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自力と他力の対立の真相は、「自分の力が機能しているうちは自力で修練を磨くべきである。しかし、怪我や病気や事情などで何もできない人や、もう罪を償うチャンスを一生失われてしまった独房の死刑囚などが世界平和の祈りや懺悔の祈りに勤しんだり神仏に助けを求めるための最終手段として、他力本願が存在する」という可能性があるのでしょうか?

宗教に詳しい方や関心のある方、どうか皆様のお考えをお聞かせくださいませ

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A 回答 (4件)

日本の大乗仏教は、神仏習合で神道の影響を少なからず受けている。



すなわち太陽などの自然を拝むだけの神道の「神頼み」が、阿弥陀仏の姿を想像して「南無阿弥陀仏」と題目を唱えるだけの「仏頼み」や、法華教を至高の経典であると見做して「南無妙法蓮華経」と題目を唱える「経典頼み」といった大々的な大乗仏教に拡大し仏教そのものを根本的に変質させてきた。

以上のような日本仏教の精神は、仰るような形も当然含んでいる。衆生のすべてを救うことが仏教の役割なのだから怪我や病気の人、罪深き人などが排除されるなどということはありえない。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます! ユニバーサリズムまんまってわけではないのですが、私はいつの日か宇宙の全ての霊魂が永遠に幸福になれる時が訪れることを信じています

お礼日時:2024/07/02 10:26

自分で考えると間違える。


だから、お釈迦様の言うとおりに
すれば良いのだ。

これが他力本願でしょう。



キリスト教でいえば
聖書の言うとおりにしていれば
良いのだ、てのが他力。

神は死んだ。
だから、自分で考えよう
というのが自力。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます! 「ここは何も無い大海のド真ん中。自分は超能力者じゃないから、海図がわからずゴールの場所がわからない。だから、遭難をより悪化させる前に自分で舵を動かすのをやめ、マニュアル通りに救難信号を出してゴールの方から自分の方へ近付いていただく」というような他力本願、すごく理に適っていると思います

「神は死んだ」は、救助隊が存在しないことを意味しますね

お礼日時:2024/07/02 08:10

仏教では、自力、他力、融合を説いています。



キリスト教やイスラム教が絶対神の恩顧による救済を説く宗教に対し、
仏教には自力的解脱による救済を説く教えと超越的仏による、
他力救済を説く教えとがあります、
 仏教が本来、人間主体的な宗教であるとすれば、本質的には
自力的解決が目指されるべきですが、自力的に追及される法が慈悲の力を有する限り、何らかの他力的立場を見ていく事も必用である。
 すなわち、人間主体的な宗教としての仏教の救済は、自己救済の努力の果てに、自力と他力とが融合する地平において成就するものと考えられます。

菩提樹下で思念を巡らす釈迦が開悟し成道した瞬間について
「釈迦の場合、その時、まさに夜がしらじらと明けようとした刹那、だいうちゅうの仏界と自身の厳存する仏界とが境知冥吹合、感応して、大きく開けるものがあった。」と思われるのです。
「感応」とは、衆生の機根とそれに応ずる仏の化道の働きが相通ずることであり、これが妙であるゆえに「法華玄義」では「感応妙」と呼ばれ、釈迦の悟りを人間の自力と宇宙生命の他力との冥合において理解するのです

この自他力融合の思想が、日蓮大聖人の言う「自力も定めて自力に非ず」「他力も定めて他力に非ず」と述べ
自力即他力と言う意味で、自他力融合を説いています。
他力は自力を助ける働きと捉えるのです

長くなるので・・・
他力すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、自力も十全に働く。しかし、その十全なる力は本来、自身の中にあったもの、と結論して終わります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2024/07/02 07:13

幸福の科学の会員です。


幸福の科学は、大川総裁が「再誕の仏陀」というスタンスで、仏教系の宗教団体として活動しました。
ただ、月刊誌には「人生の大学院」というフレーズが記載されていました。大川総裁も、あまり最初は宗教っぽい雰囲気を出すのが好きではないってこともあったらしいです。

で、質問の自力と他力に関しては、大川総裁は、質問者さんの書かれたような考え方をされていました。
例えば、自宅とか宗教施設で、就職とか事業の成功をお祈り、祈願などするのは他力の助けを借りようとするわけだけど、自分自身でも、その願いが実現するように努力しなさい、って言われてましたね。
「天は自ら助くる者を助く(神は自ら助くる者を助く)」という諺どうりです。

なお、3.11の東日本大震災とか、広島市などを含めて、各地で発生した自然災害において、会員さんの自宅とか支部だけを避けるように津波や地滑り等が流れたという話もいくつもあったりするので、他力が作用することもありますね。

なお、病気等で、体を動かすことができない状態になった方でも、家族や介護士さんに、辛くても、笑顔で接する(顔施(がんせ))ということは可能なわけです。こういうのも自力かもしれません。

ちなみに、自力とか他力とか、いろいろ言っても、最後は誰もが死ぬわけです。
例えば、幸福の科学の「病気平癒祈願」することで、「明日には、もう亡くなられています」と医者に言われるような患者さんが助かったなんて事例はいくつもあったりします。
でも、その時は助かったとしても、数か月後、数年後には、亡くなっていたりします。

この世は仮の世であり、魂の修行場、海外留学しているようなもので、最終的には、誰もが「あの世」に戻る魂存在という事実を忘れず、「この世」において、自力で頑張るってことですね。
とはいえ、「頑張る」目的が、性欲、見栄、金銭欲、権力欲など、あの世からみたとき、無価値なものに執着しすぎないことが大切でしょうね。こういう目的を果たすために、他力を願うのは間違いですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます! 私は障害者なのでいわゆる「無財の七施」くらいしか善行を積むことができないのですが、あの世では光の勢力(妖精とか?)を生み育てるようなお仕事をしたいと思っています。というと、植物には妖精が宿っていると信じているので、誰からも愛されることなく商品として売られていた花の苗を買って育てて家族として愛することも、趣味と修行の融合のようになっています

お礼日時:2024/07/02 06:07

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