的な宗教批判の原理に照らして、正を正とし、邪を邪なりと主張していることは、「エゴ」でないことがご理解出来るでしょ。
 それに反し、自我に固執し、正当な理由もなく、他を何でも否定し、自らを正当化することが「エゴ」であることがお分かりになると思います。
 これをしないようにするには、自我に、我見に固執しないことでしょ。そして、否定する場合は、証拠をもって論じることでしょう。
 そうすれば、「エゴ」に陥ることは避けられます。
 根本的に、「エゴ」を無くす、脱出するには・・・、自己の信念等をより正しく充実させ、しかも人生のうえでりっぱに堅実にさせるためには、主体者であるあなた自身が大地のごとき正しい仏法に帰依し、信仰に励むことが絶対に必要なのです。それで、自らを律し、そして他をも律することが出来るでしょう。
 如何でしょうか?
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この回答へのお礼

>自我に、我見に固執しないこと
難しそうですがこれから長い時間をかけてできるようにしたいです。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/11/23 18:15

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