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私は、夏目漱石の「こころ」を読んでも頭にくるだけで、何の感慨深さもありません。Kはただの爆走キャラで、お嬢さんは思わせぶりな悪女。先生にいたっては、耐え難い自責の念から逃げ出すために妻をおいて死に急ぐ無責任な人間であるとしか思えません。何処に文学らしい読み応えがあるのでしょうか?これは、時代の違いがそう思わせてるのでしょうか?もしそうだとしても、文学とは時代を経ても普遍性を持ち続けるものだとおもうのですが・・・。まとまりがありませんが、この質問を見て何か考えを述べたい人がいたら、回答をお願いします。

A 回答 (5件)

私は個人的に「こころ」を、「自分の理解していないものに動かされる人間」を描いた小説ではないかと感じています。

またその意味で、この小説は現代にも通じる意味を持っているように思います。
以下にポイントを簡単に整理してみます。

(1)「先生」のKに対する感情
先生は、基本的にKに対して複雑な感情を抱いています。一方では、Kのことを尊敬し、その“精進”の徹底ぶりや“精神的向上心”を高く評価しているのです。
しかし、それは単純な尊敬ではありません。同時に片方で、Kほど徹底的な生活は送れない、(極端に言えば)どうにかKを引きずり降ろしたい、という感情も先生は抱いているのです。
これは深読みではなくて、事実、先生が言うところの「Kを人間らしくする」というのは、実質的には他愛のない雑談に興じることのできるような人間にすることなのであって、それはつまり本質的にKをKらしからぬ人物にすることに他なりません。

問題は、先生の心の中に「自分の手の届かない尊敬の対象」に対する「憎悪」が隠されていたこと、そしてそのことを先生自身が恐らくその時点で明確に意識していなかったのだろう、ということです。
後になって自分の欲望を認識した先生は、従って、「私」に対して自分を尊敬しないでくれ、と言うわけです。「あとから侮辱を受けないために、今の尊敬をしりぞけたい」という先生の言葉は、自分の心の機微を後から理解した、苦い体験から出ている言葉なのでしょう。

(2)Kを下宿に招いたこと
先生によれば、Kを下宿に連れてくることにしたのは「Kを楽にしてやるため」と言います。実際そういう面ももちろんあったのでしょうが、それだけでは何だか納得しがたい感じがあります。

恐らく先生は、尊敬するKに自分が好きになった女性を認めてもらいたい、という気持ちがあったのではないかと思います。つまり、もしKもお嬢さんを好ましく思うのなら、それは、先生の選択が間違っていなかったこと、ひいては先生自身が正しい人間であることをKが保証することになるからです。
(作田啓一氏が「近代個人主義の運命」でこのような社会学的分析をしています)

もちろん、Kがお嬢さんを好きになってしまえば三角関係が発生するわけですが、大事なことは、恋愛の結果三角関係ができたというより、実質的には、三角関係を通じてしか先生はお嬢さんを好きになれなかったのではないか、という点です。
はなから、尊敬するKという人間を介するかたちでしか、先生はお嬢さんへの感情を「発見」できなかったでしょうし、「高揚」させられなかったのだから、Kは、先生の感情を実体化させるために不可欠の存在だったと言えるのです。
(もちろん、不可欠であると同時に排除されるべき存在となったことが最大の不幸なのですが。)

Kの死後、お嬢さん(妻)に対する先生の感情が一向に激越にならず終始煮えきらないのも、単に後悔や自責の念がブレーキをかけるだけではなくて、そもそも本質的に他者を通じて実体化した感情であったから、と考えるべきだと思います。

無論、この点についても先生は無自覚であったと思いますが、これはひとり先生に限ったことではなくて、現代の私たち自身も同じことだと思います。
私たちは、感情というのは自分の中から生まれるものと思いがちですが、それは既に他人(社会)が織りこまれた感情に他ならないからです。そして、その度合いは漱石の時代より益々高まっているでしょう。


結局、こうやって考えてみると「こころ」というタイトルも皮肉なもので、そこには何にもない、ということを言っているわけです。心のなかをのぞいてみても、自分には自分を動かす「実体」はわからない。私たちが何かをしてしまうのは、実は自分の「こころ」によってでなくて、他人との関係というものによって無自覚に動かされているのだ、ということをいうタイトルなのですから。

このような意味を考えると、この小説は充分現代に通用する普遍性を持っているように(私見ですが)思えます。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。知識も思想も持ち合わせていない私のような人間のために、こんなに丁寧に回答していただいて感謝の述べようも無いほどです。最初から最後まで、何の疑問も感じずに納得できました。こんな風に解釈できると、読書の楽しみも増すのだろうなぁと思うと羨ましいです。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2002/05/12 22:40

 「あ。

 そうだ、そういうことか。」
読んで頭に来た時点で著者の思う壺です、
実在感のある等身大の人物が書けたって。

 大抵は無敵の英雄か、お荷物の姫様か、
醜い悪役しか書けないのが普通なんです。
 読者が「感動」したら作者の勝利です。
自分自身のコンプレックス、つまり自分に
対する怒りを伝えたのであれば感じ取った
あなたはこの作品のよい読者です・・・?
 胃潰瘍になる程色々あったようだから。

 当時の外国帰りは似たようなものだけど、
脚気治療法が森鴎外に否定されなければ…
死んだのは当時の兵士だけではないので。

 宗教や国家が始まった頃の人も、それが
他に依存して成立した事に似たような感情
を持ってたかも、ローマ人は多分確実に。
エトルリア【トゥルスキ=トゥルの民】が
作成維持してた地下排水路を失い、ローマ
帝国の要である豊かな農地が元の毒の沼地
=マラリア発生源に戻った時は痛い程に。

おまけ:関連民間伝説(?)紹介
 イースの壷釣り:エトルリア水没遺跡の
産物を釣る、史上唯一かも知れない、究極
外道狙い(魚が失敗で花瓶が成功になる)。
これこそ語り伝えるべき歴史の1ページ、
政治と実利を捨て趣味に走った民族の記念。
 今は当人達が神話なのはダヌナの民同様。
あちらはヒッタイトに鉄を持ってきたけど、
凄い高価だったのに壁の補強に使ってる。
(むしりたくなるからやめなさいって!)

 まあ本当は笑うところかもしんない。

参考URL:http://www5d.biglobe.ne.jp/~nihonsi/ogai1.htm
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 あのブラッド・ピットも原作に忠実な


いやな奴として映画にでたそうだから、
普遍性のある「しょーもないひと」だけ
出てくる作品も時代を超えられるのでは

夏目漱石の作品は超人や聖人はいないし
各時代に『デキゴトロジー』が必要かと

「しょーもないひと」の例:
うわさで書いてしまういいかげんな私。
ああ、しょーむなさの記録が残る・・・
誤字も恥もOKWeb知識データベース
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。普遍性のある「しょーもないひと」ですか・・・。「目からうろこ」の面白い考え方ですね☆確かに、今の時代にもいますね、こういう「しょーもないひと」。でも、shadoworksさんは「しょーもないひと」じゃないと思いますよ(意味無いフォローですいません)。

お礼日時:2002/05/12 22:33

同じ本を読んでもいいと思う人もいれば全然よくないっていうひともいますからね。


Kはたしか、先生の雰囲気とか思想に惹かれてたんじゃなかったかな?
あなたには先生は無責任な人間にうつるかもしれませんが、先生は友人を自分が殺してしまったという自責の念にたえられなくなったんで、その立場にならないとわからないんだとおもうし・・・
自分が無二の親友を「殺した」しかもそれを隠して、友人の死の原因にもなった妻と生活するのはそれは辛く苦しかったんでしょうね。
この時代の女性はいまほど情報も無くしかもこのお嬢さんはいいとこの令嬢ですから、男の人と接したこともそれほどないですし、親が「この人がいい」といえばそれに従うのが普通でしたから、思わせぶり云々よりもただ、「この人はいいひとだ」と頼ったりするだけなんじゃないかなあ。まだまだ若いから、この人は自分に恋してるとかも考えなかっただろうし。
それも私が読んで感じたことで、もし今の文学をこころの時代の人が読んだらなんてはれんちな!ってことになったりするんでしょうね。
やはり時代がかわれば考え方もかわるし、昔の文学を読んでも何これってなるのもしかたないですよね。
私には妻はたしかにおいてかれてかわいそうですがほんとうに純粋に人を信じることのできる人で、Kは先生の哀愁をかんじさせる、しかも生き急いでる雰囲気がきになった人で、先生はずっと誰にも真相を言えずに苦しんだ悲壮な人だと思いましたけど。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。一つの作品でも、読者によって感じ方が様々であることを改めて思いました。やはり、多面的に解釈をしてみると味わい方も多種多様で、その多面的に解釈できるところが作品の深さでもあるのかなぁと思ったりもしました。

お礼日時:2002/05/12 22:27

この作品って結局は人間のエゴイズムがテーマなんですよね。


ある方がこの作品を読んで、エゴイズムについて質問されていますので、参考として挙げておきます。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=173398

確かに登場人物に魅力はないかもしれませんね。
まともなのは「私」くらいなものかな。しかし、「私」が「先生」という人物に出会ってなぜ惹かれたのか、その辺を考えると「私」もダメってことになるんでしょうか。

文学というのは時代を超越した普遍性を持っていなくてはならないかというと、必ずしもそうではないと思います。今では死んでしまった思想がその当時を席巻しており、その語り口で書いたのであれば、思想に普遍性を持たない作品になります。で、果たしてこの作品は文学たりうるのか、ということになりますが、結局、人間のエゴイズムというところに問題点を感じた作品は、日本文学史上でも最初のものです。また、後の文学にも十分影響を与えていますから、文学ではないとは言い切れないと思います。

ただ、いい作品か悪い作品かを問う場合、これはkabaxさんのように思う方がいてもおかしくはないですね。好悪に関してはkabaxさんがそう思うのであればそれでいいんだと思いますよ。有名な文学作品だからということで有難がる必要はないです。ただのブランド志向になってしまいますからね。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=173398
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。人間のエゴイズムですか・・・。確かに、だから登場人物に魅力を感じなかったのかもしれません。

お礼日時:2002/05/12 22:22

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