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運には2種類あると言われています。
1つめが「偶然の運」、宝くじで当たったような場合を言ったりします。
2つめが「必然の運」と言われるもので、運を引き寄せるために何か努力したために舞い込んだ運です。 「必然の運」は日常の生活や意識の持ちようで誰もが呼び込むことができるとも言われています。
果報は寝て待てということわざがありますが、誰かに果報は練って待てと教えられたことを思い出しました。
確率ゼロに近い偶然の運と引き寄せを行なった必然の運の確率でははるかに違いがあると思います。
どう頑張っても引き寄せられない運に頼るのではなく自ら引き寄せの努力を行い、運に選ばれるようにしたいものです。


この記事の「必然の運」とは具体的にはどんなことを指しますか?

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A 回答 (1件)

あまりその2つに差があるとは思わないのですが、


逆方向に考えてみると分かりやすいと思います。

例えば「雷に打たれる」というのは不幸なほう、悪いほうの「運」ですよね。

世の中には、ただ歩いていただけで雷に打たれてしまった不運な人もいます。これは「偶然の運」ですね。

一方で、雷雨の日にわざわざ高所に上り、金属製の長い棒を空高く掲げて「雷よ来い、雷よ来い」と踊り狂う人。この人が雷に打たれるのは、少なくともその末路を聞いた人が「当たり前だろ」と笑う程度には必然です。これが「必然の運」ですね。


じゃあこの二つは違うものなのかというと、割と連続的に「中間」の状態が考えられます。例えば、雷雨の日に出歩く人はどうなのか。
雨避けの当たり前の判断として傘を持っていたらどうか。障害物のないひらけた場所を歩いているのは?
あるいは雷に打たれたくて上記のような狂った行動をした人も、必ず打たれるとは限らないわけで、そこはやっぱり確率が高いだけで「偶然」です。

事故に遭ったとき、事件に遭ったとき、失敗をしたとき、多くの人が「運が悪い(偶然)」と「自身が悪い(必然)」の間で適当な解釈を探します。それは、「事実どう解釈するのが正しいか」ではなくて、例えば再発防止に役立つ知見はあるか、誰に賠償金を求めるべきか、あるいは国や組織が補填をしてもいいものか、被害者自身が何とかすべきなのか、といった現実的な判断のためです。


良いことも全く同じです。

偶然の運と必然の運はすっぱり分かれるものではなく、両者の中間の状態というのはあり、また努力したから必ず求めた通りの結果が出るとも限らない。ただ、確率が変わることと、「自分の行動によるもの(必然)だ」と言える割合が変わっていくだけです。

それを、「何か成功に役立つ知見はあるか」「その人の実力はどの程度と見積もるべきか」などの判断をするために便宜上分けたものが「必然の運」という造語ですね。
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