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若い頃、数学の教師に1+1は何故2なのか、と質問をしたことがあります。
そのときの答えは、「何でもいいんだよ」の一言でしたが何となく納得していました。
でも、1+1が2であることは集合論から導き出された結果だと思うのですが、人間がこの1として認識する判断基準はどこからきているのか、考えているうちに判らなくなりました。
何故人は、異なるものを数として認識するのでしょうか。
何故、異なるものの足し算が出来るのでしょうか?

異なるものとは、
男1+女1=2人  大人+子供=2人 花のコップ+お皿=2つ
たぬき1+きりん1=2匹 などです

A 回答 (14件中1~10件)

ものを数える以前に、「対応づけ」という操作の方が本質的です。



「みんな来い。おやつやる。まんじゅういっぱいある。一郎取れ。次郎取れ。三太郎取れ。与太郎取れ。五助取れ。あ。六介のがない。こら、一郎喰うな。返せ。返せ。」

「しょがないから、おはぎ貰ってきた。ほらおはぎいっぱいある。
一郎まんじゅう取れ。次郎まんじゅう取れ。三太郎まんじゅう取れ。与太郎まんじゅう取れ。五助まんじゅう取れ。あ。まんじゅうない。六介おはぎ取れ。まだおはぎあるな。」

てところから始まる。で、数を使うと

「おやつやる。まんじゅういっぱいある。(指さして)1。2。3。4。5。
お前らどれだけいる?(指さして)1。2。3。4。5。6。
あ。お前らの方が多い。まんじゅう足りない。
よし、まんじゅうの代わりにおはぎでいいか?
おはぎいくつある?(指さして)1。2。3。4。
まんじゅうとおはぎ合わせて、いくつある?まんじゅう5つ。おはぎ4つ。たしざんか?だれかできるか?与太郎できるか?9つか。そうか」

つまり、汎用に対応付けに使える「標準対応付け対象」という道具として数が生まれる。この場合、まんじゅうの代用としておはぎを認めたので、どちらも同じおやつとして数えることができた。
さらに、おやつ-数-人 という風に、数を介しておやつと人を対応付けた。
でも、

五助「まんじゅうよりおはぎの方がずっと大きい。まんじゅう2つとおはぎ1つで同じぐらいだ。」
全員「そだそだ。」

ということになると、

「そか。2つで1人前か。一郎まんじゅう2つ取れ。次郎まんじゅう2つ取れ。三太郎まんじゅう、あれ、1つしかない。しょがない、三太郎はおはぎ取れ。与太郎おはぎ。五助おはぎ。六介おはぎ。ん。まんじゅう余ったな。」

これを算数でやるとすれば、

「まんじゅう2つで1人前にする。まんじゅう1人前、2人前、あと1つ。
おはぎは1つで1人前にする。おはぎ1人前、2人前、3人前、4人前。
全部で何人前だ?たしざんか?まんじゅう2人前と1つ。おはぎ4人前。だれかできるか?」

数と物との対応付けはその場の必要に応じて構成される。そして、計算した結果もその対応付けを使って物に戻してやる。さもないと、

「誰も出来ないのか。よしわかった。このまんじゅうは1つワシが食べる。あむ。あむ。あむ。
よし、これでまんじゅう2人前。おはぎ4人前だ。ははは。これが知恵というもんだ。さ、たしざんだ。与太郎できるか?6人前か。そか6人前だ。おお、お前ら6人だ。よし丁度良い。
一郎まんじゅう取れ。次郎まんじゅう取れ。三太郎まんじゅう取れ。与太郎まんじゅう取れ。五助まんじゅう取れ。六介おはぎ取れ。あれ?まだおはぎあるな。おかしいな。与太郎、たしざん間違えたか?よし、ワシがおはぎ食べる。あむ。うぐ。うぐ。うぐ。まだあるか。うぐ。うぐ。」
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この回答へのお礼

楽しい回答をしていただきありがとう御座います。
対応する数と言うのはそのとおりですね。

お礼日時:2001/09/16 22:08

これはまさに哲学の問題です。


現実の問題を数学の問題に(あるルールで)写し、数学の規則で計算して、その答をまた(元のルールで)現実の問題に戻してやる。これが算数の文章題がやっていることですし、このルールを見つけることが重要なんですね。

 力学なんかでは、普通でない数学に普通でないルールで問題を移すことによって、正しい答が出る。たとえば秒速20万キロの速度に秒速20万キロの速度を加え多場合、足し算した答である秒速40万キロ(超光速)にはなりません。
水1リットルと水1リットルを混ぜると2リットルになりますが、水1リットルとアルコール1リットルを混ぜると2リットルにはなりません。
おもちがひとつあります。もうひとつおもちを持ってきてくっつけたら、おもちはやっぱりひとつ。
Aランチ1つでおなか一杯になる場合、Aランチ2つだと食べ切れません。
10歳の子供が2人集まっても選挙権はありません。

つまり、足し算が使えるのは、「足し算して答が合う場合」だけなんです。数学の方は現実の問題など知った事じゃありません。でも、「一定の性質を満たしていれば、幾つであっても答はあう」という事を保証してくれている。足し算が使えるかどうかは、問題がその一定の性質を満たしているかどうかです。
 で、足し算の場合、それはどんな性質かというと「足し算して答があうものなら」という条件。答になってない。本質的に自己撞着ですね。言い換えれば、個別に検討してみるしかない、ということです。

 「単位」はなかなか良いポイントだと思いますが、「同類のもの」を(曖昧にでも)定義して初めて意味を持ちますが、これだけで全てが説明できるわけじゃありません。むしろ副次的な概念、足し算ができる時にだけ意味をもつ概念ではないでしょうか。

 現実の問題と数学(算数)との間の対応は、だから経験的に作られるのであって、いつでもという訳にはいかないんです。
 また、対応が作れる場合、現実の問題→数学の問題 に対応付けたのと同じルールで 数学の答→現実の答 に引き戻すことが(当たり前のようですが)本質的に重要です。

 数学の中でも、たとえば 幾何学の問題→微積分の問題 という風に問題を移し、答を同じルールで引き戻すことはしょっちゅう行われます。(これが解析幾何学ですね。)そのときまず、幾何学の基礎概念と数に関する基礎概念の間に「同型」という対応が付くことを証明することが必要です。この証明が出来てしまえば、安心して 幾何学の問題→微積分の問題 ができる。
 現実の問題(物理学も含む)では、この証明は不可能で、飽くまで実験や経験から帰納された推測に過ぎません。その中で確からしいものを「法則」と呼ぶ。「エネルギー保存則」など、保存則(相互作用の前とあとで、ある値は変化しない)という形に表されるのは、まさに「足し算が成り立つ」ということを表しているんですね。そして、物理の発達につれて、嘗て盤石と思われた法則が手直しされていく。

 下記URLも類似の議論をしています。ご参照方。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=36477
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この回答へのお礼

回答していただきありがとう御座います。
正直言って、ちょっと私には難しいです。もう少し考えてみますね。

お礼日時:2001/09/12 20:25

私の回答に違和感を覚える方がいらっしゃるようなので


少し説明させていただきます。

1(個)+1(人)=1(人)は確かに算術として問題があるかもしれません。
しかし、この式が日本語の拡大解釈とされると残念ですね。
それより下段の文章では1kg+50kg=51kgとあるように重量の単位で
考えれば、食べるという行為は立派な加法式になります。この考えを基に
人間の数の認識の仕方を説明しているにすぎません。
つまり、単位を用いれば算術の上では立派な加法が成り立つにも関わらず、
人間は独立した物体のみの数を認識しているということを概念で表した
1+1=1(人)という式は算術として成り立たない。私は、この式が
成り立つなんて書いていないし、数だけで表した式は成り立たないと
書いているのだから問題ないと思いますが、ダメでしょうか?

まあ、議論を吹っかけたいのではなく、数の概念の面白さを説明したかった
真意がありますので、あまり、つっこまないでほしいなーっていう思いですけどね。
学問とは形式のみに捕われるものではないと思います。ただ、「定義」だ、
「単位」だ、ではつまらないじゃないですか!

もちろん、形式をねじ曲げろというわけではなく、数と値をきっちり区別し、
数という概念上の演算行為を不思議と思い、面白いと感じる。素晴らしいことだと
思いますよ。

以上、研究者のはしくれの意見でした。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとう御座います。
>1(個)+1(人)=1(人)は確かに算術として問題があるかもしれません
わたしはまったく違和感を感じていないですよ。
男1+女1=2である場合、時間の経過によっては、男1+女1=3になっているかもしれないと考えたことがありましたから。
この場合、時間の経過という不確定要素が加わるわけですけど。

お礼日時:2001/09/10 18:27

No.7の返答についてのコメントです。



>単位の問題なのでしょうか? 実は私は単位というよりは集合の問題であると
>考えています。どのグループに属すものなのかということですね。

No.7では「同じ単位どうしならば、計算ができます」を前提として理論構築して
います。従って、単位を無視して集合という概念を持ち出すと、議論が成り立ち
ません。

そして、「単位を無視した計算」というのは、現実の世界、少なくとも物理の
分野では全く成立しません。私は機械工学を専攻しましたので、実のところ
現実から解離した数値計算は、全く頭が受け付けないのです。


けれどもNo.8の方が述べているように、

 >今回の質問の本質はあくまで「定義」に対する認識にあると思います。

というように、問題の本質は定義をどうするかですね。
「単位」という概念を無視して、「集合」という概念で数値計算が成立する
ように理論構築ができれば(本当にできるの??って気もしますが)、
kokirikoさんの言い分が通るようになるかと思います。

kokirikoさんもいろいろと考えてはおられるようですが、自分の言い分を
他の人に納得してもらおうとするならば、自分で理論構築をするしかなさ
そうです。


#なんかこういう抽象論を考えるのも、けっこう面白いですね。
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この回答へのお礼

ふたたびのご回答ありがとうございました。
No.7の返答で集合を出したのは申し訳ありませんでした。
単位という概念に、何となく違和感を感じてしまって、自分ひとりで悩んでいたことが、皆様の色々な意見を参考にすることによって、たいへん参考になっています。

お礼日時:2001/09/10 18:23

1とか2とか数値ですよね。


「人」とか「つ」、「匹」は単位ですよね。
異なる単位を足すと時は単位を合わせる必要がありますよね。

男1人+女1人=2人
で有れば人の数として足し算していますよね。

大人+子供=2人も人の数で足してますよね

花のコップ+お皿=2つは物の数として足してますよね。
皿は1枚と数えるところを1つ、2つと数えただけ

たぬき1+きりん1=2匹は生き物の数として足してますよね。

No1の補足に至っては机の上にある物体の数を数えているだけですよね。

数値自身に意味があるのではなく単位に意味があるので2という数値が意味するのは単なる2と値であってその後に続く単位が有って初めて意味をなすのです。

2という値をどのような単位で括ったかが問題であり数値自身はその結果でしかないと私は思いますが
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この回答へのお礼

ご回答いただきありがとう御座いました。

お礼日時:2001/09/10 18:41

おおっ、あっという間に回答が増えてる。



> >紙1(枚)+水1(リットル)=2 とは思わないですよね。
> そうでしょうか? もし「机の上に」との説明がつけば、机上にある物としての括りになるわけですから、その場合は2になります。
> ごめんなさい屁理屈みたいで、でも私が知りたいのはそこのところなのです。

あなたがお礼で書いているように「机上にある物」という汎化をしているわけです
から不思議ではありませんし、屁理屈でもないと思います。

単位が違う表記の数値を、単位を無視して数値だけを勘定する、という汎化をする
ことが、どれだけメジャーかどうかということにつきるのだと思います。

あまりメジャーではないかもしれない、という思いが「屁理屈みたいで」なんて
表現になるのでしょう。

さすがに No.5 の回答の

noribou11> 例えば、一つのおにぎりと一人の人間、この人がおにぎりを食べたらどうなるか、
noribou11> 別にどうにもなりません。一人の人間のお腹が満足するだけです。
noribou11> つまり、1+1=1(人)になってしまいます。

は、違和感があるかもしれません。

というのは、数の方だけをターゲットにしているのに、このケースは演算子「+」に
ついての汎化をしているからです。

通常「+」は、数値の足し算を表す場合が多いのでしょうが、その日本語の「足す」
というところを捉えて、「一緒になる」という行為も視野に入れ、それらを汎化した
行為の表記を「+」と表現する、ということをやっているのですね。
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この回答へのお礼

再び回答ありがとう御座います。
汎化することが、重要であることが判りやすく参考になりました。

お礼日時:2001/09/10 18:17

私も自己フォローしときます。



「異なるものを足す事はできない」の前に「一般の数学では」を追加しておきます。すぐ後に書いてあるように定義があれば異なるものでも足せます。


今回の質問の本質はあくまで「定義」に対する認識にあると思います。定義により「系」が構成され、その系の中では定義を前提に証明が許されます。矛盾のある系は定義に問題があるので定義とともに無用の物として一般には捨てられます。矛盾の見当たらない系のうち有用と思われるものが主に生き残り研究・活用されます。
重要な事として、その系の中でその系を構成する定義を証明する事はできません。kokirikoさんの疑問では1+1=2を集合論から導き出せるのでは、としている部分がこれに相当すると考えられます。

もしかすると、非ユークリッド幾何学の発見(発明)をキーワードに調べると良いヒントになるかも知れません。「ある直線L上にない点Aを通り直線Lに平行な直線は一本しかない」という常識的な事実を証明しようと人類は一生懸命がんばってきたのですが...てなお話(もちろん事実)です。
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この回答へのお礼

ふただび回答ありがとう御座います。
>定義により「系」が構成され
あっそうですね。参考になります。
>非ユークリッド幾何学の発見
ユークリッド幾何学ですか?図形の計算くらいしか思いつかないけれど・・、すみません調べてみます。

お礼日時:2001/09/10 18:12

再コメントします。

No.3では

>何を1として認識するかの基準は、もはや数学を超え、哲学の分野になって
>しまう のではないかと、私は考えています。

とコメントしたのですが、No.4の意見を読んで目からウロコが落ちました。
そうです。何を1とするかは「単位」をどうするかということです。

同じ単位どうしならば、計算ができます。単位が違えば計算できません。


男1+女1という計算の場合、「人間」を単位で数えれば
 男1(人)+女1(人)=2(人)
と計算できますが、「男」と「女」を別単位で数えると、
 男1(1男)+女1(1女)という計算は成立しません。単位が違うからです。

大人と子供の足し算もそうですね。単位を人で数えるか、大人と子供を別単位
で数えるかで、計算できるかできないかが決まります。

そして単位をどうやって決定するかは、各人の主観ですね。
複数の人がいる場合、各人の主観ではなくてグループの主観となります。
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この回答へのお礼

再びご回答いただきありがとう御座います。
単位の問題なのでしょうか? 実は私は単位というよりは集合の問題であると考えています。どのグループに属すものなのかということですね。
そのグループを1単位とすれば良い話なのですが、計数としての単位はこの場合意味をなさないのではないでしょうか? 算数の計算として考えれば重要ですが。

お礼日時:2001/09/10 16:25

自分は数学者ではありませんが、数学は必ず定義から始まっているはずです。

定義が変われば結果も変わります。結果に矛盾が出てくればその定義は捨てられます。太古からのそういった積み重ねが現在の数学です。

「1+1=2」が帰納的に導き出される事はあり得ないと思われます。「1+1=10」と定義しても問題なく数学が構築できる事は御存じでしょう。

異なるものを足す事はできません。kokirikoさんが異なるものの足し算としてあげた例で左辺に挙げているのは右辺の単位で見た時に同じものです。
男1[人]+女1[人]=2[人]

これが1[男]+1[女]になると定義無しには計算できません。
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この回答へのお礼

回答していただきありがとう御座います。
>「1+1=10」と定義しても問題なく数学が構築できる事は御存じでしょう。
そうなのですよね、それゆえに判らなくなってしまったものですから。
左辺と右辺という考え方を今までしていなかったので、新鮮なものして捉えさせていただきました。
少しこの視点で考えてみますね。

お礼日時:2001/09/10 16:30

数とは何か


哲学的な質問なので、これだという回答は難しいかもしれませんね。
1+1=2は算術のことであり、算術には数と値が存在します。
そして、数と値は違うということですね。

人は数を認識できるのは、それが独立した形状であるからです。
猫と犬だって個々が独立したものだからです。したがって種類や大きさに
とらわれず、ただの物体と認識できるから足し算が可能なんですね。

では、独立していないものとはなにか、
例えば、一つのおにぎりと一人の人間、この人がおにぎりを食べたらどうなるか、
別にどうにもなりません。一人の人間のお腹が満足するだけです。
つまり、1+1=1(人)になってしまいます。すなわち、
食後のおにぎりは人間の体内に吸収されているから、数としては
認識されなくなります。水だって同じことです。500mlのジュースを
1.5lのペットボトルに入れたらどうなるか、1.5lのジュースが一本になるだけです。
つまり1+1+1=1(本)

しかしながら、値としては足し算が可能です。おにぎりと人間でいえば
1kgのおにぎりを50kgの人間が食べれば1+50=51(kg)となるし、
ジュースだって0.5+0.5+0.5=1.5(l)ですよね。

四則計算の基本は数と値です。数とは独立したものを指すものであり
これにより式が成り立つわけではありません。式が成り立つもっとも重要な
ことは値が共通であることです。すなわち、人が何を主眼に物事を思考するかです。
独立した個体なのか、個体を無視した重量やエネルギー量なのか、って具合です。
この考え方により数値は激変します。個体で考えれば1:1なのに重量で
考えれば1:50となるように、人間も見方を変えれば1にもなるし、
50にもなるということですね。

No.1のところで水と紙の足し算があり、kokirikoさんは屁理屈なら足し算できる
とありましたが、まさにそれが人間個々の着眼点によって水と紙は足し算が
できる、できないの発想になるわけです。どちらも間違いではないんですね。
ただ、これでは意志の疎通ができない。だからこそ、共通思考が可能な値が
必要なわけです。

数と値はおもしろいですね。バケツからコップ1杯の水をくんだら、式としては
1-1=2になり、その水をまたバケツに戻せば1+1=1になる。数としては
これだけ変化するのに、トータルの水量はどんな作業をしようが、一定の
まま。入れ物に着眼すれば、作業に関係なくコップ1つとバケツ1つ。

まとめると、算術に必要なのは数ではなく数値である、そして数値ではない
演算は人の主観によるものであり不変ではない、ということです。
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この回答へのお礼

回答していただきありがとう御座います。
noribou11さんのおっしゃる通りです。私の疑問も、まさにそこから生じてしまいました。観点を変えると、正しいはずの答えと異なる、別の正しい答えが導き出される、それが設問という方向性の影響で変わるのだから面白いですね。
設問によって共通思考を与え、どういった観点から見ればよいのかということをきちんと考えれば良いわけですね。

お礼日時:2001/09/10 16:16

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