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タイトルの通りです。
以前、NHKの大河で放送された時には、幼少の頃に出会っていたという設定になっていましたが皆さんはどう思われますか?
また、何を根拠にそういうことになったのでしょうか?
では、宜しくお願いします。

A 回答 (3件)

 #1です。


 何度も書くとアンケートっぽくないですが・・・

 可能性があるとしたら時宗9歳の時、というご指摘が他の方からありましたが、確かに、鎌倉の鶴ヶ丘天満宮の境内ですれ違ったりした可能性は、否定できません。
 ただ、他の仏教宗派でさえ「邪教である」と決めつけた「過激派」日蓮が、神社へ参詣へ行くでしょうか? 

 境内でないとすると、あとは道で会うと言うことになりますが、この場合、時宗は、乗り物に乗せられているか騎乗でしょう。
 「会った」と言えるかどうか???

 立正安国論は、畏れ多くも時の執権へ直接手渡されたわけではありませんから、そのご子息へ会うなんてことがあるかどうか?
 (いや、もちろん、これも見てきたわけではありませんので、詳しい内容について尋ねられたときのために、呈上した御家人にくっついて行った可能性はあるんですが・・・この場合でも、言葉を交わすどころか頭を上げることすら許されないオブザーバだった可能性の方が高いので、「会った」とは言えるような言えないような・・・)

 ただ、よく考えたら、日蓮は時宗に処刑されそうになった挙げ句流刑になったんでしたっけ。立正安国論を再度持っていったために。
 それくらい怒らせていれば、もしかしたら「減刑」の時に会っている可能性はあるかも知れません(く、苦しいな)。

 本当に心の通じ合う知り合いだったとしたら、日蓮宗は日本の国教になって、歴史がえらい方向へ変わっていたかも知れませんにゃ。
(上杉謙信が仏道修行に忙しくて川中島どころじゃないとか・・・
 一向一揆は起こらないとか・・・
 焼き討ちしようにも比叡山がないとか・・・
 国家「仏教」の名の下に宣戦布告していたりとか・・・ 
 中国が「靖国寺」にいちゃもんをつけていたりとか・・・
  あれ? バタフライ効果を無視してますねー・・・)
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http://www.kamakura-burabura.com/rekisinennpyout …
上の内容からすると「立正安国論」を渡しに親の時頼には会ってるので、
すれ違うくらいならあったかもしれません。
提出が文永元年(1260年)7月16日ですから、可能性があるのは時宗が9歳の時ですね。
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 えええ?


 未確認の歴史的事実について、アンケートですか?
 (斬新ですね)

 まず、時代がかぶるというのが第一の根拠なのでしょう。
 ただ、時代がかぶっただけで「会っている」と断ずるのはあまりに無理がありすぎます。

 当時の時宗は北条本家のボンボンであり、方や日蓮は、当時の時点では今で言う新興宗教の教祖(破戒坊主ともいう)に当たります。

 普通に考えれば「会っているはずがない」と結論するほうが妥当と考えます。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます!やっぱりそうですかね~。
「会ってない」という意見が多数だとは予想してますが「もし、ホントに会っていたら。。。」というのにも期待してしまう部分もあるんですよね。

お礼日時:2006/08/08 06:54

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